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小結

剣の銘

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 夜半をとうに過ぎ、恭親王は隣で眠るアデライードを起こさぬように、そっと寝台を出た。朝まで抱きしめて眠りたいのはやまやまなのだが、どうにも彼女に触れていると辛抱が効かない。今も、眠る彼女を犯したくてたまらなくなっている。
 自らの、際限のない欲に苦笑しつつ、恭親王は半身をもがれるような辛さを感じながら、寝台を離れ、脱ぎ捨てた夜着を羽織る。空気はひんやりしているが、長い情交に火照った彼にはちょうどよかった。

 寝台の紗幕を厚いものにして光を遮ってから、卓上の魔力灯を灯し、それを持って隣の自室に行く。そっと、音を立てぬように扉を閉め、そのまま部屋の反対側の壁際にある飾り棚まで歩き、漆塗りの手箱を取り出す。剣の手入れの道具が入っているそれを持って部屋の中央の、カーテンを開いた大きな窓の前、床の絨毯の上に直接座る。

 夜明けの近く、もっとも暗い時間帯。さっきまで続いていたらしい宴会もようやくはけたのか、総督府の中は静寂に覆われている。
 彼の腹心たちはもちろん、総督府の官人も、配下の軍の指揮官たちも、ソリスティアの商人も、誰もがアデライードの美しさを讃え、総督夫妻の仲睦まじい様子を祝った。唯一、ユリウスだけが不満そうだったが、それも妹愛の為せる業。傍目に見ても、ソリスティア総督府は幸福に包まれている。

 宴の中で、恭親王は西のイフリート公爵と元老院に向けて、アデライードの女王即位を要求する宣言書を送付したことを明らかにした。イフリート公爵がどう出るかはわからないが、素直にアデライードの即位を認めることはないであろう。戦争になれば、恭親王はソリスティア総督として、ソリスティアの十万の兵をもって、王都ナキアへと侵攻することになる。ソリスティア総督が〈禁苑〉の守護者として十万の兵を動かすのは、五百年前、後の聖帝が内乱を制圧するために東の帝国へと進軍して以来のことだ。本格的に戦争の影が忍びよるまであと少し、せめて平穏が続けばいいと、恭親王は思う。

 床に魔力灯を置き、その明かりで箱の蓋を開け、道具を取り出す。剣の手入れは人任せにしてはならない。ゾーイから教えられた騎士の心得を、彼はずっと忠実に守ってきた。

 左手を上に向け、〈聖剣〉を呼び出す。直後に現れた長大な細身の剣に、恭親王は自ら呼び出したとはいえ、どういう仕組みなのか感嘆せざるを得ない。

 紙を口にくわえ、息がかからないようにして刀身を改める。見たこともないほどの鋭利な輝き。神の御業としか思えない、流麗な刃紋。剣身に彫られた(溝)の内部にも、精緻な龍の彫刻が入っている。恭親王は目を眇めて、しばしその美しさに見惚れた。

 柄頭のねじを緩め、柄から剣身を抜く。柄に隠れている茎の部分に銘などが記されている場合があるので、確認しておかねばならない。刃に指紋が着かないように、絹布で巻いて刃を抜き取る。思った通り、柄の中の茎には何か文字らしきものが彫られていた。

 柄を床に置き、恭親王は両手で剣身を持ち、魔力灯にかざして銘を確認する。難解で、装飾的な、神聖文字。〈混沌〉に覆われる以前の、神世より伝わる聖なる文字。
 同じく天と陰陽を信奉し、同じ『聖典』を読み、同じ祈りを唱えるが故に、現在では上は皇帝女王より下は庶民に至るまで、東も西も同じ言語を話し、同じ簡便なる表音文字を用いている。一字一字に聖なる意味を込められた表意文字である神聖文字は、聖地の高位聖職者と、東の帝国の皇家で細々と伝えられているに過ぎない。恭親王は聖地にあった時から、神聖文字を師のマニ僧都より学んでおり、東の文字学者が舌を巻くほどの知識がある。

 その彼でも、わずかに眉を顰めるような、うねった、古代の字形。超古代の、神世の遺物にのみ記されるという、象形文字だ。

『驟霖剣』

 〈シウリンの剣〉。そう、判読して、恭親王は息が止まるかと思った。
 その字は、シウリンが〈十五霖〉だと知ったマニ僧都が、あんまりな名前だとして新たに付けてくれた、彼の、本当の名前だ。

 何故。彼はどの神事の誓いも、〈ユエリン〉の名で行ってきた。天と陰陽に対しても名を偽ってきたわけだが、〈シウリン〉がこの世に存在しない扱いになっている以上、仕方がない。彼とて、多少の後ろめたさは感じていたのだ。

 だが――。
 天と陰陽は、何もかもお見通しであったということなのか。
 つまりこの剣は、東の皇子ユエリンに与えられたのではなく、ユエリンと偽るシウリン本人に与えられたものなのだ。

(天も陰陽も知っていた――。いやそもそも、全てが、仕組まれていたということなのか?)

 十年前の森の中の出会いも、別れも、再会も。
 それぞれの、辛い十年も。全てが、天と陰陽の手の内に、運命づけられていたということなのか。

 恭親王は瞼を閉じた。

 天と陰陽は、彼と、アデライードに何を背負わせたのか。二人に、そしてこの世界の未来に、何が待っているというのか。
 彼は、じっとその銘を凝視し、感慨に沈む。

 窓の外が白む気配を感じて、恭親王は銘から顔をあげる。
 冬至に最も陰の力は極まり、これからは陽が力を取り戻す。恭親王は無言で刀身を柄に納め、柄頭のねじを注意深く締めると、〈聖剣〉を手に取った。窓から入る夜明けの光に、剣をかざす。

「〈光よ、地に満ちよ。聖なる力よ、我が身に満ちよ――〉」

 魔力を込めながら『聖典』の文句を唱えると、光を浴びた〈聖剣〉が眩い煌めきに包まれた。
 その光が収束するのを待って、恭親王は〈聖剣〉をぐるん、と一振りすると、掌に納めた。

 朝日が、恭親王を照らす。夜明けの光が、ソリスティアの街を包みはじめていた。
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