167 / 191
小結
剣の銘
しおりを挟む
夜半をとうに過ぎ、恭親王は隣で眠るアデライードを起こさぬように、そっと寝台を出た。朝まで抱きしめて眠りたいのはやまやまなのだが、どうにも彼女に触れていると辛抱が効かない。今も、眠る彼女を犯したくてたまらなくなっている。
自らの、際限のない欲に苦笑しつつ、恭親王は半身をもがれるような辛さを感じながら、寝台を離れ、脱ぎ捨てた夜着を羽織る。空気はひんやりしているが、長い情交に火照った彼にはちょうどよかった。
寝台の紗幕を厚いものにして光を遮ってから、卓上の魔力灯を灯し、それを持って隣の自室に行く。そっと、音を立てぬように扉を閉め、そのまま部屋の反対側の壁際にある飾り棚まで歩き、漆塗りの手箱を取り出す。剣の手入れの道具が入っているそれを持って部屋の中央の、カーテンを開いた大きな窓の前、床の絨毯の上に直接座る。
夜明けの近く、もっとも暗い時間帯。さっきまで続いていたらしい宴会もようやくはけたのか、総督府の中は静寂に覆われている。
彼の腹心たちはもちろん、総督府の官人も、配下の軍の指揮官たちも、ソリスティアの商人も、誰もがアデライードの美しさを讃え、総督夫妻の仲睦まじい様子を祝った。唯一、ユリウスだけが不満そうだったが、それも妹愛の為せる業。傍目に見ても、ソリスティア総督府は幸福に包まれている。
宴の中で、恭親王は西のイフリート公爵と元老院に向けて、アデライードの女王即位を要求する宣言書を送付したことを明らかにした。イフリート公爵がどう出るかはわからないが、素直にアデライードの即位を認めることはないであろう。戦争になれば、恭親王はソリスティア総督として、ソリスティアの十万の兵をもって、王都ナキアへと侵攻することになる。ソリスティア総督が〈禁苑〉の守護者として十万の兵を動かすのは、五百年前、後の聖帝が内乱を制圧するために東の帝国へと進軍して以来のことだ。本格的に戦争の影が忍びよるまであと少し、せめて平穏が続けばいいと、恭親王は思う。
床に魔力灯を置き、その明かりで箱の蓋を開け、道具を取り出す。剣の手入れは人任せにしてはならない。ゾーイから教えられた騎士の心得を、彼はずっと忠実に守ってきた。
左手を上に向け、〈聖剣〉を呼び出す。直後に現れた長大な細身の剣に、恭親王は自ら呼び出したとはいえ、どういう仕組みなのか感嘆せざるを得ない。
紙を口に銜え、息がかからないようにして刀身を改める。見たこともないほどの鋭利な輝き。神の御業としか思えない、流麗な刃紋。剣身に彫られた樋(溝)の内部にも、精緻な龍の彫刻が入っている。恭親王は目を眇めて、しばしその美しさに見惚れた。
柄頭のねじを緩め、柄から剣身を抜く。柄に隠れている茎の部分に銘などが記されている場合があるので、確認しておかねばならない。刃に指紋が着かないように、絹布で巻いて刃を抜き取る。思った通り、柄の中の茎には何か文字らしきものが彫られていた。
柄を床に置き、恭親王は両手で剣身を持ち、魔力灯にかざして銘を確認する。難解で、装飾的な、神聖文字。〈混沌〉に覆われる以前の、神世より伝わる聖なる文字。
同じく天と陰陽を信奉し、同じ『聖典』を読み、同じ祈りを唱えるが故に、現在では上は皇帝女王より下は庶民に至るまで、東も西も同じ言語を話し、同じ簡便なる表音文字を用いている。一字一字に聖なる意味を込められた表意文字である神聖文字は、聖地の高位聖職者と、東の帝国の皇家で細々と伝えられているに過ぎない。恭親王は聖地にあった時から、神聖文字を師のマニ僧都より学んでおり、東の文字学者が舌を巻くほどの知識がある。
その彼でも、わずかに眉を顰めるような、うねった、古代の字形。超古代の、神世の遺物にのみ記されるという、象形文字だ。
『驟霖剣』
〈シウリンの剣〉。そう、判読して、恭親王は息が止まるかと思った。
その字は、シウリンが〈十五霖〉だと知ったマニ僧都が、あんまりな名前だとして新たに付けてくれた、彼の、本当の名前だ。
何故。彼はどの神事の誓いも、〈ユエリン〉の名で行ってきた。天と陰陽に対しても名を偽ってきたわけだが、〈シウリン〉がこの世に存在しない扱いになっている以上、仕方がない。彼とて、多少の後ろめたさは感じていたのだ。
だが――。
天と陰陽は、何もかもお見通しであったということなのか。
つまりこの剣は、東の皇子ユエリンに与えられたのではなく、ユエリンと偽るシウリン本人に与えられたものなのだ。
(天も陰陽も知っていた――。いやそもそも、全てが、仕組まれていたということなのか?)
十年前の森の中の出会いも、別れも、再会も。
それぞれの、辛い十年も。全てが、天と陰陽の手の内に、運命づけられていたということなのか。
恭親王は瞼を閉じた。
天と陰陽は、彼と、アデライードに何を背負わせたのか。二人に、そしてこの世界の未来に、何が待っているというのか。
彼は、じっとその銘を凝視し、感慨に沈む。
窓の外が白む気配を感じて、恭親王は銘から顔をあげる。
冬至に最も陰の力は極まり、これからは陽が力を取り戻す。恭親王は無言で刀身を柄に納め、柄頭のねじを注意深く締めると、〈聖剣〉を手に取った。窓から入る夜明けの光に、剣をかざす。
「〈光よ、地に満ちよ。聖なる力よ、我が身に満ちよ――〉」
魔力を込めながら『聖典』の文句を唱えると、光を浴びた〈聖剣〉が眩い煌めきに包まれた。
その光が収束するのを待って、恭親王は〈聖剣〉をぐるん、と一振りすると、掌に納めた。
朝日が、恭親王を照らす。夜明けの光が、ソリスティアの街を包みはじめていた。
自らの、際限のない欲に苦笑しつつ、恭親王は半身をもがれるような辛さを感じながら、寝台を離れ、脱ぎ捨てた夜着を羽織る。空気はひんやりしているが、長い情交に火照った彼にはちょうどよかった。
寝台の紗幕を厚いものにして光を遮ってから、卓上の魔力灯を灯し、それを持って隣の自室に行く。そっと、音を立てぬように扉を閉め、そのまま部屋の反対側の壁際にある飾り棚まで歩き、漆塗りの手箱を取り出す。剣の手入れの道具が入っているそれを持って部屋の中央の、カーテンを開いた大きな窓の前、床の絨毯の上に直接座る。
夜明けの近く、もっとも暗い時間帯。さっきまで続いていたらしい宴会もようやくはけたのか、総督府の中は静寂に覆われている。
彼の腹心たちはもちろん、総督府の官人も、配下の軍の指揮官たちも、ソリスティアの商人も、誰もがアデライードの美しさを讃え、総督夫妻の仲睦まじい様子を祝った。唯一、ユリウスだけが不満そうだったが、それも妹愛の為せる業。傍目に見ても、ソリスティア総督府は幸福に包まれている。
宴の中で、恭親王は西のイフリート公爵と元老院に向けて、アデライードの女王即位を要求する宣言書を送付したことを明らかにした。イフリート公爵がどう出るかはわからないが、素直にアデライードの即位を認めることはないであろう。戦争になれば、恭親王はソリスティア総督として、ソリスティアの十万の兵をもって、王都ナキアへと侵攻することになる。ソリスティア総督が〈禁苑〉の守護者として十万の兵を動かすのは、五百年前、後の聖帝が内乱を制圧するために東の帝国へと進軍して以来のことだ。本格的に戦争の影が忍びよるまであと少し、せめて平穏が続けばいいと、恭親王は思う。
床に魔力灯を置き、その明かりで箱の蓋を開け、道具を取り出す。剣の手入れは人任せにしてはならない。ゾーイから教えられた騎士の心得を、彼はずっと忠実に守ってきた。
左手を上に向け、〈聖剣〉を呼び出す。直後に現れた長大な細身の剣に、恭親王は自ら呼び出したとはいえ、どういう仕組みなのか感嘆せざるを得ない。
紙を口に銜え、息がかからないようにして刀身を改める。見たこともないほどの鋭利な輝き。神の御業としか思えない、流麗な刃紋。剣身に彫られた樋(溝)の内部にも、精緻な龍の彫刻が入っている。恭親王は目を眇めて、しばしその美しさに見惚れた。
柄頭のねじを緩め、柄から剣身を抜く。柄に隠れている茎の部分に銘などが記されている場合があるので、確認しておかねばならない。刃に指紋が着かないように、絹布で巻いて刃を抜き取る。思った通り、柄の中の茎には何か文字らしきものが彫られていた。
柄を床に置き、恭親王は両手で剣身を持ち、魔力灯にかざして銘を確認する。難解で、装飾的な、神聖文字。〈混沌〉に覆われる以前の、神世より伝わる聖なる文字。
同じく天と陰陽を信奉し、同じ『聖典』を読み、同じ祈りを唱えるが故に、現在では上は皇帝女王より下は庶民に至るまで、東も西も同じ言語を話し、同じ簡便なる表音文字を用いている。一字一字に聖なる意味を込められた表意文字である神聖文字は、聖地の高位聖職者と、東の帝国の皇家で細々と伝えられているに過ぎない。恭親王は聖地にあった時から、神聖文字を師のマニ僧都より学んでおり、東の文字学者が舌を巻くほどの知識がある。
その彼でも、わずかに眉を顰めるような、うねった、古代の字形。超古代の、神世の遺物にのみ記されるという、象形文字だ。
『驟霖剣』
〈シウリンの剣〉。そう、判読して、恭親王は息が止まるかと思った。
その字は、シウリンが〈十五霖〉だと知ったマニ僧都が、あんまりな名前だとして新たに付けてくれた、彼の、本当の名前だ。
何故。彼はどの神事の誓いも、〈ユエリン〉の名で行ってきた。天と陰陽に対しても名を偽ってきたわけだが、〈シウリン〉がこの世に存在しない扱いになっている以上、仕方がない。彼とて、多少の後ろめたさは感じていたのだ。
だが――。
天と陰陽は、何もかもお見通しであったということなのか。
つまりこの剣は、東の皇子ユエリンに与えられたのではなく、ユエリンと偽るシウリン本人に与えられたものなのだ。
(天も陰陽も知っていた――。いやそもそも、全てが、仕組まれていたということなのか?)
十年前の森の中の出会いも、別れも、再会も。
それぞれの、辛い十年も。全てが、天と陰陽の手の内に、運命づけられていたということなのか。
恭親王は瞼を閉じた。
天と陰陽は、彼と、アデライードに何を背負わせたのか。二人に、そしてこの世界の未来に、何が待っているというのか。
彼は、じっとその銘を凝視し、感慨に沈む。
窓の外が白む気配を感じて、恭親王は銘から顔をあげる。
冬至に最も陰の力は極まり、これからは陽が力を取り戻す。恭親王は無言で刀身を柄に納め、柄頭のねじを注意深く締めると、〈聖剣〉を手に取った。窓から入る夜明けの光に、剣をかざす。
「〈光よ、地に満ちよ。聖なる力よ、我が身に満ちよ――〉」
魔力を込めながら『聖典』の文句を唱えると、光を浴びた〈聖剣〉が眩い煌めきに包まれた。
その光が収束するのを待って、恭親王は〈聖剣〉をぐるん、と一振りすると、掌に納めた。
朝日が、恭親王を照らす。夜明けの光が、ソリスティアの街を包みはじめていた。
11
お気に入りに追加
482
あなたにおすすめの小説
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
前世変態学生が転生し美麗令嬢に~4人の王族兄弟に淫乱メス化させられる
KUMA
恋愛
変態学生の立花律は交通事故にあい気付くと幼女になっていた。
城からは逃げ出せず次々と自分の事が好きだと言う王太子と王子達の4人兄弟に襲われ続け次第に男だった律は女の子の快感にはまる。
マッチョな俺に抱かれる小さい彼女
雪本 風香
恋愛
社会人チームで現役選手として活躍している俺。
身長190センチ、体重約100キロのガッチリした筋肉体質の俺の彼女は、148センチで童顔。
小さくてロリ顔の外見に似合わず、彼女はビックリするほど性に貪欲だった。
負け試合の後、フラストレーションが溜まった俺はその勢いのまま、彼女の家に行き……。
エロいことしかしていません。
ノクターンノベルズ様にも掲載しています。
つがいの皇帝に溺愛される幼い皇女の至福
ゆきむら さり
恋愛
稚拙な私の作品をHOTランキング(7/1)に入れて頂き、ありがとうございます✨ 読んで下さる皆様のおかげです🧡
〔あらすじ〕📝強大な魔帝国を治める時の皇帝オーブリー。壮年期を迎えても皇后を迎えない彼には、幼少期より憧れを抱く美しい人がいる。その美しい人の産んだ幼な姫が、自身のつがいだと本能的に悟る皇帝オーブリーは、外の世界に憧れを抱くその幼な姫の皇女ベハティを魔帝国へと招待することに……。
完結した【堕ちた御子姫は帝国に囚われる】のスピンオフ。前作の登場人物達の子供達のお話に加えて、前作の登場人物達のその後も書かれておりますので、気になる方は是非ご一読下さい🤗
ゆるふわで甘いお話し。溺愛。ハピエン♥️
※設定などは独自の世界観でご都合主義となります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる