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10、辺境伯ユリウスの遺恨

レイノークス伯の怒り

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 婚約式がすみ、陰陽宮によるソリスティアの新総督恭親王とアデライード姫の〈聖婚〉の公布が行われたが、それを聞いたレイノークス辺境伯ユリウスは激怒した。

 アデライード姫はユリウスが目に入れても痛くない程溺愛している異母妹であり、かつ彼はその後見人だ。王女であると同時に、レイノークス辺境伯家の姫であるアデライードの婚約式が、家長であるユリウスに無断で行われたのである。さらに、アデライード姫は即日、総督が太陰宮から連れ出して、聖地内の総督別邸に居を移したと聞き、ユリウスは知らせをもたらした執事に対し、危うく熱いお茶をぶっかけそうになるほど、烈火の如く怒った。

 ユリウスの怒りは当然である。
 何故、ここまでないがしろにされねばならないのか。何故、異母妹アデライードの晴れの婚約式を、家族の誰一人祝うことが許されないような、そんな寂しい思いをさせなければならないのか。

 始祖女王ディアーヌ以来、西の女王国の東北辺境を守護する四方辺境伯としての、女王国の東北国境地帯一帯を領有する太守としての、ユリウスのプライドはずたずただ。

 だが、騒ぎ立てるわけにもいかない。
 そんなことをすれば、レイノークス辺境伯が〈禁苑〉からも、ソリスティア総督府からも軽んじられていると、周囲に宣伝するようなものだ。それに何より、アデライードがユリウスの許可なく総督別邸に移されたと知られれば、アデライードの身持ちまで疑われてしまう。

 ユリウスとしては、知っていたけれど所用で参加しなかったのだ、というポーズを取るしかない。全く、腹立たしいことであった。

 だが、それで大人しくしているのは業腹だ。せめて一矢なりとも報いておかなければ。

 ユリウスは即座に、ソリスティアに向かうことを決めた。副総督を通じて、総督には謁見を申し出ていたが、なかなか日程の調整が上手くいかなかった。その矢先の抜き打ち婚約式に、ユリウスはキレた。あちらが抜き打ちで婚約式を行い、アデライードを攫ったのだ。こちらが抜き打ちで会いに行って悪いわけはない。ユリウスはソリスティアへの入港届と総督への謁見願いの使者を送り出すと、返事も待たずにレイノークス辺境伯家所有の中型船に乗り込むべく、居城のレイノークス城を後にした。



 新総督が赴任して以来、総督に謁見を願う者は引きも切らなかったが、〈聖婚〉がおおやけになると、ソリスティア周辺の小領主や大商人たちが、こぞって総督府に赴任と婚約祝いの挨拶に押し掛けた。それらを捌くのは副総督のエンロンの重要な仕事であった。

 新総督はソリスティア総督である以前に、皇帝の皇后腹の第十五皇子、恭親王である。基本、爵位も持たぬ平民には謁見の許可など出ない。そもそも、願い出ること自体、東の貴族の感覚では身分もわきまえぬ暴挙である。
 だが、商人の街であるソリスティアでは、身分差という感覚が緩く、我も我もと謁見を願い出てきて、エンロンは頭を抱えた。ここで、爵位を基準に謁見の許可不許可を出してしまうと、必ずや爵位を持たぬ大商人が不満を持つに違いなかった。エンロンがその懸念を恭親王に訴えてお伺いを立てると、恭親王はいとも簡単に言い放った。

「爵位のあるなし、金のあるなしに関わらず、一律に不許可で。用のある者はこちらから呼びつければよい」

 真の貴人にとっては、多少の爵位や金があろうが、塵芥ちりあくたと変わるところはないのである。その現実にエンロンは内心、打ちのめされたのであった。

 というわけで、ソリスティアに店を構える大商人であれ、周辺の領主であれ、誰も新任のソリスティア総督に謁見できていなかった。

 そこに、レイノークス辺境伯からのソリスティア入港届と総督との謁見願いが提出され、エンロンは頭を抱えた。しかも、使者によればレイノークス伯はすでに居城を発ったというのである。

(無理矢理押し掛け! どーすんだよ!)

 もともと、レイノークス辺境伯とはいずれ謁見予定で、日程調整中であった。が、急遽婚約式をするというので、ならば聖地で面会できるはず、と謁見を取りやめたのだ。蓋を開ければレイノークス伯不在の婚約式であった。恭親王はこれを随分気にして、書簡をしたためてメイローズに届けさせ、事情説明をさせようと、恭親王は朝から書斎に籠っているはずであった。エンロンはバタバタと長い渡り廊下を走って、恭親王の私的な書斎に急いだ。

「殿下、たっ大変ですっ!」

 普段はけして慌てることのないエンロンの醜態に、恭親王は精悍な眉を露骨に顰めた。どんなに急いでいても、廊下を走ってはダメである。

「一体なんだ。騒々しいぞ」

 恭親王は大きな黒檀の執務机の前の肘掛椅子に座り、書き上げてチェックしたレイノークス辺境伯への書簡を清書しようと、墨をっているところだった。その一分の隙のない端然としたたたずまいに、突っかかるように部屋に飛び込んだエンロンは慌てて直立不動の礼を取る。

「エンロン殿、いったいどうなさったのです」

 机の奥の紙入れの前に立ち、正式な書簡に使用する高級手漉てすき紙の便箋びんせんと封筒を選んでいたメイローズが、不思議そうに首を傾げる。

「先にレイノークス伯への手紙を書いてしまいたいんだ。急ぎでないなら後にしてくれないか」

 恭親王が墨の色を確かめながら言うのに、エンロンは咳払いして言った。

「いえその、手紙の相手が、これから来ると……」

 思わず墨を磨る手を止めて、恭親王がエンロンを見つめる。

「招待はしていないはずだが。何しに来るんだ」
「そりゃー激おこぷんぷん丸だからでしょう。後見人なのに婚約式に呼ばれないって、俺だって暴れる自信ありますよ」

 封印に使う封泥の粘土を練りながら、トルフィンが答える。

「この部屋で暴れるのは勘弁してもらいたいのだが……貴重な本がたくさんある」

 恭親王が磨っていた墨を置き、濡らした手巾で手を拭いて、エンロンを手招きする。エンロンが手にしていた辺境伯からの入港届と謁見願いを受け取ってざっと見、眉を顰めた。

「結婚前の準備について話し合いたいって……婚約式の件はいいのかな?」
「おそらく、口にするのも嫌なくらい怒っている可能性の方が高いと思います」

 エンロンが言いにくそうに指摘すると、恭親王も唇を皮肉げに歪めた。

「まあ、そうだろうな……。レイノークス伯領からの距離だと、あと数時間で到着してしまうな。エンロン、トルフィン、悪いが大急ぎでレイノークス伯を迎える準備を頼む。夕食を共にすることになるだろうから、その手配と客間の準備、出迎えはメイローズに頼もう。元はと言えば、お前ら陰陽宮の蒔いた種だしな」

 恭親王は命じてから、ふうっと溜息をついた。

「しかし、邸の体裁が整わないうちに、客人を迎えることになるとは。ゲルたちには一刻も早くこちらに到着してもらいたいのだが……」

 恭親王はまだソリスティアへの道の途上にあるはずの、副傅ふくふや使用人たち一行の到着までにかかる日数を指折り数え、また溜息をついた。
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