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6、沈黙の理由

沈黙の理由

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 その日は早朝から、以前に挨拶に訪れたことのある陰陽宮の枢機卿に二度目の訪問を受けていたが、しかしアデライードは朝から頭痛に悩まされて、心ここにあらずであった。その枢機卿の黄金色に輝く見事な長い髪を見て、ついつい聖地の森の中で視た金色の〈王気〉に思いを馳せてしまう。だから、その宦官かんがんの話を全く聞いていなかった。

「本日、月神殿にて婚約式を済ませ、そのまま総督別邸までお移りいただきたい」

 横で聞いていたエイダがあげた耳障りな金切り声が、ようやくアデライードを現実に引き戻す。

「んまあ!まだお話しをいただいて十日ほどですのに、今日突然婚約式をして、しかも別邸に遷るなだんて!姫様に修道院を出ろとおっしゃるのですか!」
「すべて大神官長ルキニウス様を始めとした、皆さまとご相談の上のことです。もはや太陰宮では姫様の安全を確保することができません。本日、恭親王殿下には月神殿に赴きいただき、婚約式の後、別邸までお伴いいただくよう、お願いしてあります。そのお心積もりよろしくお願いします」
「では、婚約式の後は婚約者殿とご一緒に暮らす、ということなのですか?」

 エイダの問いに、メイローズは首を振る。

「いえ、殿下は別邸にはお住まいになるわけではなく、そのまま総督府にお住まいになる予定です」
「ですが、婚約者とはいえ、男性のお宅に住むことになるのですよね、姫様が。今日これから、月神殿での婚約式の後に!このこと、レイノークス辺境伯様がご承諾なさったのですか?」
「辺境伯様は本日はこちらにはいらっしゃいません」

 メイローズの返答に、エイダがさらに金切り声を張り上げた。理解できたのは今日これから、婚約式をするらしいこと。アデライードは今からはさすがに準備が大変だな、程度のことしか思わなかった。たいしたドレスも装身具も持っていないけれど、別に着飾る必要はないのだろう。それにしても、なぜこんなに急なのか。

「んまあ!なんてこと!こんなに急に、今日、突然だなんて!ユリウス様にも祝福されないご結婚だなんて!姫様があんまりお可哀想ですわ!」

 エイダがきーきーと耳障りな大声をあげるのは、別にアデライードを可哀想に思っているわけではなく、どこかに潜んでいるエイダの仲間に知らせるためだと、アデライードは知っている。

 おそらく、それを耳にした間者かんじゃの一人が、アデライードを亡き者にするために、上に報告に走るのだ。そうして、新たな襲撃がある。殺すなら、確実に殺せばいいのに、その襲撃をエイダが防ぐ。

(ここまで急だと、エイダの仲間も準備が間に合わないかもしれないわね)

 そう考えて、ああ、この人はわたしの周囲に間者がいることを疑っているのだ、と気づいた。
 相手に準備の時間を与えぬために、抜き打ちで事を進める。それが故の今日ということなのだ。

 だが――。

 アデライードは黄金の長い髪を背中に垂らし、紺碧の瞳を煌めかせる麗しの宦官の顔をじっと見つめた。
 その肝心の間者が、エイダだと気づかなければすべての努力が水の泡だ。
 この、極めて騒々しく、見るからに愚かで、どう逆立ちしても隠密活動など出来そうもない女が、腕っこきの間者であると疑えるかどうか。下手をすればエイダは東の皇子までも丸め込んで、総督府まで側付きとしてくっついてくるかもしれない。

 修道院長のエラも、他の女神官たちも、異母兄のユリウスですら、エイダの忠誠を疑わない。
 それは、エイダがこれまで、いくつもの襲撃をギリギリですり抜けてきたからだ。
 考えてみれば世話はない。自分で情報を流して刺客を呼びこみ、自分で防ぐ。それも、完全に無傷では済まない。必ず、誰かが犠牲になる。アデライードの周囲の、侍女だったり、修道女だったり、修道院で初めてできた友人だったり。エイダはわざと、アデライードの大切な者を犠牲にして、アデライードの命を助ける。そしてアデライードの耳だけに入るように囁くのだ。

『早く、アレの在り処を吐かないから、またあんたのために一人死んだのよ。罪深いお姫様ね』

 幸いというべきか、増える魔力量と滞留した魔力により、著しく思考力の低下したアデライードは、常に靄に覆われたような世界で揺蕩たゆたっており、それがアデライードの心が決定的に傷ついて壊れるのを防いでくれているようだ。

 その白い世界で、ただ、アデライードはただ一人のためにエイダの要求を撥ね退ける。
 すべては、〈シウリン〉のために――。




 十年前、聖地の〈港〉でエイダに初めて会った時、アデライードはわかった。

 この女は、自分を害するためにやってきた、敵だ。

 幼いアデライードの首筋がチリチリした。これは〈王気〉が不穏な〈気〉、敵意を察知して危険を知らせるしるしだ。だが、それまで命の危険も他人の敵意も感じたことのないアデライードは、その警告の意味するところを理解しなかった。だからその徴を乳母にも侍女にも話さなかった。
 もし、エイダが偽の修道女であると彼女たちに言っていたら、みすみす彼女らを殺させることはなかったかもしれない。そのことを、今でもアデライードは悔やみ続けている。

 アデライードは、エイダの目的が何か、わからなかった。目的が自分なら、うまく誘い出し、馬車から引き離せば、乳母と侍女は助けられるのではないかと思った。

『お手洗いに行きたい。エイダと二人で』

 この頃はまだ、母ユウラによって施された魔力封じが本人の肉体や精神とうまく調和していて、アデライードは年齢よりも聡明で、また年相応に負けん気に溢れていた。エイダを、まいてやろうと思ったのだ。どう考えても無謀なことなのだが。

 目論見通りエイダを森の中に残して、一人馬車のあったところに戻ってみれば、アデライードが目にしたのは、悲鳴と軋みをあげながら、崖から転落していく馬車の姿であった。そして、ふと首筋にチリチリと危険を感知して振りむけば――。

 そこには冷酷にわらうエイダの姿。

『まさか、乳母や侍女には手を出さないと思ってた? 王女とはいえ、所詮お子様ね。そんな訳ないでしょう? まあ、あんたも一緒に崖から落としてもよかったけれど、アレを持っているなら今お出しなさいよ。ほら、アレよ。あんたが持っているんでしょ?』

 足元が崩れ落ちそうな恐怖を感じるままに、持ちうる魔力で目くらましをかけて全力で走り出した。

『無駄よっ! 一丁前に魔法なんか使って生意気な! こんな森の中でどうしようっていうのさ! 勝手に迷って凍死でもすればいいわ! そうすれば結局、アレはアルベラ様のもとに戻るんだからっ! 死体になってから見つけてあげるわよっ! 手のかかるおバカな子ウサギが!』

 エイダのあざける声を聴きながら、それでも必死に走る。エイダにアレを渡すわけにはいかなかった。

 夕暮れの近づく森の中で、完全に迷ったと気づいた時には、どれくらいの時が経過していたか。
 寒さと、全力疾走の疲れ。空腹、喉の渇き、一人ぽっちの不安。抱えている人形を抱きしめ、ただぼろぼろと泣き続ける。そのまま、冷え切った草の上に座り込みそうになった時、ガサリと草をかき分ける音がして、金色の龍の光を纏った少年が、アデライードを覗き込んでいた。

 小雪のちらつく森の道を、〈シウリン〉に負ぶわれて行く。痩せた、温かい背中に身体をもたせかけ、歩みに連れて心地よく揺れる肩口に頭を預けているうちに、ウトウトと眠くなる。ふと気づけば、ずっと握りしめていた大切な指輪がない。慌てるアデライードに、〈シウリン〉が優しく言った。

『大丈夫、僕が拾って持っています』

 その時、電撃が走るようにアデライードは気づいたのだ。彼に、あげればいい。指輪は、彼のものだ。
 そうすれば、エイダに取り上げられることもない。そうだ、それがいい……。
 再び眠りに落ちたアデライードは、それが〈シウリン〉を危険に晒すことだとは、気づかなかった。

 見知らぬ場所で目覚めた時、側にいたのは〈シウリン〉でなく、エイダだった。涙と鼻水だらけの顔で大げさに抱き着きながら、エイダはアデライードの耳元で囁いた。

『アレはどこ?どこに隠したんだい!あんたの身の回りにも、馬車にも、どこにもない!』

 アデライードの脳裏に、崖下に堕ちていく馬車と、乳母と侍女の悲鳴が蘇る。

 次は、〈シウリン〉が、危ない――。
 はくはくと呼吸が荒くなり、喉が引き攣ったように固まる。〈シウリン〉を失う恐怖が、アデライードの声を奪った。

 それから十年、エイダが常に監視を続ける横で、アデライードは黙秘を続ける。
 厳密に言えば、アデライードは声を失ったというよりは、喋るのをやめたのだ。
 初め疑っていたエイダも、近頃ではアデライードの声が本当に出ないらしいと、ようやく納得した。
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