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【後日譚】天涯の夜明け
まぼろしの子
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「つまり、皇子の存在を忘れているということか」
「ミカエラ様の中では、永遠に妊娠中なのだ。それで、いつか皇帝の迎えが来ると思い込んでいる」
ジュラは先ほどの、ふわふわと幽霊のように漂う女の姿を思い出す。平らな腹を愛し気に、そして誇らしげに撫でていた彼女。すでに産み落とした子がまだ、腹にいると信じ込んでいるということか。
ミカエラにとっては、愛しい男の子を孕み、彼の子を産んで愛される未来を夢見ていた時、それが最も幸せな時代であったから――。
「それは、治りそうもないのか?」
「わからん」
ジュラは眉間に皺を寄せた。自身の産んだ子の存在を忘れる。あまりと言えばあまりではないか。その子は、父親が望まない関係を無理に強い、そうして得た子であったのに。
ミカエラという女にとって、皇子エドゥアルドはただ、愛しい男を繋ぎとめるだけの存在でしかなかったのか。なんという身勝手さ。皇帝に顧みられず、辺境に押し込められた女への同情もすべて吹っ飛ぶような気分であった。もしそのことを皇帝が知ったら――。
「……このこと、陛下にご報告は?」
ジュラの声が尖ったことに気づいたのだろう。シュテファンが言い訳するように、早口で言った。
「精神的に不安定だとの、報告は上げているが、まさか皇子を産んだことさえ忘れているなんて、どうやって伝える。使者に託けられる話ではないし、我々、ガルシア領の者では、陛下にお目通りも叶わない、直接、書信を送ることも許されていない」
ガルシア家は家格的には東の八侯爵家と同等とされる。ガルシア家の一族の誰かならば、ギリギリ、皇帝への拝謁を願い出られるが、そもそもガルシア家の最後の生き残りがミカエラなのである。その臣下では門前払いされるのが関の山だ。
「だがあんな風にフラフラしていたら、帝国から派遣された聖騎士たちも姿を目にしているのではないか? そこから、話が漏れるようなことは――」
ジュラの懸念に、シュテファンが溜息をつく。
「何しろここは辺境過ぎて」
「……確かに、こちらに派遣される聖騎士では、皇帝陛下に直接、皇子のご生母について申し上げるようなこともできまいな」
東から派遣されている騎士たちは、身分的にはそれほど高くはないが、真面目で忠誠心の篤い者が選ばれていて、皇子のご生母について噂を流すような不届き者もいなかった。結果的に、皇帝周辺にミカエラの現在については伝わらないままというわけだ。
「……すぐにでも、俺から内密の報告を上げるしかないな」
「ミカエラ様の実情が陛下に知られれば、皇子殿下を取り上げられるようなことは……」
シュテファンが心配そうに尋ねるが、ジュラは首を傾げる。
皇帝が皇子を愛しているならば、産んだことを忘れているような母親からは即刻、取り上げるに違いない。だが、皇帝にとっては望まない子で、普段はむしろ忘れていたいような存在なのだ。
「……母親に忘れられてはいても、虐待されていることもなく、他の者からは十分過ぎる監護を受けているように見える」
「それは保証する。俺たちガルシア家の者たちにとって、エドゥアルド様は最後の希望の星だ。先代の妹であるファナ様が中心になり、我らの総力を挙げてお育て申し上げている」
魔物の襲撃で当主や主だった家臣を失い、ガタガタになった領地が何とか体裁を保っていられるのも、すべては次代を継ぐべくエドゥアルド皇子の存在があるからだと、シュテファンは力説する。
「万一殿下を取り上げられれば俺たちは……」
「ならば、その旨も申し添えよう。陛下も、エドゥアルド殿下の健やかな成育と、ガルシア領の再建を望んで、俺をこちらに派遣したのだ。だがご母堂様の状況を黙っていることはできまい」
「それはわかっているのだが――」
シュテファンが項垂れる。
「将来、エドゥアルド殿下が西南辺境伯として、この領地を背負っていくのは決定事項だ。陛下もそれを覆すおつもりはない。それゆえの、傅役としての俺の派遣だ。……今はまだ幼く、母親のことも理解はできまいが、成長に伴って問題にはなるだろう」
「それもわかっていはいる」
いずれ、皇子は自分の存在を忘れている母親と、向き合っていかねばならない。おそらく同時に、自身の、父親からは望まれない出生とも――。
「どのみち、皇子殿下が十歳になれば、帝都の後宮で教育に入る。十五歳になって成人すれば、他の皇子たちと巡検に赴くことになるだろう。本格的に辺境伯領の経営に携わるのは、ご結婚されてからのことになると思うが」
「そのことだが――思春期以降は東の後宮で、というのを、城の重鎮どもが納得するとは思えん」
シュテファンの指摘に、ジュラも先ほどの、頑固でしかも状況を理解していない、爺さんどもを思い出し、いささかうんざりした。
「これは〈禁苑〉の決定だ。俺にもおそらく陛下にも、どうにもならんよ。それに――」
ジュラは少しだけ声を潜め、シュテファンに言う。
「これは秘密事項だが、金の龍種は殺人精液の持ち主だ。平民の、魔力耐性もない娘と情交に及べば、下手すれば娘が死ぬ」
シュテファンが目を瞠る。
「……それは本当なのか? 俄かには信じられんが」
「本当だ。……ここだけの話だが、陛下はお若い頃、平民の侍女と関係して、侍女を殺したことがある。平民の女は精液が肌に触れただけで爛れるというからな。皇族のお世話を宦官が行うのは、そのせいだ。辺境の娘たちの命を守り、皇子のお心も守るためにも、後宮での閨房教育は絶対に必要だ」
ジュラは以前、賢親王の皇子・定郡王の侍従武官をしていたから知っているが、皇子が魔力耐性のない女と迂闊に関係を持てば、女は大惨事になる。こんなド田舎の辺境で、金の龍種を閨房教育も無しに野放しなんて、危険極まりない。
ジュラは、自身の監護すべき皇子が将来背負うであろう、幾多の問題に思いを馳せ、最後に残った茶を呷った。
「ミカエラ様の中では、永遠に妊娠中なのだ。それで、いつか皇帝の迎えが来ると思い込んでいる」
ジュラは先ほどの、ふわふわと幽霊のように漂う女の姿を思い出す。平らな腹を愛し気に、そして誇らしげに撫でていた彼女。すでに産み落とした子がまだ、腹にいると信じ込んでいるということか。
ミカエラにとっては、愛しい男の子を孕み、彼の子を産んで愛される未来を夢見ていた時、それが最も幸せな時代であったから――。
「それは、治りそうもないのか?」
「わからん」
ジュラは眉間に皺を寄せた。自身の産んだ子の存在を忘れる。あまりと言えばあまりではないか。その子は、父親が望まない関係を無理に強い、そうして得た子であったのに。
ミカエラという女にとって、皇子エドゥアルドはただ、愛しい男を繋ぎとめるだけの存在でしかなかったのか。なんという身勝手さ。皇帝に顧みられず、辺境に押し込められた女への同情もすべて吹っ飛ぶような気分であった。もしそのことを皇帝が知ったら――。
「……このこと、陛下にご報告は?」
ジュラの声が尖ったことに気づいたのだろう。シュテファンが言い訳するように、早口で言った。
「精神的に不安定だとの、報告は上げているが、まさか皇子を産んだことさえ忘れているなんて、どうやって伝える。使者に託けられる話ではないし、我々、ガルシア領の者では、陛下にお目通りも叶わない、直接、書信を送ることも許されていない」
ガルシア家は家格的には東の八侯爵家と同等とされる。ガルシア家の一族の誰かならば、ギリギリ、皇帝への拝謁を願い出られるが、そもそもガルシア家の最後の生き残りがミカエラなのである。その臣下では門前払いされるのが関の山だ。
「だがあんな風にフラフラしていたら、帝国から派遣された聖騎士たちも姿を目にしているのではないか? そこから、話が漏れるようなことは――」
ジュラの懸念に、シュテファンが溜息をつく。
「何しろここは辺境過ぎて」
「……確かに、こちらに派遣される聖騎士では、皇帝陛下に直接、皇子のご生母について申し上げるようなこともできまいな」
東から派遣されている騎士たちは、身分的にはそれほど高くはないが、真面目で忠誠心の篤い者が選ばれていて、皇子のご生母について噂を流すような不届き者もいなかった。結果的に、皇帝周辺にミカエラの現在については伝わらないままというわけだ。
「……すぐにでも、俺から内密の報告を上げるしかないな」
「ミカエラ様の実情が陛下に知られれば、皇子殿下を取り上げられるようなことは……」
シュテファンが心配そうに尋ねるが、ジュラは首を傾げる。
皇帝が皇子を愛しているならば、産んだことを忘れているような母親からは即刻、取り上げるに違いない。だが、皇帝にとっては望まない子で、普段はむしろ忘れていたいような存在なのだ。
「……母親に忘れられてはいても、虐待されていることもなく、他の者からは十分過ぎる監護を受けているように見える」
「それは保証する。俺たちガルシア家の者たちにとって、エドゥアルド様は最後の希望の星だ。先代の妹であるファナ様が中心になり、我らの総力を挙げてお育て申し上げている」
魔物の襲撃で当主や主だった家臣を失い、ガタガタになった領地が何とか体裁を保っていられるのも、すべては次代を継ぐべくエドゥアルド皇子の存在があるからだと、シュテファンは力説する。
「万一殿下を取り上げられれば俺たちは……」
「ならば、その旨も申し添えよう。陛下も、エドゥアルド殿下の健やかな成育と、ガルシア領の再建を望んで、俺をこちらに派遣したのだ。だがご母堂様の状況を黙っていることはできまい」
「それはわかっているのだが――」
シュテファンが項垂れる。
「将来、エドゥアルド殿下が西南辺境伯として、この領地を背負っていくのは決定事項だ。陛下もそれを覆すおつもりはない。それゆえの、傅役としての俺の派遣だ。……今はまだ幼く、母親のことも理解はできまいが、成長に伴って問題にはなるだろう」
「それもわかっていはいる」
いずれ、皇子は自分の存在を忘れている母親と、向き合っていかねばならない。おそらく同時に、自身の、父親からは望まれない出生とも――。
「どのみち、皇子殿下が十歳になれば、帝都の後宮で教育に入る。十五歳になって成人すれば、他の皇子たちと巡検に赴くことになるだろう。本格的に辺境伯領の経営に携わるのは、ご結婚されてからのことになると思うが」
「そのことだが――思春期以降は東の後宮で、というのを、城の重鎮どもが納得するとは思えん」
シュテファンの指摘に、ジュラも先ほどの、頑固でしかも状況を理解していない、爺さんどもを思い出し、いささかうんざりした。
「これは〈禁苑〉の決定だ。俺にもおそらく陛下にも、どうにもならんよ。それに――」
ジュラは少しだけ声を潜め、シュテファンに言う。
「これは秘密事項だが、金の龍種は殺人精液の持ち主だ。平民の、魔力耐性もない娘と情交に及べば、下手すれば娘が死ぬ」
シュテファンが目を瞠る。
「……それは本当なのか? 俄かには信じられんが」
「本当だ。……ここだけの話だが、陛下はお若い頃、平民の侍女と関係して、侍女を殺したことがある。平民の女は精液が肌に触れただけで爛れるというからな。皇族のお世話を宦官が行うのは、そのせいだ。辺境の娘たちの命を守り、皇子のお心も守るためにも、後宮での閨房教育は絶対に必要だ」
ジュラは以前、賢親王の皇子・定郡王の侍従武官をしていたから知っているが、皇子が魔力耐性のない女と迂闊に関係を持てば、女は大惨事になる。こんなド田舎の辺境で、金の龍種を閨房教育も無しに野放しなんて、危険極まりない。
ジュラは、自身の監護すべき皇子が将来背負うであろう、幾多の問題に思いを馳せ、最後に残った茶を呷った。
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