上 下
231 / 236
【後日譚】天涯の夜明け

まぼろしの子

しおりを挟む
「つまり、皇子の存在を忘れているということか」
「ミカエラ様の中では、永遠に妊娠中なのだ。それで、いつか皇帝の迎えが来ると思い込んでいる」

 ジュラは先ほどの、ふわふわと幽霊のように漂う女の姿を思い出す。平らな腹を愛し気に、そして誇らしげに撫でていた彼女。すでに産み落とした子がまだ、腹にいると信じ込んでいるということか。 
 ミカエラにとっては、愛しい男の子を孕み、彼の子を産んで愛される未来を夢見ていた時、それが最も幸せな時代であったから――。

「それは、治りそうもないのか?」
「わからん」

 ジュラは眉間に皺を寄せた。自身の産んだ子の存在を忘れる。あまりと言えばあまりではないか。その子は、父親が望まない関係を無理に強い、そうして得た子であったのに。

 ミカエラという女にとって、皇子エドゥアルドはただ、愛しい男を繋ぎとめるだけの存在でしかなかったのか。なんという身勝手さ。皇帝に顧みられず、辺境に押し込められた女への同情もすべて吹っ飛ぶような気分であった。もしそのことを皇帝が知ったら――。

「……このこと、陛下にご報告は?」

 ジュラの声が尖ったことに気づいたのだろう。シュテファンが言い訳するように、早口で言った。

「精神的に不安定だとの、報告は上げているが、まさか皇子を産んだことさえ忘れているなんて、どうやって伝える。使者にことづけられる話ではないし、我々、ガルシア領の者では、陛下にお目通りも叶わない、直接、書信を送ることも許されていない」

 ガルシア家は家格的には東の八侯爵家と同等とされる。ガルシア家の一族の誰かならば、ギリギリ、皇帝への拝謁を願い出られるが、そもそもガルシア家の最後の生き残りがミカエラなのである。その臣下では門前払いされるのが関の山だ。
 
「だがあんな風にフラフラしていたら、帝国から派遣された聖騎士たちも姿を目にしているのではないか? そこから、話が漏れるようなことは――」
 
 ジュラの懸念に、シュテファンが溜息をつく。

「何しろここは辺境過ぎて」
「……確かに、こちらに派遣される聖騎士では、皇帝陛下に直接、皇子のご生母について申し上げるようなこともできまいな」

 東から派遣されている騎士たちは、身分的にはそれほど高くはないが、真面目で忠誠心の篤い者が選ばれていて、皇子のご生母について噂を流すような不届き者もいなかった。結果的に、皇帝周辺にミカエラの現在については伝わらないままというわけだ。

「……すぐにでも、俺から内密の報告を上げるしかないな」
「ミカエラ様の実情が陛下に知られれば、皇子殿下を取り上げられるようなことは……」
 
 シュテファンが心配そうに尋ねるが、ジュラは首を傾げる。
 皇帝が皇子を愛しているならば、産んだことを忘れているような母親からは即刻、取り上げるに違いない。だが、皇帝にとっては望まない子で、普段はむしろ忘れていたいような存在なのだ。

「……母親に忘れられてはいても、虐待されていることもなく、他の者からは十分過ぎる監護を受けているように見える」
「それは保証する。俺たちガルシア家の者たちにとって、エドゥアルド様は最後の希望の星だ。先代の妹であるファナ様が中心になり、我らの総力を挙げてお育て申し上げている」

 魔物の襲撃で当主や主だった家臣を失い、ガタガタになった領地が何とか体裁を保っていられるのも、すべては次代を継ぐべくエドゥアルド皇子の存在があるからだと、シュテファンは力説する。

「万一殿下を取り上げられれば俺たちは……」
「ならば、その旨も申し添えよう。陛下も、エドゥアルド殿下の健やかな成育と、ガルシア領の再建を望んで、俺をこちらに派遣したのだ。だがご母堂様の状況を黙っていることはできまい」
「それはわかっているのだが――」

 シュテファンが項垂れる。

「将来、エドゥアルド殿下が西南辺境伯として、この領地を背負っていくのは決定事項だ。陛下もそれを覆すおつもりはない。それゆえの、傅役としての俺の派遣だ。……今はまだ幼く、母親のことも理解はできまいが、成長に伴って問題にはなるだろう」
「それもわかっていはいる」

 いずれ、皇子は自分の存在を忘れている母親と、向き合っていかねばならない。おそらく同時に、自身の、父親からは望まれない出生とも――。

「どのみち、皇子殿下が十歳になれば、帝都の後宮で教育に入る。十五歳になって成人すれば、他の皇子たちと巡検に赴くことになるだろう。本格的に辺境伯領の経営に携わるのは、ご結婚されてからのことになると思うが」
「そのことだが――思春期以降は東の後宮で、というのを、城の重鎮どもが納得するとは思えん」

 シュテファンの指摘に、ジュラも先ほどの、頑固でしかも状況を理解していない、爺さんどもを思い出し、いささかうんざりした。

「これは〈禁苑〉の決定だ。俺にもおそらく陛下にも、どうにもならんよ。それに――」

 ジュラは少しだけ声を潜め、シュテファンに言う。

「これは秘密事項だが、金の龍種は殺人精液の持ち主だ。平民の、魔力耐性もない娘と情交に及べば、下手すれば娘が死ぬ」
 
 シュテファンが目を瞠る。

「……それは本当なのか? 俄かには信じられんが」
「本当だ。……ここだけの話だが、陛下はお若い頃、平民の侍女と関係して、侍女を殺したことがある。平民の女は精液が肌に触れただけで爛れるというからな。皇族のお世話を宦官が行うのは、そのせいだ。辺境の娘たちの命を守り、皇子のお心も守るためにも、後宮での閨房教育は絶対に必要だ」

 ジュラは以前、賢親王の皇子・定郡王の侍従武官をしていたから知っているが、皇子が魔力耐性のない女と迂闊に関係を持てば、女は大惨事になる。こんなド田舎の辺境で、金の龍種を閨房教育も無しに野放しなんて、危険極まりない。

 ジュラは、自身の監護すべき皇子が将来背負うであろう、幾多の問題に思いを馳せ、最後に残った茶を呷った。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

転生令嬢は現状を語る。

みなせ
ファンタジー
目が覚めたら悪役令嬢でした。 よくある話だけど、 私の話を聞いてほしい。

騎士団寮のシングルマザー

古森きり
恋愛
夫と離婚し、実家へ帰る駅への道。 突然突っ込んできた車に死を覚悟した歩美。 しかし、目を覚ますとそこは森の中。 異世界に聖女として召喚された幼い娘、真美の為に、歩美の奮闘が今、始まる! ……と、意気込んだものの全く家事が出来ない歩美の明日はどっちだ!? ※ノベルアップ+様(読み直し改稿ナッシング先行公開)にも掲載しましたが、カクヨムさん(は改稿・完結済みです)、小説家になろうさん、アルファポリスさんは改稿したものを掲載しています。 ※割と鬱展開多いのでご注意ください。作者はあんまり鬱展開だと思ってませんけども。

【書籍化進行中、完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化進行中です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ 目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/12/26……書籍化確定、公表 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

隠された第四皇女

山田ランチ
ファンタジー
 ギルベアト帝国。  帝国では忌み嫌われる魔女達が集う娼館で働くウィノラは、魔女の中でも稀有な癒やしの力を持っていた。ある時、皇宮から内密に呼び出しがかかり、赴いた先に居たのは三度目の出産で今にも命尽きそうな第二側妃のリナだった。しかし癒やしの力を使って助けたリナからは何故か拒絶されてしまう。逃げるように皇宮を出る途中、ライナーという貴族男性に助けてもらう。それから3年後、とある命令を受けてウィノラは再び皇宮に赴く事になる。  皇帝の命令で魔女を捕らえる動きが活発になっていく中、エミル王国との戦争が勃発。そしてウィノラが娼館に隠された秘密が明らかとなっていく。 ヒュー娼館の人々 ウィノラ(娼館で育った第四皇女) アデリータ(女将、ウィノラの育ての親) マイノ(アデリータの弟で護衛長) ディアンヌ、ロラ(娼婦) デルマ、イリーゼ(高級娼婦) 皇宮の人々 ライナー・フックス(公爵家嫡男) バラード・クラウゼ(伯爵、ライナーの友人、デルマの恋人) ルシャード・ツーファール(ギルベアト皇帝) ガリオン・ツーファール(第一皇子、アイテル軍団の第一師団団長) リーヴィス・ツーファール(第三皇子、騎士団所属) オーティス・ツーファール(第四皇子、幻の皇女の弟) エデル・ツーファール(第五皇子、幻の皇女の弟) セリア・エミル(第二皇女、現エミル王国王妃) ローデリカ・ツーファール(第三皇女、ガリオンの妹、死亡) 幻の皇女(第四皇女、死産?) アナイス・ツーファール(第五皇女、ライナーの婚約者候補) ロタリオ(ライナーの従者) ウィリアム(伯爵家三男、アイテル軍団の第一師団副団長) レナード・ハーン(子爵令息) リナ(第二側妃、幻の皇女の母。魔女) ローザ(リナの侍女、魔女) ※フェッチ   力ある魔女の力が具現化したもの。その形は様々で魔女の性格や能力によって変化する。生き物のように視えていても力が形を成したもの。魔女が死亡、もしくは能力を失った時点で消滅する。  ある程度の力がある者達にしかフェッチは視えず、それ以外では気配や感覚でのみ感じる者もいる。

王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません

きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」 「正直なところ、不安を感じている」 久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー 激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。 アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。 第2幕、連載開始しました! お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。 以下、1章のあらすじです。 アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。 表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。 常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。 それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。 サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。 しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。 盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。 アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...