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エピローグ
アルベラのその後
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「それは――」
シウリンが黒い眉を顰める。やばい。
アルベラを帝都にやる際、もともと賢親王が自分のもとに寄越せと言っているのを、シウリンはアデライード他には黙っていた。三十以上も年上の男のもとにやるなんて知ったら、アデライードが怒るに違いないと思ったからだ。
「兄上の冗談だと思ったんだよ。まさかあの堅物の兄上が、三十も年下のアルベラに本気で手を付けるとは思わなくて……悪い虫がつかないように監視してくれるのかと思ったら、兄上自身が悪い虫に大変身してしまったっていう……。私だってびっくりだよ?」
「……嘘くさい」
「う、嘘じゃないさ! 私にとって兄上は父親代わりみたいなものだったからな。後宮の皇子たちはどいつもこいつも女癖が悪くて倫理的にぶっ壊れたような奴らばっかりだが、兄上だけはマトモだと思ってたんだから!」
それは半ば本当だ。賢親王にアルベラを寄越せと言われた時は、耳がおかしくなったか、魔法陣の不調か、そうでなければ兄の頭がおかしくなったのかと、思ったくらいだ。
帝国で摂政監国を務める兄の賢親王は、イフリート家が裏で糸を引いていた帝都の叛乱で、五人の息子をはじめとして家族全員を失っている――長男があまり身分の高くない側室に産ませた孫皇子が一人、乳母の機転で助かっただけだ。その上、皇帝でありながらアデライードの側を離れたくない、というシウリンの我儘により、帝国の政務を全て丸投げしている負い目から、シウリンは兄賢親王の要求を突っぱねることができなかった。
まあそれでも、あのマトモな兄のこと、何のかんのと言ってアルベラに無体を働いたりすまいと考えていたシウリンの一縷の期待は、見事に裏切られたわけだが――。
(……顔がよく似ているらしいのは知っていたが、まさか中身まで私と似ていたとは。よくぞ堅物の仮面をかぶって騙してくれたものよ)
数か月後、魔法陣を通して補佐役のゲルフィンが苦情を言い立ててきて、シウリンは堅物の兄が三十も若い女をドロドロに甘やかしていると聞いて、驚きのあまり比喩ではなくて本当に椅子から滑り落ちた。
《近頃では牡丹妃の再来ではないか、などとまで囁かれておりましてね。周囲の目もいろいろと煩いのですから、陛下から一言、ご意見申し上げていただきたいと思っているのです》
いつかシウリンの前で泣きごとを言った同じ口とは思われないほど、すっかり元通りの嫌味男の面目を取り戻したゲルフィンが、片眼鏡を殊更に光らせてシウリンに告げ口し、何とかしろとせっつくのだ。牡丹妃とはかの五百年前の聖帝の曾祖父にあたる、帝国黄金期の皇帝が寵愛した妃で、もとは息子の嫁であったのを皇帝が権力にあかせて無理に奪い取り、ついにその女にかまけて政治を蔑ろにしたおかげで、嫁を奪われた息子が叛乱を起こして帝位を簒奪した、という故事だ。
都も帝位も追われた皇帝は、寵姫とともに離宮へと逃げるが、周囲の騎士が国の乱れた原因はこの女にあるとして、女の処刑を要求し、皇帝は泣く泣く女の命を差し出す羽目になったという一場の悲劇が、遠くナキアの劇場でも演じられて――舞台美術や服装がすっかり西方風だったので、シウリンはそれが牡丹妃の故事だと最後まで気づかなかった――いるほど、史上に悪名高い傾国の美女。さすがにそれに譬えられてはアルベラもまた不幸であると、シウリンは兄に意見したものだ。
「まあその……とにかくこれ以上はないほど溺愛されているらしいし、よかったじゃないか。銀の龍種も無事に生まれそうだし」
シウリンがわざとらしく咳払いし、作り物めいた笑顔を張り付けて言えば、だがアデライードはじとっとした目でシウリンを見ている。
「そうかしら……たった一人で異国に送られて頼る人もない若い女性を、仮にも摂政の要職にある方が――」
「いや、きっと恋は国境も年齢も越えるんだよ。アルベラは特に文句を言っているわけじゃないんだろ?兄上は五十過ぎにはとても見えない美中年だし……ほらなんだ、アルベラは父親狂のケがあったから、年の離れた相手でちょうどよかったんじゃないかな」
兄がアルベラを要求したのは、もともとイフリート家に対する報復目的だったなんて知られたら、絶対に怒って口をきいてくれなくなるに違いないから、シウリンは必死で口から出まかせを言ってごまかす。アデライードもしばらく納得いかない風にシウリンを見ていたが、だが手紙に目を落として言った。
「最近は、政務のお手伝いもさせていただいているんですって。いろいろ勉強になるって、東と西の政体の違いについて難しいことがたくさん書いてありますけど……」
「へぇ、兄上が?……女にそんなことを任せる人とは思わなかったけれど……」
シウリンが意外に思い、なんとなくアルベラの手紙を覗き込む。
さすがアルベラは勤勉な性格らしく、帝都に移ってから東方風の毛筆をマスターし、見事な縦書きの手紙を書き送っている。警句や故事成語を駆使したなんとも男っぽい文章で、兄の手紙を読んでいるような気分になって、シウリンは思わず噴き出した。
「字が兄上にそっくりだよ。きっと兄上に書道を習ったんだな。あの兄上がいったいどんな顔で、三十も若い女に書道を教えているのか、想像すると笑えてくるよ」
「まあ、意地の悪い。……賢親王殿下は、将来、確実に自分は先に死ぬから、その後の人生を有意義に生きるために勉強はしておけと仰っているそうよ」
「それは兄上らしいな。……それで政務の手伝いをしているのは……」
ああそうか、とシウリンは合点する。いずれ賢親王に先立たれた後、アルベラはナキアに戻ってくる。その日のために兄の下で学んでいるということなのだ。兄がいつまで摂政をしてくれるつもりか知らないが、いずれはシウリンが親政しなければならない。アデライードはこんな性格だから、政治の矢面に立たせるのは頼りないけれど、兄の下で政務に精通したアルベラならば、アデライードのよい補佐役になるだろう。
メイローズの淹れた緑茶の杯を取りあげて、熱い茶を一口啜ってから、シウリンは言った。
「アルベラの産む王女も、おそらくステルマリアのように身体が弱いだろう。治癒術師を確保しておくように、助言した方がいい。帝国にはあまり、治癒術師がいないから、神殿から呼び寄せないといけないし。兄上にも私から言っておく」
「ええ。……タティング・レースの杼とパターン図を送ってくれと言われているので、手紙を書いて送ります。……東の女官たちがレースに興味があるのだそうです」
「あっちの後宮でそこそこうまくやっているようで、安心したよ」
シウリンがそう言って茶杯を置いたと同時に、眠っていた赤子が目を覚まして、ぐずぐずとむずがり始める。瞬く間にそれがもう一人に伝染して、二つの揺り籠から鳴き声が聞こえ始めた。
シウリンが黒い眉を顰める。やばい。
アルベラを帝都にやる際、もともと賢親王が自分のもとに寄越せと言っているのを、シウリンはアデライード他には黙っていた。三十以上も年上の男のもとにやるなんて知ったら、アデライードが怒るに違いないと思ったからだ。
「兄上の冗談だと思ったんだよ。まさかあの堅物の兄上が、三十も年下のアルベラに本気で手を付けるとは思わなくて……悪い虫がつかないように監視してくれるのかと思ったら、兄上自身が悪い虫に大変身してしまったっていう……。私だってびっくりだよ?」
「……嘘くさい」
「う、嘘じゃないさ! 私にとって兄上は父親代わりみたいなものだったからな。後宮の皇子たちはどいつもこいつも女癖が悪くて倫理的にぶっ壊れたような奴らばっかりだが、兄上だけはマトモだと思ってたんだから!」
それは半ば本当だ。賢親王にアルベラを寄越せと言われた時は、耳がおかしくなったか、魔法陣の不調か、そうでなければ兄の頭がおかしくなったのかと、思ったくらいだ。
帝国で摂政監国を務める兄の賢親王は、イフリート家が裏で糸を引いていた帝都の叛乱で、五人の息子をはじめとして家族全員を失っている――長男があまり身分の高くない側室に産ませた孫皇子が一人、乳母の機転で助かっただけだ。その上、皇帝でありながらアデライードの側を離れたくない、というシウリンの我儘により、帝国の政務を全て丸投げしている負い目から、シウリンは兄賢親王の要求を突っぱねることができなかった。
まあそれでも、あのマトモな兄のこと、何のかんのと言ってアルベラに無体を働いたりすまいと考えていたシウリンの一縷の期待は、見事に裏切られたわけだが――。
(……顔がよく似ているらしいのは知っていたが、まさか中身まで私と似ていたとは。よくぞ堅物の仮面をかぶって騙してくれたものよ)
数か月後、魔法陣を通して補佐役のゲルフィンが苦情を言い立ててきて、シウリンは堅物の兄が三十も若い女をドロドロに甘やかしていると聞いて、驚きのあまり比喩ではなくて本当に椅子から滑り落ちた。
《近頃では牡丹妃の再来ではないか、などとまで囁かれておりましてね。周囲の目もいろいろと煩いのですから、陛下から一言、ご意見申し上げていただきたいと思っているのです》
いつかシウリンの前で泣きごとを言った同じ口とは思われないほど、すっかり元通りの嫌味男の面目を取り戻したゲルフィンが、片眼鏡を殊更に光らせてシウリンに告げ口し、何とかしろとせっつくのだ。牡丹妃とはかの五百年前の聖帝の曾祖父にあたる、帝国黄金期の皇帝が寵愛した妃で、もとは息子の嫁であったのを皇帝が権力にあかせて無理に奪い取り、ついにその女にかまけて政治を蔑ろにしたおかげで、嫁を奪われた息子が叛乱を起こして帝位を簒奪した、という故事だ。
都も帝位も追われた皇帝は、寵姫とともに離宮へと逃げるが、周囲の騎士が国の乱れた原因はこの女にあるとして、女の処刑を要求し、皇帝は泣く泣く女の命を差し出す羽目になったという一場の悲劇が、遠くナキアの劇場でも演じられて――舞台美術や服装がすっかり西方風だったので、シウリンはそれが牡丹妃の故事だと最後まで気づかなかった――いるほど、史上に悪名高い傾国の美女。さすがにそれに譬えられてはアルベラもまた不幸であると、シウリンは兄に意見したものだ。
「まあその……とにかくこれ以上はないほど溺愛されているらしいし、よかったじゃないか。銀の龍種も無事に生まれそうだし」
シウリンがわざとらしく咳払いし、作り物めいた笑顔を張り付けて言えば、だがアデライードはじとっとした目でシウリンを見ている。
「そうかしら……たった一人で異国に送られて頼る人もない若い女性を、仮にも摂政の要職にある方が――」
「いや、きっと恋は国境も年齢も越えるんだよ。アルベラは特に文句を言っているわけじゃないんだろ?兄上は五十過ぎにはとても見えない美中年だし……ほらなんだ、アルベラは父親狂のケがあったから、年の離れた相手でちょうどよかったんじゃないかな」
兄がアルベラを要求したのは、もともとイフリート家に対する報復目的だったなんて知られたら、絶対に怒って口をきいてくれなくなるに違いないから、シウリンは必死で口から出まかせを言ってごまかす。アデライードもしばらく納得いかない風にシウリンを見ていたが、だが手紙に目を落として言った。
「最近は、政務のお手伝いもさせていただいているんですって。いろいろ勉強になるって、東と西の政体の違いについて難しいことがたくさん書いてありますけど……」
「へぇ、兄上が?……女にそんなことを任せる人とは思わなかったけれど……」
シウリンが意外に思い、なんとなくアルベラの手紙を覗き込む。
さすがアルベラは勤勉な性格らしく、帝都に移ってから東方風の毛筆をマスターし、見事な縦書きの手紙を書き送っている。警句や故事成語を駆使したなんとも男っぽい文章で、兄の手紙を読んでいるような気分になって、シウリンは思わず噴き出した。
「字が兄上にそっくりだよ。きっと兄上に書道を習ったんだな。あの兄上がいったいどんな顔で、三十も若い女に書道を教えているのか、想像すると笑えてくるよ」
「まあ、意地の悪い。……賢親王殿下は、将来、確実に自分は先に死ぬから、その後の人生を有意義に生きるために勉強はしておけと仰っているそうよ」
「それは兄上らしいな。……それで政務の手伝いをしているのは……」
ああそうか、とシウリンは合点する。いずれ賢親王に先立たれた後、アルベラはナキアに戻ってくる。その日のために兄の下で学んでいるということなのだ。兄がいつまで摂政をしてくれるつもりか知らないが、いずれはシウリンが親政しなければならない。アデライードはこんな性格だから、政治の矢面に立たせるのは頼りないけれど、兄の下で政務に精通したアルベラならば、アデライードのよい補佐役になるだろう。
メイローズの淹れた緑茶の杯を取りあげて、熱い茶を一口啜ってから、シウリンは言った。
「アルベラの産む王女も、おそらくステルマリアのように身体が弱いだろう。治癒術師を確保しておくように、助言した方がいい。帝国にはあまり、治癒術師がいないから、神殿から呼び寄せないといけないし。兄上にも私から言っておく」
「ええ。……タティング・レースの杼とパターン図を送ってくれと言われているので、手紙を書いて送ります。……東の女官たちがレースに興味があるのだそうです」
「あっちの後宮でそこそこうまくやっているようで、安心したよ」
シウリンがそう言って茶杯を置いたと同時に、眠っていた赤子が目を覚まして、ぐずぐずとむずがり始める。瞬く間にそれがもう一人に伝染して、二つの揺り籠から鳴き声が聞こえ始めた。
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