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14、薤露

シリルの役割

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 気を失うように眠りに落ちたアルベラを残して、ゾラは寝台を滑り出、素早く身支度を整える。枕元にテセウスの短剣を残せば、アルベラはテセウスの亡霊に抱かれたと思うかもしれない。きっとその方がアルベラの傷は小さいはずだ。

 西の貴族令嬢の純潔を奪えば結婚に持ち込まれると聞いていたが、ゾラは主の許しが得られるのなら、アルベラと結婚してもいい――いや、むしろ結婚したいとまで、思った。何しろ、ゾラには勿体ない上玉だ。

 でも――。それがアルベラの幸福だろうか。

 間違いなく、一生、テセウスの亡霊に付きまとわれる。ゾラはテセウスの亡霊込みでアルベラを引き受ける覚悟はあるが、しかしアルベラは――。

 そして何より、帝国上層部や〈禁苑〉が今後、アルベラをどう遇するのか。そこにゾラ如きの要望が通る余地などあるまい。

 ゾラは部屋の入口でちょっとだけ、寝台を振り返る。

「――あばよ、嬢ちゃん。いいもん貰ったぜ」

 そう呟いて、ゾラは部屋の外に出て後ろ手に扉を閉めた。控えの間は明かりもついておらず、すでに月も沈み、夜明け前の闇に支配されていた。

 一歩踏み出して、ゾラは凄まじい殺気を感じ、突進してくる人影を反射的に避け、細い手首を捕まえて後ろ手に回し、拘束する。まだ小柄で細っこい――。

「シリル?」
「嘘つき! ケダモノ! アルベラに酷いことしないって言ったのに!」

 腕の中でワタワタ暴れる少年の口元を大きな手で塞ぐ。

「大声出すな。……嬢ちゃんが起きるだろ」
 
 そのまま引きずるように扉の前を離れ、控えの間の石造りの壁に押し付けて、静かにさせる。

「今寝てる。騒ぐな」

 口をふさいだゾラの手を、次から次へと零れ落ちるシリルの涙が濡らしていく。

「しょうがねーだろ。命令だったんだから」
「シウリンも嘘つきだ!……酷い! どうして!……東の奴らみんな、殺してやる!」
 
 ゾラは呆れたように溜息をつく。

「いい加減に、陛下の御名を口にする癖は治せよ。不敬罪に引っかかるっつの」
「うるさいっ! 皇帝なんかくそくらえだ!……どうしてっ……」
「しょうがねぇだろ。魔族の血は絶つのが決まりだけど、一方で、龍種は絶対に殺しちゃいけねぇときた。龍種のくせして魔族の血が混じってる、嬢ちゃんが規格外なんだよ。陛下だってどうしていいかわかんんねぇよ」

 ゾラはそう言って、肩を竦めると、シリルの拘束を解く。シリルはきつく捕まれていた手首が痛むのか、腕をさすりながら、しかし薄闇の中からギラギラした瞳でゾラを睨みつけている。

「言っとくけど、合意の上だ。……俺は主義として強姦はしねぇ」
「そんなの、脅しと一緒だろ! 俺を部屋から追い出して、メイローズさんまでグルになって……」
「さすがの俺にも、お前の目の前でヤる趣味はねーよ。もう一つ言っとくけど、俺を派遣したのは陛下の温情だぜ? あの絶倫の上に倫理観のぶっ壊れた皇子様二人に弄ばれるよりは、よっぽどマシだ」

 シリルは月神殿で近くに接した、詒郡王の顔を思い浮かべる。皮肉っぽいけど、表面的には気さくな皇子だった。平民のシリルと、高位貴族出身の配下たちと、まったく態度を変えることはない。でもそれは親切なんじゃなくて、あの皇子様にとってはどっちも同じくらい虫けらだからだ。あの皇子様とシリルとでは、たぶん見えている世界がまるで違っているんだろう。

「でも……どうして……アルベラは何も悪いことはしてないのにっ!」
「本人の為したことではなくとも、責任を取らねばならぬのが、貴人の貴人たる所以(ゆえん)です」 

 泣きじゃくるシリルに、暗闇から別の声がした。少し甲高い、声だけ聴けば少年のままのような、それでいて言葉遣いは落ち着いて含蓄に溢れている、ちぐはぐな声。

 窓から差し込む夜明けの薄灯りに、メイローズの姿がほんのりと現れる。

「メイローズ、いたのかよ。ちゃんと押えとけよ。お前の預かりだろ?」
「申し訳ありません。……姫君のお身体が心配で、少し外していました」

 結局、アデライードのことを女王陛下、あるいは宦官流に娘娘にゃんにゃんと呼ぶのは言いにくく、また本人も嫌がるので、身近な者だけの場では、相変わらず「姫君」「姫様」と呼んでいる。

「やっぱりお腹の子は……」

 ゾラの問いに、メイローズは無言で首を振る。

「姫君はまだ目をお覚ましではいらっしゃいません。明日朝まで目が覚めないようでしたら、治癒魔法師を呼ぶ必要があるでしょう」
「陛下がぶっ倒れるんだもんなあ……さすが、あの人は化け物クラスの回復力だったけどよ」
「結局、私が至らなくて、姫君に大きな犠牲を強いてしまいました」

 メイローズとゾラの会話から、シリルはアデライードが流産したことを知って、息を飲んだ。メイローズが、シリルを見つめる。

「もし、何も悪いことをしなければ辛い目に遭わないのだとしたら、今回の姫君はいったい何と説明しますか? 結界の損傷その他にも、姫君は何の責任もない。この二年の女王空位をもたらしたのは姫君ではなく、イフリート公爵です。にも拘わらず、姫君は刺客の攻撃の中で結界に魔力を注ぎ続け、お腹の御子を犠牲にして、結界を修復した。我が子を失うことになった、わが主もです」
「それは……」

 シリルが俯く。

「イフリート家が狙っていたのは、女王位の簒奪と、結界の完全なる破壊です。魔族である彼らは、結界の破れ目から魔物を召喚し、その力を使って女王とその夫、月神殿を襲撃した。あそこで姫君やわが主が破れていれば、結界は修復されず、銀の龍種は完全に断たれることになった。――そのイフリート家を、赦すことができますか?」
「それは――でも――」
「たしかに、アルベラ姫は利用されただけで、自ら〈禁苑〉及び姫君に危害を加えようとしたわけではない。だがそれは泉神殿で命を絶った、他のイフリート家の者たちも同じです。本来ならば、アルベラ姫も他の一族の者と同様、イフリート公爵の娘として、命を以て一族の罪を贖うのが筋です。ですが――」

 メイローズが、アルベラが眠る部屋の扉を見つめながら、言う。

「結界が修復され、強化されたことにより、アルベラ姫には〈王気〉が出現した。陰陽の教えとして、龍種の命は奪うことが許されません。これが、アルベラ姫にとって幸いか不幸か、誰にもわからない。ただ、姫君のこの後の人生が、〈禁苑〉及び帝国の監視下に置かれるのは、致し方のないことです」

 シリルががっと顔を上げ、メイローズに噛みついた。

「でも! ……だからってこんなっ! 酷いよ!」
「側仕えのあなたがすべきことは、主人の境遇に激昂して他者に当たることではなく、不遇なあるじに寄り添い、その心を支えることです」

 メイローズの言葉に、シリルがはっとする。

「主の境遇を変える力など、我々側仕えの者にありません。せめて主が心やすらかにあるように、気持ちを砕き、誠心誠意仕えることしかできない。無理に境遇を改めようとしても、力のない我々は主の元から遠ざけられて終わりです。もしあなたがいなくなったら、誰がアルベラ姫を支えるのですか?」

 シリルはただ、無言でメイローズを見つめる。メイローズは諭すように、なおも語った。

「アルベラ姫がこの先、どういった境遇に置かれるにせよ、それは彼女の意思や幸福とは無関係に決められていくでしょう。そしてどれほど不本意なものであっても、アルベラ姫は拒否することも、そして死に逃げることも許されない。――イフリート家の血を引く龍種である彼女に、与えられた〈罰〉になるか、あるいは〈赦し〉になるか、それはアルベラ姫の心持ちと、側で仕え、彼女を支えるあなたの、力にかかっているのですよ」
「そんな――」

 顔を覆って泣き出したシリルに、メイローズが言う。

「主の前で、側付きの者が主に同情して泣くなんて、絶対にしてはなりません。悔しい顔もしてはなりません。あなたの幸福はすべて、生きる主の側近く仕えられることです。その幸福に感謝し、笑いなさい。――主が、自身の人生を少しでも、肯定的に捉えられるように」

 ゾラが、シリルの髪を大きな手でくしゃりとかき回した。

「少しだけ泣いたら、顔を洗って、もう泣くなよ?――お前が泣いたら、嬢ちゃんが悲しむ」

 それだけ言って、ゾラは暗闇の中に消えて行った。
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