上 下
164 / 236
14、薤露

逡巡

しおりを挟む
「シリル、メイローズが呼んでるぜ。一度戻って、ジブリールの世話をしないとって」

 顔を覗かせたゾラに声をかけられ、眠るアルベラを食い入るように見つめていたシリルが、はっとする。シリルはゾラの素行の悪さも知っているから、当然、その場を離れるのを渋った。だが、ゾラが耳元で囁く。

「ジブリールの世話もちゃんとしないと、追い出されるぞ?」
「……わかったよ。アルベラにひどいことしないでよね?」
「メイローズが扉の外にいる。大丈夫だ」

 シリルはその言葉に観念して、立ち上がる。

「ちょっとだけ抜けるけど、すぐ、戻るから」
「ああ、わかった。あと、ついでにメシも食っとけよ」

 シリルが去ると、ゾラはアルベラの寝台に腰を下ろす。さて――どうしたものか。
 あるじからはとんでもない命令が下されてしまった。確かに、自分でも適材適所だとは思う。そういや、主が西の貴族の令嬢と結婚したくないからって、処女を奪っておけとか、滅茶苦茶な命令も受けたことがあった。結局実行はしないで済んだけれど、あの時は別に何とも思わなかったのに、今回はどうにも心がざわついている。

 嬢ちゃんを抱きたくないわけじゃ、ないんだけどよ――。

 やや赤味がかった金色の睫毛を伏せて眠るアルベラは、男装の名残で髪が短い以外は、文句のない美少女だ。旅の間に日に焼けてしまった肌もすっかり元の白さを取り戻し、小ぶりの唇はわずかに開いて、花の蕾のように初々しい。旅の途中はゾーイの目が光っていて、不埒な眼差しなど向けられなかったけれど、ほっそりした華奢な体つきながら、実は出るとこはしっかり出ているのも、ゾラは持ち前の鑑識眼でちゃんと確認済みだった。

 二十歳という年齢からすれば、少々、子供っぽい。でも大事に大事に育てられて、純情で素直でまっすぐで――。清い水の中を泳ぐ魚のような清廉さと気高さと。世界の半ばを担ってきた女王家の、正統な血筋を継いでいるという、高い矜持。折れない誇り。
 
 ――まあ、一言で言っちまうと、俺にみたいなクズには、勿体ないお化けが出るくらいの上玉だな。
 
 もともと、ゾラは「お姫様」と呼ばれる女たちは、好きではない。上品すぎて疲れるし、ゾラの汚い言葉遣いに眉を顰められたりして、「けっ」と思うことも多い。高価で綺麗な衣装を着ても、脱がせば身体は娼婦と同じ、男に組み敷かれてアンアン言うだけの、ただの女だ。多少は金をかけて磨き上げられているかもしれないが、肌一枚の下は醜い内臓が詰まってる、肉塊に過ぎない。先祖代々の家柄と金のおかげで威張っている女たちよりも、自分の身体を張って、男を喜ばせて金を稼いている娼婦たちの方が、ゾラは立派だと思っていた。少なくとも自分の足でたち、自分の金で生きているじゃねぇか――。

 その血筋故に、否応なく、とんでもない大きなものを背負わされている「お姫様」もいると、アデライードに仕えて初めて知った。目を瞠るほど美しいが、大きな人形のような中身のない女だと、初めは思った。なんでこんな女にあの主が夢中になるのか、正直言って、ゾラはさっぱりわからなかった。だが、身近に接するうちにゾラは気づいた。アデライードの空虚さは、偽装フェイクだと。

 中身のないうつろさを装わねば、彼女は生き抜くことが出来なかった。年端のゆかぬ少女が人形のような空虚さの鎧を纏うまでに、どれほどの孤独があったのか。ゾラはアデライードをそこまで追い込んだイフリート家をもちろん憎んだし、アデライードの本質に気づいていたらしい主の慧眼にも、痺れた。……憧れはしないが。

 それ故に、ナキアで潜り込んだ仮面舞踏会で、初めて会ったアルベラらしき少女の天真爛漫さは、ある種の衝撃を受けた。
 素直で物知らずで、怖い者知らずで。愛されて守られて生きてきたのだと、一目見てわかった。誰一人守ってくれる者もなかったアデライードの孤独な十年と引き比べ、あまりの落差にやりきれない気持ちになった。アデライードの幸福を、アルベラが盗んだわけではない。だが、本来ならばどちらも幸福であるべき従姉妹どうしの二人の十年、明暗がここまで分かれていたなんて。

 だが〈聖婚〉をきっかけに、コインの裏と表のように、二人の幸不幸は逆転する。

 真実の女王となるべく夫に守られたアデライードと、偽りの女王として父親に利用されるアルベラと。その中で、女王家の生まれに高い矜持を持つアルベラは、父の傀儡かいらいに甘んずるのを潔しとせず、絶望的な逃避行に打って出た。テセウスとともに――。

 ゾラはアルベラとテセウスがどの程度の仲だったのか、実のところは知らない。テセウスはアルベラを愛していただろうが、さて、アルベラの気持ちはどうだったのか。

 貴種でないテセウスが、王女の婿に収まるのは絶望的だ。結ばれるはずもない王女に恋した護衛官が、その気持ちを軽々しく口にしたとは思えない。ゾラは秘めた恋なんていう、高尚な経験はないが、好きな女を常に身近に守りながら、いずれその女が別の男の者になるのを、指を咥えて見ているしかできないなんて、地獄だろうと思う。抑圧され続けた恋心が、テセウスを無謀な逃避行へと駆り立てたのか。

 「嬢ちゃんは、テセウスのことを、男として好きだったのか――?」

 眠るアルベラを上から覗き込んで、ゾラはぽつりと呟く。
 西の森でこと切れた、自分にそっくりな男。家宝を持ち出して砂金に換え、軍隊から逃亡するという禁忌を犯し、生涯の何もかもを擲って王女を守ろうとし、力及ばずたおれた。文字通りの命懸けの恋だった。自らの命が消える間際に、藁をも掴むように、行きずりの男に恋人を託すしかなかったテセウスの絶望は、いかばかりだったろうか。

 おそらく、あの男はアルベラに指一本触れていないだろう。死の直前に、気持ちを打ち明けられたらしいのが、せめてもの救いか。

 ゾラはアルベラの白い頬を指で撫で、柔らかな唇に指先で触れる。

(……せめて、キスぐらいはしてんだろうな、テセウスさんよ……)

 なぜアルベラを抱くことに逡巡しゅんじゅんしているのか、ゾラは理解した。
 自分に瓜二つだったテセウスが、命懸けで愛し、そしておそらく触れることもできなかった女を、ただそっくりだと言うだけで、テセウスでもない彼が抱いていいのか。

 アルベラを、愛していないわけじゃない。でも、自らのすべてを捧げ尽くしたテセウスの想いには、絶対に敵わないと言い切れる。
 
 テセウスが、彼と同じ顔でなければ、ここまで迷わなかったかもしれない。滅多にない美眉かわいこちゃんを美味しくいただける絶好の機会くらいに、思っていただろう。

 ――所詮俺は、クズだからな。

 シルルッサの手前でアルベラと別れてから、アルベラの身に何が起きたのか。淫祀の犠牲にされてしまったかもしれない。そうでなくとも、イフリート家の血を引くアルベラの扱いは難しい。ここでアルベラの精脈を絶つのは、魔族に対しては厳しい処断を以って臨むとの、表明でもある。避けて通ることはできないのだ。

 ならせめて、顔だけでもテセウスに似た俺が、というのは言い訳に過ぎないけれど――。

 ゾラは大きな手でアルベラの額を撫で、眠る彼女に覆いかぶさるようにして、唇を塞いだ。少し開いていた唇をこじ開けるようにして、舌を差し込む。

「ん……」

 アルベラが、微かに身じろぎした。掌で髪を撫でながら、角度を変えてさらに深く口づけ、舌で口腔を貪る。

「んんん……」

 息苦しさにアルベラが首を振り、口づけから逃れようとし、薄眼を開けた。

「なに……あ……テセウス?」

 まだ完全に醒め切らず、ぼんやりとした口調で呼ばれた名に、失望する。――やっぱり、そっちかよ。

「……テセウスの方がいいなら、テセウスのフリしてやるけど、どうする?」
「え……ええっと……ゾラ?!」
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

異世界でも男装標準装備~性別迷子とか普通だけど~

結城 朱煉
ファンタジー
日常から男装している木原祐樹(25歳)は 気が付くと真っ白い空間にいた 自称神という男性によると 部下によるミスが原因だった 元の世界に戻れないので 異世界に行って生きる事を決めました! 異世界に行って、自由気ままに、生きていきます ~☆~☆~☆~☆~☆ 誤字脱字など、気を付けていますが、ありましたら教えて頂けると助かります! また、感想を頂けると大喜びします 気が向いたら書き込んでやって下さい ~☆~☆~☆~☆~☆ カクヨム・小説家になろうでも公開しています もしもシリーズ作りました<異世界でも男装標準装備~もしもシリーズ~> もし、よろしければ読んであげて下さい

隠された第四皇女

山田ランチ
ファンタジー
 ギルベアト帝国。  帝国では忌み嫌われる魔女達が集う娼館で働くウィノラは、魔女の中でも稀有な癒やしの力を持っていた。ある時、皇宮から内密に呼び出しがかかり、赴いた先に居たのは三度目の出産で今にも命尽きそうな第二側妃のリナだった。しかし癒やしの力を使って助けたリナからは何故か拒絶されてしまう。逃げるように皇宮を出る途中、ライナーという貴族男性に助けてもらう。それから3年後、とある命令を受けてウィノラは再び皇宮に赴く事になる。  皇帝の命令で魔女を捕らえる動きが活発になっていく中、エミル王国との戦争が勃発。そしてウィノラが娼館に隠された秘密が明らかとなっていく。 ヒュー娼館の人々 ウィノラ(娼館で育った第四皇女) アデリータ(女将、ウィノラの育ての親) マイノ(アデリータの弟で護衛長) ディアンヌ、ロラ(娼婦) デルマ、イリーゼ(高級娼婦) 皇宮の人々 ライナー・フックス(公爵家嫡男) バラード・クラウゼ(伯爵、ライナーの友人、デルマの恋人) ルシャード・ツーファール(ギルベアト皇帝) ガリオン・ツーファール(第一皇子、アイテル軍団の第一師団団長) リーヴィス・ツーファール(第三皇子、騎士団所属) オーティス・ツーファール(第四皇子、幻の皇女の弟) エデル・ツーファール(第五皇子、幻の皇女の弟) セリア・エミル(第二皇女、現エミル王国王妃) ローデリカ・ツーファール(第三皇女、ガリオンの妹、死亡) 幻の皇女(第四皇女、死産?) アナイス・ツーファール(第五皇女、ライナーの婚約者候補) ロタリオ(ライナーの従者) ウィリアム(伯爵家三男、アイテル軍団の第一師団副団長) レナード・ハーン(子爵令息) リナ(第二側妃、幻の皇女の母。魔女) ローザ(リナの侍女、魔女) ※フェッチ   力ある魔女の力が具現化したもの。その形は様々で魔女の性格や能力によって変化する。生き物のように視えていても力が形を成したもの。魔女が死亡、もしくは能力を失った時点で消滅する。  ある程度の力がある者達にしかフェッチは視えず、それ以外では気配や感覚でのみ感じる者もいる。

転生令嬢は現状を語る。

みなせ
ファンタジー
目が覚めたら悪役令嬢でした。 よくある話だけど、 私の話を聞いてほしい。

騎士団寮のシングルマザー

古森きり
恋愛
夫と離婚し、実家へ帰る駅への道。 突然突っ込んできた車に死を覚悟した歩美。 しかし、目を覚ますとそこは森の中。 異世界に聖女として召喚された幼い娘、真美の為に、歩美の奮闘が今、始まる! ……と、意気込んだものの全く家事が出来ない歩美の明日はどっちだ!? ※ノベルアップ+様(読み直し改稿ナッシング先行公開)にも掲載しましたが、カクヨムさん(は改稿・完結済みです)、小説家になろうさん、アルファポリスさんは改稿したものを掲載しています。 ※割と鬱展開多いのでご注意ください。作者はあんまり鬱展開だと思ってませんけども。

【書籍化進行中、完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化進行中です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ 目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/12/26……書籍化確定、公表 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...