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10、皇帝親征

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 シルルッサの大将軍府の執務室で書類を書き上げたゲルフィンは、長い指で片眼鏡モノクルを直し、ふう、とため息をつく。

 ナキア侵攻に向けての兵站の計画書はすでに出来上がり、後は実際の手配にかかる書類に、責任者の署名をもらえばよい。以前ならばカンダハルにいる征西大将軍廉郡王の署名捺印の代わりに、代行であるゲルフィンの署名で事足りた。だが現在、丘の上の領主館が行在所あんざいしょとなってご自身が滞在中である。一応は書類を見せておいた方が身のためだ。
 
 ゲルフィンは卓上の鈴を鳴らし、入ってきた従僕に馬車の用意を命じると、普段着の上着を脱いで刺繍の入った上等な官服に着替え、帯を締める。ゲスト家の天秤の紋章の入った佩玉を提げ、大股に歩いて部屋を出る。

 領主館の一角、もとはアデライード姫の療養のために借りた棟が行在所となっている。ゲルフィンはすでに衛兵には顔パスで、彼らが一礼する横を傲然と通り過ぎる。足音に気づいたらしいメイローズがどこからか現れ、金色の頭を下げる。

「これはゲルフィン卿。……万歳爺わんすいいえでございましたら、今はお庭に出ていらっしゃいます」
「急ぎの書類なのだが、お邪魔しても大丈夫そうか?」
「はい、誰も近づけるな、とはうかがっておりません」

 さすがに昼間から寝室にこもったりはしていないらしいが、旅から戻って以来、シウリンはアデライードにべったり貼りついて片時も離れない。記憶が戻り、即位してからは、さすがに仕事もこなしているようだ。

 ついて来ようとするメイローズに手を振って、一人で広い庭に向かう回廊を歩いていくと、少年らしい声が二人、高いアーチ状の天井に響いた。

「ジブリール、ほら、お座り!」
「ちゃんと座らないと餌は無しだよ!」

 目をやれば、枯草色の髪に白い布を巻いたシリルと、黒いゴワゴワの癖毛に帽子をかぶった色の浅黒い少年が二人、ジブリールに躾の真っ最中であった。

 黒髪の癖毛の少年はソリスティアのサーカス育ちで、獅子レオンの世話係として新たに雇ったのである。さらに週に何時間かは、サーカスの調教師にも来てもらうことになった。ただでも忙しい時に、獅子の調教師を探し出して契約したりも、すべてゲルフィンがやったのである。

 ――まったく、わけのわからんモノまで拾ってきて!

 ゲルフィンとしては文句を言いたくてたまらないのだが、すでに相手は皇帝になってしまった。さすがに遠慮があって、ストレスだけが溜まっていく。

 二人の少年を嬉しそうに見上げる子獅子は、真っ白な毛並みも手入れが行き届いている。今はたしかに可愛らしいが、これが成長したら……と思うと、ゲルフィンはぞっとした。――雄の獅子は長いたてがみを持ち、犬程度なら前足の一撃で倒してしまうという。

 ――百獣の王。

 皇帝の愛玩動物には相応しいかもしれないが、世話をする身にもなって欲しい。

 ゲルフィンは溜息を一つ着くと、そっとその場を後にした。





 庭は西方によくある四角い池に噴水が設えられ、水面には睡蓮が花開いていた。チロチロと涼し気な水音が響き、ときおり噴き上がる水しぶきに陽光が煌く。目当ての人は、噴水の畔の四阿あずまやにいるらしい。

 ゲルフィンが白い大理石の四阿に近づいていくと、鈴を転がすような笑い声が漏れてくる。

「……いやだわ、意地悪ばっかり仰る」
 
 ドクン、とゲルフィンの心臓の鼓動が脈打つ。
 当然、考えるべきであった。庭に彼が一人でいるはずないのだ。

「どうして、アデライード。私は意地悪か?」
「意地悪よ。記憶が戻ったら、ずっと意地悪ばっかり」

 たわいもない恋人同士の会話でも、アデライードの声からは普段と異なる媚びが零れる。嫉妬、というのとは、少し違う。もとより、アデライードとどうこうなろうなどと、考えてもいない。だが、何とも言い難い胸の痛みで、ゲルフィンはつい、眉を寄せる。

 ゲルフィンは、少しだけ息を吸うと、恋人同士の語らいに割り込むべく、彼らの背後の方からゆっくり近づいていく。だが――。
 
「じゃあ、可愛いアデライードには、もっと意地悪をしてしまおうか。たとえばこんな――」
「! だ、だめっ……こんなところで、何をっ……やっ……」

 何とも怪しい雲行きに、ゲルフィンの眉間に海溝よりも深い皺が刻まれる。ちょうど柱の陰になって二人の姿は見えないが、ピッタリと身体をくっつけあって、何をしているかは、ゲルフィンにだって経験がないわけじゃないから、もちろんわかる。

「ねえ、お願い、やめてっ……誰かに見られたら……」
「私たちがイチャついているのは、皆知っている。今さらだ」
「だめっ……あっ……んんっ……」

 よく考えれば、この二人は口づけ程度なら人目を憚ったりしない。つまりアデライードが抵抗しているのは、シウリンが口づけどころじゃない、暴挙に及んでいるからだ。アデライードが身にまとう一枚布の長衣は、随分と容易に、男の手の侵入を許すことだろう。ゲルフィンの頭にカッと血が上る。

「んっ……んふっ……やっ……はっ……ああっ……だめ、ねえ、やめっ……」

 何とも艶めかしい声が漏れ出して、アデライードの息遣いが荒くなる。

「あなたの『ダメ』と『いや』はいつも反対の意味だな?……もうこんなに濡らして……」
「や、だめ……なの……ああっ」
 
 アデライードの快楽に濡れた声が、ゲルフィンの血を一気に沸騰させる。脳まで血流が逆流し、熱が股間に集まり、はらわたが溶岩にでもなったかのようだ。

 頭ではわかっていても、実際に二人の睦みあう様子を間近で聞かされれば、絶望と怒りで目の奥が赤く染まりそうだ。何しろゲルフィンはすでに四阿のすぐ裏側、耳を澄ませば淫らな水音まで聞こえそうな距離にいるのだ。シウリンはおっとりしたふりをして、背後にも目があるのではと疑われるほどにさとい。彼がゲルフィンの気配を察知していないはずがないのに、敢えてアデライードに悪戯を仕掛けるのはなぜか。

(わざと、聞かせるつもりか――)

 必死に声を抑え、身を捩って逃れようとしても、男の巧みな指は容赦なくアデライードを追い詰めていく。もう少し遠い場所であったら、ゲルフィンはそっと踵を返して去ることもできたが、今、体重を移動させれば、アデライードにも自身の存在を知られる可能性がある。

 いやそれよりも――ゲルフィンはその場を動くことができなかった。
 おそらく生涯、耳にすることはなかったはずのアデライードの甘い声が、ゲルフィンの脳を確実に犯して、その機能を停止させていたからだ。
 
「はっ……やっ……んっ……ああっ……やあっはあっ……あっ……あぁあん……ああっ」
「可愛いな、アデライード。もう、ぐちゃぐちゃじゃないか、そろそろイきそうだ。私の指を食いちぎるつもりか?」
「はああっ……やっ……あ、ああああーーーーーっ!」

 絹を引き裂くような悲鳴をあげて、アデライードが達したらしい。ゲルフィンの股間ももう痛いほど昂って、同時に破裂しそうだったが、奥歯を噛みしめて懸命に耐える。

 はあ、はあ、……とアデライードが荒い呼吸の合間に、ぐったりとした声で夫を詰る。

「はあ……ひど、ひどい……こんな……だめって、言ったのに……」
「だってあなたの『ダメ』はいつも『もっと』、って意味じゃないか」
「でも、こんな場所で……誰かに、聞かれたら……」
「大丈夫だよ、アデライード……私がそんな間抜けなことをするはずがないだろう」

(そう、つまり、やっぱり、か――)

 ゲルフィンがぐっと気配を押し殺し、その場で息を飲んでいると、シウリンがアデライードに言う。

「このまま私があなたを寝室に連れて行くと、きっと襲ってしまうから、今はメイローズに連れて戻ってもらえ。すぐに、呼ぶから――」

 四阿には魔導仕掛けの呼び鈴がついているから、シウリンがそれを押すと、程なくしてメイローズが現れた。

「アデライ―ドは少し疲れてしまった。お前、先に連れて戻ってくれ」
「わが主はいかがなさいますか」
「私が一緒に戻ると、襲ってしまいそうだから、先にアデライードだけ帰すのだ」

 メイローズは心得て、「では失礼いたします」と言って、アデライードの華奢な身体を抱き上げる。四阿の背後、木立ちの陰から見ていたゲルフィンは、アデライードの白金の髪が、するりとうねって流れ落ちるのを目に焼き付ける。恥ずかしくて俯いているから、麗しい横顔は髪に隠れて見えない。一度だけ、船上で倒れたアデライードを抱き上げた時のことを思い出し、何か鋭いもので抉られたように、ゲルフィンの胸はつきりと痛んだ。

 母屋の方に戻っていくメイローズの背中を見送っていたシウリンが、そのまま振り返りもせずにゲルフィンに話しかける。

「で、何の用だ? カイトだけでなく、お前にもデバガメの趣味があったとはな」
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