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9、記憶の森

新たな問題

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 その夜に、シウリンは帝都の兄・賢親王と魔法陣を繋ぎ、およそ四か月ぶりに対面を果たす。メイローズとジュルチ僧正が同席し、護衛のゾラは部屋の入口に控える。

「長いことご心配をおかけしましたが、無事に、戻りました」

 シウリンの言葉に、魔法陣の向こうで兄が身を乗り出し、彼の様子を検分するように見た。

「特に、身体に問題はないようだな。――コーリン……順親王は、かなり〈王気〉を損なって、本復は無理だという話だった。フリン(襄親王)は精神にダメージを受けて……。そなたのことも心配していたのだ」
「身体についてはアデライードの治療が適切だったようです。咄嗟に記憶を封じてまず肉体を癒してくれたので、あとは自己治癒で元に戻すことができたのでしょう。――記憶を、元に戻すのが大変だったようですが。幸い、今のところ精神面にも問題は出ていません」

 その報告に賢親王も安心したように頷く。

「そなたの心身に問題がなくて幸いであった。すぐに帝都に戻れ。冬至前には即位式を上げる」
「即位式? 別に私など不在でも構わないでしょう。どうしてまだ即位しておられないのです?」
「そなたの即位式に、本人がいなくてなんとする」
 
 全く話がかみ合っていなくて、二人でしばし、無言で見つめ合う。

「……グイン(廉郡王)から話を聞いておらぬのか?」
「記憶を取り戻したのがこの午後ですよ? グインにも会っていません。記憶が戻ってすぐに、兄上に連絡をしたのですから」
 
 賢親王は大きく息をつくと、改めて言った。

「即位するのは、そなただ。もともと、廃太子の次の継承順位はそなただったのだから。先帝陛下の聖勅もある。わかったらすぐに戻ってこい」
 
 シウリンは黒曜石の瞳を大きく見開き、あり得ないと叫ぶ。

「嫌ですよ! なぜ、私が皇帝にならなきゃならないんです? だいたい、そんなことになったら、アデライードはどうするんですか!」
「そうそう、懐妊ということではないか。もし女児であれば、女王国の継承問題も解決するわけだし、ちょうどいい頃合いであろう」
「……それは、離縁しろと言うことですか?」
 
 シウリンの声が低くなるが、賢親王は意に介さなかった。

「まあ、そこまでは言っておらぬ。だが、帝都で即位して、ブライエ家かマナシル家の娘を娶り、儲弐あとつぎを儲ければ――」
「無理!……はっきり言います。私はもう、アデライード以外の女は抱けません。物理的にちませんから!」
「やってみないとわからぬではないか」
「やってみて勃たなかったら大恥をかくから嫌です!」

 いきなり勃発した兄弟喧嘩を前に、背後に控えるメイローズもジュルチも、そしてゾラもただおろおろするしかない。
 シウリンははあ、とため息を一つついてから、兄を説得にかかる。

「私は〈聖婚〉の皇子でソリスティア総督なんです。もう、帝位のレースからとっくに降りたのです。イフリート公爵との戦争に専念させてください!」
「事情が変わったのだ。親王位を持つもので、まともな身体を持つのは、余とそなたしかおらぬ」
「じゃあ、兄上が即位されればよい」
「即位しても跡継ぎがおらぬ」
「え?……兄上には息子ばかり五人も――」
 
 言いさしたシウリンに、ああ、と賢親王が頷く。

「そなたは捕らえられていたから、知らなかったのだな。余の子供たちは全員、廃太子によって処刑されておる」
「――!!!」
「五十を過ぎた余に、改めて妻を娶り、継嗣を儲けよと申すのか?」
「それは――」

 賢親王は年齢よりも若く美貌も健在で、今でも四十を越えたようには見えないが、家族を失ったばかりの人間に言えることではない。

「ならばそなたが即位するよりほか、あるまい。子がおらぬのは同じことだが、そなたはまだ若いから、これから何人でも生まれる。故に、すぐに戻って――」
「勝手なことを言わないでください!アデライードの側を離れることはできない。……それに、冬至までに女王の結界を張りなおさなければならないし、無理です」
「ユエリン……いや、シウリンと呼ぶべきか。そのこともあって、冬至までには皇帝の空位状態を解消する必要があるのだ。それにだな――」

 ここで、賢親王は少しだけ身を乗り出し、恭親王を覗き込むようにした。

「こたびの〈聖婚〉は〈聖剣の大婚〉であった。大婚の皇子はいずれも、後に皇帝として即位しておるのだ。その定めは代えられぬ」
「そんな話、聞いたこともない!」
「当然だな、余が思いついたことである故」

 新発見に得意気な賢親王に、シウリンが絶句する。

「ちょ、……何ですかそれは! だいたい、〈聖剣の大婚〉って私以前には龍皇帝の時と内乱を鎮圧した聖帝の時と、今まで二回しかないじゃないですか!」
「左様。その二回とも、後に即位しておる。二度あることは三度ある。そなたもいい加減、腹を決めよ」
 
 宣言されて、シウリンは頭を抱えたくなる。

「絶対に嫌です! アデライードと離れ離れになるくらいなら、死ぬ!」
「そなたの死ぬ死ぬ詐欺にはもう、うんざりだ。諦めて即位せよ」

 賢親王はさらに詰め寄る。

 そなたがどうしても即位せぬと言い張るならば、余にも考えがあるぞ? 余が皇帝に即位した暁には、皇帝の勅命によってアデライード姫と離縁させる! それが嫌ならそなたが帝位につけ!」
「私を脅迫するのですか、卑怯すぎる! どのみち、皇帝に即位したらアデライードとは一緒にいられないではありませんか! それでも強制するというのなら、駆け落ちしますよ!」

 ここまできて、ようやくメイローズが口を挟む。

「畏れながら……わが主、恭親王殿下は〈聖婚〉の皇子。基本的に、〈聖婚〉に離縁は認められておりません」
「さらに恭親王殿下はアデライード姫のご夫君として、イフリート公爵を排除し、女王国の政を立て直す大きな職責を負っておられる。今、殿下がこの地を離れ、アデライード姫と離縁するなど、〈禁苑〉は認めることはできません」
 
 ジュルチも助け舟を出し、シウリンは味方の存在にほっとしする。だが、賢親王は諦めない。
 
「わかっておる。だが聖帝の例もあるように、〈聖婚〉の皇子であることは即位の妨げにはならぬ。アデライード姫に継嗣の王女が必要であることも、理解しておる。西の女王国に次代の王女が誕生するまでは、アデライード姫とともにナキアに住まえばよい。……イフリート公との問題も、解決には数年は要するであろうから。その間は、余がこれまで通り、摂政として万機を統べるつもりでおる。だが、一度は帝都に戻り、即位の上、こちらでも後宮にしかるべき妃嬪たちを……」
「あり得ない!」

 シウリンが激昂する。
  
「〈聖婚〉の皇子王女は生涯添い遂げるのが普通です! 聖帝だって、即位後、他の妃嬪を一切置かなかった。アデライードと別れるのは嫌だ!」
「アデライード姫が男児を生めば、それを後継に定めてもよい。他の妃嬪に関しても、いましばらく保留にしよう。とにかくそなた以外にもう、即位すべき人材がおらぬのだ」
「二十人以上皇子がいたはずなのに、どうしてそんなことに!」
 
 賢親王もまた、溜息をついた。

「三妃以上の母を持つ、継承権のある親王は五人しかいなかった。無傷の郡王は幾人かいるが、そこまで継承の候補を広げると、収拾がつかないおそれがある。穆郡王では〈王気〉の強さが不足しており、〈王気〉の強い廉郡王は廃太子の子だ。さすがにあやつに位を継承させることは、世論が納得せぬであろう」

 賢親王はまだ納得いかないという表情の異母弟に、最後通告のように宣告した。

「即位せよ。帝都が無理ならば、聖地の太陽神殿でもよい。差し当たって、引き続き余が摂政として帝都を預かる。アデライード姫と無理に離縁させることはしない。――余ができる譲歩はそこまでだ」

 シウリンは思わず天井を仰いだ。
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