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9、記憶の森

渾沌の死

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「でも、楽にはならなかった――」

 ああ、とシウリンは頷いて、黒い髪を掻きあげてそのまま両手で頭を抱え込む。彼の膝から、丸くなった絵がころりと転がり落ちた。

「こんな話を知っているか?昔――はるか昔に渾沌こんとんという名の神がいた。目も鼻もない、自然のままの無垢な存在だった。ある時、遊びにきた二人の神が、彼を人間らしくしてやろうと、人にあるという七つのあなを穿った。一日に一つずつ穿っていって、七日目に――渾沌は死んだ」

 アデライードは翡翠色の瞳を一瞬、辛そうに歪めて、だが、そのまま沈黙を守って聞いていた。

「ちょうど、シウリンは渾沌のようだった。自然で無垢で、物も知らず、穢れも知らなかった。それが帝都でどんどんあなを穿たれて――七つ目の竅が開いた時には、それはもう、シウリンじゃなかった。シウリンは死んだんだ」

「シウリンは死んだ」――その言葉の持つ意味を、アデライードは考える。聖地の、見習い僧侶のシウリンは、帝都のような濁った水の中では生きてはいけない。泥の中をのたうち回り、傷だらけになって、腐臭と血に塗れて――。

「死にたいと思ったことも、一度や二度じゃない。でも、あなたに指輪を返さなければならないと、それだけを思って耐えた。あの指輪がなかったら、たぶん、死んでいたと思う」

 アデライードは唇を噛んで、自身の膝に頭を乗せるようにして、両腕で頭を抱えているシウリンを見つめる。

「ずっと、あの指輪を握りしめて、あなたに許しを請いながら生きてきた。――あなたを、裏切り続けていたから」

 アデライードは、あの指輪はわが主の〈杖〉だと評したメイローズの言葉を思い出す。

「結婚もしたくなくて、何度も周囲に嫌だと言ったけれど、聞いてはもらえなかった。あなた以外とは結婚しない、という誓いだけはせめて守りたくて、宛てがわれた正室には指一本触れなかったけれど、そんなのがただのおためごかしだってのは、わかっていた」
「シウリン――」

 さきほどの、彼の夢の中の女の言葉が蘇る。

〈とっくの昔に彼女を裏切っていたのに――〉

「私に無視され続けた正室は追い詰められて、身ごもった側室を折檻して殺してしまった。すべて、私の弱さが招いて――」
 
 黒髪を両手で掻き毟るようにして、シウリンはなおも懺悔を続ける。

「本当は、いっそ指輪なんて捨ててしまえば楽になれるのかもしれないと、いつも迷っていた。シウリンだった過去に繋がるのはあの指輪だけで、私がシウリンだと証明するものは、他には何もなかった。指輪も捨てて、あなたのことも忘れ去って、シウリンなんて男は最初からこの世にいなかったのだと思い切ってしまおうと、そんな誘惑にかられたことも、一度や二度じゃない。どうせ、あなたには二度と逢えないのだから――」
 
 アデライードが両手でシウリンの黒い頭を抱きかかえるようにして、その髪を撫でた。  
 
「でも、捨てないで護っていてくださった。二度と逢えないかもしれない、わたしのために」
「どうしても、捨てられなかった。――私はずっとあなたを忘れられなかったけれど、でも、幼かったあなたが私を憶えているとは思えなかった。五年たち、十年たって、あなたはもう、とっくに他の誰かのものになっているかもしれない。たくさん、たくさんあなたを裏切った私は、あの指輪を持つべきじゃないってわかっていたけれど、でも、私にはあの指輪しかなかった。あれを失えば全てが消える。シウリンの生きた証も、あなたとの約束も、何もかも――」

 いつしか、アデライードはシウリンの頭を膝の上で抱くようにして、その後頭部に口づけながら髪を撫で続ける。アデライードの膝が、彼の涙で濡れていく。

「〈聖婚〉を受け入れた時に、今度こそはもう、すべてを捨てるつもりだった。メイローズを通して太陰宮に問い合わせ、指輪の持ち主を探そうと思っていた。それだけ済んだら、あとは――」

 後は、どうしようと思っていたのだろうか。名を奪われた偽りの人生を、全うするつもりだったのだろうか。

「だから――アデライード姫がメルーシナかもしれないと気づいた時、私はどうしたらいいかわからなくなった。嬉しいと思うよりも、むしろ恐ろしい気さえして――」

 諦めていた初恋が、奇跡のように叶うかも知れないと知った時、彼は畏れた。
 一つは、期待が外れて彼女メルーシナでなかった場合を。もう一つは、あまりに変わってしまった自分の、醜い姿を知られることを――。

「あの日、十年ぶりに見たあなたは、幼い日と変わらずに清いままで――私は、変わり果てた自分がシウリンだと名乗ることなんてできなかった。私のような男が、あなたを手に入れるなんて、許されないのではないかと、それが怖かった」

 いっそ、シウリンのことなど忘れていてくれればと願ったのに、アデライードは憶えていた。それどころじゃない。アデライードが声を棄てたのは、シウリンのためだったと知って、彼はさらなる罪悪感に打ちのめされる。
 
「違います。わたしは、シウリンのことを思う時だけ、自由でいられた。閉じ込められた修道院の中で、両親からも世界からも切り離されて、シウリンのこと思う時だけ、幸せでいられた。シウリンがいなかったら、わたしだってとっくの昔に死んでいたかもしれない。だから――」
 
 アデライードの声がシウリンの耳元で響く。だが、シウリンは首を振る。

「でも私は、嘘をついた。あなたに真実を告げなかった。あなたがずっと、シウリンだけを想い、十年の献身を捧げたのを知りながら、シウリンは死んだと言い続けた。あなたが、気を失うほど衝撃を受けたのを見ても、その嘘を撤回しなかった」

 自分がシウリンの成れの果てだなどと、絶対に知られたくなかった。シウリン以外に嫁いだことを、アデライードが苦しんでいるのを知っていたのに。叶わぬはずの初恋を彼一人成就させて、アデライードの初恋は潰えたままにさせていた。

 泉神殿の廃墟の泉の中で、彼がシウリンであるとようやく腑に落ちて、堰を切ったように泣きだしたアデライードを見た時に、はアデライードがどれほど、彼の死を悲しんでいたのか知ったのだ。常に疑いは抱いていただろう。何度も、問いかけられたから。そのたびごとに無情に違うと言い続けた彼の罪は重い。

「シウリン――もう、いいの。以前も言ったわ。生きていてくれただけで、それで十分――」
「アデライード……私は、簡単に赦されたらダメなんだ」

 シウリンがアデライードの膝から顔を上げる。彼の頬が涙で濡れていた。その涙に、アデライードが口づける。

「シウリン。前に、誓ったことを憶えている?たとえどんな場所でも、あなたの行くところに、わたしは行くって。あなたが罪の重さで〈混沌の闇〉に堕ちるのなら、わたしもその場所に行くと――」
「アデライード……」
「あなたが、赦してはいけない罪を犯したのなら、わたしは、その罪を赦す罪を犯すわ。あなたが七つのあなを穿たれて、血に塗れて生きるなら、わたしは血塗れのあなたを抱きしめて生きるわ。あなたがどれほどひどい人でも、あなたがどれほど醜くても、わたしはあなたを愛しているから――」
 
 アデライードは細い指でシウリンの黒髪をくしけずりながら、じっとその顔を見つめる。
 
「シウリン……キスして」
「アデライード……」

 シウリンは彼女の唇に唇を近づけて、ふと思いついて途中で止めて、彼女の額に口づけた。その意味を知るアデライードは額から流れ込む〈王気〉を感じ取りながら、そっと目を閉じる。男の唇が額から離れ、次いで彼女の唇を塞ぐ。彼の大きな手がアデライードのうなじを支えるようにして、身動きもままならない状態で、唇を貪られる。熱い舌が彼女の唇を割り、口腔をまさぐる。アデライードも両手で彼の頭を抱き込むようにして口づけに応え、舌を絡める。互いの〈王気〉が交じりあい、全身をめぐる。口づけだけで、身体が蕩けるほど、甘い――。
 長い口づけの後で、ようやく二人が離れると、銀色の唾液が二人の間に繋がって、アデライードが羞恥でつい、顔を背ける。

 シウリンはアデライードを大きな胸の中に抱き込んで、ぎゅっと抱きしめた。

「本当に、すまなかった……。自分でも、いつも最低だと思っていた。でも、あなたと再会する以前の私は、もっと最低な男だったから、言えなかった」
「……シウリンであろうがなかろうが、最低なのは変わらないのに、変な人」
「……あなたの中のシウリンの像を壊したくなかったんだよ。身勝手な話だけれど。あなたが、ずっとシウリンのことを愛し続けてくれるのも、嬉しかった。なんて言うか、二倍愛されているみたいで」
「ずるい人――」
「そう言われると、返す言葉もない」

 項垂れた大きな犬のような恭親王に抱きしめられた状態で、アデライードは目を閉じる。

 ――ようやく、叛乱の前の状態に戻った。

 だが次の瞬間、彼女はそうではないと気づいて、目を開けた。

 この世界は今、大きな不在がある。――それを、いったい誰が埋めるのか。
 アデライードは夫の大きな背中に縋りついた。

 ずっと、こうしていたいのに。――この人を、愛しているのに。
 逢えない日々の不安は、再び逢えなくなる日々への不安に変わるだけ――。
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