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9、記憶の森
シウリンの絶望
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僧侶たち二人は凍てついた氷の湖の上に座っていた。遠くには針葉樹の森と、荒地。鉛色の空から、白い粉雪がチラチラと落ちてくる。
〈――寒い〉
シウリンの、心が冷えているのだ。
帝都に連れ去られて三年――成人したシウリンは、帝国の北の辺境で異民族に囚われ、大河ベルンの北岸へと拉致される。異母兄と甥と、その配下たちの命を守る責任が、シウリンの肩に圧し掛かる。
部下の命を救うために、異民族の首長に自らの身体を差し出す。マニはもちろん、ジュルチですら、その記憶を正視することはできなかった。繰り返される凌辱に軋む心と身体。マニはもう両手で頭を抱え、ひたすら『聖典』を唱えている。ジュルチとて結跏趺坐の姿勢を崩さないだけで、限界ギリギリだった。
十五歳の少年が味わった地獄。さらに忌まわしい記憶にジュルチが奥歯を噛みしめる。目の前で凌辱されていく友人たちの姿に、シウリンの記憶が暗転し、音が、くぐもる。――目を閉じ、耳を塞いだのだ。
シウリンの心象世界が大きく歪む。ひび割れが走り、足元が危うくなる。心が、壊れようとしている。
次にジュルチが目にしたものは、凍った湖の上で自ら命を絶った皇子と、その侍従らしき若い男の遺体。ジュルチも見知った恭親王配下の男たちが、二人の遺体を検分し、黒い布に包んで遺体を運んでいく。湖の氷を割り、遺体を水に沈める。鉛色の空を、黒い鷹が旋回する。
心は軋んで悲鳴をあげているのに、シウリンはけして弱音を吐かなかった。まだ細い、少年の肩に部下の命が圧し掛かっても、氷の大地に両足を踏ん張って立っていた。
時々、彼の心象に白金色の髪の、まだ幼い少女の姿が現れては消える。
聖地の森で交わした約束を思い出し、神器の指輪を握りしめて耐え続ける。
ジュルチはふと、あれはわが主の〈杖〉であった、と言ったメイローズの言葉を思い出した。
やがて、シウリンらは異民族の野営地に火を放ち、女子供を殺戮して脱出する。シウリン自ら、向かってくる女を斬り捨て、その背中の赤子に剣を突き立てる。――シウリンは生き延びた。自らの手を血に塗れさせ、良心を少しずつ削り落としながら。
帝都に戻ったシウリンを待っていたのは、さらなる孤独と絶望の日々だった。
ともに北辺に囚われていた異母兄と引き離され、母の皇后との溝は深まるばかり。結婚はしたくない、と言う彼の言葉は無視されて、勝手にレールが敷かれていく。
坂道を転がり落ちるように、一夜限りの女たちとの出会いを求め、その肌に溺れる。鬱屈した心が暴走し、刹那的な快楽に身を投ずる。――それが、最愛の少女に対するひどい裏切りだと知りながら、もう二度と逢えない彼女を振り切るように、醜行を重ねる。心の底で、幾度も彼女に詫びながら。
マニもジュルチも、シウリンがアデライードに真実の名を告げなかった理由に、薄々気づいた。
シウリンの絶望はあまりに深く、メルーシナとの再会の希望を抱くことに、もはや耐えられなかったのだ。わずかに残った希望の残滓が、結婚によって潰えていく。
〈シウリン〉としての彼の自我は、あの指輪を通した〈メルーシナ〉との結婚の誓いと深く結びついている。望まない結婚が、彼の最後のよりどころを奪った。シウリンの声を、誰も聞こうとしない。所詮、自分はユエリンの身代わりでしかないのだ。その絶望に彼の心が黒く染まっていく。
いっそ、白い部分が残らぬくらい、自分を黒く塗りつぶしてしまえ――。
自我を押し込められて彷徨する彼の心が、さらなる深みに堕ちていく。自ら泥沼に踏み込むように、悪行を重ね、深い深い淵へと転がり落ちる。
〈これは――アデライードにはとても語れまい〉
〈若気の至り、というレベルでは済まないな〉
醜悪な記憶にマニは吐き気を堪え、ジュルチも『聖典』に祈りを捧げて平静を保とうとする。
ボロボロの心を抱えたまま、シウリンは彼が踏みにじった女と和解する。紫陽花の咲く庭で、女と約束する。――二度と、弱い者を虐げない。
その約束を胸に、しかし今度は南方で起きた異民族叛乱の討伐を命じられる。現地で疫病が発生し、城ごと焼く決断を迫られる。
小高い丘から燃え続ける二つの城を見下ろして、シウリンの心はすでに空虚な抜け殻のようだった。ずっと奪われ、傷つけられてきたシウリンが、気づけば奪い、傷つける側に立っていた。
どれほど力をつけても、どれほどの努力を重ねても、シウリンは自由にはなれない。〈狂王〉の二つ名を戴き、その手を血で汚して命を奪い続けるしかない。
シウリンは懐に入れた神器の小箱を握り締める。
ああ、そうか。――マニもジュルチも気づく。
シウリンは、この時諦めたのだ。
たとえ今生は結ばれずとも、来世か、その次か、遥かなる時の向こうでも、メルーシナと結ばれる未来を待つことを。彼は、プルミンテルンの峰に昇ることを諦めたのだ。
那由多の時を超え、この宇宙が生命を終える日が来た、その次の世であっても、もう、自分とメルーシナが結ばれる日は来ないのだと――。
その絶望の深さに、マニもジュルチも言葉を失う。
まだ、二十歳の若さで、彼はその後の人生を、永劫の絶望の中で生きるつもりだったのだ。
叛乱を平定し、帝都に凱旋したシウリンを待っていたのは、側室の死の報せ。――彼に見向きもされず、心を壊した正室の折檻により、側室は腹の子もろとも命を奪われていた。正室に死を与え、彼は誓う。
――もう二度と結婚はしない、側室も置かない。だが、新たに命じられた〈聖婚〉。慌ただしくソリスティアに入ったシウリンが目にした、聖地へと続く青い海。――遠くに微かに見える、雪を頂くプルミンテルン。十年を経て目にする、霊峰の貴い姿。
彼は、聖地に戻ってきたのだ――。
そして運命の日。太陰宮・月神殿の祭壇の前で待つ彼のもとに、白い長衣を纏ったアデライードが近づいてくる。背中を覆う白金色の髪が、高い窓から降りぐ光を反射して、キラキラと光る。忘れるはずもない、翡翠色の瞳。
シウリンの、止まっていた時が動き始める。色褪せていた世界が鮮やかな色彩を取り戻す。
凍っていた心が再び躍りはじめる。潰えたはずの恋が命を吹き返し、地上は花で覆われ始める――。
〈――寒い〉
シウリンの、心が冷えているのだ。
帝都に連れ去られて三年――成人したシウリンは、帝国の北の辺境で異民族に囚われ、大河ベルンの北岸へと拉致される。異母兄と甥と、その配下たちの命を守る責任が、シウリンの肩に圧し掛かる。
部下の命を救うために、異民族の首長に自らの身体を差し出す。マニはもちろん、ジュルチですら、その記憶を正視することはできなかった。繰り返される凌辱に軋む心と身体。マニはもう両手で頭を抱え、ひたすら『聖典』を唱えている。ジュルチとて結跏趺坐の姿勢を崩さないだけで、限界ギリギリだった。
十五歳の少年が味わった地獄。さらに忌まわしい記憶にジュルチが奥歯を噛みしめる。目の前で凌辱されていく友人たちの姿に、シウリンの記憶が暗転し、音が、くぐもる。――目を閉じ、耳を塞いだのだ。
シウリンの心象世界が大きく歪む。ひび割れが走り、足元が危うくなる。心が、壊れようとしている。
次にジュルチが目にしたものは、凍った湖の上で自ら命を絶った皇子と、その侍従らしき若い男の遺体。ジュルチも見知った恭親王配下の男たちが、二人の遺体を検分し、黒い布に包んで遺体を運んでいく。湖の氷を割り、遺体を水に沈める。鉛色の空を、黒い鷹が旋回する。
心は軋んで悲鳴をあげているのに、シウリンはけして弱音を吐かなかった。まだ細い、少年の肩に部下の命が圧し掛かっても、氷の大地に両足を踏ん張って立っていた。
時々、彼の心象に白金色の髪の、まだ幼い少女の姿が現れては消える。
聖地の森で交わした約束を思い出し、神器の指輪を握りしめて耐え続ける。
ジュルチはふと、あれはわが主の〈杖〉であった、と言ったメイローズの言葉を思い出した。
やがて、シウリンらは異民族の野営地に火を放ち、女子供を殺戮して脱出する。シウリン自ら、向かってくる女を斬り捨て、その背中の赤子に剣を突き立てる。――シウリンは生き延びた。自らの手を血に塗れさせ、良心を少しずつ削り落としながら。
帝都に戻ったシウリンを待っていたのは、さらなる孤独と絶望の日々だった。
ともに北辺に囚われていた異母兄と引き離され、母の皇后との溝は深まるばかり。結婚はしたくない、と言う彼の言葉は無視されて、勝手にレールが敷かれていく。
坂道を転がり落ちるように、一夜限りの女たちとの出会いを求め、その肌に溺れる。鬱屈した心が暴走し、刹那的な快楽に身を投ずる。――それが、最愛の少女に対するひどい裏切りだと知りながら、もう二度と逢えない彼女を振り切るように、醜行を重ねる。心の底で、幾度も彼女に詫びながら。
マニもジュルチも、シウリンがアデライードに真実の名を告げなかった理由に、薄々気づいた。
シウリンの絶望はあまりに深く、メルーシナとの再会の希望を抱くことに、もはや耐えられなかったのだ。わずかに残った希望の残滓が、結婚によって潰えていく。
〈シウリン〉としての彼の自我は、あの指輪を通した〈メルーシナ〉との結婚の誓いと深く結びついている。望まない結婚が、彼の最後のよりどころを奪った。シウリンの声を、誰も聞こうとしない。所詮、自分はユエリンの身代わりでしかないのだ。その絶望に彼の心が黒く染まっていく。
いっそ、白い部分が残らぬくらい、自分を黒く塗りつぶしてしまえ――。
自我を押し込められて彷徨する彼の心が、さらなる深みに堕ちていく。自ら泥沼に踏み込むように、悪行を重ね、深い深い淵へと転がり落ちる。
〈これは――アデライードにはとても語れまい〉
〈若気の至り、というレベルでは済まないな〉
醜悪な記憶にマニは吐き気を堪え、ジュルチも『聖典』に祈りを捧げて平静を保とうとする。
ボロボロの心を抱えたまま、シウリンは彼が踏みにじった女と和解する。紫陽花の咲く庭で、女と約束する。――二度と、弱い者を虐げない。
その約束を胸に、しかし今度は南方で起きた異民族叛乱の討伐を命じられる。現地で疫病が発生し、城ごと焼く決断を迫られる。
小高い丘から燃え続ける二つの城を見下ろして、シウリンの心はすでに空虚な抜け殻のようだった。ずっと奪われ、傷つけられてきたシウリンが、気づけば奪い、傷つける側に立っていた。
どれほど力をつけても、どれほどの努力を重ねても、シウリンは自由にはなれない。〈狂王〉の二つ名を戴き、その手を血で汚して命を奪い続けるしかない。
シウリンは懐に入れた神器の小箱を握り締める。
ああ、そうか。――マニもジュルチも気づく。
シウリンは、この時諦めたのだ。
たとえ今生は結ばれずとも、来世か、その次か、遥かなる時の向こうでも、メルーシナと結ばれる未来を待つことを。彼は、プルミンテルンの峰に昇ることを諦めたのだ。
那由多の時を超え、この宇宙が生命を終える日が来た、その次の世であっても、もう、自分とメルーシナが結ばれる日は来ないのだと――。
その絶望の深さに、マニもジュルチも言葉を失う。
まだ、二十歳の若さで、彼はその後の人生を、永劫の絶望の中で生きるつもりだったのだ。
叛乱を平定し、帝都に凱旋したシウリンを待っていたのは、側室の死の報せ。――彼に見向きもされず、心を壊した正室の折檻により、側室は腹の子もろとも命を奪われていた。正室に死を与え、彼は誓う。
――もう二度と結婚はしない、側室も置かない。だが、新たに命じられた〈聖婚〉。慌ただしくソリスティアに入ったシウリンが目にした、聖地へと続く青い海。――遠くに微かに見える、雪を頂くプルミンテルン。十年を経て目にする、霊峰の貴い姿。
彼は、聖地に戻ってきたのだ――。
そして運命の日。太陰宮・月神殿の祭壇の前で待つ彼のもとに、白い長衣を纏ったアデライードが近づいてくる。背中を覆う白金色の髪が、高い窓から降りぐ光を反射して、キラキラと光る。忘れるはずもない、翡翠色の瞳。
シウリンの、止まっていた時が動き始める。色褪せていた世界が鮮やかな色彩を取り戻す。
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