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9、記憶の森

記憶の封印の解放

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 シルルッサにジュルチ僧正が到着し、シウリンの記憶の封印を解く準備は整った。
 
 紗幕に覆われた豪華な天蓋つき寝台の上で、シウリンは少しばかり不安そうに周囲を見回す。寝台の足元にジュルチとマニが結跏趺坐し、紗幕を隔ててアデライードとメイローズが控える。ジブリールとエールライヒは部屋から遠ざけ、許しの無い者も、部屋に入ることを禁じた。

 マニ僧都が、シウリンとアデライードに向け、重々しく言う。

「記憶の封印の解呪は私とジュルチで行う。これはとても危険な術で、我々、修行を積んだ術者でも難しい。記憶に引きずられて心の平静を失う恐れがあるから。――アデライードは妊娠中で、魔力の使用は極力控えるべきだが、今回は仕方がない。万一の時は近距離の夢問いで介入してくれ。――主に、殿下の精神が不安だ」

 アタナシオスの術により、心が折れていたというシウリン。記憶を元に戻せば、その時の折れた心の状態に戻ってしまう可能性が高い。また、封じられているシウリンの十年間の記憶も、彼の心に動揺を与えるかもしれない。――熟練の術者であるマニとジュルチでさえ、シウリンの記憶に引きずられかねない。
 
「アタナシオスの術は自我に影響を及ぼす。龍種にとって、〈王気〉は心と結びついている。むしろ本体と言ってもいい。それを奪う術なのだから」

 ジュルチの言葉に、その場の全員が緊張して生唾を飲み込む。シウリンはだが、アデライードに微笑みかけると言った。

「大丈夫だよ。僕は、必ず戻ってくるから――待っていて」
「シウリン――」

 シウリンが寝台に横たわり目を閉じると、ジュルチがすぐさま術をかけ、シウリンは眠りに落ちた。続いて、二人の僧侶も結跏趺坐けっかふざの姿勢のまま、幽体離脱して心をシウリンの精神の中に飛ばした。





 二人の僧侶が降り立ったのは、粉雪のチラつく夕暮れの森――。
 彼らには、見覚えのある風景だった。
 
〈ここは――〉
〈聖地の、我らが僧院の近くの森のようだ〉

 十二歳のシウリンが聖地を出たのは十二月の頭。初雪の降った日だった。
 二人の僧侶が森の小道を辿ると、常緑樹の根本に十二歳のシウリンが座っていた。隣には、白金色の髪をした幼い少女。互いに寄り添って、何か話をしている。雪はむしろ光の粉のようで、周囲はポカポカと暖かい。シウリンの心象が影響しているのだろう。

〈あれが――アデライード姫か……〉
〈本当に出会っていたのだな。天と陰陽の、意志か……〉

 〈王気〉の視える二人には、金と銀の〈王気〉が絡まり戯れあい、光の粒を飛び散らすのが、はっきりとわかる。本来なら出逢うはずのない二人が出逢い、恋に落ちる。金と銀の、つがいの龍。どれほど幼くとも、二人の運命はその瞬間に決まったのだ。

 戯れあう二匹の光の龍に、つい、目を奪われて見つめてしまうけれど、先にジュルチが我に返り、友人を促す。

〈先を急ごう。十年分の記憶を、これから見ることになる。時間が足りない〉

 マニも頷いて、先に進むことにした。

〈まず、封印された記憶を見つけなければならないが――〉
〈シウリンに拠れば、僧院まで帰ってきて神器の指輪を返し忘れたことに気づいたところで、記憶は切れていると――〉

 すでに夜になり、薄っすら明かりの灯る僧院の門が見えた。

〈あった――! あの梱包された塊!〉
 
 マニが何もない白い空間に浮かぶ〈塊〉に駆け寄る。

〈こりゃまた、厳重に梱包したな……〉
〈姫君も必死だったんだろう〉

 僧侶二人で梱包を解く。開いたところから、するすると光の帯が現れて二人の目の前を流れていく。ちょうど絵巻物のように、シウリンの封じられた十年の記憶が開かれていく。
 あとはこの記憶がきちんと開封され、現在までの記憶とうまく繋がるかを見届けなければならない。

 二人の僧はシウリンの心象風景の中で結跏趺坐し、『聖典』の祈りを唱え始める。
 おそらく、記憶が開封されることで、シウリンの心は乱れるであろう。それに影響されず心を平静に保つために、二人は低い声で『聖典』を唱え続ける。その祈りの声の響く中、シウリンの記憶が少しずつ開かれていった。





 穏やかに眠っていたシウリンの様子に異変が現れた。苦し気に眉を顰め、顔を振り、身を捩る。呼吸が荒くなり、額に玉の汗が浮かぶ。

「――いや、だ……さわ、る、……な……いや、いや、いやだ、いやだ!」

 うなされ始めたシウリンに、アデライードが触れようとするのを、メイローズが止める。

「なりません、記憶を操作しているときに、外部から干渉するのは……」
「でも……」

 せめてあの汗を拭いてさしあげたいと、アデライードは思うが、メイローズは首を振って諫める。
 仕方なく再び腰を下ろすアデライードの耳に、衝撃の言葉が響く。

「いや――デュクトやめて! メルシーナ、救けて!救けて! メルーシナっ!」

 アデライードは耐え切れずに立ち上がり、そっと紗幕をめくって覗き込む。シウリンのまなじりから涙が溢れていた。

「い、や……だ……メルー……シナ……許して……」

 アデライードは茫然とする。シウリンは記憶の中でメルーシナに救けを求め、許しを請うていた。彼が知るメルーシナは、わずか六、七歳の無力な少女のはずなのに。

 何度も、シウリンはメルーシナの名を呼んだ。シウリンの声は切羽詰まり、涙は頬の上を乾く間もなく流れ続けた。寝台の脇では、やはりメイローズが唇を噛んで、主のうわごとを聞いていた。

 メイローズは帝都に連れて来られてからの、主の苦悩を間近に見つめてきた。
 名と過去を奪われ、人としての尊厳を踏みつけにされた日々を。メイローズとて、主に無理を強いた大人たちの一人でしかない。シウリンという名を二度と名乗るなと言い、ユエリンの名を刷り込んだのは他ならぬメイローズだ。閨の教えのために、彼に薄い媚薬入りの茶を進めたのも、メイローズである。

 メイローズは主に忠誠を誓い、主もまたメイローズを頼ったが、二人はあまりに無力であった。星明かりさえない真っ暗な夜道を、ただ小さな角灯カンテラ一つを掲げて歩き続けるような、二人の道のり。いつ果てるともない苦難の道を、遠い夜明けをひたすら願いながら、休むことなく歩み続けるような、終わりの見えない日々。その中で、メイローズには確信があった。

 ――この方には、何かの使命がある。

 皇家に生まれたのも、生まれてすぐに捨てられたのも。
 聖地で労働と清貧の日々を送ったのも、帝都に取り戻されたのも。
 すべては天と陰陽の、貴き意志のもとに。

 だがそのために、主は地獄のような十年を生き抜かなければならなかったのだ。

 気づけば、メイローズの両頬も涙で濡れていた。

 天と陰陽よ――生涯のすべてをお捧げいたします。我が主をお守りください。どうか――。
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