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8、暁闇

許されざる想い

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 征西大将軍廉郡王グイン皇子が再びカンダハルに入り、ナキアへの進撃準備を着々と進める中、総督府のアデライードはすっかり落ち込んでいた。

 待望の妊娠が発覚したというのに、むしろ不安ばかりが押し寄せる。ソリスティアは相変わらず巡礼者という名の難民が押し寄せ、事務方は忙殺されている。にもかかわらず、妊娠を理由に仕事を取り上げられ、アデライードはいたたまれない気持ちで、部屋に閉じこもってしまった。――このまま、鬱々として過ごしていては、胎児にもよくない影響をもたらすのではないか。

 ゲルはいっそのこと、アデライードを転地させたらどうかと、メイローズに提案した。

「お身体の状態にもよるが……ご実家のレイノークス領か、あるいはいっそ聖地の別邸か。ソリスティアを離れたらいかがだろうか」

 しかし、現在、レイノークス伯領にはエイロニア侯爵やヴェスタ侯爵がナキアから避難していて、社交的でないアデライードは、かえって気を張ることになるだろう。聖地の別邸では、安全面で不安がある。

「シルルッサの姉君のところはどうだろう。シルルッサは気候もよく、ソリスティアより閑静だ。海軍も駐留しているし、ゲルフィンもいるし安心だ」

 メイローズもなるほどと思うが、ゲルフィンがいるから安心というのはさて、どうだろうかと思う。

「でも、総督府を空けてしまって大丈夫ですか?」

 メイローズの問いに、ゲルが何でもないことのように言った。

「以前、姫君のサインが必要だったのは、傅役も殿下も不在だからだ。正傅の俺がいれば、問題ない」

 ゲルの提案に、アデライードはソリスティアを離れていいのか迷ったけれど、兄ユリウスやマニ僧都とも相談して、しばらくシルルッサで療養することに決めた。従うのはマニ僧都とメイローズ、侍女二人と、アリナだ。ミハルも誘ったが、何を好き好んでゲルフィンの近くに行かねばならないと、ミハルは残留してアデライードの事務を受け持つことになった。




 シルルッサには臨時の征西大将軍府がおかれ、帝国の西方戦線の補給基地となっていた。ゲルフィンは半ば志願するような形で、大将軍府の留守居役を務めている。あの、月蝕祭の帰りにアデライードの魔術を目にして以来、年甲斐もなく自覚してしまった、アデライードへの許されざる想いに動揺し、とにかくアデライードから離れようと必死であった。

 ゲルフィンはゾーイと同い年の三十一歳、親子とまでは言わないが、十四歳も歳下の女の、細く折れそうな身体と、胸元から覗く胸の谷間に欲情してしまった自分が信じられなかった。例の、アデライードがへパルトスからの転移の目印に、ゲルフィンの片眼鏡モノクルを選んだあの日、息もできないほど押し付けられた柔らかい両胸の感触が忘れられない。あれに顔を埋めることができるのは、彼女の夫である、恭親王ただ一人であると言うのに。

 何よりも、自分には帝都のやしきに、十年越しで妊娠した妻がいる。夫婦仲はギクシャクとして、お世辞にも円満とは言えなかったが、それでもただ一人の、愛しい妻だ。どれだけ妻に毛嫌いされ、寝室から追い払われても、頑として離婚に応じなかったのは、ゲルフィンの方であったのに。

 今さら、若い女に、それも主筋である皇子の妃であり、女王家の王女である目上の女に懸想するなんて、一時の気の迷いにしても性質タチが悪過ぎる。冷静沈着なはずの自身に芽生えた制御できない感情が恐ろしくて、ゲルフィンはソリスティアから逃げ出したのである。

 ――なのに、その元凶のアデライードが、よりによって転地にやってくるとは。
 ゲルフィンの仕事場は港に近い領主の別邸であり、アデライードは異母姉の住まう丘の上の本邸に暮らす予定なのは、不幸中の幸いであった。極力顔も見たくないのだが、シルルッサまでやってきた皇子妃を、皇家に仕える彼が出迎えないわけにはいかなかった。

(落ち着け――ただの気の迷い、気の迷いだ。冷静に冷静に……絶対に気持ちを悟られるな)

 懸命に平静さを保とうとするが、だがアデライードの乗船がシルルッサに近づいたと聞いただけで、ゲルフィンの胸は騒ぎ、麗しい人を目にする歓びで心が浮き立ってしまう。

(あれは白痴美。麗しいのは見かけだけ――いやだが、本当に見かけだけは美しくて――)

 久しぶりに目にする、アデライードのほっそりと儚げな姿に、ゲルフィンの目は釘付けで、我知らず恋心があくがれ出でてしまうのではないか、自身の許されざる劣情が周囲に悟られてしまうのではと、ただもう気が気でない。 
 下船途中のアデライードがタラップで躓いてふらつくの見たゲルフィンは、勝手に身体が動いてタラップを駆け上り、抱き留めていた。ちょうどゲルフィンが見下ろす位置に、アデライードのやや開いた長衣の胸元があり、真っ白い真珠のような双丘の谷間が目に飛び込んできて、一気に頭に血がのぼる。さすがに鼻血を噴くような失態は犯さなかったが、ほんの少し力を込めれば折れてしまいそうな肢体と、鼻腔をくすぐる甘い薔薇の香りに、下半身のものが立ち上がりかけ、無意識に唾を飲み込んでしまう。

「ごめんなさい、長く座っていたから、立ち眩みを起こしたみたいで……もう大丈夫です」

 申し訳なさそうに謝られて、ゲルフィンが頬を引き攣らせる。なぜ、触れてしまったのか。腕の中の細い身体が手放し難くて、いつまでも抱きしめていたい。だがそんなことが許されるわけはなく、ゲルフィンは断腸の思いでアデライードから身体を離す。

「大丈夫ですか、姫君。お足元にはお気を付けくださいと、あれほど……」
 
 背後から支えようとしていたメイローズが、アデライードをゲルフィンから取り戻そうとするかのように、その腕を引っ張る。鋭敏なメイローズには、自身の心の内が透けてしまうのではとゲルフィンは恐れた。自身の感情を誤魔化すために、敢えて冷酷な言い方でアデライードを非難した。

「母になろうと言う方が、相変わらずそそっかしい。こんな何もないところで転びそうになるなんて、これでは無事に生まれるかどうかも怪しいものですな」

 ゲルフィンとしては表面を取り繕ったための抗弁なのだが、そんな風では流産しかねないともとれる嫌味に、周囲の女たちも、さらにメイローズとマニ僧都までもが眉を顰める。アデライードだけが、あっさりとゲルフィンの嫌味を受流して微笑んだ。

「本当にごめんなさい、ありがとう。あなたが支えてくださって、よかったわ」

 待っていた馬車に乗り換え、ゲルフィンの懊悩に気付きもせずアデライードは去っていく。

 ゲルフィンの胸に嵐のような切なさと、劣情を煽る残り香を残して。
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