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6、〈混沌〉

ゲルフィンと姫君

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 ゲルフィンは将来の帝国宰相の最有力候補者だが、一方ではゲスト家の者として毎年巡検で辺境を周り、北方と南方と、二度の異民族叛乱討伐を経験した聖騎士である。当然ながらそこらの騎士に後れを取らぬほどの剣の技量を持っていて、常に身体も鍛えていた。身長は六プル(一プル=三十センチメートル)には僅かに届かないが、細身だが十分に均整の取れた体格をしており、その長い脚を優雅に、そして厭味ったらしく組んで、椅子の脇卓に頬杖をついて港を出入りする船を眺める。

 西方からずいぶんと小汚い船が入港し、ぞろぞろと巡礼者たちが降りてくる。服装を見るに、あるいはカンダハルか、もっと西からの渡航民であるようだ。それぞれ大きな荷物を背負い、巡礼者というよりは、避難民といった風情であった。

 入港管理官たちが整列させて過所パスポートを改めていく。聖地への入港許可証を発行するが、もう本日中の船は予約でいっぱいで明日以降の便になると、魔導拡声器でアナウンスして、巡礼者たちがガヤガヤと騒ぎだす。

「総督府の船が入港する! そこをのけ! 帝国親王妃にして総督夫人、かつ女王家の王女であらせられるアデライード姫のご乗船だ! 失礼のないように場所を空けよ!」

 管理官が大声で呼ばわる。船はここでいったん、入港を確認したうえで、そのまま運河を遡る。ここで停まるときに、中に乗せてもらおうというのが、ゲルフィンの思惑だった。管理官のやり取りの末、ゲルフィンらの乗船が認められて、タラップが降りてくる。ゲルフィンがタラップに登るために管理官詰所を出て外に出ると、さっきの巡礼の一団が物見高く船を見上げていた。

「〈聖婚〉の王女様だ!」
「〈聖婚〉したから世の中は安泰だという話だったのに、とんだことになったな!」

 ゲルフィンは傲然と顎を上げてタラップを上る。甲板の上でメイローズが頭を下げて出迎える。

「シルルッサの方からお帰りと聞きました。ご苦労様でございます」
「うむ。ユリウス卿もご壮健であった。姫君にお話できそうか」
「ええ、船室でお待ちでございます」

 ゲルフィンらが乗船するとタラップが上がり、専用艇がゆっくりと運河を遡り始める。
 
 船室内で、アデライードは奥の作り付けの長椅子にたくさんのクッションを置いて、そこに凭れるように腰かけていた。白い顔が常にまして青白く、やや伏せ気味の金色の睫毛がしどけなくて、ゲルフィンのような不遜な男ですら、ドキリとするほどの美しさであった。

「少し船酔いを覚えられましてね……」
「それはお気の毒な」

 メイローズがゲルフィンに一人用の椅子を薦め、手早く緑茶を淹れる。さっきのお茶と大違いの馥郁(ふくいく)たる香りと豊かな味わいに、ゲルフィンはふうと溜息をつく。

「ユリウス卿にお会いいたしました。お子は男の子で、母子ともに健康だと」

 事務的に報告すると、アデライードがもの憂げに顔を上げ、ゲルフィンを見た。

「そう。よかったわ。……ありがとう」
「月蝕祭はいかがでした?」
「ええまあ……去年のように襲撃されることもなくて。でも太陰宮中がピリピリして、嫌な雰囲気でした――殿下の、噂をご存知?」
「ええ、不本意ながら。真実はいずれ明らかになりますよ」

 珍しく慰めるように言うゲルフィンに、アデライードが少しだけ、翡翠色の目を丸くした。

「そう言えば……奥様がご懐妊ですって? お祝いを申し上げるのが遅れてしまったわ」
「いやまあ……その……」

 少しだけ困ったように眉間に皺を寄せるゲルフィンを、アデライードが面白そうに首を傾げた。
 
「やっぱり子供にも、その変な眼鏡を付けさせるのかしら。子供用とかあるんですの?」
「もう眼鏡の話はいいんです!」

 だがアデライードがふう、と溜息をついた。

「でも羨ましいわ……アリナさんの所も、お兄様の所も、それからあなたの所にも赤ちゃんが生まれるのに、どうしてわたしの所には来てくれないのかしら」
「時期というものがございますよ。姫君の所にもそのうちに……」

 メイローズが慰めるが、アデライードは不満そうである。

「でもあんなに毎晩してたのによ?……その、レイナさんとサウラさんには一応赤ちゃんはできたってことは、殿下にお種がないわけじゃないのよね? やっぱりわたしのせいなのかしら……」
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし。やり過ぎが原因だと思います」

 能面のような顔で、ゲルフィンが言う。

「しばらく間を置くと、いいという話もございますね。まあ、タイミングでございますよ」
「そうなの。……普通はどのくらいの頻度でするものなのかしら。殿下は毎日だって言い張るのだけど。ゲルフィンさんのところはどんな感じですの? どのくらいの間を置けば、赤ちゃんできるのかしら」

 ぶはっとゲルフィンが緑茶を噴き出し、慌てて手巾を出して口を押さえる。

「げほっげほっ。……気管に入った……」

 数か月間ご無沙汰セックスレスで、ほとんど家庭内離婚状態だった俺に聞くな! と叫びたいのを必死に堪え、苦し気に咽せるゲルフィンの背中を、メイローズが慌ててさする。

「姫君、そういうことは殿方に聞くべきことではないと思いますよ……」
 
 メイローズに窘められ、アデライードがしゅんとして肩を落とす。

「そうなの、ごめんなさい。アリナさんもミハルさんも、要するにわたしのミスでご主人が旅に出ているようなものだから、聞きにくくて……その点、ゲルフィンさんは帝国のご命令でこちらにいらっしゃるから……」

 ゲルフィンはつくづく思う。そこまで周囲を思いやれる脳みそがあるのなら、なぜ転移してしまう前に立ち止まって考えないのだ。
 だが、何を言っても今更の話なので、ゲルフィンは手巾で口の周りを丁寧に拭い、椅子に座り直す。

 「まあ、焦りは禁物です。俺のところは十年越しですから。必ずや姫君の許にも果報はありますよ」
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