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4,ミカエラの恋

中庭

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 ミカエラのそんな思惑などまるで知らず、シウリンは人のいない中庭で子獅子のジブリールと戯れている。生垣の間をちょこまかと動くジブリールの後を、長い脚でゆったりと歩いて追い、時々小石や木切れを拾って投げてやると、ジブリールは嬉しそうに追いかけて、しばらくそれでじゃれて遊んでいる。

「ジブリール、おいで!」

 中庭から、彼の声が響く。――少し低くて、甘い声だ。声は成人男性のものなのに、口調は少年のように軽い。十二歳までの記憶しかないと言っていたけれど、それでも結婚したばかりの妻のことは憶えていて、一日も早く帰りたいと言う。その辺りの矛盾した事情については、シウリンは細かい説明をしようとしない。

「こらこら、そこは入っちゃだめ! 枝が折れちゃうだろ、出ておいで!」

 ジブリールが垣根の下のくぼみに入りこんでしまい、シウリンが垣根の前にしゃがみこんで盛んに声をかけている。

「ほら、そんなとこに入ってないで、出ておいで!……っ痛っ! こら、ジブリール、痛いだろ、引っ掻くなって……」
 
 シウリンが長い腕を伸ばし、無理に手を隙間に突っ込んで引き出そうとしたが、子獅子が抵抗してシウリンの腕を引っ掻いたらしい。

「あー! ジブリール、何てこと! シャツが破けちゃったじゃないかっ! うわっ血も出てるしっ!」

 様子をうかがっていたミカエラは、その声にはっとして立ち上がり、その場に刺繍の枠を置いて室内の階段を駆け下りていた。シャツが破れ、腕も傷ついてしまったのだ。子供とはいえ、野生の獅子の爪だ。ミカエラは慌てていて、手首に針山をはめたまま、くるぶしまである長衣の裾をからげて走っていく。

 ミカエラが庭に出た時には、生垣の迷路の向こうから、ジブリールを右腕に抱えたシウリンが歩いてくるのが見えた。
 
「シウリン様!――お怪我は!」

 慌てて走ってきたミカエラを見て、シウリンがぎょっとしたような表情で黒い瞳を見開く。

「えっ……どうしてそれを……」
、そこの上のテラスに居たら、声が聴こえましたので。見せてください、動物の爪の傷を侮ってはなりません」
「い、いえ、大丈夫です。この程度なら、自己治癒で治せるので……」

 だが強引に左腕を引っ張られて、赤く血の滲んだひっかき傷を露出させて、ミカエラが息を飲む。

「すぐに消毒を……」
「それより、シャツが破れてしまって……一枚しかないのに」
 
 見ればシャツの袖が大きく引き裂かれていた。

「新しいシャツをご用意します」
「いえ、直せば着られるので、勿体ないから針と糸を貸してください、ちょうど、手首に針山をしていますね、それで構いません」

 どうやら自分で繕うつもりでいるらしい。

 ミカエラは首を振り、潤んだ瞳で必死にシウリンの顔を見上げ、懇願するように言った。

「いいえ、手当をさせてくださいませ。それから、シャツもわたくしが繕います。どうか――」
「えーっと……はあ、じゃあ……お言葉に甘えて……」

 あまりに必死なミカエラの様子に、シウリンは若干引き気味に頷く。
 ミカエラがシウリンを噴水の脇の四阿あずまやに導くと、ミカエラの様子から何事かあったのを察した年配の侍女が一人、ミカエラの傍に寄ってきた。

「シウリン様がお怪我をなさったの。消毒薬と、包帯を。それからこの場でシャツを繕うから、白い麻糸の細いものと、ちょうどこのシャツと同じ色目の麻布も持ってきて」
 
 年配の侍女は破れたシャツを見て頷き、「ついでにお茶もお持ちします」と言って下がっていく。侍女が建物に引っ込むと、間もなく薬箱を抱えた老僕がやってきて、ちらりとシウリンの傷を一瞥すると、大きな怪我ではないと見て、ミカエラに任せて下がった。シウリンは所在なげに四阿のベンチに腰を下ろし、その足元ではジブリールがフンフンと周囲の匂いを嗅いでいる。 
 
「脱いでください」
「えっ?!」

 いきなり、真正面からミカエラに言われ、シウリンが硬直する。
 以前の、何も知らないシウリンであれば、何のこだわりもなくシャツを脱いだであろうが、今のシウリンはすでにアデライードと寝て男女のことを知っている。若い女性と二人きりで、服を脱げと言われてちょっとぎょっとしてしまう。――井戸端のような場所であれば、裸になるのに躊躇いはないのだが、庭園の四阿ではさすがに恥ずかしい。

 そもそも、シウリンにとってミカエラはアデライードに次ぐ、二人目の「若い女性」だった。
 井戸端にも何人かいたが、やや年上に見えたし、彼女たちは自分とは異質な存在であると、シウリンは本能的に感知していた。彼女たちはシウリンの世話を焼きたがるけれど、どこかで、シウリンが自分とは格の違う人間だと思っているフシがあった。 

 シウリンが一番苦手だと思ったのは、あの中庭に面したテラコッタタイル張りの部屋にいる、少し年配で派手な衣装を着た女たち――ガルシア家やその重鎮たちに縁(ゆかり)のある、身分の高い女性たちで、この城の家事を差配する女たちだ。彼女たちはそれぞれ着飾り、常に香水を身に纏っていた。それが、シウリンの鋭敏な鼻には苦痛であった。迂闊に城内で会うとお茶を飲んで行けとうるさいし、毎度断るのも気が引けるため、彼女たちが絶対に来ない井戸端に居たのだが、一昨日、魔物を消したおかげで井戸端にも居場所はなくなってしまった。それで、あちこち彷徨さまよった挙句、この中庭に落ち着いたのだが――。

 (上からこの人が見ていたなんて。面倒くさいことになった――)
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