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第三章
国王と首相
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わたしとアルバート殿下の結婚証書がすでに受理されていた、という予想外の事態に、首相のバーソロミュー・ウォルシンガム卿は怒り狂い、マールバラ公爵は大笑いし、王太子殿下は茫然とするものの、すぐに気を取り直し、その場で宣言した。
「皆、見苦しいところを見せてしまったが、我が家の末息子が伴侶を得ていたこと、父である国王陛下のご裁可も下り、極めて喜ぶべきことだ! 今宵はそれも含めて、祝いとしよう! ワインを追加してくれ! 音楽を!」
すぐに楽団が華やかなワルツを奏で始め、王室長官の指示で発泡ワインのグラスが配られる。
「乾杯!」
王太子殿下の声に貴族たちが応じ、あちこちでグラスのぶつかる音が響く。
有耶無耶の内に祝いの席に変わった舞踏会場で、殿下はわたしの腕を引いて、玉座に近づく。
「父上。申し訳ありません。強引なことをしました」
「……いや、いい。余は波風を立てまいと思うあまり、かえって余計な混乱ばかり引き起こしてきた。大切なものを守り抜く知恵もなく、力もなく――せめてそなたを守ろうとした、余の浅知恵はそなたを苦しめるばりだった。すまぬ」
国王陛下がわたしを手招きしたので、殿下とともに玉座の前に至り、片膝をついた。
「……ローズに似ていると思うたが、そうでもないな。ローズはもっと可憐で、儚げであった……」
「わたしはどちらかというと儚げとは対極で……魔性の女とか、氷の人形とか言われておりますので……」
「ふ、ふふふはははは……」
国王陛下は笑い、さりげなく、目元の涙を拭った。
「ローズに、その強さがあればな……ああ、聞いたぞ。警察を呼びつけてエレインを取り押さえさせたとか。なんであったかの、そうだ、『謝罪でなかったことにできるなら、警察は何の為にあるのか』であったな。たしかに、その通りだ。余はローズにも、マックスにも謝ることすらできておらぬ。……すまぬ」
わたしはどう、答えていいかわからず、殿下の顔を横目で見た。
「父上、俺は継承権はいらないと思っているのです。真実を話しても――」
「それは、ならぬ」
「父上?」
「もし、そなたの出生を明かせば、ローズの献身は無駄になる。余は、せめてローズへの償いと思い、そなたを王位につけたいと思うておった。無理強いはせぬが、出生の秘密を明かすことはまかりならぬ。ローズは、そなたが正統の王子として生きることを望んだ。けして、そなたの実の母は明かしてくれるなと。その最後の約束だけは、余は守りたい。たとえ身勝手と言われても、それだけは――」
わたしは勇気を奮い起こし、国王陛下に尋ねた。
「あの――ローズを、愛していたのですか?」
陛下はわたしを金色の瞳で、ちらりと見て、寂し気に微笑んだ。
「ああ。余は人など愛することはないと思うておった。何を見ても心は動かず、氷のように冷え切ったままであった。だが、ローズだけは――」
陛下は目を伏せた。
「ローズと、ローズの産んだ子に、余は初めて愛しいと思った。そして、その愛しさ故に余は、判断を誤った。――アルバート」
「はい、父上」
「そなたを戦地に送る時は、胸が潰れるほど辛かった。せめてと思い、マックスに頼み――そして、あのような悲劇を生もうとは。すべて、余の弱さが招いたこと。この罪は余が、地獄へと持っていく。だから――」
国王陛下は姿勢を正し、まっすぐに殿下を見て、それからわたしを見た。
「結婚は許す。だが、秘密は守れ」
「父上、ですが――何故です、何故、マックスの代襲相続は却下されたのです?」
「それは――」
そこへ、王室長官が声をかけてきた。
「失礼いたします、陛下、そろそろ刻限です」
「……うむ、もう、そんな時間か……」
「侍医が待っておりますので――」
「わかった。……すまない、アルバート、それからエルスペス嬢。また、改めて王宮に来てくれ」
王室長官の指示により、侍従たちが左右から陛下を助けて立たせる。国王陛下の顔色はよくない。もともと、中座する予定だったらしい。
「エドワード国王陛下、ご退席!」
王室長官の声に送られ、国王陛下は杖に縋るようにして、ゆっくりと舞踏会場を後にした。
殿下と二人で立ちあがり、陛下を見送っていると、コホンと咳払いがして、王室長官が言った。
「えー……アルバート殿下、それから……その、まだ諸手続きが行われておりませんで、妃殿下とお呼びするわけにはまいりませんので、失礼ながら……」
「いえ、そんな……今まで通りでお願いします」
「ならば、リンドホルム伯爵令嬢、実は――」
気まずそうな様子に、殿下が尋ねる。
「なんだ?」
「はい、首相のウォルシンガム卿と、レコンフィールド公爵令嬢が、お話があると――」
……あんな形で婚約を破棄したわけで、何もなしというわけにもいくまい。わたしと殿下は顔を見合わせ、頷くと、「ならばあの者がご案内いたします」と、背後に控える従僕を指した。それで、わたしたちは長官に礼を言い、従僕の後について扉に向かった。
導き入れられたのは、こじんまりとした応接室だった。さすが王宮らしい、豪華な家具に装飾。わたしはお上りさんのように天井画を見上げてしまう。
「お連れ致しました」
「お座りください、アルバート殿下。リンドホルム伯爵令嬢も」
低い、よく通る声がして、正面の一人がけソファにウォルシンガム卿が長い脚を組み、葉巻をくゆらせていた。……かなり強い葉巻らしく、キツい香が漂う。
見れば、ステファニー嬢はソファではなく、窓際に佇んでいた。
「エルスペス嬢は葉巻は大丈夫かね? ステファニーは香がキツ過ぎて辛いと言って、窓際に逃げてしまったよ」
「エルスペス嬢と俺と、二人で話たいとは?」
殿下はウォルシンガム卿の正面のソファに座り、わたしを隣に座るように促す。
「……そちらでよろしいの?」
「ここ以外となると……俺の膝の上か?」
「もう、バカ!」
こんな時に言う冗談なの?!
わたしが睨みつければ、対面の一人がけソファに座るウォルシンガム卿が、灰色の目を見開く。
「アルバート殿下がそんな風に冗談をおっしゃるとはね」
「俺だって冗談ぐらい言うさ。……で、話と言うのは?」
「まあ、待ちたまえ、私もブランデーの一杯くらい飲みたい。突然の婚約破棄騒動で、頭に血が上ったからね。……ついでに言えばレコンフィールド公爵は、体調を崩して退出したよ」
「そうですか」
王宮の従僕が男性二人にはブランデーを、わたしとステファニー嬢には貴腐ワインを運んできた。
「まずは、やってくれたよ。……まさかビルツホルンで結婚証書を提出するとはね! 秘密結婚でもするつもりだったのかね?!」
ブランデーを一口飲んだ首相が殿下を睨みつけるが、殿下は軽く肩を竦めただけで、表情も変えずに言った。
「あれは保険だ。議会で承認を取られたような、あんなヘマはしない。俺の知らないうちに勝手に、ステファニーとの婚姻届けを出されないように、先手を打っただけのこと。もし、勝手に届け出ても、先に結婚していれば、重婚で無効にできる。もちろん、王族の結婚は議会の承認なしには国内では受理されない。でも、ビルツホルンの大使館では書類の精査ができないから、仮受理して本国に転送し、本国では、外国の出先機関で仮受理した婚姻届けは基本、そのまま受理される。本国ではバレても、外国まわりの書類なら、俺の名前に気づく奴は多分いないから、そのまま素通りってわけだ。聖誕節の休暇と、ジョージの死やその他で予想外に時間かかって、気が気じゃなかったけどな」
いつの間にか提出されていた婚姻届け。実を言えば、わたしは内心、ムッとしていた。――そりゃあ、プロポーズには頷いたけれど、婚姻は人生の大事だ。勝手に出すのはひどすぎると思う。
でも、殿下はステファニー嬢との婚姻を強行される可能性を考え、それに対抗するためだったと。
「……ご丁寧にアルティニアの皇太子まで抱き込んで? 下手をすれば外交案件じゃないか!」
「エルシーはアルティニア皇太子の婚約者、グリージャのエヴァンジェリア王女と親しくなった。あの王女は結婚式には俺たちを呼ぶ気満々だ。俺が別の女を連れて行ったら、それこそ国際問題になるぞ?」
殿下は言い、ブランデーを一口飲む。
「婚約解消を受け入れてくれれば、あの書類を使わずに済んだし、あんな場で婚約破棄しなくて済んだ。だが公爵もステファニーも、絶対に婚約解消に同意しないと言い張るから――」
「だって、愛しているんですもの!」
窓際から、突然、ステファニー嬢が叫んだ。モス・グリーンのドレスの裾をからげ、小走りに駆け寄って、言った。
「もう一度、やり直すチャンスをくださいまし! たしかに、わたくしは愚かでしたわ。バーティのお優しさに甘えて、わがままばかり言って。でも――」
ステファニー嬢は顔を上げ、まっすぐに殿下を見る。青い瞳が潤んで、溢れた涙が白い頬を流れ落ちるまま、声を絞り出すように言った。
「本当に愛しているんです。バーティ以外の人なんて考えられないくらい。三年前、バーティの部隊が潰滅して、バーティの生死が数日わからなくなった時、信じられなくて、信じたくなくて、バーティがいない世界で生きていくなんてできないって思い詰めるほど、わたくしはずっと、バーティ、ただ一人だけだったの。お願いです、他は何も――」
「無理だ。俺が愛しているのは、ステファニーじゃないから」
すげなく言い切った殿下に、ウォルシンガム卿が葉巻の煙を吐き出し、言った。
「王子の結婚に愛だの恋だの言う権利があると?」
「じゃあ、ステファニーの恋も諦めさせろ。はっきり言わせてもらうが、そんなにステファニーが好きなら、あんたがステファニーと結婚しろ」
「なっ……!」
殿下の言葉に、ウォルシンガム卿が組んでいた足を解き、身を乗りだす。
「王子の身分があるとはいえ、あまりの――」
「俺が気づかないと思ってたのか? ウィルシンガム。ステファニーと俺が一緒にいるたびに、無駄に威嚇してきたクセに、いざ婚約を解消すると言い出せば反対する。ふざけんな。俺は昔からステファニーのことなんか、これっぽっちも好きじゃない。あんたとは趣味が違う」
わなわなと震えるウォルシンガム卿。わたしもだが、ステファニー嬢も理解できないという表情だ。
「バーソロミュー伯父様?」
「ウォルシンガム、何度も言うが、俺は継承権など欲しくない。俺に継承権を持たせておきたいのは、あんたと、レコンフィールド公爵の勝手だ。……女児への王位継承が可能になり、兄上の長女のレイチェルが女王になれば、その祖父のエルドリッジ公爵に権力が奪われると思っているのかもしれないが、そんな貴族同士の派閥争いをしているうちに、庶民院に実権を持っていかれるぞ?」
「アルバート殿下! そこまでわかっていて……」
「俺はどちらの派閥に与するつもりもない。女児の継承も、庶民院の伸長も、時代の流れだ。――政略結婚でない、愛のある結婚も、すべて」
殿下の発言に、ウォルシンガム卿は苦い顔で言った。
「……王族の結婚には議会の承認が必要です。それは国法です。勝手な結婚をしたあなたを、議会に喚問します」
殿下は金色の瞳を輝かせて応じた。
「ああ、すべて覚悟の上だ」
「皆、見苦しいところを見せてしまったが、我が家の末息子が伴侶を得ていたこと、父である国王陛下のご裁可も下り、極めて喜ぶべきことだ! 今宵はそれも含めて、祝いとしよう! ワインを追加してくれ! 音楽を!」
すぐに楽団が華やかなワルツを奏で始め、王室長官の指示で発泡ワインのグラスが配られる。
「乾杯!」
王太子殿下の声に貴族たちが応じ、あちこちでグラスのぶつかる音が響く。
有耶無耶の内に祝いの席に変わった舞踏会場で、殿下はわたしの腕を引いて、玉座に近づく。
「父上。申し訳ありません。強引なことをしました」
「……いや、いい。余は波風を立てまいと思うあまり、かえって余計な混乱ばかり引き起こしてきた。大切なものを守り抜く知恵もなく、力もなく――せめてそなたを守ろうとした、余の浅知恵はそなたを苦しめるばりだった。すまぬ」
国王陛下がわたしを手招きしたので、殿下とともに玉座の前に至り、片膝をついた。
「……ローズに似ていると思うたが、そうでもないな。ローズはもっと可憐で、儚げであった……」
「わたしはどちらかというと儚げとは対極で……魔性の女とか、氷の人形とか言われておりますので……」
「ふ、ふふふはははは……」
国王陛下は笑い、さりげなく、目元の涙を拭った。
「ローズに、その強さがあればな……ああ、聞いたぞ。警察を呼びつけてエレインを取り押さえさせたとか。なんであったかの、そうだ、『謝罪でなかったことにできるなら、警察は何の為にあるのか』であったな。たしかに、その通りだ。余はローズにも、マックスにも謝ることすらできておらぬ。……すまぬ」
わたしはどう、答えていいかわからず、殿下の顔を横目で見た。
「父上、俺は継承権はいらないと思っているのです。真実を話しても――」
「それは、ならぬ」
「父上?」
「もし、そなたの出生を明かせば、ローズの献身は無駄になる。余は、せめてローズへの償いと思い、そなたを王位につけたいと思うておった。無理強いはせぬが、出生の秘密を明かすことはまかりならぬ。ローズは、そなたが正統の王子として生きることを望んだ。けして、そなたの実の母は明かしてくれるなと。その最後の約束だけは、余は守りたい。たとえ身勝手と言われても、それだけは――」
わたしは勇気を奮い起こし、国王陛下に尋ねた。
「あの――ローズを、愛していたのですか?」
陛下はわたしを金色の瞳で、ちらりと見て、寂し気に微笑んだ。
「ああ。余は人など愛することはないと思うておった。何を見ても心は動かず、氷のように冷え切ったままであった。だが、ローズだけは――」
陛下は目を伏せた。
「ローズと、ローズの産んだ子に、余は初めて愛しいと思った。そして、その愛しさ故に余は、判断を誤った。――アルバート」
「はい、父上」
「そなたを戦地に送る時は、胸が潰れるほど辛かった。せめてと思い、マックスに頼み――そして、あのような悲劇を生もうとは。すべて、余の弱さが招いたこと。この罪は余が、地獄へと持っていく。だから――」
国王陛下は姿勢を正し、まっすぐに殿下を見て、それからわたしを見た。
「結婚は許す。だが、秘密は守れ」
「父上、ですが――何故です、何故、マックスの代襲相続は却下されたのです?」
「それは――」
そこへ、王室長官が声をかけてきた。
「失礼いたします、陛下、そろそろ刻限です」
「……うむ、もう、そんな時間か……」
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「わかった。……すまない、アルバート、それからエルスペス嬢。また、改めて王宮に来てくれ」
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「エドワード国王陛下、ご退席!」
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殿下と二人で立ちあがり、陛下を見送っていると、コホンと咳払いがして、王室長官が言った。
「えー……アルバート殿下、それから……その、まだ諸手続きが行われておりませんで、妃殿下とお呼びするわけにはまいりませんので、失礼ながら……」
「いえ、そんな……今まで通りでお願いします」
「ならば、リンドホルム伯爵令嬢、実は――」
気まずそうな様子に、殿下が尋ねる。
「なんだ?」
「はい、首相のウォルシンガム卿と、レコンフィールド公爵令嬢が、お話があると――」
……あんな形で婚約を破棄したわけで、何もなしというわけにもいくまい。わたしと殿下は顔を見合わせ、頷くと、「ならばあの者がご案内いたします」と、背後に控える従僕を指した。それで、わたしたちは長官に礼を言い、従僕の後について扉に向かった。
導き入れられたのは、こじんまりとした応接室だった。さすが王宮らしい、豪華な家具に装飾。わたしはお上りさんのように天井画を見上げてしまう。
「お連れ致しました」
「お座りください、アルバート殿下。リンドホルム伯爵令嬢も」
低い、よく通る声がして、正面の一人がけソファにウォルシンガム卿が長い脚を組み、葉巻をくゆらせていた。……かなり強い葉巻らしく、キツい香が漂う。
見れば、ステファニー嬢はソファではなく、窓際に佇んでいた。
「エルスペス嬢は葉巻は大丈夫かね? ステファニーは香がキツ過ぎて辛いと言って、窓際に逃げてしまったよ」
「エルスペス嬢と俺と、二人で話たいとは?」
殿下はウォルシンガム卿の正面のソファに座り、わたしを隣に座るように促す。
「……そちらでよろしいの?」
「ここ以外となると……俺の膝の上か?」
「もう、バカ!」
こんな時に言う冗談なの?!
わたしが睨みつければ、対面の一人がけソファに座るウォルシンガム卿が、灰色の目を見開く。
「アルバート殿下がそんな風に冗談をおっしゃるとはね」
「俺だって冗談ぐらい言うさ。……で、話と言うのは?」
「まあ、待ちたまえ、私もブランデーの一杯くらい飲みたい。突然の婚約破棄騒動で、頭に血が上ったからね。……ついでに言えばレコンフィールド公爵は、体調を崩して退出したよ」
「そうですか」
王宮の従僕が男性二人にはブランデーを、わたしとステファニー嬢には貴腐ワインを運んできた。
「まずは、やってくれたよ。……まさかビルツホルンで結婚証書を提出するとはね! 秘密結婚でもするつもりだったのかね?!」
ブランデーを一口飲んだ首相が殿下を睨みつけるが、殿下は軽く肩を竦めただけで、表情も変えずに言った。
「あれは保険だ。議会で承認を取られたような、あんなヘマはしない。俺の知らないうちに勝手に、ステファニーとの婚姻届けを出されないように、先手を打っただけのこと。もし、勝手に届け出ても、先に結婚していれば、重婚で無効にできる。もちろん、王族の結婚は議会の承認なしには国内では受理されない。でも、ビルツホルンの大使館では書類の精査ができないから、仮受理して本国に転送し、本国では、外国の出先機関で仮受理した婚姻届けは基本、そのまま受理される。本国ではバレても、外国まわりの書類なら、俺の名前に気づく奴は多分いないから、そのまま素通りってわけだ。聖誕節の休暇と、ジョージの死やその他で予想外に時間かかって、気が気じゃなかったけどな」
いつの間にか提出されていた婚姻届け。実を言えば、わたしは内心、ムッとしていた。――そりゃあ、プロポーズには頷いたけれど、婚姻は人生の大事だ。勝手に出すのはひどすぎると思う。
でも、殿下はステファニー嬢との婚姻を強行される可能性を考え、それに対抗するためだったと。
「……ご丁寧にアルティニアの皇太子まで抱き込んで? 下手をすれば外交案件じゃないか!」
「エルシーはアルティニア皇太子の婚約者、グリージャのエヴァンジェリア王女と親しくなった。あの王女は結婚式には俺たちを呼ぶ気満々だ。俺が別の女を連れて行ったら、それこそ国際問題になるぞ?」
殿下は言い、ブランデーを一口飲む。
「婚約解消を受け入れてくれれば、あの書類を使わずに済んだし、あんな場で婚約破棄しなくて済んだ。だが公爵もステファニーも、絶対に婚約解消に同意しないと言い張るから――」
「だって、愛しているんですもの!」
窓際から、突然、ステファニー嬢が叫んだ。モス・グリーンのドレスの裾をからげ、小走りに駆け寄って、言った。
「もう一度、やり直すチャンスをくださいまし! たしかに、わたくしは愚かでしたわ。バーティのお優しさに甘えて、わがままばかり言って。でも――」
ステファニー嬢は顔を上げ、まっすぐに殿下を見る。青い瞳が潤んで、溢れた涙が白い頬を流れ落ちるまま、声を絞り出すように言った。
「本当に愛しているんです。バーティ以外の人なんて考えられないくらい。三年前、バーティの部隊が潰滅して、バーティの生死が数日わからなくなった時、信じられなくて、信じたくなくて、バーティがいない世界で生きていくなんてできないって思い詰めるほど、わたくしはずっと、バーティ、ただ一人だけだったの。お願いです、他は何も――」
「無理だ。俺が愛しているのは、ステファニーじゃないから」
すげなく言い切った殿下に、ウォルシンガム卿が葉巻の煙を吐き出し、言った。
「王子の結婚に愛だの恋だの言う権利があると?」
「じゃあ、ステファニーの恋も諦めさせろ。はっきり言わせてもらうが、そんなにステファニーが好きなら、あんたがステファニーと結婚しろ」
「なっ……!」
殿下の言葉に、ウォルシンガム卿が組んでいた足を解き、身を乗りだす。
「王子の身分があるとはいえ、あまりの――」
「俺が気づかないと思ってたのか? ウィルシンガム。ステファニーと俺が一緒にいるたびに、無駄に威嚇してきたクセに、いざ婚約を解消すると言い出せば反対する。ふざけんな。俺は昔からステファニーのことなんか、これっぽっちも好きじゃない。あんたとは趣味が違う」
わなわなと震えるウォルシンガム卿。わたしもだが、ステファニー嬢も理解できないという表情だ。
「バーソロミュー伯父様?」
「ウォルシンガム、何度も言うが、俺は継承権など欲しくない。俺に継承権を持たせておきたいのは、あんたと、レコンフィールド公爵の勝手だ。……女児への王位継承が可能になり、兄上の長女のレイチェルが女王になれば、その祖父のエルドリッジ公爵に権力が奪われると思っているのかもしれないが、そんな貴族同士の派閥争いをしているうちに、庶民院に実権を持っていかれるぞ?」
「アルバート殿下! そこまでわかっていて……」
「俺はどちらの派閥に与するつもりもない。女児の継承も、庶民院の伸長も、時代の流れだ。――政略結婚でない、愛のある結婚も、すべて」
殿下の発言に、ウォルシンガム卿は苦い顔で言った。
「……王族の結婚には議会の承認が必要です。それは国法です。勝手な結婚をしたあなたを、議会に喚問します」
殿下は金色の瞳を輝かせて応じた。
「ああ、すべて覚悟の上だ」
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