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第三章

エチュード

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 マールバラ公爵邸の音楽会は、王都ではそれなりの格式ある催しらしい。
 プロの演奏者も呼ぶが、素人の演奏者にも半年前には打診して、いずれも十分な準備の上に臨む。突然言われて、飛び入りで参加するような、そんな会ではない。

 いきなりピアノを弾けと言われて、シャーロット嬢は真っ青になって、今にも卒倒しそうだ。

「デイジー、無茶を言うな! シャーロットは最近、王都に出てきたばかりで、こういう会にも慣れていない」

 カーティス大尉が反論し、シャーロット嬢もその場にへたり込みそうになって、わたしが咄嗟に支える。
 ヴァイオレット夫人もマールバラ公爵も、見るからに気の弱そうなシャーロット嬢に、同情的だ。

「まあ、それはそうよねぇ……」
「突然言われてもな。レパートリーが他の人の曲と被ってしまってもよくないだろう」

 しかし、ミセス・デイジーは空気を読まないフリをしてなおも食い下がる。

「でも、誰かが代わりに弾かなきゃなりませんわ」

 別に一曲や二曲分くらいの時間、どうとでも誤魔化せるのに、どこまでもシャーロット嬢を嬲りたいのだろう。ミセス・デイジーの悪意は、相当に根深いようだ。

「ミス・アシュバートンはどうですの? ピアノはお得意なのでしょう? ご実家ではずっとピアノばかり弾いておられたとか。それに、そもそもルーシー様がお怪我なさった騒ぎに、ミス・アシュバートンも無関係ではありませんでしょう?」

 と、突然、攻撃がこちらにも飛んできた。ルーシー様、というのが、怪我をしたワインカラーのドレスのご令嬢らしいが、わたしに責任を押し付けられても困る。わたしは表情を変えずに言った。

「わたくしの実家での暮らしを誰から聞いたのか存じませんが……わたくしが今、練習しておりますのは、こういった催しには不向きな曲でして」
「……たしかに、前衛的過ぎて、観客が置いてきぼりにされそうだな」

 殿下も助け船をだしてくれるが、ミセス・デイジーは引き下がらない。

「あら、面白そうだわ。是非、聞いてみたいと思われませんこと? みなさん」

 今、王都で話題のアルバート殿下の愛人に、ピアノを弾かせて見世物にしたいらしい。

「ちなみに、前衛的とはどんな……」

 マールバラ公爵の隣に立つ、嫡男のブラックウェル伯爵ゴードン卿が尋ねるので、わたしはてらいなく答えた。

「亡命作曲家のレフ・ハリアビン氏の、練習曲エチュードです。かなり実験的な作品と見受けられますので、こういった催しにはあまり……」
「そう、俺がエルシーのために作曲を依頼したのだが、楽譜を見てもなかなかに個性的で――」

 アルバート殿下が前衛芸術に興味がある、という話はそこそこ広まっている。その殿下がわざわざ作曲を依頼した、特に有名でもない、外国からの亡命作曲家の作品。およそ、こういう催しには似つかわしくあるまい。

「なら、やはりシャーロットに……」

 シャーロット嬢がビクっと身を震わせ、涙目で胸の前で両手を握りしめている。……こういう小動物みたいな弱々しい態度が、デイジーのような女の嗜虐欲を煽るんじゃないかしらと、わたしは思う。

 何となく硬直してしまった場の雰囲気に、殿下がわたしの耳元で言う。

「どうする? お前かシャーロットが弾かない限り、場がもたないぞ? 俺がブチ切れてもいいけれど――」

 殿下が暴れてせっかくの音楽会を台無しにするのは避けたかった。わたしは腹をくくる。

「どうせ、誰もわかりませんわ。だって、わたしが世界で初めての演奏者なのでしょう?」

 要するに誰も聞いたことのない曲なのだから、適当に弾いてもバレない。わたしはじっと、ミセス・デイジーを見つめた。

 わたしはこの女性に全く記憶がない。パーマー家はリーデンシャーに領地があると言うから、わたしの故郷のストラスシャーとは全く方向違いだ。だが彼女はわたしが、実家でピアノばかり弾いていたことを知っている。そして殿下が、リンドホルム城の庭の一部を買おうとしていることも。
 
 庭の売買に関する情報の入手先と言えば、思いつくのはダグラス・アシュバートンだけだ。ダグラスは三年前まで王都の法律事務所で働いていて……そうだ、たしか商家の夫人と不倫問題を起こして事務所をクビになったはず。

 商家……ミセス・デイジー・フランクの夫は貿易商で、デイジーもまた不倫問題を起こして……。

 信じられない偶然だけれど、ダグラスの不倫相手はおそらくデイジーで、二人は最近、よりを戻したか、少なくとも連絡を取ったのだ。――ダグラスは絵入り新聞やゴシップ記事から、わたしとアルバート殿下の関係に気づき、王都の伝手を辿ってデイジーに連絡を取る。そしてデイジーの昔の婚約者の弟が、アルバート殿下の側近だと知って――。

 ダグラスが何を企んでいるのか、わたしは不安に駆られるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
 わたしはミセス・デイジーを意識的に無視し、ヴァイオレット夫人とマールバラ公爵に向かって言った。

「弾いてもよろしいですけれど、皆さま、退屈ではないかしら。本当に前衛的な曲ですもの」
「まあ! さすがはアルバート殿下の思い人ですわね!」

 ヴァイオレット夫人やマールバラ公爵が何か言う前に、ミセス・デイジーが大げさに言う。

「さあ、どうでしょう。でもそろそろ、会を再開なさってください」
 
 わたしは曖昧な微笑みを浮かべ、殿下と並んで元の座席に座る。

「大丈夫ですか? 突然……まさかデイジーがあんな……」
「す、すみません、わた、わたしが……」

 カーティス大尉とシャーロット嬢が、身内の裏切りに青い顔をしているのに、わたしはあえて明るい表情で言った。

「どうせ、わたししか知らない曲ですもの。間違えても誰もわかりませんのよ」
「……もしかして、この前弾いていた、アレか?」
「もしかしなくても、アレですわ。最近、アレしか練習していませんので、アレ以外弾けません」

 さすがの殿下の眉間にも皺が寄っている。

「憶えているのか?」
「ええ、暗譜は得意ですのよ。最近、暇があれば練習していたので、弾くだけなら弾けると思います。ただ……」

 問題は、わたしの楽曲解釈が個性的過ぎること、そして極めて前衛的な曲ということなのだが。

 音楽会は再開され、プログラムが進んで、ご令嬢がたの演奏が続く。可憐な小夜曲セレナーデ、艶やかな夜想曲ノクターン。技量はそこそこだけれど、女性らしい選曲は貴族の夜会に相応しいと言える。
 楽譜があればわたしも弾けるけれど、でも、わたしのような弾き方をする人はいない。普段、わたしが弾くのと全然、別の曲に聞こえる。

(……大丈夫よ。ペダルも覚えたし)

 何せ、わたしのために作曲を依頼した曲なんだから、わたしと作曲者以外、誰も知らない。間違えても誰もわからない。大丈夫、とにかく弾けばいいんだから。

「次は急遽、演奏をお願いした方で、ミス・エルスペス・アシュバートンです。曲はレフ・ハリアビンの練習曲エチュード

 名を呼ばれてわたしが立ち上がると、殿下がわたしの腕を掴み、手を取ってキスをした。

「間違えてもバレない、適当に弾いとけ」
「ええ。……ああ、それからこれ、預かっておいてください。さすがに弾くときに気になるので」

 わたしは左手の薬指からサファイアの指輪を抜き、殿下に渡す。殿下がもう一度わたしの薬指にキスをし、わたしは殿下に微笑みかけ、自分が弾くわけでもないのに、今にも倒れそうなシャーロット嬢の横をすり抜け、ゆっくりとピアノに向かう。

「楽譜は?」
「持って来ていませんの」

 ピアノの横に世話役のような顔で立っているデイジーが、わざとらしく尋ねてくる。持ってきてるわけないじゃない、馬鹿なの? て顔で答えれば、一瞬、複雑そうな表情をした。まさか弾くのを了承すると思ってなかったとか?

 デイジーの存在など無視してピアノの前に座り、充分に時間を取る。ピアノを前にすると全ての雑音が消えるのはいつものこと。わたしは瞬く間に音楽に没頭した。

 脳裏にはどこまでも続く、北国の雪原。冷たい吹雪に煽られて、それでも、生きるのを諦めないのは、愛しい人がいるから。殿下に会えなかった時間の鬱憤を、左手の激しい動きで叩きつける。情熱の全てをぶつけるように、両手で激しい和音を刻んで。

 激しく、かつ複雑な左手は、なかなか弾けなくて頑張って練習した。努力の甲斐あって、ミスタッチもなく滑らかに動いてくれる。――これまでのご令嬢たちの曲と全然違うけれど、わたしはこれしか弾けないって言っているのに、無理を言うんだから、別にいいわよね?

 両手が鍵盤の上を滑るように動き、最後の難所を終える。上手く行った!
 最後の和音が消え、わたしが我に帰ると、大広間はシーンと静まり返っていた。

 ……やってしまったのかしら?

 だから前衛過ぎるからやめた方がって、わたしは……。

 パン、パン、パン……と誰かの拍手が聞こえ、そこから突如、万雷の拍手が鳴った。

「素晴らしいわ、ミス・アシュバートン! 驚いたわ!」
「前衛というよりは、むしろ情熱でした! 感動しました!」

 ヴァイオレット夫人とゴードン卿がこもごも感激を表してくれ、露骨に引き攣った表情で拍手をするデイジーに、ものすごく溜飲が下がる。貶そうにも、誰も聞いたことがない曲だし、前衛曲だから上手いか下手かさえ、わからないだろう。わたし自身は思いっきりピアノが弾けて、大満足して席に戻る。
 
「すごい、あんなにお上手だとは想像していませんでした。びっくりして声も出ません」

 カーティス大尉が言い、シャーロット嬢も目を潤ませて頷く。

「そうですか?」
「そりゃ、あんな曲をいきなり弾き出したら、誰でもビックリするさ」

 殿下が苦笑し、わたしは首を傾げる。

「だって、今、暗譜で弾けるのはあれだけですもの。他のは無理ですわ。……白けてしまったのではないかと、心配でしたのよ」
「いや、まさかの超絶技巧だから、皆、しばらく茫然としていた」

 鍵盤に両手を叩きつけるように弾いているわたしの姿に、一堂、驚愕だったらしい。
 殿下はわたしの左手を取って、改めてサファイアの指輪を嵌め、これ見よがしに手の甲にキスをした。

「ご苦労様、よくやってくれた。エルシーの精神力の強さにはいつも驚かされる」
「そうですか? 無表情で図太いだけですわ」

 わたしが言えば、殿下も満足そうに微笑み、顔を寄せて頬にキスをした。
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