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第三章
prologue3
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リンドホルム城の、黄色く染まった楓並木の下を馬車が走り抜ける。窓の外を黄色い楓の葉が流れていく。
ガラガラ……馬車の車輪の音が響く中、僕はただ、ボロボロと涙を流していた。止めようとしても止められない涙が、膝の上に滴り落ちる。
エルシー……僕の、光。
ここを離れたたら、もう二度と、彼女に会うことはできないだろう。
ガタン、馬車の車輪が小石を噛んで、大きく揺れた拍子に、僕の隣の座席に置いてあった、スケッチブックが跳ね、床に滑り落ちた。
僕が手を伸ばして拾い上げるより早く、対面に座っていたマックス・アシュバートンがそれを手に取る。
「あ――」
ページがほどけて、中の素描が出てきた。――僕がスケッチした拙い絵。エルシーの――。
僕は涙を拭うのを忘れて、おそるおそるマックスの顔を見る。マックスはじっと、僕の絵を――彼の、娘を見つめていた。
「……エルシーが、好きなのか?」
「……」
僕は俯く。……その通りだけれど、頷く勇気がなかった。
僕は十四歳で、エルシーは七歳。ほんの、幼女だ。……きっと僕はどこかがおかしい。汚れのない無垢なエルシーに恋する、変態だ。
「……エルシーはまだ、子供だ」
「……」
「それでも、エルシーが?」
僕はさらに深く俯くしかなかった。
マックスは僕の膝の上に、閉じたスケッチブックを返してから、言った。
「初恋は、叶わない。何故だと思う?」
僕は上目遣いにマックスを見た。――エルシーと同じ、ブル―グレーの瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
「弱いからだ。……恋を叶えるには、幼い時は弱すぎる。たとえば、大人になっても、弱い者は大切な者を守ることができず、奪われる。……私のように」
僕は息を呑んだ。……マックスの言う「奪われた者」が、誰であるか悟ったから。
「強くなりなさい。力でも、金でも、何でもいい。奪われないためには、強くならなければ。そうでなければ、大事な娘をやることはできない」
「……おばあ様は、僕ではダメだって……」
「今の君ではね。この地上でも最弱クラスだ。そんな男に、誰が大事な娘を預けられる?」
マックスのブル―グレーの瞳が、少しだけ細められる。
マックスは身体が大きく、強くて――この彼ですら守れなかった愛しい人を、僕が守れる日が来るとはとても思えなかった。でも――。
僕は膝の上のスケッチブックを抱き締める。
いつか――僕が強くなれたら――その時は――。
リンドホルムを追い出されてから、もう、いくつもの季節が巡った。たった一度の春、たった一度の夏、たった一度の秋。エルシーと過ごした一年にも満たない日々が、俺の心の支えだった。……時々、誰もいない場所でそっと開く、スケッチブックの中の拙いエルシーの素描。
エプロン・ドレスをヒラヒラさせて、ブランコを漕ぐ姿。荒れ地で見つけたウサギを見つめる横顔。ようやく咲いた、薔薇の香りを嗅ぐ、小さな笑顔。
俺の下手くそな画力では、エルシーの愛らしさも、リンドホルム城の美しさも、半分も表現できていない。それでも。
可愛い、可愛い、エルシー。スケッチブックに閉じこめた、思い出の中の、エルシー。七歳の幼い彼女。
――今はもう、それすらも失われた。
ステファニーとの婚約は、ステファニーが五歳になる前に決められた。
王妃は、自分の血を分けた姪たちの方を露骨に可愛がって、事あることに俺と比較し、俺を貶めた。
幼い時はそのたびに傷ついた。王妃を実の母だと信じていたから。ステファニーの姉のアリスンは繊細で利発で、王妃の不自然な態度に気づいたらしく、できるだけ俺に近づかないようにしてくれた。でも、幼いステファニーにはそんなことは理解できない。
王妃は俺の前で殊更にステファニーを可愛がった。――たぶん、差別され、特別に愛されることは気分がよかったのだろう。そうなると一層、ステファニーは俺に纏わりついて、正直、鬱陶しいといったらなかったが、邪険にすればステファニーは王妃に告げ口し、後できつい折檻を受ける羽目になる。
ステファニーとエルシーは二歳しか違わない。髪もエルシーはステファニーよりくすんだ金髪で、目も灰色がかっているが、どちらも青い。
でも、俺にとってステファニーはただ鬱陶しいだけで、エルシーは可愛くて天使のように見えた。
同じような年頃で同じような外見で、同じくらい我儘だったのに、エルシーの我儘は何でも聞いてやりたかった。
ステファニーをエルシーのように愛せれば、俺は幸せになれたかもしれないが、どう考えてもそれは無理だった。
俺のすべてを支配しようとするステファニーは、ついに、俺のスケッチブックにも目を付けた。
『バーティは絵ばっかり描いていらっしゃるのね。わたしにも見せてくださいまし』
――エルシーをステファニーに見せるくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思った。俺が断れば、案の定、ステファニーは王妃に告げ口し、王妃が俺の部屋に来て言った。
『下手な絵を描いているそうね。スケッチブックをお見せなさいな』
『嫌です』
――たぶん、俺の、初めての反抗だった。王妃は青い目を見開き、笑った。
『いけない子ね、バーティ。あの、憎らしい女にそっくり』
なおも白い手を伸ばしてくる王妃を振り切って、俺はスケッチブックを暖炉の火の中に投げ込んだ。炎の舌が、舐めるようにスケッチブックを蝕んでいく。
俺の――エルシーが、燃えていく。最後の思い出も、何もかも――。
俺はスケッチブックが燃えるのを見届けてから、王妃を見た。
『どうします? 次は俺も火の中に投げ込む? やれるもんなら――』
その頃はもう、俺の方が王妃の背丈を抜いていて、力では敵わなくなっていたはずだ。俺は士官学校では拳闘部に入って、身体も鍛えていた。――俺が、大人しく折檻を受けていたから、王妃は俺の成長に、その時まで気づかなかったのだろう。
青い顔で王妃が一歩、二歩と下がる。俺は一歩前に出て、笑った。
『安心してください。アッサリ、暖炉に投げ込むような真似はしませんよ。そんな、アッサリ死ねるような真似はね――』
『……わたくしを、脅すの?』
『まさか。やるときは何も言わずにやりますよ』
――王妃が、ジョージのいる離宮に籠りがちになったのは、その、直後――。
その後も表向き、俺は自分を押し殺して過ごした。
士官学校を出て、小遣いから少しずつ投資して、徐々に、資産を殖やした。
力と、金と――。
俺が独り立ちするのに必要な、強さを手に入れるために。
それでも、王家の柵からは逃れられない。大戦が勃発し、多くの兵士や将官が死んだ。
王族の誰かが戦場に立たねばならないくらい、国の損害は大きかった。
俺以外に戦争に行ける奴がいないのだから、しょうがなかった。どこまでも便利遣いされる自分の存在に嫌気が差していたが、あるいはこれはチャンスかもしれないと思った。
婚約者のステファニー。俺の未来を縛り付け、俺を操ろうとする王妃の傀儡。戦争の危険を理由に、俺は父上やレコンフィールド公爵を説得して、ステファニーとの婚約を白紙に戻すことに成功した。不思議と、一番抵抗するかと思った王妃は何も言わなかった。
――ようやく、俺から興味を失ったかと思っていたのに。あの女の狂気を俺は、読み違えていた。
俺が本拠地を置いていたシャルロー村は、グリージャとの国境に近い、山間の長閑な村だった。
村人は素朴で、酪農と葡萄の栽培、ほそぼそとワインを作っている、けして豊かでない村。俺が王子だというのは伏せていたが、村人はすれ違えば、気軽に帽子を取って挨拶してくれた。
「兵隊さん、栗を持っていくべ?」
「ああ、焚火にくべればいいんだろう?」
「ヒビを入れてからだっぺ。弾けて怪我するべ」
本部に届く郵便は、二週間に一度。俺の居場所を特定されないために、手紙のやり取りも制限がかかっている。部下とその家族に不自由をかけていることが、申し訳なかった。
受け取って、秘書官のロベルトと仕分けする。――俺には父上からの定期連絡と、オーランド邸の執事のヴァルターの事務的な報告以外、来ない。あとは投資関係のものばかり。戦地に送られる手紙の量には、人望と比例関係があるとすれば、マックス・アシュバートンとジョナサン・カーティスは、周囲に愛されているのだろうな、と思う。俺の人望は最低クラス。……友人と呼べるのはロベルトくらいで、一緒に戦地にいるのだから、しょうがない。と、マックス・アシュバートンの元に来た封筒の、いかにも貴族の女性らしい、流麗な文字に目を留める。
――おばあ様の文字? いや、もしかしたら、これは――。
ちょうど執務室に入ってきたマックスに手紙の束を渡す。――父のたっての願いにより、マックスは俺の護衛として、そして実質的な部隊の指揮官として出征していた。自分の席で手紙を読んでいたマックスが、立ち上がって俺の前に来た。
たまたま、ロベルトは席を外して、部屋には二人きりだった。
「家から手紙が来ました。……娘から」
煙草を吸おうと口に咥えたまま、俺はマックスを見上げる。――エルシーの。では、やはり――。
「エルシーを、憶えていますか?」
「あ、当たり前だ! 忘れたことなんか、ない」
口から煙草が落ちるのもかまわず俺が言えば、マックスは苦笑いして、俺に写真を差し出す。
「同封されていました。エルシーと、ビリーです。エルシーが十五で、ビリーが十三。寄宿学校に入るそうで――」
震える手で、写真を受け取る。ピアノの前に座る少女と、その脇に立つ制服の少年。よく似た容姿の二人。
俺がリンドホルムにいた時、ビリーはまだスカートを穿いていた。エルシーもほんの子供で――。
ピアノの前に座るエルシーは、まだ幼さは残るものの、すっかり女性らしくなっていた。髪は長く、上半分を結って、肩から背中を覆って、レースのついたブラウスの胸が、柔らかな曲線を描いている。幼い時の面影の残る、人形のように整った容貌。ツンと澄ました猫のような――それでもわずかに綻んだ唇が、花びらのように清楚で――。
エルシー――。
スケッチブックを燃やしてから、エルシーはただ、脳裏に描く思い出の中だけの存在だった。年々、おぼろげになる記憶の中の彼女が、再び鮮やかな像を結び始める。
エルシー。俺の、ただ一筋の光。俺の――。
「ビリーでは、リンドホルムを守ることはできない」
写真のエルシーの姿を凝視していた俺の耳に、マックスの言葉が突き刺さる。
「え?」
思わず顔を上げると、正面からマックスがじっと俺を見ていた。
「だから、私はビリーの後はエルシーの代襲相続を認めるように、国王陛下に請願書を提出し、認められています」
何の話かよくわからず、俺はただ、呆けたようにマックスを見上げていた。
ビリーは確かに身体が弱かったけれど、写真を見た限りは、多少ひ弱そうだが、普通に育っているようだが……。
「ですがこのご時世、女が代襲相続した場合、婿選びは非常に困難だ。領地の経営も。――将来、殿下が気にかけてくださるなら――」
「俺が、婿になるよ!……ビリーの問題が何かよくわからないが……俺なら……」
マックスは眉を顰めて、じっと俺を見つめて何か考えていた。
「レコンフィールド公爵令嬢との婚約は?」
「あれは白紙に戻した。俺の帰りも待つなと言ってあるし……そのうち、適当な男と結婚するさ」
「……そうでしょうか?」
マックスは首を傾げ、それから言った。
「……まだ、エルシーのことを? エルシーはずいぶん、子供だった。もう、リジーの記憶もあいまいになっているでしょう」
「それでも、俺は忘れてない!」
俺は必死に頼み込んだ。俺の勘が告げていた。このチャンスを逃したらダメだと。――マックスから結婚の許しをもぎ取るんだ!
「マックス! 俺はけっこう、金もあるんだ。拳闘部にも入って、腕っぷしだって……あんたの言うとおり、力をつけたんだ、だから――」
マックスは一瞬、目を逸らしてじっと遠くを見て、それから視線を戻して言った。
「……まあ、娘に求婚する、許可は出しましょう。エルシーが、何て言うか知りませんが」
俺の全身を歓びが突き抜ける。――何の根拠もないが、エルシーは俺との結婚を承知してくれると、俺はこの時確信していた。単純な俺は、もう、エルシーと結婚できる気分になっていた。
戦争が終わったら、俺はマックスとリンドホルムに行って、エルシーに結婚を申し込む――。
その、喜びが粉々に砕け散るのは、わずか一月後。
突然の襲撃に平和だった村は地獄絵図となり、マックスは俺を庇って銃弾に倒れる。
息絶えたマックスの胸のポケットから取り出したエルシーの写真は、穴が空き、血まみれになっていた。
ガラガラ……馬車の車輪の音が響く中、僕はただ、ボロボロと涙を流していた。止めようとしても止められない涙が、膝の上に滴り落ちる。
エルシー……僕の、光。
ここを離れたたら、もう二度と、彼女に会うことはできないだろう。
ガタン、馬車の車輪が小石を噛んで、大きく揺れた拍子に、僕の隣の座席に置いてあった、スケッチブックが跳ね、床に滑り落ちた。
僕が手を伸ばして拾い上げるより早く、対面に座っていたマックス・アシュバートンがそれを手に取る。
「あ――」
ページがほどけて、中の素描が出てきた。――僕がスケッチした拙い絵。エルシーの――。
僕は涙を拭うのを忘れて、おそるおそるマックスの顔を見る。マックスはじっと、僕の絵を――彼の、娘を見つめていた。
「……エルシーが、好きなのか?」
「……」
僕は俯く。……その通りだけれど、頷く勇気がなかった。
僕は十四歳で、エルシーは七歳。ほんの、幼女だ。……きっと僕はどこかがおかしい。汚れのない無垢なエルシーに恋する、変態だ。
「……エルシーはまだ、子供だ」
「……」
「それでも、エルシーが?」
僕はさらに深く俯くしかなかった。
マックスは僕の膝の上に、閉じたスケッチブックを返してから、言った。
「初恋は、叶わない。何故だと思う?」
僕は上目遣いにマックスを見た。――エルシーと同じ、ブル―グレーの瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
「弱いからだ。……恋を叶えるには、幼い時は弱すぎる。たとえば、大人になっても、弱い者は大切な者を守ることができず、奪われる。……私のように」
僕は息を呑んだ。……マックスの言う「奪われた者」が、誰であるか悟ったから。
「強くなりなさい。力でも、金でも、何でもいい。奪われないためには、強くならなければ。そうでなければ、大事な娘をやることはできない」
「……おばあ様は、僕ではダメだって……」
「今の君ではね。この地上でも最弱クラスだ。そんな男に、誰が大事な娘を預けられる?」
マックスのブル―グレーの瞳が、少しだけ細められる。
マックスは身体が大きく、強くて――この彼ですら守れなかった愛しい人を、僕が守れる日が来るとはとても思えなかった。でも――。
僕は膝の上のスケッチブックを抱き締める。
いつか――僕が強くなれたら――その時は――。
リンドホルムを追い出されてから、もう、いくつもの季節が巡った。たった一度の春、たった一度の夏、たった一度の秋。エルシーと過ごした一年にも満たない日々が、俺の心の支えだった。……時々、誰もいない場所でそっと開く、スケッチブックの中の拙いエルシーの素描。
エプロン・ドレスをヒラヒラさせて、ブランコを漕ぐ姿。荒れ地で見つけたウサギを見つめる横顔。ようやく咲いた、薔薇の香りを嗅ぐ、小さな笑顔。
俺の下手くそな画力では、エルシーの愛らしさも、リンドホルム城の美しさも、半分も表現できていない。それでも。
可愛い、可愛い、エルシー。スケッチブックに閉じこめた、思い出の中の、エルシー。七歳の幼い彼女。
――今はもう、それすらも失われた。
ステファニーとの婚約は、ステファニーが五歳になる前に決められた。
王妃は、自分の血を分けた姪たちの方を露骨に可愛がって、事あることに俺と比較し、俺を貶めた。
幼い時はそのたびに傷ついた。王妃を実の母だと信じていたから。ステファニーの姉のアリスンは繊細で利発で、王妃の不自然な態度に気づいたらしく、できるだけ俺に近づかないようにしてくれた。でも、幼いステファニーにはそんなことは理解できない。
王妃は俺の前で殊更にステファニーを可愛がった。――たぶん、差別され、特別に愛されることは気分がよかったのだろう。そうなると一層、ステファニーは俺に纏わりついて、正直、鬱陶しいといったらなかったが、邪険にすればステファニーは王妃に告げ口し、後できつい折檻を受ける羽目になる。
ステファニーとエルシーは二歳しか違わない。髪もエルシーはステファニーよりくすんだ金髪で、目も灰色がかっているが、どちらも青い。
でも、俺にとってステファニーはただ鬱陶しいだけで、エルシーは可愛くて天使のように見えた。
同じような年頃で同じような外見で、同じくらい我儘だったのに、エルシーの我儘は何でも聞いてやりたかった。
ステファニーをエルシーのように愛せれば、俺は幸せになれたかもしれないが、どう考えてもそれは無理だった。
俺のすべてを支配しようとするステファニーは、ついに、俺のスケッチブックにも目を付けた。
『バーティは絵ばっかり描いていらっしゃるのね。わたしにも見せてくださいまし』
――エルシーをステファニーに見せるくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思った。俺が断れば、案の定、ステファニーは王妃に告げ口し、王妃が俺の部屋に来て言った。
『下手な絵を描いているそうね。スケッチブックをお見せなさいな』
『嫌です』
――たぶん、俺の、初めての反抗だった。王妃は青い目を見開き、笑った。
『いけない子ね、バーティ。あの、憎らしい女にそっくり』
なおも白い手を伸ばしてくる王妃を振り切って、俺はスケッチブックを暖炉の火の中に投げ込んだ。炎の舌が、舐めるようにスケッチブックを蝕んでいく。
俺の――エルシーが、燃えていく。最後の思い出も、何もかも――。
俺はスケッチブックが燃えるのを見届けてから、王妃を見た。
『どうします? 次は俺も火の中に投げ込む? やれるもんなら――』
その頃はもう、俺の方が王妃の背丈を抜いていて、力では敵わなくなっていたはずだ。俺は士官学校では拳闘部に入って、身体も鍛えていた。――俺が、大人しく折檻を受けていたから、王妃は俺の成長に、その時まで気づかなかったのだろう。
青い顔で王妃が一歩、二歩と下がる。俺は一歩前に出て、笑った。
『安心してください。アッサリ、暖炉に投げ込むような真似はしませんよ。そんな、アッサリ死ねるような真似はね――』
『……わたくしを、脅すの?』
『まさか。やるときは何も言わずにやりますよ』
――王妃が、ジョージのいる離宮に籠りがちになったのは、その、直後――。
その後も表向き、俺は自分を押し殺して過ごした。
士官学校を出て、小遣いから少しずつ投資して、徐々に、資産を殖やした。
力と、金と――。
俺が独り立ちするのに必要な、強さを手に入れるために。
それでも、王家の柵からは逃れられない。大戦が勃発し、多くの兵士や将官が死んだ。
王族の誰かが戦場に立たねばならないくらい、国の損害は大きかった。
俺以外に戦争に行ける奴がいないのだから、しょうがなかった。どこまでも便利遣いされる自分の存在に嫌気が差していたが、あるいはこれはチャンスかもしれないと思った。
婚約者のステファニー。俺の未来を縛り付け、俺を操ろうとする王妃の傀儡。戦争の危険を理由に、俺は父上やレコンフィールド公爵を説得して、ステファニーとの婚約を白紙に戻すことに成功した。不思議と、一番抵抗するかと思った王妃は何も言わなかった。
――ようやく、俺から興味を失ったかと思っていたのに。あの女の狂気を俺は、読み違えていた。
俺が本拠地を置いていたシャルロー村は、グリージャとの国境に近い、山間の長閑な村だった。
村人は素朴で、酪農と葡萄の栽培、ほそぼそとワインを作っている、けして豊かでない村。俺が王子だというのは伏せていたが、村人はすれ違えば、気軽に帽子を取って挨拶してくれた。
「兵隊さん、栗を持っていくべ?」
「ああ、焚火にくべればいいんだろう?」
「ヒビを入れてからだっぺ。弾けて怪我するべ」
本部に届く郵便は、二週間に一度。俺の居場所を特定されないために、手紙のやり取りも制限がかかっている。部下とその家族に不自由をかけていることが、申し訳なかった。
受け取って、秘書官のロベルトと仕分けする。――俺には父上からの定期連絡と、オーランド邸の執事のヴァルターの事務的な報告以外、来ない。あとは投資関係のものばかり。戦地に送られる手紙の量には、人望と比例関係があるとすれば、マックス・アシュバートンとジョナサン・カーティスは、周囲に愛されているのだろうな、と思う。俺の人望は最低クラス。……友人と呼べるのはロベルトくらいで、一緒に戦地にいるのだから、しょうがない。と、マックス・アシュバートンの元に来た封筒の、いかにも貴族の女性らしい、流麗な文字に目を留める。
――おばあ様の文字? いや、もしかしたら、これは――。
ちょうど執務室に入ってきたマックスに手紙の束を渡す。――父のたっての願いにより、マックスは俺の護衛として、そして実質的な部隊の指揮官として出征していた。自分の席で手紙を読んでいたマックスが、立ち上がって俺の前に来た。
たまたま、ロベルトは席を外して、部屋には二人きりだった。
「家から手紙が来ました。……娘から」
煙草を吸おうと口に咥えたまま、俺はマックスを見上げる。――エルシーの。では、やはり――。
「エルシーを、憶えていますか?」
「あ、当たり前だ! 忘れたことなんか、ない」
口から煙草が落ちるのもかまわず俺が言えば、マックスは苦笑いして、俺に写真を差し出す。
「同封されていました。エルシーと、ビリーです。エルシーが十五で、ビリーが十三。寄宿学校に入るそうで――」
震える手で、写真を受け取る。ピアノの前に座る少女と、その脇に立つ制服の少年。よく似た容姿の二人。
俺がリンドホルムにいた時、ビリーはまだスカートを穿いていた。エルシーもほんの子供で――。
ピアノの前に座るエルシーは、まだ幼さは残るものの、すっかり女性らしくなっていた。髪は長く、上半分を結って、肩から背中を覆って、レースのついたブラウスの胸が、柔らかな曲線を描いている。幼い時の面影の残る、人形のように整った容貌。ツンと澄ました猫のような――それでもわずかに綻んだ唇が、花びらのように清楚で――。
エルシー――。
スケッチブックを燃やしてから、エルシーはただ、脳裏に描く思い出の中だけの存在だった。年々、おぼろげになる記憶の中の彼女が、再び鮮やかな像を結び始める。
エルシー。俺の、ただ一筋の光。俺の――。
「ビリーでは、リンドホルムを守ることはできない」
写真のエルシーの姿を凝視していた俺の耳に、マックスの言葉が突き刺さる。
「え?」
思わず顔を上げると、正面からマックスがじっと俺を見ていた。
「だから、私はビリーの後はエルシーの代襲相続を認めるように、国王陛下に請願書を提出し、認められています」
何の話かよくわからず、俺はただ、呆けたようにマックスを見上げていた。
ビリーは確かに身体が弱かったけれど、写真を見た限りは、多少ひ弱そうだが、普通に育っているようだが……。
「ですがこのご時世、女が代襲相続した場合、婿選びは非常に困難だ。領地の経営も。――将来、殿下が気にかけてくださるなら――」
「俺が、婿になるよ!……ビリーの問題が何かよくわからないが……俺なら……」
マックスは眉を顰めて、じっと俺を見つめて何か考えていた。
「レコンフィールド公爵令嬢との婚約は?」
「あれは白紙に戻した。俺の帰りも待つなと言ってあるし……そのうち、適当な男と結婚するさ」
「……そうでしょうか?」
マックスは首を傾げ、それから言った。
「……まだ、エルシーのことを? エルシーはずいぶん、子供だった。もう、リジーの記憶もあいまいになっているでしょう」
「それでも、俺は忘れてない!」
俺は必死に頼み込んだ。俺の勘が告げていた。このチャンスを逃したらダメだと。――マックスから結婚の許しをもぎ取るんだ!
「マックス! 俺はけっこう、金もあるんだ。拳闘部にも入って、腕っぷしだって……あんたの言うとおり、力をつけたんだ、だから――」
マックスは一瞬、目を逸らしてじっと遠くを見て、それから視線を戻して言った。
「……まあ、娘に求婚する、許可は出しましょう。エルシーが、何て言うか知りませんが」
俺の全身を歓びが突き抜ける。――何の根拠もないが、エルシーは俺との結婚を承知してくれると、俺はこの時確信していた。単純な俺は、もう、エルシーと結婚できる気分になっていた。
戦争が終わったら、俺はマックスとリンドホルムに行って、エルシーに結婚を申し込む――。
その、喜びが粉々に砕け散るのは、わずか一月後。
突然の襲撃に平和だった村は地獄絵図となり、マックスは俺を庇って銃弾に倒れる。
息絶えたマックスの胸のポケットから取り出したエルシーの写真は、穴が空き、血まみれになっていた。
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そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
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