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幕間 公爵令嬢ステファニー・グローブナーの悔恨

決意

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「では、アルバート殿下はさぞ、我が家を恨んでいらっしゃるでしょうね?」
 
 冷静さを取り戻した姉が問いかければ、フィリップ殿下は少しだけ、唇を歪めた。

「まあ、そうだね。……エルスペス嬢に去られたのは自業自得の部分もないではないけれど、それでも、君たちの家の顧問弁護士は、一万ポンドの小切手をチラつかせて、老婦人に孫娘とバーティを別れさせろと迫ったそうだから。それについてもバーティは許しがたいと思っているだろう」

 わたくしは顔を伏せて、呟いた。

「……確かに酷い話ですわ。でも、客観的に見て、彼女は愛人ですもの。それを許容するなんて、無理よ……」

 姉はわたくしとフィリップ殿下を見比べ、言った。

「正直申し上げて、わたくし自身は、ステファニーとアルバート殿下の結婚は、よした方がいいと思っておりますの。父は、認めようとはしないでしょうが……ステファニーが幸せになるとは思えません」

 姉の言葉に、わたくしは驚いて反論した。

「アリスン! でも……確かに今は、殿下はあの女に心を奪われていらっしゃるけれど、あの人は殿下の元から去ったのでしょう? ……殿下が王族として生きていくには、わたくしのような身分のしっかりした妃が必要なはずです。今は殿下も怒っていらっしゃるけど、いつかは――」

 戦争に行く前の殿下はとても優しい方だった。愛されていた、というのはわたくしの思い込みだったとしても、殿下だって、わたくしを妃として受け入れるつもりでいらっしゃったはずだ。

 何より、愛人だった女と正式に結婚するなんて、たとえ彼女が伯爵家の出だとしても、世論の理解は得られまい。はっきり言えばあり得ない。

「ステファニー……殿下はあなたのことも、おそらく不愉快に思っていらっしゃるわ。彼女と引き裂かれたのはあなたのせいだとも。そんな相手と結婚生活を送るなんて、無理よ」
「でも、わたくしはバーティを!……殿下を愛していますの! 昔は我儘ばかり言って、彼を困らせていたけど、もうそんな子供じゃないわ。バーティはわたくしのお願いは何でも聞いてくださったもの。優しいバーティならきっとわかってくださる――」
「ステファニー……そのことなんだが……」

 フィリップ殿下が何とも複雑な表情で、わたくしを見た。

「バーティは戦前に君と親しくしていたのは、王妃の……母上の強い意向があったからだと言った。私の目から見ても、バーティと君と仲睦まじく見えたけれど、バーティが言うには、君の機嫌を損ねると、君から王妃に告げ口されて、酷い場合は暴力を含む……体罰を受けたと」
「体罰? エレイン様が? バーティに?」

 わたくしがびっくりして身を乗り出す。

「……君は、もちろん知らなかったのだな?」

 わたくしは慌てて首を振る。

「まさかそんな……」
「……告げ口はしていたの?」

 アリスンに聞かれ、わたくしは一瞬、躊躇ったけれど、小さく頷いた。

「いつも……というわけでは……まだずっと子供の頃のことよ。わたくしも昔はずいぶん、我儘だったと反省していてよ? その……時々……小さな喧嘩をしたりして、王妃陛下に申し上げれば、翌日にはバーティがいつも謝ってくださって……戦争に行く直前あたりは、そんな我儘を言うこともなくて」
「それは、殿下が何でも、あなたの言うことを聞いてくださったからでしょう?……ステファニー……昔から、あなたのアルバート殿下への態度は、あまりに我儘が過ぎるとわたくしは思っていたの。でも殿下がそれを許していらっしゃるようだったから、敢えては何も言わなかったけれど……そんな理由だったなんて……」

 アリスンは睫毛を伏せ、深い溜息をつく。

「……ステファニー……もう、無理よ。アルバート殿下はあなたを愛して、我儘を許しておられたわけではないのよ。王妃陛下の体罰を避けるために、仕方なくあなたの我儘を聞いていたのよ。そんな相手と結婚したいと思えるわけがないわ?……まして、今は他の女性を愛していらっしゃるのに」
「そんな……わたくしは知らなかったもの! まさか、あの優しいエレイン様がそんなことをしていらっしゃるなんて、誰が想像できると言うの? わたくしは……わたくしのせいじゃないわ!」

 必死に言い募るわたくしを、フィリップ殿下が同情を含んだ琥珀色の瞳で見つめ、言った。

「そうだ、ステファニー。君のせいじゃない。母上が――王妃が君の幼さと愚かさを利用したんだよ。君のせいじゃあ、ない。でも、バーティが君とやり直すつもりになれないのも、私は当然だとも思う」
「そんな――」

 思わず、目に涙が滲んでくる。――泣いたら、化粧がはげてしまうのに。

「わたくしは……わたくしは本当にバーティを愛していて……」

 わたくしは両手で顔を覆った。

 なんて愚かだったんだろう。わたくしは彼を愛していた。愛されていると確かめたくて、いつも彼に我儘を言った。叶えられなくてエレイン様に泣きつけば、その我儘は必ず叶えられて、わたくしは、彼に愛されていると実感できた。

 あの時――ボートに乗せていただいた時、殿下はオールを漕ぐたびに顔を歪めていた。あれが、エレイン様からの体罰のせいだとしたら――。

 恨まれない、はずがない。
 愛される、はずがない。

 愛されていると信じ込んで、愛を試すように我儘を言い続けるわたくしを、殿下はきっと、滑稽で愚かな女だと思っていらっしゃっただろう。

「ステファニー……そうね、あなただけのせいではないわ。わたくしだって、王妃陛下の不自然なおふるまいに気づいていたのに、何も言わなかった……あなただけのせいでは……」

 姉はわたくしを窘めると、フィリップ殿下に向き直る。

「わたくしは父が何を考えているのかわかりません。でも、ステファニーの幸せのためにも、アルバート殿下との結婚はやめた方が――」
「いやよ! わたくしはバーティを愛してるの! バーティと結婚するの!」
「ステファニー!」

 アリスンがわたくしを咎めるけれど、わたくしは首を振って叫んだ。

「わたくしはバーティを愛してます! わたくしは彼の役に立てるわ! レコンフィールド公爵家の娘として、バーティを妃として支えられる! それは、わたくしにしかできないわ! ……バーティがどんなに愛しても、あの女ではバーティを支えられない! そうでしょう? 所詮、あの女は愛人でしかないんだから!」
「ステファニー! 声を抑えて! 言葉を慎みなさい!」

 姉に窘められ、わたくしは唇を噛んで俯く。

「……どんな相手であれ、人を貶めるような言葉を使うべきではないわ。彼女にも事情があったのを、あなたも聞いていたのでしょう?……まして、アルバート殿下が愛していらっしゃる方なのだから」

 脳裏に浮かぶのは、あの日目にした、彼女の背中。――殿下の寵愛の印をいくつも散らした――。
 殿下が愛しているのは、彼女。きっと、閨で何度も愛を囁いて、あの白い肌に唇を這わして――。
 
 嫉妬で目の奥が赤くなる。写真だけで恋に落ち、経済的な窮状につけ込んでまで手に入れた女。でも――。

 所詮、身分も財産も失った、力のない女。彼女を妻にしたら、バーティの未来はどうなるの? 議会の反対を押し切り、大貴族の後押しも捨てて、この貴族社会でどうやって生きていくと言うの?
 

 ――わたくしなら! わたくしが妻になれば、そんなことにはならない。

 涙ながらに叫んだわたくしに、フィリップ殿下が眉を顰め、言った。

「……ステファニーそれは……だが、バーティはそういう理由での、政略結婚を受け入れるつもりはないと思う。……バーティは権力にも、王位にも興味がない。本気で継承権を放棄してもいいと思っている。君の献身を、バーティは受け入れないだろう」 
 
 でも、わたくしは頑として首を振った。

「愛しているんです。……バーティを。父も伯父も、国のためを思って、わたくしとバーティの婚約を決めたんです。わたくしも公爵令嬢として、与えられた役割を果たします」
「無理に嫁いでも、バーティは君を憎むだけかもしれない。私自身、そんな不自然な政略結婚を、バーティに強いるつもりはない。ステファニー……今しばらくは婚約を維持するとしても、いずれは――」
「いいえ。わたくし以外にバーティの妃に相応しい者はいないわ。……わたくし、嫁ぎます。彼に憎まれても――」

 ……わたくしは決意を固めて、一人、晩餐会に立った。奇妙に空いた空間が、全体のバランスまでも崩しているよう。婚約披露でありながら、肝心の王子は不在。――ヒソヒソと、不穏な囁きがわたくしの耳にも聞こえる。



 援ける手もなく、愛もない妃の地位。――それでも、彼を愛しているから、わたくしはその場所に立つと決めた。










 駅から王宮へと向かう馬車の中、殿下は無言で窓の外を見つめている。
 きっと、一人残した彼女のことを考えている。――愛しているのに、ここに連れては来られなかった、あの人のことを。

「……バーティ?」
「……」
「バーティ?」
「気安く呼ぶな。……お前と結婚するつもりはない」

 わたくしの方を見もせずに、冷たく言い捨てるその言葉に、向かい側に座るバーソロミュー伯父様が眉を顰める。

「アルバート殿下。王族とはいえ、彼女は王妃の姪で、レコンフィールド公爵の令嬢です。言葉遣いはもっと――」
「知るか。気に入らんのなら、政界からも社交界からもとっとと追放してくれ。俺は政治にも王位にも興味はない」
「戦場の英雄であられたあなたが、愛人に骨抜きにされるとは、残念ですな」

 伯父様の皮肉に、殿下はふっと片頬を歪めた。

「首相閣下の溺愛する姪の、婿には相応しくないな。俺からご辞退申し上げる」
「殿下――」

 わたくしが口を挟めば、殿下は金色の瞳をようやく、わたくしに向けてくださった。

「わたくし、覚悟はできております。たとえ愛されない妃であっても、殿下をお支えすると決めました」
「はあ? 何言ってんだ、お前?」
「殿下が愛していらっしゃるのが別の方でも、わたくしは殿下を愛していますから」

 殿下は金色の瞳を見開いて、穴が開くほどわたくしを見つめて、言った。

「……何が言いたい?」
「ですから、あの方をお側に置かれるなら、仕方がありません。たとえ殿下の愛がなくとも、わたくしは妃としての役割は果たしてみせます」

 殿下は息を呑んで、掠れる声で囁くように言った。

「……それは……エルシーを愛人にしろということか? お前が正妻で?」

 それはわたくしにとっては身を切るほど辛い覚悟で、わたくしは目を伏せて頷いた。でも――。


 ダンッ! という音がして、わたくしの頭のすぐ横に、殿下の拳が叩きつけられ、わたくしが驚いて目を開けると、殿下の怒りの形相が目の前にあった。

「ふざけるなっ! 二度と口にしてみろ、次は殺すぞ?!」 

 わたくしが何故、殿下がお怒りになられたのか理解できないでいると、対面に座る伯父様が、溜息をついた。

「……ステファニー、今のは、君がよくないよ」

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