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幕間 公爵令嬢ステファニー・グローブナーの悔恨
目を背けても
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このころになると、アルバート殿下の愛人の噂は、王都でもかなり囁かれるようになっていた。そんな醜聞を放置するなんて、殿下も迂闊なと、わたくしは初め思ったけれど、後から思えば、殿下は例の彼女と結婚するつもりでいて、また、わたくしとの婚約は四年前に白紙に戻っていたのだから、自分は何も疚しいことはしていないと、考えておられたのだろう。
でもわたくしにとって、殿下と新しい女の噂は醜聞以外の何物でもなかった。
幼馴染で相思相愛で、誰からも許された瑕一つない婚約者であった、公爵令嬢であるわたくしを捨て、どこの馬の骨とも知れない女にうつつを抜かし、彼女を高級アパートメントに住まわせ、高価なドレスや装身具を貢ぐ。
戦争を命懸けでくぐり抜け、輝かしい戦果を上げた国の英雄としての殿下の名声が、こんな愚かな醜聞で地に墜ちてしまうことが、わたくしには耐えられなかった。
それは、戦前はパーティや乗馬、さまざまな催しで顔を合わせ、殿下とは親しい友人だと信じていた、アイザック・グレンジャー卿やその婚約者、わたくしの親友であるシュタイナー伯爵令嬢であるミランダも同じだった。
「ローリー・リーンのメゾンで、何着も高価なドレスを購入しているそうよ?」
婚約者と二人、我が家を訪ねてくれたミランダが、細い指で紅茶のカップを持ち上げながら言う。
「ミス・リーンの弟は、殿下の秘書官をしてるそうだ。士官学校は出ているけど、下町育ちの平民で……そんな奴を身近に置くから、殿下もおかしくなったんだ。ローリー・リーンのパトロンはバーナード・ハドソン商会の会長。東洋の絹や真珠、それから古美術品なんかも、殿下はいろいろ買い漁っておられるとか」
「食い物にされているのじゃなくて?」
「そうかもしれない。そうじゃなければ、レディ・ステファニーを捨てて卑しい女を愛人にするなんて、信じられない」
アイザック・グレンジャー卿は本心から、義憤に駆られているようだった。
「どうせ、殿下の贈る宝石や金目当ての女なんだろう? 多少の小遣いを握らせて脅しをかければ、とっとと尻尾を巻いて逃げ出すに違いない」
「でも――」
わたくしは、司令部で見た彼女の様子を思い出す。
彼女は卑しい下町の女ではなくて、間違いなく、貴族の育ちだった。金で、自分の尊厳を売り渡したりするだろうか?
でもアイザック卿は彼女が売春婦だと疑ってもいないようで、さっさと段取りを決めて、わたくしたちは殿下のアパートメントに近い、とあるカフェに移動する。フェーズ夫人に命じて彼女を呼びに行かせたけれど、らちが明かないようだった。
殿下からつけられた護衛のジョナサン・カーティス卿と、もう一人の屈強な護衛に阻まれて、女はわたくしの呼び出しを拒絶したらしい。
信じられないことに、彼女はアイザック卿にも堂々と言い放ったそうだ。
『わたしの父が何者で、殿下が何故、わたしを秘書官に登用したのか、調べてすらいないんだもの』
エルスペス・アシュバートン。その父、マクシミリアン・アシュバートン中佐は、シャルロー村で殿下を身を以て守り、戦死した。女性だった彼女は爵位を継承できず、財産も失って王都に出てきた。だから――。
確かに、彼女が零落したのは間接的には殿下のせいだ。アシュバートン中佐が戦死しなければ、彼女は伯爵令嬢として、今も故郷の邸に暮らしていたのだろう。
戦死した部下の家族に対する、殿下の負い目を利用して、殿下の愛人に収まっているの?
わたくしには、彼女の気持ちも、そして彼女に大金を貢いで贅沢な暮らしをさせる殿下の気持ちも、理解できなかった。
首相を務めるバーソロミュー伯父様が我が家を訪れたのは、その頃だ。彼はわたくしの母の姉。エインズリー侯爵の爵位は長兄の伯父が継いでいるが、自身、貴族院議員として長く政治家としての地歩を固め、自らベックフォード伯爵の爵位を得ている。
「聞いたよ、ステファニー。アルバート殿下に婚約を拒否されているそうだね」
「伯父様……」
応接室に呼び出されてみれば、バーソロミュー伯父様はフロックコート姿で長い脚を組み、左手の指には葉巻を挟んでいた。
「困ったことだ。まあ、わしとしては、三男坊に可愛いステファニーは勿体ないと思っているがね? 結婚後はオーランド公爵に陞爵するとはいえ、この節、王子にたいした領地も分けられないし、王族の妃は制約も多い。いっそ、鞍替えしたらどうかね? ステファニーなら、もっといい男がたくさんいる」
伯父様が吸い込む、強い葉巻の香りに、わたくしは咽そうになりながら、微笑んだ。
「……わたくし、殿下を愛しておりますわ。他の方なんて、考えたこともなくて……」
「ならば、強引に決めてしまってもいいのかね? 結婚前から愛人を囲うような男と」
「きっと、事情があるのです。バーティは優しい方だから」
わたくしの言葉に、バーソロミュー伯父様が皮肉そうに笑った。
「優しい男は長年の婚約者をあっさり捨てたりもしないし、祖母の病気で金銭的に追い詰められた元・伯爵令嬢を無理矢理愛人にしたりはしない」
その言葉に、わたくしは目を瞠った。
「……どういう、ことですの?」
伯父様はふうっと紫煙を吐き出し、肩を竦めて見せた。
「何、ちょっと調べたらすぐにわかる。……最初は、父が戦死して没落した令嬢への同情心だったかもしれないがね。だが、はっきり言えば彼女は美しい。ちょっと冷たい雰囲気で犯しがたい気品すらある。そんな女が、金銭的な援助をチラつかせればアッサリ自分のモノになる状況だ。……殿下も、若い男だった、というだけのことさ」
わたくしが意味を理解しかねて固まるところに、ソファの背後に立っていた、わたくしの兄のチャーリーがまぜっかえす。
「そんなにいい女なの? あのバーティが引っかかるくらい?」
「ああ、わしも若い頃なら引っかかったかもな。男に媚びない女をいいようにできるなんて、ある種の男の夢だ」
伯父様が喉の奥で笑う。その様子が何とも下品な気がして、わたくしはつい、眉を顰めた。
「なんだか、いやらしいわ、伯父様もチャーリーも」
「これは失礼、ステファニーの前では相応しくない会話だったな。……まあとにかく、例の女はわしに言わせれば、被害者だよ。だからと言って同情はしないがね。王子の我儘をこれ以上許容するわけにもいくまい。王家への牽制も含め、強硬な手段に出ることにした」
「強硬な手段?」
わたくしが聞き返せば、バーソロミュー伯父様は大きく頷いた。
「陛下のご裁可が下った。アルバート殿下とステファニーの婚約は認められた。このまま、議会にかけて承認を取り付ければ、そう、簡単には覆せない」
「……それはちょっと強引過ぎるのではないですか? 僕は、兄として、たとえ王子であっても、不実な男のもとに妹をやりたくない」
チャーリーが言えば、伯父様が首を振る。
「グリージャの方がきな臭い。殿下を王女と結婚させる、なんてことを言い出したやつがいてね。そこへもってきて、この愛人騒動だ。政府の意見をはっきりと表明しておく、必要があるのだよ」
父・レコンフィールド公爵と伯父で首相のバーソロミュー・ウォルシンガム卿の主導により、わたくしとアルバート殿下の婚約が、議会に掛けられることになった。
その承認が得られれば、わたくしと殿下の婚約は正式なものとなる。
だからその前にわたくしは、どうしても殿下に聞きたかった。
どうして、わたくしから心変わりしたの?
もう、わたくしのことは愛していないの?
どうして、あんな女と――。
翌日、わたくしは殿下が例の女と、十番街のローリー・リーンのメゾンを訪れたと聞き、慌てて仕度をして向かった。
不躾なのはわかっている。でも、こんな形で政治的に婚約が決まってしまうのは、あまりに惨めだ。
確かに政略結婚かもしれない。でも、わたくしはずっと殿下を愛してきたのだから。
せめてそれを伝えることぐらい、許されるでしょう?
――わたくしはたぶん、恋と嫉妬に狂って、おかしくなっていたのだろう。
少なくとも平静さは欠いていた。
だから止めるのも聞かずに強引にメゾンに踏み込み、殿下を出せと要求した。
「殿下はいらっしゃいませんよ! ここから先は現在、お客様がいらしゃるので――」
豊満な身体を派手なドレスで包んだマダム・リーンが、わたくしの行く手を阻もうとする。
「行って! 奥よ! 殿下を捕まえて! お願い!」
わたくしに命じられ、メゾンの奥に踏み込んだ護衛の男と、見覚えのある男性が揉み合いになる。――ジョナサン・カーティスだ! 彼がいるということは、きっと殿下もこの奥に――。
無我夢中で開けた扉の奥で、数人とお針子に囲まれ、下着一枚の若い女性が振り返り、ブルーグレイの瞳を見開き、悲鳴を上げる。
慌てて身を隠すように後ろを向いたその背中。真っ白いそこに、いくつも赤い痕が散らばっていて――。
かつて、結婚したばかりの姉の、首筋の赤い痕を何気なく指摘したわたくしに、姉が真っ赤になって俯いた。
『やめてよ、ステファニー……チョーカーで隠しているの。しょうがないのよ』
その痕が、男女の愛の営みの末につけられるものだと知って、わたくしもまた真っ赤になった。
つまり、あれは――。
どれほどの記憶を辿っても、殿下はわたくしに触れようとはなさらなかった。
社交界にデビューして、夜会のエスコートのついでに、庭先の散歩を強請った時も、殿下はいつもと同じ距離感を保ち、それ以上近づこうとはなさらなかった。
本当のことを言えば、わたくしは殿下にキスしていただきたかった。
抱きしめていただきたかった。愛していると囁いていただきたかった。
そんな甘い時間の何一つない殿下の潔癖さを、わたくしは内心、不満に思っていた。
だからこそ、現実から目を背け、愛されているのだと信じようとした。
我儘を言えば、殿下は叶えてくださる。
予定を捻じ込めば、先約を断ってわたくしに付き合ってくださった。
美術館に行くはずだったのに、突然、乗馬がしたいと言えば、殿下は文句一つ言わず、手配してくださった。
それを、愛だと信じようとした。
頑なにわたくしに触れようとしないのもまた、愛ゆえなのだと。
――なのに、この女には触れるのだ。
高価な贈り物を選び、アパートメントに住まわせ、夜を共にする。
戦争で人が変わって、彼女を愛するようになったから?
でもなぜ、わたくしではいけなかったの?
信じたくない現実が、わたくしの面前にさらけ出される。
『殿下はもともと、レディ・ステファニーが好きではなかったが、周囲に決められた婚約者だからと、紳士的に接してきた。しかし戦場で地獄を見て、周囲の言いなりになるのをやめた。そういうことだと、僕は理解していますがね』
ジョナサン・カーティスの冷静な言葉に、瞬間、わたくしの脳は沸騰したけれど、でも、何かがポツンとわたくしの中に落ちた。
殿下は――バーティは一度として、わたくしを愛してはいなかった。
でもわたくしにとって、殿下と新しい女の噂は醜聞以外の何物でもなかった。
幼馴染で相思相愛で、誰からも許された瑕一つない婚約者であった、公爵令嬢であるわたくしを捨て、どこの馬の骨とも知れない女にうつつを抜かし、彼女を高級アパートメントに住まわせ、高価なドレスや装身具を貢ぐ。
戦争を命懸けでくぐり抜け、輝かしい戦果を上げた国の英雄としての殿下の名声が、こんな愚かな醜聞で地に墜ちてしまうことが、わたくしには耐えられなかった。
それは、戦前はパーティや乗馬、さまざまな催しで顔を合わせ、殿下とは親しい友人だと信じていた、アイザック・グレンジャー卿やその婚約者、わたくしの親友であるシュタイナー伯爵令嬢であるミランダも同じだった。
「ローリー・リーンのメゾンで、何着も高価なドレスを購入しているそうよ?」
婚約者と二人、我が家を訪ねてくれたミランダが、細い指で紅茶のカップを持ち上げながら言う。
「ミス・リーンの弟は、殿下の秘書官をしてるそうだ。士官学校は出ているけど、下町育ちの平民で……そんな奴を身近に置くから、殿下もおかしくなったんだ。ローリー・リーンのパトロンはバーナード・ハドソン商会の会長。東洋の絹や真珠、それから古美術品なんかも、殿下はいろいろ買い漁っておられるとか」
「食い物にされているのじゃなくて?」
「そうかもしれない。そうじゃなければ、レディ・ステファニーを捨てて卑しい女を愛人にするなんて、信じられない」
アイザック・グレンジャー卿は本心から、義憤に駆られているようだった。
「どうせ、殿下の贈る宝石や金目当ての女なんだろう? 多少の小遣いを握らせて脅しをかければ、とっとと尻尾を巻いて逃げ出すに違いない」
「でも――」
わたくしは、司令部で見た彼女の様子を思い出す。
彼女は卑しい下町の女ではなくて、間違いなく、貴族の育ちだった。金で、自分の尊厳を売り渡したりするだろうか?
でもアイザック卿は彼女が売春婦だと疑ってもいないようで、さっさと段取りを決めて、わたくしたちは殿下のアパートメントに近い、とあるカフェに移動する。フェーズ夫人に命じて彼女を呼びに行かせたけれど、らちが明かないようだった。
殿下からつけられた護衛のジョナサン・カーティス卿と、もう一人の屈強な護衛に阻まれて、女はわたくしの呼び出しを拒絶したらしい。
信じられないことに、彼女はアイザック卿にも堂々と言い放ったそうだ。
『わたしの父が何者で、殿下が何故、わたしを秘書官に登用したのか、調べてすらいないんだもの』
エルスペス・アシュバートン。その父、マクシミリアン・アシュバートン中佐は、シャルロー村で殿下を身を以て守り、戦死した。女性だった彼女は爵位を継承できず、財産も失って王都に出てきた。だから――。
確かに、彼女が零落したのは間接的には殿下のせいだ。アシュバートン中佐が戦死しなければ、彼女は伯爵令嬢として、今も故郷の邸に暮らしていたのだろう。
戦死した部下の家族に対する、殿下の負い目を利用して、殿下の愛人に収まっているの?
わたくしには、彼女の気持ちも、そして彼女に大金を貢いで贅沢な暮らしをさせる殿下の気持ちも、理解できなかった。
首相を務めるバーソロミュー伯父様が我が家を訪れたのは、その頃だ。彼はわたくしの母の姉。エインズリー侯爵の爵位は長兄の伯父が継いでいるが、自身、貴族院議員として長く政治家としての地歩を固め、自らベックフォード伯爵の爵位を得ている。
「聞いたよ、ステファニー。アルバート殿下に婚約を拒否されているそうだね」
「伯父様……」
応接室に呼び出されてみれば、バーソロミュー伯父様はフロックコート姿で長い脚を組み、左手の指には葉巻を挟んでいた。
「困ったことだ。まあ、わしとしては、三男坊に可愛いステファニーは勿体ないと思っているがね? 結婚後はオーランド公爵に陞爵するとはいえ、この節、王子にたいした領地も分けられないし、王族の妃は制約も多い。いっそ、鞍替えしたらどうかね? ステファニーなら、もっといい男がたくさんいる」
伯父様が吸い込む、強い葉巻の香りに、わたくしは咽そうになりながら、微笑んだ。
「……わたくし、殿下を愛しておりますわ。他の方なんて、考えたこともなくて……」
「ならば、強引に決めてしまってもいいのかね? 結婚前から愛人を囲うような男と」
「きっと、事情があるのです。バーティは優しい方だから」
わたくしの言葉に、バーソロミュー伯父様が皮肉そうに笑った。
「優しい男は長年の婚約者をあっさり捨てたりもしないし、祖母の病気で金銭的に追い詰められた元・伯爵令嬢を無理矢理愛人にしたりはしない」
その言葉に、わたくしは目を瞠った。
「……どういう、ことですの?」
伯父様はふうっと紫煙を吐き出し、肩を竦めて見せた。
「何、ちょっと調べたらすぐにわかる。……最初は、父が戦死して没落した令嬢への同情心だったかもしれないがね。だが、はっきり言えば彼女は美しい。ちょっと冷たい雰囲気で犯しがたい気品すらある。そんな女が、金銭的な援助をチラつかせればアッサリ自分のモノになる状況だ。……殿下も、若い男だった、というだけのことさ」
わたくしが意味を理解しかねて固まるところに、ソファの背後に立っていた、わたくしの兄のチャーリーがまぜっかえす。
「そんなにいい女なの? あのバーティが引っかかるくらい?」
「ああ、わしも若い頃なら引っかかったかもな。男に媚びない女をいいようにできるなんて、ある種の男の夢だ」
伯父様が喉の奥で笑う。その様子が何とも下品な気がして、わたくしはつい、眉を顰めた。
「なんだか、いやらしいわ、伯父様もチャーリーも」
「これは失礼、ステファニーの前では相応しくない会話だったな。……まあとにかく、例の女はわしに言わせれば、被害者だよ。だからと言って同情はしないがね。王子の我儘をこれ以上許容するわけにもいくまい。王家への牽制も含め、強硬な手段に出ることにした」
「強硬な手段?」
わたくしが聞き返せば、バーソロミュー伯父様は大きく頷いた。
「陛下のご裁可が下った。アルバート殿下とステファニーの婚約は認められた。このまま、議会にかけて承認を取り付ければ、そう、簡単には覆せない」
「……それはちょっと強引過ぎるのではないですか? 僕は、兄として、たとえ王子であっても、不実な男のもとに妹をやりたくない」
チャーリーが言えば、伯父様が首を振る。
「グリージャの方がきな臭い。殿下を王女と結婚させる、なんてことを言い出したやつがいてね。そこへもってきて、この愛人騒動だ。政府の意見をはっきりと表明しておく、必要があるのだよ」
父・レコンフィールド公爵と伯父で首相のバーソロミュー・ウォルシンガム卿の主導により、わたくしとアルバート殿下の婚約が、議会に掛けられることになった。
その承認が得られれば、わたくしと殿下の婚約は正式なものとなる。
だからその前にわたくしは、どうしても殿下に聞きたかった。
どうして、わたくしから心変わりしたの?
もう、わたくしのことは愛していないの?
どうして、あんな女と――。
翌日、わたくしは殿下が例の女と、十番街のローリー・リーンのメゾンを訪れたと聞き、慌てて仕度をして向かった。
不躾なのはわかっている。でも、こんな形で政治的に婚約が決まってしまうのは、あまりに惨めだ。
確かに政略結婚かもしれない。でも、わたくしはずっと殿下を愛してきたのだから。
せめてそれを伝えることぐらい、許されるでしょう?
――わたくしはたぶん、恋と嫉妬に狂って、おかしくなっていたのだろう。
少なくとも平静さは欠いていた。
だから止めるのも聞かずに強引にメゾンに踏み込み、殿下を出せと要求した。
「殿下はいらっしゃいませんよ! ここから先は現在、お客様がいらしゃるので――」
豊満な身体を派手なドレスで包んだマダム・リーンが、わたくしの行く手を阻もうとする。
「行って! 奥よ! 殿下を捕まえて! お願い!」
わたくしに命じられ、メゾンの奥に踏み込んだ護衛の男と、見覚えのある男性が揉み合いになる。――ジョナサン・カーティスだ! 彼がいるということは、きっと殿下もこの奥に――。
無我夢中で開けた扉の奥で、数人とお針子に囲まれ、下着一枚の若い女性が振り返り、ブルーグレイの瞳を見開き、悲鳴を上げる。
慌てて身を隠すように後ろを向いたその背中。真っ白いそこに、いくつも赤い痕が散らばっていて――。
かつて、結婚したばかりの姉の、首筋の赤い痕を何気なく指摘したわたくしに、姉が真っ赤になって俯いた。
『やめてよ、ステファニー……チョーカーで隠しているの。しょうがないのよ』
その痕が、男女の愛の営みの末につけられるものだと知って、わたくしもまた真っ赤になった。
つまり、あれは――。
どれほどの記憶を辿っても、殿下はわたくしに触れようとはなさらなかった。
社交界にデビューして、夜会のエスコートのついでに、庭先の散歩を強請った時も、殿下はいつもと同じ距離感を保ち、それ以上近づこうとはなさらなかった。
本当のことを言えば、わたくしは殿下にキスしていただきたかった。
抱きしめていただきたかった。愛していると囁いていただきたかった。
そんな甘い時間の何一つない殿下の潔癖さを、わたくしは内心、不満に思っていた。
だからこそ、現実から目を背け、愛されているのだと信じようとした。
我儘を言えば、殿下は叶えてくださる。
予定を捻じ込めば、先約を断ってわたくしに付き合ってくださった。
美術館に行くはずだったのに、突然、乗馬がしたいと言えば、殿下は文句一つ言わず、手配してくださった。
それを、愛だと信じようとした。
頑なにわたくしに触れようとしないのもまた、愛ゆえなのだと。
――なのに、この女には触れるのだ。
高価な贈り物を選び、アパートメントに住まわせ、夜を共にする。
戦争で人が変わって、彼女を愛するようになったから?
でもなぜ、わたくしではいけなかったの?
信じたくない現実が、わたくしの面前にさらけ出される。
『殿下はもともと、レディ・ステファニーが好きではなかったが、周囲に決められた婚約者だからと、紳士的に接してきた。しかし戦場で地獄を見て、周囲の言いなりになるのをやめた。そういうことだと、僕は理解していますがね』
ジョナサン・カーティスの冷静な言葉に、瞬間、わたくしの脳は沸騰したけれど、でも、何かがポツンとわたくしの中に落ちた。
殿下は――バーティは一度として、わたくしを愛してはいなかった。
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