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第二章

ひとりの部屋

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 列車を降りたアルバート殿下を、フロックコートに山高帽トップハットの閣僚たちが出迎える。

 今回、殿下は軍縮会議の全権大使として、無事、軍縮会議を取りまとめて戻ってこられた。その労をねぎらい、功績をたたえるためには当然のこと。ただ――。

 わたしはカーテンを半ば閉めた車窓の窓から、身を縮めるようにして、そっとホームの様子をうかがう。

 進み出た背の高い壮年の男性が、新聞でも写真を見たことがある、首相のバーソロミュー・ウォルシンガム卿だ。

 眩いほどのカメラのフラッシュの渦の中で、殿下に握手を求めるが、殿下はやや素っ気ない風情。ウォルシンガム卿の隣には、綺麗な桃色のスーツに揃いのトーク帽を被り、毛皮の縁取りのついたケープを肩にかけたステファニー嬢が、優雅に微笑んで立っている。相変わらず、隙のない令嬢姿。ただふと、彼女が殿下の背後に視線を飛ばし、列車の中の探るように見た。

 一瞬、目が合った気がして、わたしはハッとしてカーテンの陰に身を潜める。
 こんな風にコソコソ身を隠しているのは、実に惨めだけれど、堂々と出ていかれる身の上じゃないのは確かで――。

 ステファニー嬢は媚びを孕んだ視線で、頭一つ以上高い、殿下を見上げるけれど、殿下は意図的に無視しているのか、視線を合わさない。周囲の閣僚とそつなく挨拶を交わし、ゆっくりと歩き出す。集団が崩れるように動き、フロックコートの背後にいた、記者たちの集団も動きだす。カメラのフラッシュがバシャ、バシャと光る。

 集団が歩み去った後に、見慣れた紳士と貴婦人が一人、立っている。

 ――マクガーニ閣下と、ジェニファー夫人だった。

 わたしが慌てて立ち上がると、カーティス大尉もそれに気づき、二人でゆっくりと列車から降りる。

「エルシー!」

 ジェニファー夫人がわたしに走り寄り、わたしも慌てて彼女に近づいた。

「ジェニファー夫人……大丈夫なんですか?」
「ええ、身体は何ともないの。ごめんなさい、わたしが――」
「いえ、あなたのせいではありません。新聞記者が押しかけたら、赤ちゃんのためにならないわ」

 わたしが言えば、マクガーニ閣下も言う。

「我が家で面倒をみるべきだが、新聞記者の過熱ぶりは酷い状態で。今日は、レコンフィールド公爵令嬢が殿下を出迎えるというので、あっちに釘付けになったがね」
「ええ、大丈夫です。――殿下が、アパートメントの方が安全だからと」
「不本意ながらそうだ。我が家はどうしても、人の出入りが多い。おかしな輩が入り込むかもしれない」

 マクガーニ閣下が、荷物を纏めているジュリアンと、カーティス大尉を見て言った。

「あの二人がいれば問題はないだろう。……ジュリアンは戦場では殿下の従卒で、ああ見えても武闘派でね」
「そうなのですか!」

 ジュリアンは確かにガッシリしているけれど、乱暴な雰囲気は全くないのに。
 わたしたちが数歩、歩み始めたその瞬間、バシャッと凄まじい光が走って、顔を挙げればカメラを抱えた若い男が立っていた。

「貴様!」

 すぐに気づいたジュリアンが追いかけるけれど、男はすごい勢いで逃げていき、ただ、横にいた、眼鏡をかけたひ弱そうな男を捕まえただけだった。

「どこの新聞社だ! 勝手な掲載は許さんぞ!」

 マクガーニ閣下がドスの効いた声で脅しをかければ、男は首を振って言った。

「いえ、その……なんでもありません!」
「どうします、こいつ……!」

 ジュリアンが捕まえた男を後ろ手に捻り上げれば、男はヒイヒイと情けない声を挙げた。

「い、痛い、痛いです……」

 わたしは目の前で繰り広げられる暴力を直視できず、顔を背ける。ちょうど、ジェニファー夫人も困惑して眉を顰めていた。

「いきましょう、エルシー、レディが見るものではないわ」
「え、ええ……」
「待って、あの、待ってよ、君、ええと、エルスペス嬢!……俺はニコラスの友人で……! 君に伝言があるんだ!」
「ニコラス? ……誰?」

 思わず足を止めてまじまじと見る。……ニコラスなんて知り合い、いたかしら?

「ニコラス・ハートネルだよ! 君に求婚した!」
「……ハートネル中尉?!」 
 
 予想もしない名を聞いて、わたしがギョッとする。

「……ハートネルは退役したと聞いているが」

 マクガーニ閣下の言葉に、わたしはもう一つびっくりする。

「退役? ハートネル中尉が?」
「そう、君に振られて……というか、君との仲をアルバート殿下に引き裂かれて、第二司令部に異動になったけれど、いたたまれなくて軍をやめたんだ」
「……わたしとハートネル中尉の間は、引き裂くような仲ではなかったわ」
「ニコラスは本気だったんだよ!」

 眼鏡の男性が必死に言うけれど、正直、迷惑という気分だった。

「そんなこと言われても……で、伝言ってわたしに?」

 眼鏡の男が逃げないとわかったので、ジュリアンがしぶしぶ、拘束を解いた。男は眼鏡の蔓を直し、くたびれたラウンジ・スーツの皺を伸ばしてから、言った。

「〈あんな形で引き裂かれたけれど、俺は今でも君を愛してる〉って」
「……はあ?」

 思わず茫然と立ち尽くしてしまう。

「ニコラスから聞いたよ。おばあ様の入院費を捻出するために仕方なく……だって。ニコラスはそれに気づけなくて、君を責めたことをすごく後悔して……必ず君を取り戻すからって! じゃあ、伝えたよ?」


 男性は身を翻し、アッと言う間もなく走り去る。

「ああ、しまった、あの野郎!」

 ジュリアンが悪態をつき、カーティス大尉とマクガーニ閣下が不穏な表情で男の後ろ姿を目で追う。

「何だったの……あれ」

 わたしが呟くと、ジェニファー夫人が心配そうにわたしの腕に手を掛ける。

「……取り戻すって、もしかして、わたしを? ハートネル中尉が? どういうこと?!」

 混乱のあまり眩暈がしてくる。
 取り戻すも何も、一秒たりとも、ハートネル中尉のものであったことなんてないのに!








 ほとんど一か月ぶりに戻ってきた殿下のアパートメント。
 本当はここに住むべきじゃないのだろうけど、わたしには他に、行くべき場所もない。

 出迎えてくれたアンナ・アンダーソン夫人と、メイドのノーラの姿。それから居間のピアノ。いつもの寝室の、暖炉の上の壁に飾った、薔薇園ローズ・ガーデンの絵。

 ――少なくとも今は、ここが、わたしの家。

 カーティス大尉が殿下に報告すると言って帰っていき、ノーラとジュリアンが、二人がかりでわたしの荷物を片付けている間、わたしは寝室のソファに崩れるように座って、ただ、薔薇園の絵を見上げる。

 ――そう、この絵のある場所が、わたしの部屋。いつまで、いられるかわからないけれど――。



 列車のカーテンの陰から見た、殿下と寄り添うように歩いていく、ステファニー嬢の後ろ姿。

 ズキリと、胸が痛む。

 旅の間ずっと、一番側にいられたから、感覚がおかしくなってしまったけれど、わたしは本来、殿下の横に立つべき人間じゃない。遠ざかる背中が、わたしにそれを教える。

 愛されていて、そして愛しているのに――。






 当然だけれど、その夜、殿下はアパートメントには戻ってこなかった。
 一人のベッドは広すぎて、冷たすぎて。

 ……わたしは一人眠れずに、涙を流した。

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