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第二章

キャロライン嬢

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 食事が終わり、殿下が再び打ち合わせに向かう。

「ああ、そうだ、ロベルトがタイプして欲しい書類があると言っていた。隣の部屋にテーブルとタイプライターを準備するから」
「わかりました」

 殿下が部屋を出てから、わたしはハンナに尋ねる。

「マニキュアを塗りなおしてくれるサロンに行きたいのだけど、近くにあるかしら」

 ハンナはわたしの手をじっと見て、しばらく考えていたが、頷いた。

「大使の奥様とお嬢様が行きつけていらっしゃる、ヘアーサロンが近くにございます。マニキュアも承っているはずです」
「申し訳ないけど、予約をお願いできる? ……せっかくだから、髪のカットもお願いしようかしら。午後の早い時間がいいわ」
「畏まりました」

 わたしが隣の部屋――殿下の居間兼執務室――に行くと、ロベルトさんが書類を辞書で首っ引きしながら、シュルフト語に訳していた。

「おはようございます」
「ああ、おはよう。昨日はよく眠れた?――わけないかー、あははー!」

 下品な揶揄いは軽く無視して、わたしはタイプライターの前に座る。

「で、タイプする書類はどちらです?」
「エルシーたんって、時々、視線だけで氷漬けできそうに、冷たいよね?」
「くだらないことを仰るからですわ」

 わたしは手書きの書類を受け取り、タイプを打ち始める。――実は、わたしはタイプ打ちがとても得意だ。天性のタイピストだと自負している。ピアノを弾いている時もそうなのだが、一心不乱に打ち込んでいると、周囲の物音も何もかも、すべて消えてしまう。もちろん、さっきから一人でブツブツ言っている、ロベルトさんのくだらないお喋りも、全てシャットアウトだ。

 カタカタカタカタ、カタン、カタタタン、カタカタ、チーン!

 数日、ピアノが弾けない欝憤を晴らすように、ひたすらタイプ打ちに没頭する。
 きれいにタイプした書類を眺め、わたしは満足の溜息を漏らす。

「あー、これもお願いできる?……タイプ打ってる時のエルシーたんって、ほんと、機械人形みたいだよね」

 ロベルトさんのくだらない発言はもちろん無視し、差し出す書類だけを受け取り、再びタイプライターに向かう。

 カタカタカタカタ、カタン、カタカタ、チーン! 

 タイプライタ―はピアノに似ている。無心に指を動かし、音楽を奏でるように文字を打ち込んでいく。この瞬間がたまらなく好きで、わたしは職業婦人に向いていると思う。貴族にさえ生まれなければ、きっとタイピストとして独り立ちできたのに。

 そんなことを考えながら、タイプした書類をチェックし、ロベルトさんに渡す。殿下が軍縮会議の会場に向かう時間も近づいて、軽食を取るために殿下と護衛の方たちが戻っていらっしゃった。
 ジュリアンとハンナ、それから数人のメイドが昼食のサンドイッチとお茶を運んできた。殿下も配下の方たちも凛々しく軍服に身を包み、厳めしい雰囲気だ。

「ロベルトは明日の会議の準備に残ってくれ」
「わかってます。俺のシュルフト語じゃあ、会議の雰囲気ぶち壊しだし」

 一人、普段と同じ、くだけたラウンジ・スーツ姿のロベルトさんが肩を竦める。

「前日までの会議の抄録をランデル語訳し、タイプしたものがこれっす。こっちが今さっき届いたばっかりの、本日の午前中に行われた次官級の会議の、シュルフト語の抄録。これを今から大至急で翻訳して、タイプに打っておくっす」
「頼んだ。――結局、毒ガスの禁止条項を盛り込むか否かがで揉めているようだな」
「以前も言いましたけど、小国の賛成をもぎ取るのは結構、大変でしょうね」
「わかっている」

 殿下はロースト・チキンのサンドイッチを食べながら、書類をチェックしている。ジュリアンが殿下のカップに熱い紅茶を注ぐ。

「……エルシーは午後はどうする? ロベルトの手伝いばかりでもウンザリだろう?」

 急に尋ねられて、わたしは食べかけのサンドイッチを急いで飲み込み、殿下に向き直る。

「お手伝いに関しては、ウンザリはしていません。仕事ですから、それはいいんですけどね。……午後はマニキュアのために、サロンを予約してもらいました」
「……いったい何にウンザリしているんだ、エルシー」
「エルシーたん、もしかして、俺のことウザいって思ってる?!」 

 ロベルトさんの一言だけで、殿下も配下の方々も、わたしが何にウンザリしているか、きっとわかって下さったと思う。

「サロンはここから近いのか? 誰か護衛を――」

 殿下が周囲を見回せば、ハンナが進み出て頭を下げた。

「サロンまではわたしがお伴いたします。ここから歩いてもすぐの場所で――」 
「念のため、ジュリアンも連れていけ」
「畏まりました」

 ジュリアンがお茶を注いでいた手を止め、頭を下げる。

「六時までには戻る」

 殿下はそう言って、配下の方を引き連れ、軍縮会議に向かわれた。
 





 サロンは一時半の予約だと言うので、わたしは少し考えて、プルオーバーを脱いでツイードの上着を着、さらにウールのケープを羽織り、ジュリアンとハンナとともに大使館を出た。

「馬車を呼ぶまでもない距離で……」
「ええ、構わないわ」

 久しぶりに外を歩くと、それだけで気が晴れるようだ。石畳の街路はさすが、伝統ある古都の風情がある。

『予約をしていた、ランデル大使館のものです』

 ハンナさんが声をかければ、サロンのオーナーらしい、中年の女性が出迎えてくれた。

『ランデルからいらした方ですね。通訳は必要かしら』
『いえ、だいたいわかります』

 わたしがシュルフト語で答えれば、マダム・ヒューラーと名乗った女性が頷き、すぐに奥の個室に案内され、鏡の前の椅子を勧められる。

『ネイルケアと……髪はどうされます?』
『一週間、長距離列車に乗り続けて、ボサボサになってしまって……今夜は大切な夜会があるんです』

 わたしが有り体に言えば、マダムは大きく合点した。

『なるほど、承知いたしました。明日からもまとめやすいように考えましょう』

 わたしは爪を磨いてマニキュアを塗りなおしてもらい、髪の毛も綺麗に整え、夜会に相応しくまとめ上げてもらった。





 施術を終えると、殿下から現金を預かっていたジュリアンが支払いを済ませ、わたしたちは大使館へと戻る。運の悪いことに、玄関のところでバッタリ、大使の令嬢であるキャロライン嬢に出くわした。

「あら、いやだわ。早速、愛人がちゃらちゃら着飾って」

 聞えよがしに言うキャロライン嬢に、ジュリアンが咄嗟にわたしを庇おうと前に出る。わたしはそれを軽く制止し、じっとキャロライン嬢を見つめた。

「……な、何よ、何か文句あるの? 愛人のクセに」
「もちろん、あるわ。なぜ、ないと思うの。わたしがあなたの発言を殿下に告げ口しないと、どうして思えるのか疑問だわ。……殿下はわたしへの攻撃はすべて排除すると誓ってくださったわ。あなた、昨夜の晩餐会から追い出されたのに、まだ、懲りないの?」
「……フン、どうせ後、数日で国に帰るクセに!」
「あなたがここで威張っていられるのは、あなたが大使のご令嬢だから、あなたが偉いわけじゃない。わかっていらっしゃる?」

 キャロライン嬢が眉を顰め、じっとわたしを睨みつける。

「何が言いたいの?」
「……つまり、あなたのお父様が大使じゃなくなったら、あなたはここにいられない。あなたの軽はずみのせいで、お父様が職を失うことがないといいわね?」
 
 キャロライン嬢が青い目を見開く。

「な……わたくしを脅すの? この性悪が!」
「脅すなんて人聞きの悪い。忠告して差し上げているだけよ。言っておくけど、わたしはいちいち、あなたの発言を殿下に告げ口するつもりはないわ。でも、ジュリアンは何かあれば、殿下に全て報告するように命じられているの。わたしが止めても、あなたがわたしを『愛人』呼ばわりしたと、殿下に報告するでしょうね。昨日のことがあるから、きっと殿下はすぐに、あなたのお父様に苦情を申し立てると思うわ」

 キャロライン嬢はキュッと唇を噛んで、わたしを睨みつけ、忌々しそうに吐き捨てた。

「なんて女なの! ステファニー様の婚約者を奪っておきながら……!」
「わたしから殿下に近づいたわけでもないのに、殿下はわたしと結婚すると言い張っていらっしゃるの。昨夜だって、わたしはあなたを追い出せなんて、一言も言っていないけど、殿下はあなたを追い払ってしまった。これ以上殿下を怒らせて、何をするか、わたしにも予想はつかないの。わたしを卑猥な言葉で罵って殿下を怒らせて、顔が変形するほど殴られた方をこの目で見たわ。どうせ数日と思うなら、その数日の間だけでも、大人しくしていらっしゃった方がいいわ。……これは親切心からの忠告よ?」

 キャロライン嬢は真っ青になって反論もできず、そのまま乱暴に踵を返してどこかに行ってしまった。

「いやだわ、まるでわたしが脅したみたいじゃない」

 わたしが肩を竦めて言えば、ジュリアンがポツリと言った。

「……脅したつもりがなくてその発言とは、恐れ入ります」


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