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第二章

ビルツホルン

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 リーデンから東、クレヴァネス山脈を突っ切る山道の難所を越え、列車はアルティニア帝国の首都、ビルツホルンの郊外に入った。駅まではもう、少し。

 神聖帝国以来の伝統を誇る、大陸有数の歴史ある古都。駅は市街の外れにあり、ここからは馬車で、わがランデル王国の駐在大使館まで向かうことになっている。

「大使の出迎えとか、七面倒臭ぇ」

 今回、アルバート殿下は講和会議に付随する軍縮会議の全権大使として、ランデル王国の第三王子にして、陸軍第一司令部司令の身分で派遣されている。故に、ビルツホルンの駅に到着する前に、大使らの出迎えに備えて軍服を着用していた。金釦のついた濃緑色の上着に黒いトラウザーズ、黒い長靴。黒いタイには青いサファイアのタイピンが光る。――特に請われて、わたしの父マックス・アシュバートンの形見の品をお貸ししている。

 一方、わたしは濃いグレイのツイードのスーツに、レースの襟のついた絹の白いブラウスを着て、紺の大きなリボンのついたトーク帽を斜めに被っている。黒い絹のストッキングに黒い靴。寒さに備え、毛皮のついた濃紺のウールのケープが準備されている。

「でも、わたしは秘書官ですわ。陸軍事務員の制服でよかったのに」
「そんなダッサい服装の婚約者を連れて歩けるか、みっともねぇ。ゴシップ紙の餌食にされるぞ」

 ……そうなのだ、あの山の中の駅で殿下のプロポーズを受けてしまったために、殿下は随行員に対して、わたしを「秘書官」ではなく「王子の婚約者」として扱うように通達したのだ。

「でも、国王陛下のお許しも何もなく、そんな勝手な。議会が承認した婚約者はステファニー嬢ですよ?」
「外野の言うことなんて気にするな。どうせ、俺はお前としか結婚しない」

 どっかりと座席で長い脚を組み、殿下は薄く窓を開けて胸ポケットから煙草を出し、口に咥える。殿下の胸元に光る父の形見のタイピンは、絶対にわたしと結婚するという決意を示すのだそうだ。

 ノックの音がして、やはり軍服姿のロベルトさんが顔を出した。

「エヴァ嬢がお別れを言いたいって、食堂車にいますよ?」
「少しだけ顔を見せて来ても?」
「ああ、でもあと十分で着くから、ちょっとだけだぞ?」

 殿下に断りを言って、わたしはロベルトさんについて食堂車に向かう。 
 
「エリース! お別れなんて残念だわ。せっかくお友達になれたのに」

 立ち上がって出迎えるエヴァ嬢と握手を交わし、わたしも微笑む。シュルフト語話者のエヴァ嬢には、エルスペスという名は発音しづらいとかで、いつのまにかエリースという愛称で呼ばれるようになっていた。

「ええ、わたしも。……是非、大使館に来てください。わたしの方からあなたをお訪ねするのは、差しさわりがあるから……」
「ええ、もちろん。必ず伺うわ?……金狼とお幸せにね、エリース!」

 エヴァ嬢と抱擁を交わして、別れを惜しんだ。――とても素直でいい子だ。ちょっとばかし頭がお花畑だけど。彼女が傷つくことがないように、祈るばかりだ。



 



 シューっと白い蒸気を上げて、列車は滑るように駅に停車した。窓から見れば、ホームに山高帽トップハットにフロックコート姿の紳士の一団が並んでいる。

 チッと殿下が行儀悪く舌打ちする。

「面倒臭ぇ。あんなに大挙して来なくてもいいだろうに」
「腐っても王子がやってくるんですから、あんなものではありませんの?」 
「まだ腐ってない!」

 扉が開き、カーティス大尉の先導で、わたしたちも個室コンパートメントを出る。

「エルスペス嬢のことは電報で知らせてありますが、どこまで情報が回っているかはわかりません。大使が、どう出るのかも――」

 カーティス大尉が殿下の耳元で囁き、殿下がわたしの腰をぎゅっと抱き寄せて頷く。

「エルシー、堂々としていればいい。お前は俺の婚約者だから」

 カーティス大尉が心配そうにわたしを見た。――在アルティニア大使館には、当初、わたしは秘書官の身分で届け出ていたはずだ。それが到着直前に「王子の婚約者」だとの申し送りがあっても、大使館の人はわけがわからないだろう。

 正直に言えば、こんな形で「婚約者」だと言って連れ出されるのは苦痛だ。普通に考えても認められると思えないし、その非難の眼差しはわたしの向かってくるのだし――。

 殿下はいったい何を考えているのか――。

 不安のまま、殿下の後について列車を降りる。車掌が頭を下げているのに会釈をし、殿下の後ろに立つと、殿下がわたしの腰を抱き寄せた。

「アルバート殿下、長旅お疲れ様でございます。駐在アルティニア大使のクラウザー子爵スティーブン・バートレットです。こちらは妻のナタリー。殿下のご滞在中、誠心誠意、お世話させていただきます」

 大使のクラウザー子爵は壮年でやせ型、灰色の口ひげを生やした厳しい雰囲気の人で、隣の夫人を殿下に紹介して、握手を求める。殿下も如才なく応じてから、わたしを紹介した。

「俺の婚約者のミス・エルスペス・アシュバートン。故リンドホルム伯爵の令嬢だ。滞在中は世話になる」

 わたしが無言で会釈すると、大使夫妻は何とも言えない表情で互いに顔を見合わせる。

「その……電報では確かに伺いましたが……私が本国から聞いた話では――その――」
「俺が結婚するのはエルスペス嬢だ。彼女を婚約者として扱わないのであれば、大使館への滞在はやめる」

 大使はわたしを値踏みするように見て眉を顰めるが、ただ、

「了解しました。大使館でもお部屋はお隣にしております。馬車を待たせておりますので」
「ありがとう……エルシー、行こう」

 殿下に促され、わたしは歩きだすが、周囲の大使館員と思われる人たちの視線が痛くて、顔が上げられない。

「大丈夫だ。……顔を上げろ」

 殿下に囁かれ、わたしは深呼吸して顔を上げる。――全くどういうつもりなんだか!

   




 大使夫妻と馬車に同乗して大使館に向かうが、道中は本当に気まずいったらなかった。
 殿下は馬車の中の異様な雰囲気をものともせず、やたらベタベタと身体に触れて話しかけてきて、それもまた大使夫人の眉を顰めさせているのだが、全く気にするようすもない。

「そうだ、聖ゲオルグ大聖堂には、大使館から近いのだろうか」

 殿下が大使に尋ねれば、大使が灰色の眉を動かす。

「馬車で二十分ほどですかな。大聖堂に行かれるご希望がおありで?」
「ああ、空き時間に是非、行きたい」
「ならば、機会を見て我々もご一緒に――」
「いや、それには及ばない。完全に私用だ。……な、エルシー」

 殿下が悪戯っぽく笑いかけて、わたしはハッと思い出す。――おばあ様の喪中にも関わらず関係を持ってしまったから、ビルツホルンについたら大聖堂で懺悔すると言っていたのを。

 何となく顔が熱くなって、わたしは視線を逸らして俯く。結局、終始気まずい雰囲気のまま、わたしたちは在アルティニアのランデル大使館に到着した。

 在アルティニアのランデル大使館は、本来は別の場所にあったのだが、戦争直前に一度閉鎖されていた。休戦協定が締結され、講和会議が開かれるにあたり、大使館を再設置しようとしたが、以前の建物は別の用途にすでに転用されてしまっていた。急遽、とある大貴族の館がアルティニア政府より提供されたのだという。アルティニア政府の威信がかかっているだけあって、宮殿と言ってもいいくらいの、立派なお屋敷だ。

 殿下の部屋は東翼の二階の続き部屋で、わたしの部屋はその隣。ロベルトさんら侍従官の部屋は三階なので、本来ならわたしの部屋もそちらに用意されていたと思われる。……つまり、殿下がわたしを「婚約者」だと言い張ったのは、わたしの部屋を隣に用意させるためなのだろう。

 ジュリアンが指示して、わたしのスーツケースを運び込み、大使館のメイド数人がドレスをクローゼットに入れていると、コネクティング・ドアから殿下が現れた。

「今夜、大使主催の晩餐会が開かれるらしい。お前も出席するからドレスと――」

 そしてクローゼットの前で働くメイドたちを見て言った。

「この部屋の係は誰だ」

 二十歳くらいのメイドが手を止め、殿下に向き直って頭を下げた。

「わたしです。ハンナと申します」
「晩餐会に向けて、彼女の仕度を手伝って欲しい」

 そのやり取りを聞いて、わたしは思わず尋ねていた。

「……わたしも出なければならないのですか?」

 大使夫人はわたしのことを、あからさまにいない者として扱って、馬車の中はまさに、針の筵状態だった。もう、あんな思いはしたくないのだけど――。

「晩餐会には講和会議の全権大使であるマールバラ公爵も出席する。――お前を紹介したい」

 マールバラ公爵は国王陛下の従兄で、殿下の次の王位継承順位を持つ方だ。わたしは、有力な後ろ盾が欲しいと言っていた、殿下の言葉を思い出す。

「もしかして、わたしをビルツホルンに連れていらしたのは――」
「それもある。マールバラ公爵は軍の特務機関の長官を長く勤めていた。……つまり、お前の父親の上司だったんだ」

 初めて知る事実に、わたしは息を呑む。

 殿下はクローゼットから、ハンナに指示していくつかドレスを並べさせる。しばらく考えて、「これにしよう」と、黒い、絹のイブニング・ドレスを選んだ。ドレスの膝から裾にかけて金糸・銀糸で豪華な東洋風の、写実的な鳥の刺繍が入っている。

鴛鴦オシドリって言うんだ。……夫婦和合の象徴だ」

 殿下はそう言うと、ハンナに黒いハイヒールと、黒い長手袋を用意させる。

「宝石ケースはお前が管理しているのんだな」

 ジュリアンに言えば、彼が宝石ケースを開いて、中を見せる。

「このドレスには真珠だな。……そうだ、今夜はコーキチも来るんだ。ビルツホルンでの最初の商談らしい」

 殿下は真珠のロングネックレスを取り出しながら、わたしに笑いかけた。
 でもわたしは、父の上司だったというマールバラ公爵のことが気になって、上の空だった。

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