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幕間 首席秘書官ロベルト・リーン大尉の業務日誌

空回り

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 殿下はエルスペス・アシュバートン嬢に以前に会ったことがあり、かつ、エルスペス嬢は殿下のことをすっかり忘れている、もしくは気づいていないのではないか。

 俺のこの意見について、ジョナサン・カーティスとジェラルド・ブルックは否定的だった。

「もし、以前からの知り合いならそう言えばいいと思う。隠す理由がない」

 確かにその通りなんだが――。

「でもさ、いきなり初デートでエル・グランの天井画とか見せに行くか? しかも『最後の審判』だぜ? 普通の女はドン引きだろ? エルスペス嬢は間諜スパイごっこだと思い込んでるから、大人しくついていったけどさ」

 二人とも顔を見合わせて、首を傾げている。――やっぱり、殿下の行動には腑に落ちないところがたくさんある。

「そもそも、僕は士官学校は殿下とは学年が違って、あまり縁がなかった。殿下と一番古くから、濃い付き合いをしているのは、ロベルトだろう。君が知らないのであれば、あるいは士官学校に入る前じゃないのか」

 ジョナサンに指摘されて、俺は指を折って数える。士官学校に入る前となれば、殿下が十四歳か十三歳か――そう言えば、殿下は入学前後に半年、休学していたと言っていた。もしかしたらその間、療養を兼ねて王都を離れていた可能性はある。

「十二、三年前となると……エルスペス嬢は六歳か七歳か。もし出会っていても、殿下のことを忘れていても不思議はないな」

 ジェラルドが言い、何となく俺もピンとくるものがあった。……マックス・アシュバートン中佐とは昔からの知り合いと言っていた。その時に世話になったのだとすれば、辻褄が合う。

「だが、その事実をなぜ、エルスペス嬢に言わない?」

 ラルフ・シモンズが的確に指摘したように、結局、そこに戻ってしまう。

「忘れられてて、ねてるとか」
「それじゃ、ただの子どもだろ」

 これについては、殿下が自ら明かすか、あるいはエルスペス嬢が思い出すか以外にない。

 だが、忘れ去られていたことで拗らせ、口説こうにもことごとく外しまくっていた殿下は、ある日ついに暴走する。

 たまたま、普通の通勤時間に司令部に向かうことができた殿下は、道の端で何やら語り合う、エルスペス嬢とハートネル中尉の姿を目撃してしまった。店先の石段に座り込むエルスペス嬢と、その前に跪いているハートネル中尉。どう見てもプロポーズの最中だ。

 殿下は空気を読まずにその場に突進し、エルスペス嬢を馬車に引きずり込んで出勤した。会議中も、ピリピリした雰囲気を撒き散らして、眼差しで相手を氷漬けできそうな冷たさ。陸軍の幹部も何事かと顔色を伺っている。

「殿下、落ち着いてくださいよ、浮気現場に踏み込んじゃった夫みたいっすよ」
「うるさい!」 

 こんなピリピリした殿下は俺も初めてで、宥める方法も思いつかない。会議から戻った殿下は、エルスペス嬢を連れて奥の、司令の休息室に連れ込んでしまう。

「やばくないか、あの部屋、ベッドもあるよな?」
「だからって、誰が踏み込むよ。俺そんな度胸ねーよ!」

 見慣れない殿下の不機嫌な様子に、俺たち側近も全員、腰が引けていた。

 ――それから、かなり長い時間が経って。

 奥の部屋の呼び鈴が鳴り、水を持ってこいと言われる。……誰が猫に鈴をつけるのか。結局、俺がミネラル・ウォーターの瓶とグラスを持ってドアをノックし、ノブを回すが鍵がかかっている! 最悪だよ!

 どんどん! とやけくそで叩けば、ややあってガチャリと扉が細く開き、気まずそうな殿下が立っていた。
 
 殿下は俺から水だけを奪おうと手を伸ばしたが、俺は肩でドアを押しやって強引に中に入る。微かに漂う、男なら誰でも嗅いだことのある、あの臭い――。

 ベッドではなく、ソファの手前の絨毯の上で、エルスペス嬢が放心したように座り込んでいる。彼女の着衣に乱れはなく、むしろ殿下のシャツがややしどけなく着崩れている。つまり――。

 俺は殿下が彼女に何をした(させた)のか瞬時に読み取って、普段なら絶対出さないドスの効いた声で、殿下に凄んでいた。

「――最低っすよ、何やらせたんすか、アンタ」
「いや、ちが、その――これは――」

 殿下も蒼白になってあたふたしているのは、きっと興奮のままに無茶を要求し、賢者タイムが訪れて我に返って真っ青になった、そんなところなんだろう。

 ソファに凭れるようにして放心状態になっているエルスぺス嬢の頬には涙の跡があって、ショックの大きさをうかがわせる。

「エルスペス嬢、水、飲める?」

 俺が声をかけると、しかし彼女はハッとして己を取り戻し、俺と殿下を見てブル―グレーの瞳を見開く。その奥に怯えの色があるのを見てとって、俺は舌打ちしたくなった。

 ――ったく、何やってんだよ、殿下はよ!

 エルスペス嬢がとんでもない箱入りだってことは、下町育ちの俺にでもわかる。田舎育ちの生粋の貴族のご令嬢なんて、こんなものかもしれない。しかも、彼女にはこれまたとんでもない、鬼婆おばあさまが付いているんだ。あのばーさんに教育されたら、セックスのセの字も知らずに育つに違いない。それを――。

 俺はつとめて害のなさそうな笑顔でエルスペス嬢に水を勧め、それから気分が悪いなら、ベッドで休んでもいいと言ったが、彼女は恐怖に引き攣った顔で首を振った。――そりゃ、そうだろう。

「医務室に行く?」
「いえ……大丈夫です、自分の席で休みます。……まだ、仕事もあるので……」

 エルスペス嬢は力のない足取りでフラフラと奥の部屋を出て行く。――たぶん、若い男なんてどれも恐怖の対象でしかないだろうから、着いて行ってやるわけにもいかない。

 彼女が出ていって、パタンとドアが閉まった途端、俺は憤怒の形相で殿下に振り向いた。

「なんてことしてくれたんすか? 仮にも彼女は俺の部下っすよ? 俺は主席秘書官ですからね!」

 俺に睨まれて、殿下は気まずそうに視線を彷徨さまよわせている。

「いや、その――これは――」
「まごうかたなきセクハラっすね。我慢できないなら、王都には安全な娼館だって、後腐れにない未亡人だっていくらでもあるのに、よりによってあんな純情な子に!」
「それは――わかってて――その――」
「ショックのあまり自殺でもしちゃったら、どうするつもりなんすか!」
「自殺――?! まさか、そんな……」

 殿下を脅すために、多少、大げさに言った部分はあるが、厳格な祖母の下で育てられた彼女にとっては、耐えがたい屈辱だったに違いない。 
   
「いったい、どうしちゃったんすか、殿下。彼女への態度ははっきり言って、普通じゃない。いったい何を考えているんです?」
「その――ハートネルが……彼女に結婚を申し込んで……」

 額に手をかざし、殿下はふらふらとソファに倒れ込むように腰を下ろす。

「オーケーしちゃったんすか?」
「いや……返事をする前に俺が声をかけたから。でも、もし俺が声をかけなかったら――他の男のものになると思ったら、頭が真っ白になって――」
 
 両手で頭を抱え込んだ殿下の前に俺は膝をついて、できる限り冷静に、言った。

「……ずっと、好きだったんですね? 彼女が。国に帰ってきたら、リンドホルムに行って、結婚を申し込むつもりだった」

 殿下がハッとして顔を上げる。金色の瞳が大きく見開かれている。

「どうして――それを……」
「見てりゃ想像がつきます。そのこと、彼女に言ったんですか? 業務でも間諜スパイごっこでもなく、ずっと好きだったって」
「そのつもりだったけど、彼女は俺のこと憶えてないんだ! あの絵を見る約束も全部忘れてる! 俺のことなんてまるっきり――」 

 殿下が黒髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る。

「だって、その時、彼女は六つか七つか――そりゃ、無理ないんじゃありません? そもそも――」

 そんな幼女に恋い焦がれる十四歳とか、幼女性愛ヘンタイじゃねぇのか。さすがに俺もそれは口にしなかったが、殿下は俺の言いたいことを予測できたらしく、眉を顰めた。

「別に幼女が好きなわけじゃなくて、エルシーが好きだったんだ。実際、同じような年頃のステファニーには何も思わなかった」
「それはともかく、エルスペス嬢が昔から好きで、戦地から戻ったら求婚する決意を固めていたんですね?」

 殿下が力なく頷く。

「マックスの墓参りという名目なら、俺がリンドホルムを訪れても不自然じゃない。彼女の弟のビリーが爵位を継いでいるはずで、もしかしたら、彼女はもう結婚か婚約かしているかもしれないし、相手がいるなら諦めるつもりだった。ところが――」

 殿下が両手で顔を覆う。

 殿下はレコンフィールド公爵令嬢との婚約は白紙に戻して戦場に向かった。殿下の命を庇って戦死したマックス・アシュバートン中佐の令嬢で、新リンドホルム伯爵の姉であれば、第三王子と結婚するのに障害はないはずだった。まして、殿下は戦場で功績だって上げている。なのに――。

 マックス・アシュバートン中佐の息子は直後に急死し、エルスペス嬢は代襲相続の勅許が降りずに財産もなく、王都で困窮して事務職員をしていた。そして白紙に戻したはずの婚約者、ステファニー嬢が殿下を待っていたんだから結婚しろと迫られる。
 
 さらに肝心のエルスペス嬢は殿下のことなどすっかり忘れて、別の男の求婚を受け入れそうな状況で――。

「焦るのはわかりますけどね? でもエルスペス嬢はあくまで仕事だと思ってるんでしょ? そこのとこの誤解を解いて、ちゃんと思いを伝えるのが先決でしょ!」
「……キスまでは、したのに……全部仕事で、俺のことなんて好きじゃないって……」

 それで頭に血が昇って、性欲を剥き出しにするとか、最悪すぎる!

「……今日のが決定打になって、ハートネルの求婚を受け入れるんじゃないですか? 俺が女ならそうする。どんなに顔が良くて本物の王子様でも、告白もせずに精子撒き散らす男とか、ありえねーわ」

 殿下がハッとして立ち上がり、ドアに突進しようとするのを足払いをかけて転ばせる。

「離せ! 追いかけないと! ハートネルに奪われるのは嫌だあ!」

 そのまま地べたに這いつくばってもがいている殿下を引っ張り上げ、至近距離で睨みつける。

「いい加減にしろって!今の彼女にとっては、殿下あんたは手の届かない相手なの!アンタがいくらそのつもりでも、結婚なんて常識的にできっこないの!だったらハートネルと結婚した方が、なんぼかマシでしょう!」
「イヤだ! あいつも三男で俺も三男だ! あいつは結婚できるのに、俺はできないなんて、不公平だ!」
「またわけわかんないことを!」

 本当に、王子様じゃなかったら、二、三発はぶん殴ってるところだ。……足払いはかけたけど。

「本気で、エルスペス嬢と結婚したいなら、手順ってものがあるでしょ! それくらい守んなさいよ!」
「手順?」

 殿下が俺をまじまじと見る。

「俺が必勝法を伝授しますよ。――将を射んとせばまず馬を射よ。ばーさんっすよ。ばーさんを説得しなきゃ始まらんないっすよ、あのタイプは。まずまーさんを口説いて許しを得るんです!ばーさんさえ落とせば、エルスペス嬢はイチコロっすよ」

 殿下もだが、ハートネルもやり方を間違っている。俺がもし、エルスペス嬢を口説くんなら、まずばーさんから落とす。間違いない。

 だが殿下はますます、絶望的な表情をした。

「それは――ダメだ。もう十二年前に断られてる。エルシーに近づくなって、きつく言い渡されているんだ――」
 
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