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幕間 公爵令嬢ステファニー・グローブナーの悔恨

愛する人が、愛する人

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 陸軍司令部で、応対した初老の文官は、見るからに迷惑そうだった。

 冷静になって考えれば、約束アポイントメントもなく王子の職場に押しかけているのだから、追い返されても当然だ。でも、公爵令嬢というわたくしの身分と、わたくしが実質的にはアルバート殿下の婚約者であるということから、貴族でない事務官はわたくしを追い払うことができなかった。頭に血が上っていたわたくしは、自らの仕出かした迷惑行為に気づかず、通された応接室に居座った。

 ――殿下がお戻りになるまで帰らない、と。

 かなり長い時間、待たされた後で、一人の女性がお茶の盆を捧げて応接室に入ってきた。その顔を見て、わたくしは息が止まるかと思った。

 ――だった。

 殿下が寄り添うようにして、腰に手を回していた女性。セピア色の写真とは違い、実物の彼女は少し暗めの金髪をうなじで簡素にまとめ、瞳の色は灰色がかった深い青。化粧っ気はほとんどなくて、でも肌は抜けるように白く、唇はわずかに綻び、物堅く清楚な雰囲気がある。整いすぎて冷たい印象さえする容姿には、笑顔も媚びも怯えもなかった。

 飾り気のない白いブラウスに濃紺のロングスカート。黒いタイを締め、サファイアの小さなピンで留めている。――それだけが、唯一の装飾。むしろ飾りのないことが彼女の美を引き立てていた。フリルやレース、宝石で飾った自分が、恥ずかしくなるほど――。

 あまりじろじろ見るべきではないと思いながらも、わたくしの目は彼女に釘付けだった。彼女はテーブルの上に銀の盆を置くと、無言で、流れるような動作でお茶を淹れていく。

 その所作は貴族の令嬢として訓練されたもの。ふわりと漂う香も、文句ない。
 綺麗な色の出た紅茶のカップとソーサーに銀のスプーンを添え、わたくしの前に置いた彼女に、わたくしは尋ねる。……声が震えないようにするのに、必死だった。

「あなたはこちらの事務官ですの?」

 彼女は付き添いのフェーズ夫人の前にお茶を置きながら、わたくしの方を見もせずに、砂糖壺を薦めながら言う。

「……はい。書類の処理を担当しております」

 声はやや低い。でも艶があって、しっとりと耳になじむ声。そして発音も、貴族階級特有の、綺麗な標準発音だった。……こんなところで地味な制服を着て働いているのが、全く不似合いな女性。まさか殿下がお側に置きたくて無理を言ったのだろうか?

 わたくしは動揺を悟られないように、砂糖を紅茶に入れ、ゆっくりとかき混ぜながら、尋ねる。

「……最近ね、殿下に恋人ができたらしいの。あなた、噂を聞いたことはなくって?」

 彼女が動作を止め、わたくしの顔を見た。ブルー・グレーの瞳がちょっとだけ見開かれたけれど、表情は動かない。

「殿下の恋人、ですか?……殿下の私生活については、何も存知上げません」

 うそおっしゃい! 殿下に高価なドレスや宝石を買ってもらい、殿下と連れ立って、レストランや劇場に何度も出かけているくせに!

 ……そう、叫びたいのをぐっとこらえ、わたくしはなおも尋ねる。

「あなた以外に、身近にお仕えする女性はいらっしゃらないの?」
「司令部にも女性事務職はたくさんおりますけれど……」

 彼女は考えるように首を傾げる。……あくまで、しらを切るつもりらしい。

「……殿下は、戦争前から好きだった方と結婚したいと言い出されたの。あなたが一番身近にいるみたいだけれど」

 その瞬間だけ、一瞬、彼女の表情に微かな揺らぎが見えた。……やはり、そうなのか。戦争の前からずっと、わたくしを裏切っていたの? でも、いったいどうやってわたくしの目を盗んで――。

 しかし彼女は、自分は田舎育ちで、戦争前に殿下とお会いしたことはないと言い切った。

「戦争前から好きな方というのが、わたしでないことは確かです」

 その発言に迷いは見られなかった。わたくしが名を問えば、彼女は、拍子抜けするほど、あっさりと名乗った。

 ……エルスペス・アシュバートン。ストラスシャー出身の、十九歳。わたくしよりも二歳も下なことに、少しだけ驚く。彼女の言う通りなら、殿下が戦争に行かれた時、彼女は十五歳の社交デビュー前で、遠くストラスシャーにいたなら、王族と会う機会なんて、きっとない。アシュバートンという姓に聞き覚えがあるような気がしたけれど、その時は思い出せなかった。 

 でも、アルバート殿下が結婚したいと思っているのは、この女性に違いないと、わたくしは確信した。殿下はこの女のために、わたくしを捨てようとしているのだ。


 


 

 結局、殿下は今日は司令部に戻らない、と事務官より伝えられ、わたくしは殿下にお会いできないまま、邸に戻る。殿下の方より電話で連絡がいったのだろう、邸に帰りつくと、執事のリチャードソンが、父が書斎で待っていると言う。叱られるのを覚悟で書斎に顔を出せば、父は表面上は穏やかに、しかし内に怒りを込めてわたくしに言った。

約束アポイントメントもなく、軍の施設に王子殿下をお訪ねするなど、公爵家の者の矜持もなくなったか、れ者が」
「……申し訳ございません。殿下が、わたくしとの会食を拒否して、他の女と出掛けていたと聞いて、つい――」

 父もまた、忌々しいとは思っていたのだろう。溜息をついて言った。

「殿下が、夕刻にこちらにいらっしゃる。お前の不作法に対してひどくご立腹だ」
「殿下が、こちらに……?」
「お前は部屋で謹慎していろ。今回はこちらの不作法だ。反省の色は示さねばならん」 
 
 わたくしは唇を噛む。……殿下がいらっしゃると言うのに、お会いすることもできないなんて――。
 わたくしはふいに思い出して言った。

「あの女の名前がわかりました」
「なんだと?」

 父が顔を上げてわたくしを見る。

「司令部の事務官をしていたんです! 間違いないわ、あの人でした!」

 父の、青い瞳が大きく見開かれて、パチパチと瞬きする。

「事務官? 事務官だと言うのか?」
「はい、司令部で書類の処理をしていると。……わたくしにお茶を出しに顔を出しましたもの。名前も聞きましたわ」
「名乗ったのか? まさか……」
「ええ、エルスペス・アシュバートでストラスシャーの出身だと」

 父の瞳がさらなる驚愕に見開かれる。

「アシュバートンだと? ストラスシャーの? ……なんてことだ!」
「ご存知なの?」
「……ああ、シャルローの戦いのとき、殿下の盾になって死んだ護衛が、マクシミリアン・アシュバートン中佐だ。……ストラスシャーの、リンドホルム伯爵だった」

 わたくしがあっと思う。殿下の部隊が潰滅した、激戦の時の――。

「ストラスシャーの伯爵令嬢が、王都の軍司令部で事務官を?」
「当主が死んで、後を継いだ息子も間もなく死んだ。娘では、爵位は継承できない。……現在の伯爵は、マクシミリアンの従兄だとか聞いている。……なるほど、そういうことか……」

 父は肘掛椅子の背もたれに凭れるようにして、しばらく目を閉じて考えていた。

「だいたいの構図が読めてきた。殿下は命懸けで自分を守ったアシュバートンの娘が、零落しているのを見かねて援助した。父親への恩義もあり、その娘との結婚を志した。……そういうことならば、こちらにもやりようはある」

 父はわたくしをじっと見つめると言った。

「いいか、ステファニー。この件はしばらく、お前は口を出すな。わしの目の黒いうちは、アシュバートンの娘を王子の妃に迎えるなんて絶対に認めん。……すべて、わしに任せておけ」

 父はそう言って、わたくしを下がらせた。






 その日、殿下と父との間にどんな話し合いが行われたのかはわからない。
 ただ、殿下はあくまで、わたくしとの結婚を拒否なさったとだけ、聞いた。
 

 しかしその数日後、わたくしは思いがけない場所で殿下とお会いして、少しだけ、話をすることができた。

 ずっと沈んでいたわたくしを慰めるために、姉夫婦と友人がオペラに誘ってくれた。ヴューラーの、壮大な歌劇。斬新な演出で評判だと聞いていたけれど、たしかに、衣装もセットも随分と前衛的だった。
 少しだけ気が晴れて、シュタイナー伯爵令嬢のミランダに誘われて、幕間にホワイエに下りた。

「なんだかヘンテコな衣装じゃないか。神様が普通のスーツを着ているなんて」
「そういう趣向なのよ」

 ミランダの婚約者、アイザック・グレンジャー卿とミランダが言い合っている、その背後を見たことのある男性が通り過ぎた。あれは――。

 わたくしは隣にいた姉の腕を掴んだ。

「あの人、バーティの護衛の方だわ」
「ええ?」

 その言葉に振り向いたアイザック卿も頷く。

「そうだ、ジョナサン・カーティスだ!ピクニックでも数度顔を合わせた、間違いない!」

 ならばここに殿下がいらっしゃるということなのか。でも、ならばあの女も――。
 躊躇うわたくしを余所に、アイザック卿はさっさとジョナサン・カーティスに近づき、彼を捕まえてしまった。わたくしの方を見て、ジョナサンは露骨に顔を引きつらせる。

「ジョナサン、アルバート殿下がいらしてるんだろう? 呼んでこいよ、いや、僕たちは戦前からの友人だ! 殿下が戻って以来、一度もご挨拶すらできていないんだ!」
「いや、それは――」

 しかしちょうど、そこに殿下ご自身が降りて来られて、アイザック卿とわたくしたちの姿を見て、眉を顰めた。

「殿下、お久しぶり――」
「今日はお忍びだ。大きな声を出さないでくれ。……劇場に迷惑がかかる」

 殿下がアイザック卿を止め、そしてわたくしを一瞬、迷惑そうに見た。――その視線だけで、わたくしは胸が抉られるような気がした。

「婚約者殿とお借りしてもよろしいのかな、何なら、次の幕はステファニー嬢と二人で――」
「勘弁してくれ、連れがいる。それに、レディ・ステファニーとの婚約は白紙に戻っていて、俺と彼女は何でもない」
「でも――」

 友人たちも、殿下がわたくしとの婚約を渋っていること、そして、どうやら愛人をつれ回しているという噂を耳に挟んでいた。

「その、連れというのは例の――」
「誰でもいいだろう。俺の恋人だ。放っておいてくれ」

 恋人、とはっきり言われて、わたくしが思わず息を呑む。アイザック卿がわたくしを見て、それから殿下を非難した。

「そんな馬鹿な! レディ・ステファニーがいるのに!」 
「ステファニーとは何でもない。俺が誰と付き合おうが、俺の勝手だ」
「そんな――」

 アイザック卿とミランダのカップルと、殿下とわたくしと四人で出かけたことは何度もあった。だからアイザック卿は殿下を親しい友人と思っていたのに、殿下の態度はあまりに冷淡だった。

 いかにも迷惑そうにあしらおうとする殿下に対し、アイザック卿もどんどん激昂して、これから殿下のボックス席を急襲するとまで言い出した。殿下が顔色を変える。

「いい加減にしてくれ!」

 ――ボックス席にはきっと、彼女が――。

 ふと気づくと、背後の近い場所に付き添いのフェーズ夫人が青い顔で立っていた。

「……お嬢様、その……」
「……まさか、会ったの?……彼女に」
「……はい、化粧室で……」

 今ここに、殿下とあの彼女を引きずり出すわけにはいかなかった。

「アイザック卿、時間だわ。……もうすぐ、次の幕が始まるわ」
「しかし、レディ・ステファニー……」

 開演間近を知らせるベルが鳴り、殿下はわたくしたちを振り切るように階段を上がっていく。
 殿下が吸い込まれたドアの向こうに、彼女がいるのだ。

 
 わたくしの愛している殿下が、愛している女が――。

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