上 下
108 / 190
幕間 公爵令嬢ステファニー・グローブナーの悔恨

白紙撤回

しおりを挟む
 アルバート殿下は十八歳で士官学校をご卒業になり、陸軍中尉として軍歴を開始された。同時に、オーランド伯爵に叙爵され、王都の郊外に邸宅も賜って、普段はそちらに住まわれるようになった。すっかり背も高くなってそばかすも消え、容貌も凛々しく、態度は自信に満ち溢れて、そして紳士然としていた。
 
 わたくしが十六歳で社交界にデビューするまでの三年間は、わたくしは相変わらず、殿下に乗馬や、公園でのデートを強請ったり、国立歌劇場の昼興行マチネーに連れて行ってもらったりした。さすがに二人っきりの外出は許されなくて、結婚したばかりのわたくしの姉や、わたくしの母が同行した。

 社交デビューして夜会に参加できるまで、わたくしは殿下の噂を聞くことしかできなかった。以前とは別人のように麗しくなられた殿下には、たくさんの令嬢や、時には既婚夫人までが群がったという。わたくしの見える場所では、殿下は節度も保って接していらっしゃった。

 でも実は、殿下は士官学校を卒業した頃から、王都のタウン・ハウスに暮らす、子爵夫人と親しくしているという噂を聞いた。何でも、殿下が子爵夫人の幼い娘を助けた縁で、植物園にほど近い彼女のタウン・ハウスにも出入りしていたとか。彼女の夫は愛人の家に入り浸りで、正妻の彼女は顧みられず寂しい暮らしだとも聞いていた。

『そんな女と仲良くなるなんて……バーティも軽率ではなくて?』

 わたくしは当然、不満に思い、その子爵夫人に文句を言いに行こうとしたけれど、嫁いだばかりの姉に止められた。

『おやめなさい、みっともない』
『でも……!』

 わたくしとの婚約が決まっているのに、夫に顧みられないとはいえ、既婚夫人と親しくなるなんて、許せないと思った。でも、姉は静かに首を振った。

『殿下はもう十九歳、立派な青年よ? なのにステファニーはまだ十四歳、夜のパーティだって出られない、子供じゃないの。結婚できるのは数年後の話だわ。殿下が年上の女性と親しくするのも当然よ。な男ならね?』

 わたくしが意味がわからず首を傾げれば、姉は言う。

『男性はね、仕方がないの。……わたくしの夫だって、結婚前に交際していた方がいらしゃったわ。わたくしたちが節度ある純潔の花嫁になるためには、仕方のない犠牲なの。向こうの女性だって立場をわきまえているから、今は素知らぬフリをなさい。それが貴族の矜持というものよ?』

 殿下の周囲に他の女の影があるのは、とても不愉快だったけれど、わたくしは姉の言う通り、知らぬふりをした。数年後、わたくしが社交デビューする年の、シーズンが始まる前に、子爵夫人は娘を連れ、夫の領地に引き込もった。……姉の言う通り、子爵夫人は自ら身を引いたのだ。わたくしとバーティとの結婚は、もう、ほんの目前だった。





 貴族の娘は十七歳になる社交シーズンにデビューする。伯爵以上の娘は、二月の国王陛下主催の舞踏会で、国王ご夫妻に謁見する。もちろん、わたくしもアルバート殿下のエスコートで、国王陛下とエレイン様に拝謁した。それからは、どんな夜会も、すべて殿下のエスコートで出席した。最初のダンスは必ず殿下と、それが済むと、わたくしは殺到する希望者を捌きなら、好きにダンスの相手を選んだ。一方、殿下もまた、たくさんのご令嬢に囲まれていらっしゃった。

 殿下はどのご令嬢とも、同じ穏やかな表情でダンスを踊られた。……わたくしに対するのと同じ笑顔で。それが、わたくしは不満だった。もっと婚約者として、特別扱いしていただきたかった。

『殿下とわたくしは婚約するのですよね?』

 ある夜、他のご令嬢とのダンスを終えたばかりの殿下を捕まえ、わたくしが尋ねると、殿下はちらりとわたしに視線を向け、首を傾げた。

『……そう、聞いている』
『でも、他の方とのダンスの方が楽しそうですわね』
『……そういう、つもりはないけど。不満なの?』
『別に、そういうわけじゃ……』

 わたしが扇を手持無沙汰に開閉すると、殿下が困ったように仰った。

『俺は別にダンスは好きじゃない。王子としての義務で踊っているだけだ』
『じゃあ、他の方と踊らないで、ってわたくしがお願いすれば、聞いていただけますの?』

 殿下は少し考えるように眉間に皺を寄せたけれど、「ああ」と頷いた。

『ステファニーが嫌がるなら、他の女性とは踊らない』

 殿下は約束通り、その年、他のご令嬢とは踊らないでいてくださった。――社交界で、殿下がわたくしに夢中だという噂が回るのもアッと言う間だった。わたくしの親友の、シュタイナー伯爵令嬢のミランダが、その噂を面白おかしく吹聴するのがこそばゆかったけれど、嘘ではないと思い、わたくしは否定しなかった。

 とても、幸せだった。
 殿下に……バーティに愛されていると、わたくしは微塵も疑っていなかった。
 




 十七歳になるその年のうちに正式に婚約するはずが、その年、かの大戦が勃発した。
 正式に婚約しないまま、アルバート殿下の出征が決まった。

 出征前、大事な話があると言って王宮に両親とともに呼ばれたわたくしは、当然、アルバート殿下と正式な婚約を結ぶのだと思っていた。殿下は二十二歳、わたくしは十七歳だったから、特別早いわけでもなかった。王家に嫁ぐ覚悟もできていた。だから、国王陛下の居間で、陛下から婚約を白紙に戻すと言われ、わたくしは真っ青になった。

 わたくし同様、両親もびっくりして声も出ないようだった。
 父が、辛うじて声を絞り出すように尋ねた。

『どういう、ことでございますかな』

 アルバート殿下はいつもと同じ、淡々とした表情で、無言で立っていた。国王陛下に代わって、王太子のフィリップ殿下が冷静に、説明してくださった。

『戦況は極めてわが軍に不利だ。マールバラ公爵の嫡男、ブラックウェル伯爵も戦死して、王家としては、バーティを出征させざるを得なくなった。……だが、いつ戻ってこられるか、あるいは無事に戻ってこられるか、保証はない。そんな状態で、ステファニー嬢との婚約を維持すれば、ステファニー嬢はいつ戻るかわからないバーティの帰りを待たなければならない』

 そんなのは当たり前だとわたくしは思ったけれど、話を聞いた母は迷いが生じたらしい。

『ステファニーは十七ですわ、陛下。アルバート殿下のお戻りは、そんなに遅くなりそうですの?』
『ステファニー嬢が二十歳になるまでには、おそらく無理だと思われる。それに――』

 ずっと黙っていたアルバート殿下が、初めて口を開いた。

『地雷で脚を失ったり、毒ガスで失明したり、顔の半分が爛れたり……そんな大けがを負った兵士も多い。俺が、そうならない保証はない。何年も待たされた上に、そんな男と結婚するくらいなら、正式な婚約を結んだわけでない、今のうちに白紙に戻した方がいいと思う。……ステファニーのために』

 アルバート殿下は、まるで遠い世界の出来事のように、淡々と仰ったので、わたくしはしばらく意味がわからなかった。

『もし、正式に婚約して出征し、俺が戦死した場合、ステファニー嬢は婚約者に死なれることなる』
『バーティが……亡くなる? まさか! だって、バーティは王子ですわ!」

 わたくしが思わず叫んだが、殿下はわたしを見て少しだけ眉を顰める。

『王子は狙われるかもしれない。王子の俺が死ねば、わが軍の士気は下がる。……俺の居場所がわかれば、敵はそこを狙うだろう。でも、王家の誰かが行かないわけにはいかない。王家だけが背後で安穏としているとの批判がこれ以上高まれば、下手をすると革命が起きる。だから俺は行かなければならない』

 殿下はそう言って、わたくしの目を見てはっきりとおっしゃった。

『だから、婚約は白紙に戻し、俺のことは気にせず、ステファニーは相応しい相手と結婚するべきだ』
『そんな……』

 わたくしは重いもので殴られたような衝撃を受けて、そのまま茫然と殿下の顔を見上げていた。

『で、でも……エレイン様は? 王妃陛下は何て仰っているんです?』

 わたくしが義理の娘になることを待ち望んでおられたエレイン様が、婚約を白紙に戻すことを、お許しなるはずがない。

『白紙にするのはステファニー、君のためだ』

 アルバート殿下がはっきりと言う。

『君の人生の問題だ。母上の希望は考えなくていい』

 さすがに、父はすぐに冷静さを取り戻し、言った。

『幸い、二人はまだ正式な婚約は交わしていません。白紙、まで戻す必要は――』
『俺とステファニーが婚約寸前だったのは、国中の者が知っている。もしこのまま俺が出征して戦死すれば、ステファニーは一番中途半端なことになる。正規の婚約者じゃないから、王家からの補償もできないし、周りからは婚約者に死なれた女扱いされる。きちんと白紙に戻し、そのことを広報しておくべきだ。そうすれば、ステファニーは問題なく、他の男と結婚できる。これはステファニーのためだ。俺は、ステファニーの人生を縛りたくない』
 
 わたくしのためだと言われて、父も、母もわたくしも反論できず、わたくしたちの婚約は白紙に戻った。

 話し合いの後で退出するわたくしは、扉のところで殿下を振返った。

『バーティ、わたくしは……』
『じゃあ、ステファニー、元気で』

 殿下はいつもと同じ、静かな表情でわたくしを送り出した。






 アルバート殿下の出征前に、婚約を白紙に戻すという政府の広報が出た。
 王子の婚約者でなくなったわたくしは、出征する殿下をお見送りすることすらできなかった。殿下の居場所の秘密を守る必要から、お便りも一切、禁じられた。

 意気消沈して過ごすわたくしのもとに、ある時友人のシュタイナー伯爵令嬢である、ミランダが訪れた。

『でもそれって、実はすごい愛ではなくて?』
『愛?』

 思わず聞き返したわたくしに、ミランダはうっとりと頬を染めて言った。

『だって、ご自分は死地に赴くのに、ステファニーの人生を縛りたくないから、婚約を白紙に戻すなんて。全部ステファニーのためなのでしょう? まさしく愛よね。素敵だわ……アルバート殿下って、地味で大人しい方だと思っていたけど、きっと、ステファニーのことを心底、大切に思っていらしたのね』
『……そう、なのかしら……』

 わたくしは、最後に会ったアルバート殿下の顔を思い浮かべる。

 静かな、諦観に満ちた顔。それからいつも見慣れた、少し眉を顰めるような表情。
 わたくしの我儘をいつも聞いてくださった、優しい方――。

 もし、婚約の白紙撤回が彼の、愛ゆえなのだとしたら。ならば、わたくしは殿下にどう、返すべきなのか。
 だって、わたくしだって殿下を愛している。……わがままを言って困らせてばかりだったけれど、すべては殿下を愛していたからなのに。

 取り戻すことが叶うなら、時間を巻き戻してやり直したい。もっと素直に、もっと優しく、殿下を試すようなことはせず、ただ殿下に尽くしたい。
 自分の愚かさに気づいた今、愛しい人はわたくしのもとを離れ、戦地に赴いた。

 祈ることしかできないわたくしのもとに届いたのは、殿下の部隊が潰滅したという、絶望の報せだった――。
 
 
しおりを挟む
感想 289

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話

水瀬 立乃
恋愛
陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーの母親が玉の輿結婚をした。 相手の男性には陽和よりも6歳年上の兄・慶一(けいいち)と、3歳年下の妹・礼奈(れいな)がいた。 義理の兄妹との関係は良好だったが、事故で母親が他界すると2人に冷たく当たられるようになってしまう。 陽和は秘かに恋心を抱いていた慶一と関係を持つことになるが、彼は陽和に愛情がない様子で、彼女は叶わない初恋だと諦めていた。 しかしある日を境に素っ気なかった慶一の態度に変化が現れ始める。

私は5歳で4人の許嫁になりました【完結】

Lynx🐈‍⬛
恋愛
 ナターシャは公爵家の令嬢として産まれ、5歳の誕生日に、顔も名前も知らない、爵位も不明な男の許嫁にさせられた。  それからというものの、公爵令嬢として恥ずかしくないように育てられる。  14歳になった頃、お行儀見習いと称し、王宮に上がる事になったナターシャは、そこで4人の皇子と出会う。 皇太子リュカリオン【リュカ】、第二皇子トーマス、第三皇子タイタス、第四皇子コリン。 この4人の誰かと結婚をする事になったナターシャは誰と結婚するのか………。 ※Hシーンは終盤しかありません。 ※この話は4部作で予定しています。 【私が欲しいのはこの皇子】 【誰が叔父様の側室になんてなるもんか!】 【放浪の花嫁】 本編は99話迄です。 番外編1話アリ。 ※全ての話を公開後、【私を奪いに来るんじゃない!】を一気公開する予定です。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...