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第一章

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『エルシー……』

 夢の中で、誰かがわたしの名を呼んでいる。周囲には咲き誇る一面の薔薇。――ああここは、あの薔薇園ローズ・ガーデンだ。

『動かないで、エルシー、まだちゃんと描けてない』
『だって、あっちに小鳥が来ているんだもん。早くいかないと飛んでいっちゃうわ』
『あと、少しだけ――ほら、さっきとまたポーズが違う』
『ああもう、面倒くさいわ。適当に描いておいてよ――』

 ちょうどわたしからは逆光になっていて、絵筆を握る人物の顔は見えない。わたしはたぶん、絵のモデルになるのに早々に飽きてしまって、結局、を捨てて噴水の方に遊びに行ってしまった。

『エルシー! まったく、このお転婆が!』

 背後でが怒ってる――。




『ほら、お姫様、しっかり掴まって――』
『待って、――揺れるし、怖い!』
『大丈夫だって、落っことしやしないから!』

 の胸元に抱き込まれるようにして、荒れ地ムア小馬ポニーで行く。薄紫色のヒースの野が広がり、ところどころ、石灰岩が転がる、不毛の地。見上げれば、青空を切り裂くようにトンビが旋回し、雲雀ヒバリが啼き騒ぐ。ミツバチの羽音、ほのかに香る、甘い花の香――。

『きっと、ビリーが後で怒るわよ? 二人だけでズルイ、僕も行きたかったって!』
『でも、僕は二人も乗せられないもの。――僕と二人では嫌だった?』

 心配そうに覗き込むの顔には影が差して、よくは見えない。

『ううん、そんなことはないわ』
『じゃあ、あの丘まで行ったら、お弁当にしよう。ベーコンとチーズのベーグルサンドと、チョコレート・マフィンだ』
『チョコレート!』
『エルシーはチョコレートが好きだね。僕は甘いのは苦手だから、チョコレート・マフィンは全部あげるよ』
『やったあ! じゃあ、急いで!』
『はいはい、僕のお姫様は、現金だね――』

 見渡す限りの荒れ地ムーアと、青い空――。と、わたしと――。



 


『エルシー、ああ、この絵の本物を僕は見たことがあるよ。エル・グランの〈最後の審判〉だ』
『さいごの、しんぱん?』
『そう、人が死んで、神様から罪の重さを判定されるんだよ。罪があれば地獄へ。なければ、天国へ。天井いっぱい、この絵が描かれていて、すごかった。首が痛くなるよ……いつか、エルシーが王都に来たら、一緒に見に行こう。ワーズワース侯爵――知り合いのお邸だから。』

 わたしはカッスルのかび臭い匂いのする図書室ライブラリーで、の膝の上に座って画集を開いていた。多色刷りの、豪華な製本。たくさんの名作の模写が載せられたその本の、見開きに陣取る絵。ランプの灯りに照らされた神は怒りも露わにいかずちを振るって、なんとも恐ろし気に見えた。

 ――外は嵐が吹き荒れ、図書室の中は薄暗い。ガタガタと窓が風で揺れる。突如、窓の外に青白い稲妻が走る。
 
 ゴロゴロゴロ……ピシャーン!

 カッスルの外に広がる荒れ地ムーアのどこかに、雷が落ちたらしい。わたしは思わず、の胸に縋りついた。

『大丈夫だよ、エルシー』
『だって怖い……わたしも地獄に落とされるの?』

 がわたしの髪にキスをし、ギュッと抱きしめてくれる。温かい腕に抱かれて、少しだけ安心する。でも稲妻は何度も黒い空を引き裂き、大地に雷鳴が鳴り響く。

『大丈夫だよ、エルシー。……怖くないよ、僕のお姫様。ずっと――』 

 そういって何度も顔中にキスをしてくれたの、黒い髪がわたしの頬に触れる。 
   
 抱きしめてくれる温かい腕。髪を撫で、キスをして――。
 




 あれは――誰――?







 目が醒めると、すでに日は高かった。

「いけない――遅刻しちゃう!」

 慌てて上掛けデュベをはねのけ、起き上るとそこはいつもの自室ではなかった。 
 しばらく茫然として、周囲を見回す。豪華な、四本柱の天蓋付き寝台。わたしが普段眠っている寝台の、倍以上の広さがある。――そうだった、一人で寝るのにこんなにいらないって思って――

 ふと枕を見ると、もうひとり分くらいのへこみがあった。

 ……誰かがここで寝たの?

 わたしは気を取り直し、ベッドサイドの時計を見る。時計は七時を過ぎたところだった。普段は通勤に四十分かかるが、このアパートメントは司令部に近く、歩いても十分程度、馬車だと五分もかからない。わたしが天蓋を見上げながらどうしたものかと考えていると、ノックの音がして、ノーラがワゴンを推しながら入ってきた。

「おはようございます! 起きてらしてよかった! ご朝食はベッドに用意させていただきますね」

 ノーラはベッドトレイを置いて、朝食を並べる。搾りたての柑橘のジュースに、焼きたてのトースト、卵料理にベーコン、熱い紅茶と新鮮な果物。小皿には蜂蜜とマーマレードが。

「……ベッドで食べるなんて初めて……」

 朝食はメアリーと二人で用意して、わたしは厨房の小さなテーブルで済ませ、メアリーが祖母の寝台まで運ぶのがいつもの手順だった。……作っているのが自分なんだから、寝台に運んでもらうなんて、不可能だ。

 わたしは久しぶりに人が作った朝食を有り難くいただき、身支度のためにベッドから降りた。ノーラがクローゼットから出してきたのは、わたしが着てきたのではない、白いブラウスと紺のスカート。軍からの支給品と同じデザインだけど、あきらかに仕立てがいい。

「これ、わたしのじゃないわ」
「殿下がわざわざ、ミス・リーンの店に注文したんですよ。ミス・リーンも、こんな飾りのないものを縫うなんて、久しぶりだって言われたそうですけどね」 

 ……わたしがここに泊まるのを、ずいぶん前から準備していたってこと?

 気が滅入ってくるのでわたしは考えるのをやめ、ノーラの差し出す服に着替える。着てみるとブラウスは身体にピッタリ添って、スカートは普段のより軽く、足さばきもいい。小さなタイを結び、父の形見のタイピンのつける。靴も履きなれて踵のすり減った編み上げブーツではなく、職人が手掛けたらしい、真新しいもの。ノーラが器用に髪を編み込みにしてくれて、普段よりもすっきりとした髪型に仕上がった。ここまでわずか三十分。
  
 鏡でチェックして、わたしはふと思う。

「殿下は昨夜は、こちらにお泊りではなかったの?」
「泊まられたみたいですけど、今日は軍の朝鍛錬を視察すると言って、早朝におでかけなさいましたよ」
「この家には他には――」
「母と兄さん、それから護衛がお二人、泊まり込みましたよ」

 あの枕のくぼみはやはり――。

 だが深く考えないようにして、わたしはジュリアンが呼んでくれた馬車で、司令部に出勤した。  





 いつも通りに仕事をこなし、昼食を食堂カフェテリアで摂っていると、マリアンが何も言わずにわたしの隣に座ってきた。

「ねえ、殿下とあんたが深い仲がだって噂だけど――」

 マリアンが緑色がかった榛色の瞳で胡乱気に見つめてくる。わたしは溜息をつきながら面倒臭そうに言った。

「そんなわけないでしょ。ただの上司と部下よ」

 ――セクハラされているけどね……。さすがに口にするわけにいかない。

 マリアンは何も言わず、わたしをじっと見ている。

「だいたい、王子様と深い仲になったって、結婚できるわけじゃなし、醜聞スキャンダルにでもなったら、潰されるのはこっちだわ。何もいいことがないじゃない」
「でも、ハートネル中尉があなたに振られたって、昨夜はやけ酒を飲んでいたそうよ?」
「知らないわよ、そんなの。……わたしは昨日は祖母が入院して、それどころじゃなかったし。おかげで仕事を辞められなくなったわ」

 祖母の入院と聞いて、マリアンが目を見開く。

「そうなの?!」
「殿下のコネで入院させていただいたし、何しろお金がかかるでしょ?……いくらか立て替えていただいているの。それを返済し終えるまでは、やめられなくなっちゃったわ」

 深い溜息をつくわたしの様子に、嘘ではないとわかったらしいマリアンは、少しだけ同情してくれた。

「……もしかして、やめたかったの? 仕事」
「だって、殿下とどうのこうのなんて噂立てられたら、結婚にだって差し支えるわ。でも祖母が入院して、結婚どころじゃなくなったわね。病気の祖母までまとめて面倒みてくれる男なんて、たぶんこの世にいないわ……」

 わたしははあっと息を吐いて、ライ麦のパンをちぎる。

「ハートネル中尉は……」
「さすがに祖母の入院費用まで、肩代わりはしてくれないでしょう。しばらく馬車馬のように働かないと。殿下には残業させてもらうようにお願いするわ。……ごめんなさい、午後は祖母のお見舞いに行かなくちゃいけないから、少し早く上がるつもりなの。お先に失礼するわ」

 わたしは何か言いたげなマリアンをその場に残し、トレーを持って立ち上がった。

  
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