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第一章

遠い日の記憶

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「最近、ずいぶんと帰りが遅いようね、エルスペス」

 久しぶりに我が家で夕食を摂っていると、案の定、祖母の小言が始まる。

「……はい、申し訳ありません、おばあ様」
「お前、仕事などやめるのではなかったの?」
「ええ、やめる予定ですが、引継ぎが上手くいかないのと、特別業務が夜にかかってしまうので――」

 キャベツの酢漬けザワークラウトをフォークで集めながら、わたしが言葉を探していると、正面に座る祖母は疑わしそうに言った。

「あの、主席秘書官だと言う人も、大事な特別業務だと言うけれど、未婚の若い娘を夜遅くまで働かせるなんて、非常識ですよ。いったい何の業務なのです? 説明してごらんなさい!」
「それは……王子殿下に関わることは守秘義務があるので、お話しできないんです、おばあ様」

 着飾ってパーティーに行ったり、オペラに行ったり、高級レストランで食事に付き合ったり、なんて、守秘義務がなくてもお話しできないですけどね……。わたしは溜息をつきたいのをギリギリで堪える。

 さすがにもう、間諜スパイごっこだなんて言い訳は信じていなかったが、パーティーにパートナーが必要なのはわからなくはない。でも、オペラも食事も、単に殿下が一人で行くのは嫌だというだけの、我儘ワガママだ。国王陛下からも、公爵令嬢と正式に婚約するようにうるさく言われていて、殿下はそれに不満だとしても、王都の上流階級ではアルバート殿下と公爵令嬢は相思相愛の仲だと信じられているから、他のご令嬢を誘うわけにもいかない。レコンフィールド公爵は国王の寵臣だし、殿下の浮気相手だなんて噂になったら、そのご令嬢もその父親も、社交界にいられなくなってしまう。
 もともと社交界に縁のないわたしなら、仮初めの遊び相手にはちょうどいい。

 ――若手女優のパトロンになるとか、いくらでも他に手段はあるし、何も秘書官に「業務の一環」として命じる必要はないとは思うけれど。正直に言って、なぜ、殿下がわたしを連れ歩きたがるのか、さっぱりわからなかった。

 まして、婚約間近だと噂されているのに――。

「本当に仕事なのですよね? エルスペス」

 祖母に厳しい声で言われて、わたしは反射的に背筋を伸ばす。

「ええ、そうです。仕事なのは間違いありません」

 わたしは祖母の灰色の目をまっすぐに見て、大きく頷く。……傍目には殿下が連れ歩く愛人モドキの女だろうが、わたしにとって、秘書官としての業務の一環だ。それ以上でも、それ以下でもない。

「アルバート殿下はレコンフィールド公爵令嬢と婚約間近なのでしょう? 未婚の娘がそんな男性の周囲をうろつくものではないわ。そもそも、仕事も早く辞めなさいと、前から言っているでしょう。若い娘が、いつまでも働くのはみっともない。……全く情けないこと、由緒あるアシュバートン家の娘が……」

 結局はいつも通りのお小言が始まり、わたしは祖母の背後の壁にかかる、薔薇園ローズ・ガーデンの絵を見る。
 先日は殿下と、仮面をつけての秘密のオークションに行って、素晴らしい宝石や有名な絵画――もちろん故買品で、ワケアリの品々ばかり――を目にすることができた。特に殿下は絵画がお好きらしく、とある巨匠の作品を競り落とすのが目的だった。どうやら、王家のゆかりの邸から盗まれたもので、国外に流出させるわけにいかなかったらしい。

『絵がお好きなのですね』

 わたしが言えば、殿下は仮面をつけた顔でわたしをじっと見て、それから何となく困ったように首を傾げた。

『……まあな。昔は、画家になりたかったんだ』
『そうなのですか。……意外です』
『意外か?』
『ええ、だってずっと戦場に出ていらっしゃったのでしょう?』
『戦争だったからな。一番上の兄上は危険な場所には行けないし、二番目の兄上は身体が弱くて、とてもじゃないが、戦地で生活なんてできない。……俺が、行くしかなかった』

 そう言ってから、殿下は手元の出品カタログに視線を落とし、言った。

『それに、プロの画家になれるほど上手くなかった』
『今はもう、趣味でもお描きにはならないのですか?』
『最近は描いてないな……スケッチくらいだ。戦地では油絵を描く暇はなかった』
『スケッチされるなら、今度見せてくださいよ。……お金がかからなくていい趣味だわ。高いお金を払って、あの変なお邸で間諜スパイごっこするよりも、うんと有意義じゃないですか』

 わたしがそう言うと、殿下はカタログから顔を上げてわたしの顔をじっと見て、少しだけ唇を綻ばせた。

『……ああ、そのうち、な』

 顔の半分は仮面で隠れていたけれど、あの時の殿下はとても穏やかな表情をしていたように思う。……絵の趣味を褒められたのが、そんなに嬉しかったのだろうか? だとしたら意外と単純な人だな、などと考え、わたしは祖母のお小言に神妙に頷きながら、視線は薔薇園ローズ・ガーデンの絵から離さなかった。

 たぶん、この絵もプロの画家じゃなくて、趣味か、画学生が描いたものだろう。
 オークションで見た絵画はみな、独特のオーラがあったけれど、この絵にはそれがない。色使いは繊細で、筆のタッチもそこそこだけど、やはり本物の芸術を見た後では、稚拙さというか、素人臭さがある。……でも、いったい誰が描いたものか知らないけれど、わたしは昔からこの絵が好きだった。いつ、どういう理由でわたしの部屋にあったのか、まるで覚えていないけれど、幼いころから大事に飾ってきた絵なのだ。美術品として価値がないから、持ち出しても構わないと言われた時は、本当にホッとしたものだ。

 誰かが、わたしの住んでいたカッスルで、薔薇園ローズ・ガーデンの絵を描き、城に残したのだ。ずいぶん昔のご先祖様の一人だったのか、あるいは旅人だったのか。そんなことを考えていると、ふと、脳裏に一つの風景が浮かぶ。

 ちょうど、薔薇の盛りのころ。
 薔薇の香りがただよい、小鳥の声がして、蝶やミツバチが飛んでいた。
 弟がはしゃいで駆け回り、園丁のサム爺さんが薔薇の手入れに余念がなくて、わたしは――わたしは、何をしていたっけ?

 そうだ、わたしもたぶん、サム爺さんの手伝いをして、雑草を抜いたり、盛りに過ぎた薔薇を摘んだりしていた。そして、もう一人――誰かが、絵を描いていた。

 イーゼルを立てて、その前に立って……油絵具を並べ……背は……背はそんなに高くなかった。でも男の人で、髪は黒い――あの人は――。

「――聞いているのですか、エルスペス!」

 祖母に叱責されて、わたしはハッと我に返り、同時に脳裏に浮かんだ風景が霧散する。

「あ、は、はい――おばあ様」

  
 慌てて居住まいを正せば、祖母は眉間に皺をよせてわたしを睨んでいた。――聞いてなかったのが、バレてしまった。

「お前も結局は、わたくしのことを口うるさい老女だと思っているのでしょう。……わたくしはあの、忌々しいサイモンと、その息子からお前を守るために……!」
「いえ、おばあ様、そのお話はもう――」  
「エルスペス、働きに出るのはお辞めなさい。せめて、お前だけは真っ当な幸せを掴んで欲しいと思って、あの城を出てきたのに、このままではお前までが王家の食い物にされますよ!」

 祖母はテーブルに置かれたハーブティーに蜂蜜を入れ、銀のスプーンで混ぜる。

「食い物だなんて……アルバート殿下は親切にしてくださいます!」
「当たり前です! マックスがどれだけの骨を折ったか! 挙句の果てに戦死して。ローズの事だって……。ああ、やっぱり王都になど出てくるべきではなかった。王家が信用できないのは、わかっていたことだったのに。もう、ローズの二の舞はごめんですよ!……エルスペス。職を辞しなさい。いいですね?」
「……はい、おばあ様……」

 わたしは目を伏せて、祖母の叱責に応える。こうなってしまうと、わたしには祖母を宥めることなどできない。……ローズ、というのは確か、祖母の遠縁の女性で、幼い頃に孤児になり、リンドホルム城に引き取られた人だ。祖母は父と結婚させるつもりで養育したのに、王都に行って亡くなったと聞いている。王家と何か問題を起こしたのだろうか?……でも、すごい剣幕で怒っている祖母に尋ねる勇気はない。
 
  殿下の秘書官の職を辞すべきだとは、わたしも内心考えていた。……このまま、愛人モドキをさせられていたら、きっと抜き差しならないことになるし、周囲にも知られてしまうだろう。そんな醜聞スキャンダルに、祖母の心臓はきっと耐えられまい。

 でも、仕事を辞めたら収入はなくなる。
 気前のいい結婚相手が、すぐに見つかるわけもない。

 ――いったい、どうしたらいいのか。
 わたしは出口の見えない迷宮に迷い込んだような気分で、目の前のハーブティのカップに手をかけた。
   
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