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第一章

旧ワーズワース邸

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 スプリングの効いた馬車の中で、殿下は長い脚を優雅に組み、窓枠に肘をついて寛ぎながら、わたしをジロジロ見ている。品定めされているようで居心地が悪く、わたしは身じろぎした。
 
「似合ってるじゃないか。もっと堂々としていたらいい」
「そ、そうですか?……その、靴の踵が高いし、妙に布地が薄くて……」

 実は、今日のドレスは前回のものよりシルエットがタイトで、しかも布地が薄いためにラインに響くからと言って、ミス・リーンはドロワースを穿くことを許してくれなかった。だからドレスの下は絹のスリップとガーターベルトと絹の靴下だけ。……殿下に見つめられると布地が透けているのでは、と不安でしょうがない。

「仮面で顔が隠れるのがもったいないな。……今度はオペラにしよう。ボックス席なら、周囲から見えない」
「……オペラにパートナーは必要ないでしょう。一人で行ってくださいな」 
「何が面白くて、野郎がボッチでオペラを見にゃならんのだ」
「じゃあ、例の公爵令嬢をお誘いになれば……」
「嫌だね、あの女には、戦争前に散々、あちこち連れまわされてお釣りが来る。もう二度とごめんだな」
 
 ……まあ確かに、公爵令嬢に間諜スパイごっこはさせられまい。

「……その、今回は何を探る予定なんですか?」
「探る?……探るって……そうだなあ……」

 殿下は慌てて周囲を見回し、それからわたしに金色の流し目を向けて、言った。

「まあその……お前の好みのタイプとか、趣味とか、好きな食べ物とか?」
「は?……間諜スパイに行くんですよね?」

 わたしが問い質せば、殿下が慌てて組んでいた脚を解いて姿勢を正し、頷く。

「そうだった! 間諜スパイだった!」
「……あちらを別口で探っている、工作員エージェントの方とは接触なさるのですか? 合言葉決めたりして」
「エルシー……やけに間諜スパイに詳しいな」

 訝しそうに殿下に聞かれ、わたしはハッとして口元に手をやる。

「あ、ビリーの……その……弟の読んでいた本に、間諜スパイの話があって……」

 リンドホルムの城を出るとき、城の蔵書は持ち出せなかったが、弟の探偵小説や間諜スパイ小説はどうせ処分されるのだからと、形見として王都に持ってきていた。目を伏せたわたしを気遣うように、殿下が尋ねる。

「ああ、ビリー……弟の、死因は何だったんだ?」
「食当たりなんです。もともと身体があまり丈夫じゃなくて。夕食を食べた後、ひどく苦しんで……食材のエビがよくなかったのかもって」
「エビ……」
「わたしも祖母も同じものを食べたのですが、特には何ともなくて……アレルギーじゃないかって。もっと気を付けていればよかったのですが……助かりませんでした」

 喉を押えて苦しむ弟の姿は、今でも目に焼き付いている。……彼でなくて、わたしが死ねば祖母にこんな苦労をかけることはなかったのにと、つい思ってしまう。殿下も眉間を寄せて何か考えていたが、ふっと視線を動かし、話題を変えるように窓の外を指さした。

「……あそこが目的のやしきだ。旧ワーズワース邸。ワーズワース侯爵が投資に失敗して売りに出したのを、成金の資本家が買い取り、後援している芸術家なんかを住まわせているそうだ。ときどき、こういうイベントをやる」
「……殿下は以前にも?」
「先代のワーズワース侯爵夫人は王妃の従姉でね。子供の頃に来たことがある。まさか、侯爵家があの邸を手放すとはね。何しろ、自慢の邸だったから」

 壮麗な邸宅は、建物こそ堅牢で昔ながらの風情を残していはいるが、門の周辺の装飾もどこかケバケバしく、門から車止めに向かう道の周囲の並木も妙な形に刈り込まれて、なんだか異様だった。その印象は建物の内部に入るとさらにひどくなり、どこかしこも金ぴかで目がチカチカしたが、さらにおよそ場に似付かわしくない、奇妙な像が置かれ、その隣に東洋の武具が飾られて、全体にチグハグだった。

「これが……芸術……ですか?」
 
 わたしの問いに、殿下も仮面の下の顔をしかめたらしい。

「いや……たぶん、違う。俺も、舐めていた。……さすが成金は趣味が違うな」

 昔、ワーズワース家の所有であった頃はもっと、落ち着いたしつらいの邸だったそうだ。

「……亡くなった夫人がこの惨状を目にしたら、憤死するかもしれん」
「もう、亡くなっていらっしゃるなら、憤死はなさらないでしょう」

 視界も悪く、ピンヒールは歩きにくいため、殿下の腕に縋りつくようにして、画廊ギャラリーを通り抜ける。見たこともない作家の絵がところ狭しと飾られているが、申し訳ないが、上手いとは思えなかった。――後援されている芸術家の一人なのだろうか。邸の現オーナーとは趣味が合いそうもない。

 画廊の先の大広間と、その先の庭園がパーティー会場だった。音楽が流れ、着飾った男女があちこちで群れ、白い上着に黒いズボンの制服を着た給仕が、グラスを載せた盆を持って歩きまわる。どの人物も皆、仮面で顔を隠して、どこか退廃的な雰囲気だ。……やはり内装は奇妙にゴテゴテしている。殿下が、無言でわたしの腕を引いて、天井を指さす。年代物のシャンデリがキラキラと輝き、天井に描かれた、壮大な神話の世界を照らし出している。その絵に、見覚えがあった。

「ええっと、確か……エル……」
「――エル・グランの『最後の審判』だ。二百年ほど前の巨匠」
「ああ、うちに画集がありました」
「覚えていたか!」
王立美術館ロイヤルギャラリーが解放された時に、実物をいくつか見ました。……この天井画も、画集に入っていたと思います」

 リンドホルムの城には貴重な美術書が収蔵されていて、時々、執事に鍵を開けてもらい、それを見ていた。王都に来て、戦費を広く市民から募るチャリティーの一環として、普段は一般市民の目に触れない、王室累代の美術品が美術館で公開された時、その画集に納められた実物を目にすることができた。――そうだ、あの画集は宮廷画家を務めた巨匠、エル・グランのものだった。……ずっと、忘れていたけれど。

 わたしが天井画に見惚れていると、給仕がグラスの載った銀の盆を差し出す。殿下がそれを二つ取り、わたしに一つ手渡す。

「乾杯しよう。……俺はずっとこの絵が見たかったんだ」
「……それで、このパーティ―に出ることにしたのですか……」

 チンと軽くグラスを合わせ、一口飲む。

「うん、内装はまずいが、酒はまあまあだな。……ここのオーナーはワインの先物で一山当てたことがある。趣味はともかく、味覚は確かだろう」

 殿下はわたしの腰に手を回し、体を密着させるようにして、会場の隅にあるソファに誘う。
 
「少し座ろう、足がキツイんだろう? それとも踊るか?」
「ええ? 踊るのはちょっと。仮面で視界が悪くて酔いそう……でも、間諜スパイごっこに必要でしたら、他の方と踊っていらしても」
 
 邸の内装とは相いれない、ヒョウ柄のソファに二人並んで腰を下ろし、スパークリング・ワインを啜りながら、周囲を見回す。……まともな護衛もなく、こんないかがわしい(何しろ内装がおかしすぎる)邸にやってきて大丈夫なのか。

「護衛はいないわけじゃない。何人かは潜んでる。……趣味と、実益を兼ねて」
「趣味と、実益?」
「……俺の配下はずっと前線に貼り付いて、まともな娯楽もなかった。だから、少しは華やかな場に足を運んで、羽を伸ばさせてやりたい。……ロベルトもいるはずだ。どれかは知らんが」

 殿下の配下は貴族と平民が半々くらい。もっと公的な、まともな茶会や園遊会、夜会などは、ある程度の爵位や肩書が必要で、平民は立ち入ることもできない。

「この成金舞踏会はコネと金さえあれば誰でも招待状を手に入れられる。……かなり高額だが」
「……お金かかるんですか!」

 この趣味の悪い邸に来るために、金を払わねばならぬとは、なんという罰ゲーム。

「それでも、今、王都でもっとも金を持っている若手の投資家連中が集まるんだ。金の匂いに敏感なやつらはこぞって、この招待状を手に入れたがる」
「……そういう投資家の動向を探るおつもりなんですか?」
「ん……まあ、そんなところだな」
「じゃあ、こんなところでわたしと喋っている場合ではないのでは……」
「とにかく、あの天井画が無事でよかった。しかし、この芸術家モドキどもは、この貴重な絵を塗りつぶしかねんな。――文化庁の長官あたりから、所有者に釘を刺しておくよう、命じる必要がありそうだ」

 わたしは殿下が間諜スパイの仕事に取り掛かるのであれば、邪魔にならないように大人しくしているつもりだったが、殿下は一向に動こうとせず、昔の巨匠エル・グランについての、豊富な蘊蓄うんちくを語りだして止まらない。というか、殿下もうちにあったのと同じ画集を見たことがあるようで、舞踏会そっちのけで画集の話ばかりしていた。……もしかしてこの人は、要するにこの天井画が見たいだけだったのでは。だとしたらそんなことのために、わざわざドレスを仕立てて女を着飾らせるなんて、本気でどうかしていると、内心、呆れた。

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