上 下
3 / 190
第一章

憂鬱な帰り道

しおりを挟む
 司令部から家まで、徒歩で四十分ほどの道のりだ。布製の鞄を下げて、慣れた道をサクサクと歩いていると、背後から声をかけられた。

「ミス・アシュバートン、今帰り?」

 舌打ちするのを、危ういところで堪える。仕方なく振り向けば、赤い髪を綺麗に撫でつけ、帽子をかぶった、司令部付のニコラス・ハートネル中尉がニヤニヤ笑いを浮かべて立っていた。彼は戦地では補給を担当していたそうだが、休戦協定の締結直後に傷病兵を移送して戻ってきて、そのまま司令部付きになった。――はっきり言えば、わたしはこの男が嫌いだ。

「……ええ、そうです、ご機嫌よう」

 会釈だけして再び歩き出そうとしたが、あちらはしつこく話しかけてくる。

「相変わらず歩いて帰ってるの? 僕も馬車を呼ぶから、一緒に――」
「いえ、結構です。健康のためにも歩くようにしていますので。では失礼します」

 若い男と馬車に同乗などしたら、何を噂されるかわかったものではない。わたしは彼を振り切りたくて、さっさと歩き始めたが、ハートネル中尉は意に介さず、当たり前のように並んで歩いてくる。

「鞄、持つよ?」
「いえ、結構です。お気遣いなく。――わたしに構わず、馬車でお帰りください」

 馴れ馴れしく声をかけてくるこの男、帰る方向が同じで、本当にしつこい。並んで歩いているのを人に見られたくなくて、わたしはなるべく彼を避けているのだが……。
 速足で、振り切るように歩いていくが、職業軍人であるハートネル中尉の方がどう考えても足が速く、やすやすとついてくる。むしろわたしの方が息切れしてきた。

「ずいぶん、急いでいるんだね。……やっぱり馬車を」
「いえ、結構、です」

 誰のせいで速足になっていると思っているんだ、と心の中で悪態をつきながら、わたしはまっすぐ正面を見据えてずんずん歩く。

「……そう言えば、マクガーニ中将が退任されるって聞いた?」
「……ええ、聞きました」
「君はどうするの」
「どう……って?」

 思わずちらりとハートネル中尉を見上げれば、頭一つ背の高い彼は、わたしの顔を覗き込んでいる。

「ほら、後任はさ、君も聞いたと思うけど、王子殿下だろ? 事務官補を雇ってくれるかな?」

 何が嬉しいのかしらないが、妙にニヤニヤして鬱陶しい。わたしはついと視線を前に戻し、正面を睨みながら言った。

「いえ、退職することになると思います」
「へーやめるんだ。やめて、どうするの?」
「……さあ、そこまでは。歳も歳ですから、祖母からはそろそろ結婚しろと言われていますし」
「結婚……するあてあるの?」

 ハートネル中尉はわたしの父が戦死していることも、弟が死んだおかげで爵位を継承できずに領地を追い出されたことを知っている。わたしは自分からは喋っていないけれど、わたしが元リンドホルム伯爵令嬢で、爵位を失って落ちぶれたのは有名な話だったから、どこかで聞きこんできたのだろう。

「さあ、どうでしょう。……家に戻って、祖母とも相談します」

 わたしがまっすぐ前を睨みながら歩いていくと、耳元で上から囁くように彼が言った。

「俺が、もらってやってもいいよ?」
「はあ?」

 思わずギロリと中尉を睨みつける。冗談にしてもたちが悪い。

「俺はこう見えても子爵家の三男で、爵位は継げないけど、家柄はまあまあ。……どうかな?」
「お断りします」

 間髪入れずに切り捨て、わたしはさらにスピードを上げた。以前からこの男は妙にわたしにコナをかけてくるけれど、結構な女好きの遊び人であるのをわたしは知っている。それに、はっきり言うけどわたしは持参金もないし、病気の祖母と小さな家があるだけの貧乏娘。子爵様の三男坊なんかとは釣り合わない。

「……つれないなあ。でも、悪いけどさ、君は爵位も領地も財産も持参金も、ついでに可愛げもないじゃないか。俺よりマトモな男は厳しいと思うけどなあ。成金の後妻にでもなるかい? でもその愛想の無さじゃあ、それも厳しいんじゃないかな? その美貌で戦時景気で焼け太りのジジイを捕まえる?」

 ハートネル中尉の言葉は全くその通りなので、わたしは内心カチンときた。

「ええ、わたしは爵位も領地も財産も持参金も、ついでに可愛げもありませんので、あなたの元にお嫁に行こうなんて、身の程知らずなことは言いません。美貌かどうかは存じませんが、成金のハゲでも捕まえますから、放っておいてくださる?」

 わたしはある四つ辻ではっきりと言い切ると、彼に対して辻の一方を指さし、言った。

「中尉のお邸はあちらですね。わたしはこちらですので、ここで失礼します」
「どうせなら家まで送るよ」
「結構です。若い男性などに送られて帰れば、祖母がかえって心配いたしますので。では」

 わたしはまだ何か言いたげなハートネル中尉をその場に残し、振り返りもせずに角を曲がった。








  家に帰ってくると、ちょうど玄関を祖母の主治医のウィルキンス医師が出てくるところだった。

先生ドクター、今日は往診の日でしたか?」

 わたしが挨拶をすると、ウィルキンス医師もわたしに気づき、白い髭に覆われた顔をわたしに向けた。

「ああ、エルスペス嬢、今帰りかね。……いやね、奥様が気分が悪いと騒がれたそうで……まあ、暑気あたりだよ。このくらいの暑くなる時期はよくある。水分をたくさん摂るようにね」
「わざわざありがとうございました」

 わたしは丁寧に礼を述べて、医師ドクターを見送る。玄関まで来ていた執事のジョンソンが、医師が去った後でわたしに囁いた。

「……その、たいしたことではないのですが、気分が悪いと……」
「ええ、わかるわ……」

 貴族のプライドだけで生きてきた祖母に、王都の下町の暮らしはよほど我慢のならないものなのだろう。ときどき、我儘を言って周囲を困らせる。ウィルキンス医師はそのあたりのことも理解してくださり、こまめに往診して祖母の愚痴を聞いてくださるのだ。……それでも、薬代は馬鹿にならないのだけれど。

 わたしは小さく溜息をつき、ジョンソンにただいまを言って家に入る。
 家はかつて住んでいたリンドホルムの城に比べれば、十分の一もないような小さな家だけれど、わたしと祖母、そして使用人が二人住むには十二分な広さだった。

 だがこの家はもともと、貴族ではなかったわたしの母が実家から相続したものだ。子爵家の出で、リンドホルム伯爵に嫁いだことを何よりも誇りに思っていた祖母は、豊かな商家ではあったが、中産階級出身の母が気に入らなかったらしい。もともとは祖母のの遠縁にあたる女性を父の妻に迎える予定が、上手く行かなくなったせいだとも聞いた。結局のところ祖母は、蔑んでいたわたしの母の遺産で細々暮らす今の日々が、耐えがたい屈辱なのだ。

「おばあ様は、お部屋?」
「ええ、今は落ち着かれて……ですが、今夜はもうおやすみになると仰っています」
「そう……」

 祖母は身体を悪くしているから、夕食を一緒に摂れないことは多い。マクガーニ中将が司令部を退任し、職を失うことは夕食の席で話しておくつもりだったが、今夜は無理そうだ。

 わたしはもう一度溜息をつく。
 祖母は、わたしが軍で働いていることも、よくは思っていない。良家の子女が、それもリンドホルム伯爵の娘だったわたしが働くなんて、とんでもないと、二年前は最後まで反対した。でも実際問題、わたしの給金がなければこの家は成り立たない。祖母に話せば仕事はやめろと言うに違いないが、その後の生活の手段をどうするのか、考えたりはしてくれない。

「……どこかに妻を亡くした、成金のデブはいないかしら……」

 無意識に呟いた言葉を、近くにいたジョンソンが聞き返す。

「何か仰いましたか、お嬢様」
「いえ、何でもないの。いつもありがとう。ロクな給金も払えないのに」

 ジョンソンは痩せぎすの背の高い男だが、顔をくしゃりとさせて笑った。

「いいえ、わしら夫婦は奥様とお嬢様のお世話になっておりました。十分でございますよ」

 彼に礼を言って、わたしは小さな家の中央にある階段を上った。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

彼氏に身体を捧げると言ったけど騙されて人形にされた!

ジャン・幸田
SF
 あたし姶良夏海。コスプレが趣味の役者志望のフリーターで、あるとき付き合っていた彼氏の八郎丸匡に頼まれたのよ。十日間連続してコスプレしてくれって。    それで応じたのは良いけど、彼ったらこともあろうにあたしを改造したのよ生きたラブドールに! そりゃムツミゴトの最中にあなたに身体を捧げるなんていったこともあるけど、実行する意味が違うってば! こんな状態で本当に元に戻るのか教えてよ! 匡! *いわゆる人形化(人体改造)作品です。空想の科学技術による作品ですが、そのような作品は倫理的に問題のある描写と思われる方は閲覧をパスしてください。

鋼の殻に閉じ込められたことで心が解放された少女

ジャン・幸田
大衆娯楽
 引きこもりの少女の私を治すために見た目はロボットにされてしまったのよ! そうでもしないと人の社会に戻れないということで無理やり!  そんなことで治らないと思っていたけど、ロボットに認識されるようになって心を開いていく気がするわね、この頃は。

【完結】愛とは呼ばせない

野村にれ
恋愛
リール王太子殿下とサリー・ペルガメント侯爵令嬢は六歳の時からの婚約者である。 二人はお互いを励まし、未来に向かっていた。 しかし、王太子殿下は最近ある子爵令嬢に御執心で、サリーを蔑ろにしていた。 サリーは幾度となく、王太子殿下に問うも、答えは得られなかった。 二人は身分差はあるものの、子爵令嬢は男装をしても似合いそうな顔立ちで、長身で美しく、 まるで対の様だと言われるようになっていた。二人を見つめるファンもいるほどである。 サリーは婚約解消なのだろうと受け止め、承知するつもりであった。 しかし、そうはならなかった。

会計のチャラ男は演技です!

りんか
BL
ここは山奥に作られた金持ちの学園 雨ノ宮学園。いわゆる王道学園だ。その学園にいわゆるチャラ男会計がいた。しかし、なんとそのチャラ男はまさかの演技!? アンチマリモな転校生の登場で生徒会メンバーから嫌われて1人になってしまう主人公でも、生徒会メンバーのために必死で頑張った結果…… そして主人公には暗い過去が・・・ チャラ男非王道な学園物語

でしたら私も愛人をつくります

杉本凪咲
恋愛
夫は愛人を作ると宣言した。 幼少期からされている、根も葉もない私の噂を信じたためであった。 噂は嘘だと否定するも、夫の意見は変わらず……

ヤンデレ・メリバは好きですか?

紅月
恋愛
「ヤンデレ、メリバは好きですか?」 そう聞いて来た白い髪の神様に向かって、私は 「大っ嫌いです。私はハピエン至上主義です」 と、答えたらちょっと驚いた顔をしてから、お腹を抱えて笑い出した。

珈琲のお代わりはいかがですか?

古紫汐桜
BL
身長183cm 体重73kg マッチョで顔立ちが野性的だと、女子からもてはやされる熊谷一(はじめ)。 実は男性しか興味が無く、しかも抱かれたい側。そんな一には、密かに思う相手が居る。 毎週土曜日の15時~16時。 窓際の1番奥の席に座る高杉に、1年越しの片想いをしている。 自分より細身で華奢な高杉が、振り向いてくれる筈も無く……。 ただ、拗れた感情を募らせるだけだった。 そんなある日、高杉に近付けるチャンスがあり……。

彼女の母は蜜の味

緋山悠希
恋愛
ある日、彼女の深雪からお母さんを買い物に連れて行ってあげて欲しいと頼まれる。密かに綺麗なお母さんとの2人の時間に期待を抱きながら「別にいいよ」と優しい彼氏を演じる健二。そんな健二に待っていたのは大人の女性の洗礼だった…

処理中です...