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0.はじまりの始まり

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 春風が心地良い季節。太陽の陽射しは柔らかく風は穏やか。意味もなく外に出たくなるような過ごしやすさだ。
 だけど、今日の私はそんな気分で馬車に飛び乗ったわけではない。気持ちは戦場に行くような感じだ。戦場に行ったことはないけど。
 私の目的地は三大公爵、リシャール家が治める領地の一つだ。農地が多いそこは中央貴族から「田舎」と馬鹿にされているところである。娯楽など楽しいところはないが、この帝国の小麦生産量の三分の二を占めている。頭が良い貴族ならここを馬鹿にすること自体が馬鹿だと分かるだろう。
 小高い丘に立つ屋敷を真っ直ぐ進み、顔パスで正門を潜る。執事にこの屋敷の主の居場所を問えば温室と教えられる。
 目的の人物はすぐに見つかった。温室の中央、開けたところだ。美しい花々に囲まれ、心地良さそうに眠っている。行儀悪くソファーに仰向けに寝そべり、クッションを抱き締めている。見惚れるほどの美しい寝顔に、先程までの興奮が鎮まるのを感じた。
 白金色の髪、長いまつ毛、真っ白な頬、薄く色づく唇、全てのパーツが完璧に、正確な位置に置かれている。
 ジッと見つめていたせいか、まつ毛が震え、真っ青な瞳が現れた。眼球だけを動かして私を見上げる。
「久しぶりだなオリヴィア」
「えぇ、久しぶり」
 彼――アリーチェは欠伸をしながら起き上がった。背に持たれ、冷め切った紅茶を飲む。紅茶を楽しむよりも起き抜けの喉を潤すために飲んだようだ。
「連絡もなくどうしたんだ? ……オリヴィア?」
 久しぶりに会ったアリーチェに思考を奪われていれば、訝しむ声を掛けられる。何度か名前を呼ばれてようやくハッとした。
「ごめん。アリーチェの美しさに頭が馬鹿になっていたわ」
「お前の馬鹿は元々だろ。俺のせいじゃない」
「そんなことないってば。……いや、そんなことあるけど。でもアリーチェは世界一美しいわ」
 アリーチェは美しい。私と同い年だけど、その見た目は十七の頃から変わっていない。
 アリーチェ・リシャール。三大公爵家の一つ、リシャール家の長男として生を受けた。見目麗しく、頭脳明晰。だが、その頭脳は自分の欲にしか使わないため敬遠されるタイプだった。周りはアリーチェの美貌と頭の良さ、その性格から一歩引いたところで見ていたが、私はそんなアリーチェだったからこそ助けられた。
 十六歳の頃。高熱を出した私はここが前世で読んだ長編小説の世界だと気付いた。
 私は悪役令嬢役で、性格が悪い私のせいで婚約者の皇太子には断罪され、実家は取り潰される。一家全員国境に追いやられ、最後は生きたまま魔獣に喰われ死ぬ役だった。罪状は、聖女と認められた平民の女を殺そうとしたことによる反逆罪。
 小説とは違う、殺されない幸せな未来を掴むためにもがいたけど、前世の私も生まれ変わった私も馬鹿だった。勉強は苦手だし、興味がないことには全く脳が機能してくれない。今世では何度家庭教師をクビにしたことか。だからストーリーが分かっていてもどう立ち回れば回避出来るのか、幸せに向かえるのか分からなかった。しかも両親は出来の悪い私を恥じだと思っていて助けを求めることが出来なかった。出来る限り聖女には近付かないように、関わらないように頑張るしかなく、でも聖女にさえ関わらなければ断罪されることはないと信じていた。だけど、私は相当運が悪く、聖女が危険な目に遭う度に偶然鉢合わせてしまい、周りは私が犯人だと決め付ける事件が数回続いた。記憶を思い出す前はワガママで傲慢だったから嫌われていたせいもある。
 私はストーリーから抜け出せないのだと絶望した。
 生きたまま喰われるよりも、私一人のせいで家族まで巻き込まれるよりも、私一人、死んでしまおう。この悪夢から逃げよう。そう決めて、とある日の夜に学園の屋上に立った。
 その時にアリーチェと出会ったのだ。大きな月を背景に佇むアリーチェの姿はすごく美しくて神秘的で、ぐちゃぐちゃだった私は本気で月の女神様とか天使様とか、とにかく人間ではない超越的な存在だと思った。その結果、私から出た言葉は「助けてください、女神様。何でもします」という命乞いだ。アリーチェもアリーチェで否定もせずに「何があったか言ってごらん」と乗ってきたので、私は全てを告白した。
 それから、アリーチェはあり得ない私の話を信じ、私が幸せになれるように助けてくれた。私が持つ全ての情報と記憶を渡した。
 結果は最高に満足するもので、皇太子との婚約は無事に破棄されたが断罪されることはなく、大商人の夫と出会い幸せで平凡な家庭を築けている。……ただ、その過程で、本来私が受けるはずだった魔物からの呪いを、私を庇ったアリーチェが受けてしまい、外見年齢が止まってしまったのだ。初めて出会った時と変わらない、十七の頃のまま。
 本人は「見た目なんかどうでも良いだろ」と気にした風はなく、「俺が選択することは俺のためだから」と釘を刺された。
 あれから二十年経つ今も、アリーチェは変わらない姿をしている。
「オリヴィア、それで何の用だって聞いているだろ? わざわざ来たからには相当な理由があるんじゃないのか?」
「そう、そうよ、急用よ」
 アリーチェとの過去を思い出して感傷に浸っている場合ではない。私は頭を振ってここに来た理由を口にした。
「小説の第二部が始まるのよ!」
「そうか」
「驚いてよ! これはアリーチェも関わるのよ! 多分」
 アリーチェは私の鼻息荒い宣言に、冷めた表情で「ふーん」と反応するだけだった。私は思い出した瞬間文字通り飛び起きてテンパったのに。この差はなんだ。
「なんでそんな冷静なの?」
「オリヴィアの記憶はあやふや過ぎるだろ。話半分に聞いておくのがベストだ」
 グッと言葉を詰まらせる。否定出来ない。だって私の脱悪役令嬢時代も、「……だった気がする」というストーリー展開を話してちょっと違うことがよくあった。そのせいでアリーチェには余計面倒を掛けた。
「でも、今度はまあまあ思い出しているのよ。アニメ化されたし!」
「アニメ化か」
 アリーチェは悩むように腕を組む。視線が宙を見つめているのか、今脳みそをフル回転させている証拠だ。
 だけど、一分にも満たず視線は再び私に戻った。
「余計ダメだろ。前に言っていただろ。原作とアニメ、漫画は微妙に変わるんだって。しかも、原作とは全く違うように改変される場合もあるって」
「……言った」
「オリヴィアがアニメを鮮明に覚えていたとして、それが原作とどう変わっているか分からないだろ」
 本当だ!!!!
 私は驚愕する。
「原作とアニメがどのくらい違っていたかも思い出して。アニメを観ていたなら評判くらい聞いたことあるだろ」
「うん、分かったわ」
「で? アニメではどんな内容だったんだ?」
 アリーチェに促され、私は思い出した全てを伝える。
 ヒロインは元没落貴族の一人娘、ソフィア。そのお相手は皇太子のレオナルド。
 ソフィアの母親がリシャール公爵と再婚したことで、公爵令嬢でありアリーチェの姪、エレノアとは義理の姉妹となる。
 レオナルドはソフィアに絆され、好意を持ち、ワガママな婚約者のエレノアには嫌悪を抱くようになり、最終的に婚約破棄を言い渡し、ソフィアと結ばれる。リシャール公爵も実の娘を捨てる選択をし、エレノアは一人遠い地の修道院に送られるが、全てを奪ったソフィアを許せず、殺そうと企みレオナルドに返り討ちに遭い死んでしまう。
「悪役令嬢は必ず死ぬんだな」
 掻い摘んだあらすじを聞いたアリーチェは、つまらなさそうに反応した。
「悪役令嬢は何故もっと追い詰められなかったんだ? やりようならいくらでもあるだろうに」
「アリーチェ、愛は人を馬鹿にするのよ。緻密な戦略なんて考えられないし、そもそも頭が良ければバレるようないじめとかしないわ」
「それもそうか。むしろ隙がなければ物語として進まないだろうし」
「でね、ソフィアは努力系王道ヒロインタイプなの。家が没落し平民となっても、負けることなく前向きに生きて。レオナルドやソフィアが通う学園に転入するんだけど、学業と令嬢としての教養学に精を出すのよ。自分の家が没落したこともあるからか、身分よりもその人自身を見ることを重要視するの。皇太子として生きてきたレオナルドにとっては新鮮で嬉しいことだったのね。絆されちゃったわ」
「ふーん」
「しかも、皇帝陛下はソフィアが公爵令嬢になったことで、レオナルドがエレノアじゃなくソフィアを選んでも本人の意思を尊重するとか言って許すの。可哀想だわ、エレノア」
 アニメを観ていた時はヒロインに感情移入していたから、姑息な虐めをしたりワガママ放題のエレノアが成敗されることにスッキリとしたけど、この世で実際に生きており、アリーチェを通してエレノアと交流を持つ身としては、エレノアに幸せになってもらいたい。
 確かにエレノアは忙しい両親から放置気味にされていて愛に飢えているからか、ワガママで周りの人を気遣えないけど、心許した相手にはそんなことはない。現にアリーチェや私にはとびきり優しくしてくれる。
 あの子が破滅に向かっていく様は見たくない。
「アリーチェ、エレノアを助けてあげて」
「ちなみにリシャール公爵家はどうなる?」
「……安泰だわ。ソフィアは皇太子妃になるし、弟のアランは家督を引き継ぐし。エレノアとは縁を切ったから、エレノアの罪は公爵家に大きな影響は与えなかったの」
「ふーん」
「まさか、原作通りに進めさせるつもりないわよね?」
 反応を示さないアリーチェに不安が募る。
 まさかこのまま自分を慕う姪が破滅に向かうのを傍観する気じゃないでしょうね?
 アリーチェだってエレノアを可愛がっている。殺されると分かっていて見殺しにするはずがない。……はずは、ない、はず。アリーチェは自分本位なところがあるし、そのためなら手段を選ばない非道さもあるから断言出来ない。
「エレノアは可愛いけど、アニメの通りなら完全にエレノアが悪くて、ソフィアに悪いところはないんだろ? しかも学園で起こることも多いし。現実的に俺にどうしろって言うんだよ」
「そこは、例えば、アリーチェが生徒として学園に潜入するとか」
「嫌に決まってるだろ。いくら俺が社交界に出なくなったからって、親世代は俺を知っているし、俺が呪いのせいで見た目年齢変わらないことも知っている」
「じゃあ教師として」
「めんどくせぇ」
「お願い! エレノアを助けてよ!」
「煩い」
 わざとらしく耳を塞ぐアリーチェに、私は言い募る。
「エレノアが死んだら絶対悲しむわよ。こんなところに引き篭もっていないでたまには王都に来てその優秀な頭脳を使いなさいよ。もったいないわよ。華麗に救ってみせてよ」
「お前に煽られても意味はない。何故なら俺はお前を完全に下に見てるから。格下の言葉はただの音だ」
「知ってる!! とにかくお願い!! 何が起こるかも教えられるし! お金も稼げるわよ!」
「金ならたくさんあるから大丈夫だ」
 全く響かないアリーチェに、私はどうしたらこの男が動くか頭を悩ませる。
 ソフィアは良い子だしなるべく幸せになってもらいたい。だけどそれ以上にエレノアには幸せになって欲しい。嫉妬に狂って破滅して欲しくない。そのためには私だけじゃなくてアリーチェが必要だ。
「そもそもの話だが、もっと早く思い出せよ」
「……」
「黙るなよ。エルメーテが再婚して三ヶ月経つんだぞ」
 そう、そうなのだ。エレノアとソフィアはすでに義理の姉妹となり、ソフィアは学園に通い始めているのだ。
「婚姻届を出す前ならまだ関わらないように何とか出来たのに。相当な理由がないと離婚は一年後でないと出来ない」
 そう、そうなのだ。帝国法上、婚姻届が受理されてから一年経たないと離婚は認められない。現時点で相当な理由はない。
「一年後は、エレノアが破滅するのよ。離婚は待てないわ」
「だろうな」
 どうしてもっと早く思い出せなかったのか。きっと、アリーチェに出会ってから色々あったけど、ずっと幸せだったからだ。ストーリーとは全く違う日常を送れていたからすっかり忘れていたのだ。
 エレノアから同い年の妹が出来たと手紙をもらった日の夜に、ようやく第二部のストーリーを思い出した。
「でも早い段階で思い出せたのはえらくない?」
「まあな。でも今のところ動くつもりはない」
「信じらんない!!」
「ヒロインは誰からも愛されるタイプなんだろ? 隙がなく慕われている奴を相手にするのは手間が掛かる」
「くーー!!」
 クソ! と言いたくなって何とか耐える。
「修道院に送られることが決まったら俺が直々に迎えに行くよ。エレノアと隠居生活を楽しもうかな」
 
 結局アリーチェを説得することは出来なくて、現状は様子見するということで落ち着いてしまった。せめてもの悪足掻きとして、エレノアには常に婚約者として振る舞うよう意識して欲しいと伝えるしか出来なかった。
 だけどこの半年後。アリーチェの重い腰を上げさせる状況になるのだった。
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