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第40章 笹子峠の矢立杉
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「駒木、そこの茶店で一休みしていこう」
狩野吉之助は、笹子峠を越えたところで同行の駒木勇佑に言った。
笹子峠には有名な矢立の杉がある。幹回り五間半(約十メートル)、樹高十六間(約三十メートル)の大木で、戦国時代、出陣する武将がこの杉に矢を射て戦勝を祈願したという。後年、歌川広重の諸国名所百景にも描かれた。
二人は道から少し外れた高台の茶店に入って腰を下ろした。
「娘さん、名物の笹団子を二皿と茶を頼む」
「はぁい、ただ今」
矢立の杉から適度に離れ、巨木とその背後の山々を同時に楽しめる。
「これは絶景ですね」
「まったくだ。そう言えば、駒木は甲斐に来るのは初めてだったな」
この日、二人は朝から先行班として不審者や危険箇所に気を配りながら歩いてきた。ただ歩くより倍疲れる。この道中が初仕事の駒木は尚更だ。彼の緊張を解くためにも軽く言葉を交わす。
「はい。父は御家人で、甲府藩に出向となった後も江戸詰めですから。本当なら、もう少しのんびりした気分で来たかったですね」
「確かにな」
「しかし、関野宿で襲撃はなく、大月宿までも無事でした。もう完全に甲府藩の領内です。敵は諦めたのでしょうか」
「どうかな。金山の探索に集中しているか。或いは、やはり間部様のお命を狙っているとして、こちらが油断するのを待っているか」
「なるほど」
「ともかく、このまま勝沼まで行ければ、甲府からの人数も来るだろう。油断は禁物だが、守りは確実に堅くなる」
「はい」
「ところで、駒木は役方(文官)志望だったな。将来は間部様の下で働きたいのか」
「はい、出来れば」
「何か心得はあるのか」
「はい。関流の算術を少々」
「ほう」
「狩野様。間部様とはどの様な御方でしょうか」
若者らしいストレートな問いである。
「そうだな。取っ付きにくいところはあるが、逆に言えば、変なご機嫌取りも必要ない。上司としてはいいと思う。ただし、厳しいぞ。正直、あの方の下で書類仕事をするなど、私は考えたくもない。恐らく寝る暇ないぞ。覚悟しとくんだな」
そこで店の看板娘が笹団子を持ってきた。吉之助が団子を口に運びながら改めて景色を眺めると、一人の少年が、前方の切り株に腰を下ろして風景を写生していることに気が付いた。
萌黄色の伊賀袴に根結いの垂髪だ。
吉之助は、興をそそられて近寄ってみた。すると、それは少年ではなく、若い娘であった。確かに、男にしては髪も長いし肩幅も狭い。そう思ったのも束の間、彼女の手元を見て驚いた。
その娘は、竹筒の矢立(筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記具)を横に置き、白い紙に筆を走らせている。近くは大杉の枝の一本一本、葉の一枚一枚、遠くは山を覆う森の木々まで、現代の写真に負けないほど精密に描いている。
ちなみに、中国(清朝)の宮廷画家・沈南蘋が来日し、細密な写生技法を伝えるのはこの物語の三十年余り後のことである。その技法を学んだ者たちは南蘋派と呼ばれ、江戸画壇に新風を吹き込むことになる。花鳥画の傑作が多いが、風景画に与えた影響も大きい。娘の技法は、その南蘋派を先取りするようなものであった。
「お女中、見事な腕前ですな。この画技はどこで習われたのですか」
「習う? 自分で描きたいように描いているだけさ」と、娘は紙面から目を離さずに答えた。
「ほう、ご自身で。それは凄い」
「ほんと? これ、売れるかな?」
売る? この娘、何者だ?
誰かの従者かと思ったが、周囲に主人らしき者の姿はない。ぴっと伸びた背筋、武士相手に物怖じしない態度。もしやどこぞの姫君のお忍びか、などと吉之助が考えていると、娘が再度尋ねた。
「どうかな。売れるかな?」
「さて、作品として売るとなると難しいかもしれませんな」
「どうして?」と、娘はそこで初めて顔を吉之助に向けた。二十歳前後だろうか。整った顔立ち。くりっとした大きな目が可愛らしい。
「この画には主題がない。単に風景を写しているだけで、絵画とは言えません」
「あんた、侍だよね。どこかの藩のお抱え絵師か何かなの?」
「いえ。ただ、多少の心得はあります」
「その心得のある人から見て、あたしの画は駄目なのか」
「いや、駄目ではありません。構図の取り方も悪くない。何より、その確かな線描。これを自習自得したとは、お女中には間違いなく絵画の天分があります」
「ほんと?」
「ええ。少し工夫すれば格段に良くなるでしょう」
すると、娘が黙って筆を吉之助に渡してきた。懐から新しい紙を取り出し、それも渡す。
「私に描けと?」
「うん」
「いいでしょう。ただ、先を急ぐ故、背景の山だけで勘弁して下さい」
吉之助は渡された紙を横に半分に折ると、そこに山の稜線をさっと引いた。さらに稜線に浮かぶ木を何本か描いた。あとは山並みを墨の濃淡でふわりと表し、山中に木を数本大雑把に足す。
そして、「これと、お女中が描いた大杉や街道の様子とを合わせます」と言い、娘が描いていた目が痛くなるような細かい景色の上半分を隠すように置いた。
「如何かな。こうすると、手前の景色はくっきり、後ろの山はぼやけて見えるでしょう。近景と遠景と、逆にしてもいい。とにかく、ひとつの画面に異なる表現を使うことで画に奥行や面白味が出るのです」
娘は、一瞬で趣を変えた手元の画を見て、吉之助の顔を見上げ、再び視線を紙面に戻し、しきりに頷いている。
「あんた、凄いな」
「それはどうも。お女中の見たままを写し取る技術は素晴らしい。これからは、それを活かす工夫をするといいでしょう」
そこで駒木の声がした。茶店の前で吉之助の得物である赤樫の杖を掲げて呼んでいる。
「狩野様。そろそろ参りましょう」
「おう、今行く」
「これ、貰っていいかい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
無邪気に喜ぶ娘の様子に吉之助も頬を緩めた。
「お女中。私はこれで失礼しますが、お一人で大丈夫ですか」
「うん。もうすぐ連れが来るから」
吉之助と駒木は茶店から街道に出て西へ、勝沼方面に向かう。娘が一人残った。しばらくすると、吉之助たちが去った逆側から三人の武士が峠に向かって歩いてきた。
それを認めた娘は、矢立を懐にしまい切り株から立ち上がる。同時に、目つきが一変。愛らしさが消え、鋭く冷酷な目に。さながら獲物を狙う狼の如し。そして彼女は、目の前にそびえ立つ大杉に向かって堂々と宣言した。
「厳四郎様のためだ。あ奴を斬る」
狩野吉之助は、笹子峠を越えたところで同行の駒木勇佑に言った。
笹子峠には有名な矢立の杉がある。幹回り五間半(約十メートル)、樹高十六間(約三十メートル)の大木で、戦国時代、出陣する武将がこの杉に矢を射て戦勝を祈願したという。後年、歌川広重の諸国名所百景にも描かれた。
二人は道から少し外れた高台の茶店に入って腰を下ろした。
「娘さん、名物の笹団子を二皿と茶を頼む」
「はぁい、ただ今」
矢立の杉から適度に離れ、巨木とその背後の山々を同時に楽しめる。
「これは絶景ですね」
「まったくだ。そう言えば、駒木は甲斐に来るのは初めてだったな」
この日、二人は朝から先行班として不審者や危険箇所に気を配りながら歩いてきた。ただ歩くより倍疲れる。この道中が初仕事の駒木は尚更だ。彼の緊張を解くためにも軽く言葉を交わす。
「はい。父は御家人で、甲府藩に出向となった後も江戸詰めですから。本当なら、もう少しのんびりした気分で来たかったですね」
「確かにな」
「しかし、関野宿で襲撃はなく、大月宿までも無事でした。もう完全に甲府藩の領内です。敵は諦めたのでしょうか」
「どうかな。金山の探索に集中しているか。或いは、やはり間部様のお命を狙っているとして、こちらが油断するのを待っているか」
「なるほど」
「ともかく、このまま勝沼まで行ければ、甲府からの人数も来るだろう。油断は禁物だが、守りは確実に堅くなる」
「はい」
「ところで、駒木は役方(文官)志望だったな。将来は間部様の下で働きたいのか」
「はい、出来れば」
「何か心得はあるのか」
「はい。関流の算術を少々」
「ほう」
「狩野様。間部様とはどの様な御方でしょうか」
若者らしいストレートな問いである。
「そうだな。取っ付きにくいところはあるが、逆に言えば、変なご機嫌取りも必要ない。上司としてはいいと思う。ただし、厳しいぞ。正直、あの方の下で書類仕事をするなど、私は考えたくもない。恐らく寝る暇ないぞ。覚悟しとくんだな」
そこで店の看板娘が笹団子を持ってきた。吉之助が団子を口に運びながら改めて景色を眺めると、一人の少年が、前方の切り株に腰を下ろして風景を写生していることに気が付いた。
萌黄色の伊賀袴に根結いの垂髪だ。
吉之助は、興をそそられて近寄ってみた。すると、それは少年ではなく、若い娘であった。確かに、男にしては髪も長いし肩幅も狭い。そう思ったのも束の間、彼女の手元を見て驚いた。
その娘は、竹筒の矢立(筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記具)を横に置き、白い紙に筆を走らせている。近くは大杉の枝の一本一本、葉の一枚一枚、遠くは山を覆う森の木々まで、現代の写真に負けないほど精密に描いている。
ちなみに、中国(清朝)の宮廷画家・沈南蘋が来日し、細密な写生技法を伝えるのはこの物語の三十年余り後のことである。その技法を学んだ者たちは南蘋派と呼ばれ、江戸画壇に新風を吹き込むことになる。花鳥画の傑作が多いが、風景画に与えた影響も大きい。娘の技法は、その南蘋派を先取りするようなものであった。
「お女中、見事な腕前ですな。この画技はどこで習われたのですか」
「習う? 自分で描きたいように描いているだけさ」と、娘は紙面から目を離さずに答えた。
「ほう、ご自身で。それは凄い」
「ほんと? これ、売れるかな?」
売る? この娘、何者だ?
誰かの従者かと思ったが、周囲に主人らしき者の姿はない。ぴっと伸びた背筋、武士相手に物怖じしない態度。もしやどこぞの姫君のお忍びか、などと吉之助が考えていると、娘が再度尋ねた。
「どうかな。売れるかな?」
「さて、作品として売るとなると難しいかもしれませんな」
「どうして?」と、娘はそこで初めて顔を吉之助に向けた。二十歳前後だろうか。整った顔立ち。くりっとした大きな目が可愛らしい。
「この画には主題がない。単に風景を写しているだけで、絵画とは言えません」
「あんた、侍だよね。どこかの藩のお抱え絵師か何かなの?」
「いえ。ただ、多少の心得はあります」
「その心得のある人から見て、あたしの画は駄目なのか」
「いや、駄目ではありません。構図の取り方も悪くない。何より、その確かな線描。これを自習自得したとは、お女中には間違いなく絵画の天分があります」
「ほんと?」
「ええ。少し工夫すれば格段に良くなるでしょう」
すると、娘が黙って筆を吉之助に渡してきた。懐から新しい紙を取り出し、それも渡す。
「私に描けと?」
「うん」
「いいでしょう。ただ、先を急ぐ故、背景の山だけで勘弁して下さい」
吉之助は渡された紙を横に半分に折ると、そこに山の稜線をさっと引いた。さらに稜線に浮かぶ木を何本か描いた。あとは山並みを墨の濃淡でふわりと表し、山中に木を数本大雑把に足す。
そして、「これと、お女中が描いた大杉や街道の様子とを合わせます」と言い、娘が描いていた目が痛くなるような細かい景色の上半分を隠すように置いた。
「如何かな。こうすると、手前の景色はくっきり、後ろの山はぼやけて見えるでしょう。近景と遠景と、逆にしてもいい。とにかく、ひとつの画面に異なる表現を使うことで画に奥行や面白味が出るのです」
娘は、一瞬で趣を変えた手元の画を見て、吉之助の顔を見上げ、再び視線を紙面に戻し、しきりに頷いている。
「あんた、凄いな」
「それはどうも。お女中の見たままを写し取る技術は素晴らしい。これからは、それを活かす工夫をするといいでしょう」
そこで駒木の声がした。茶店の前で吉之助の得物である赤樫の杖を掲げて呼んでいる。
「狩野様。そろそろ参りましょう」
「おう、今行く」
「これ、貰っていいかい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
無邪気に喜ぶ娘の様子に吉之助も頬を緩めた。
「お女中。私はこれで失礼しますが、お一人で大丈夫ですか」
「うん。もうすぐ連れが来るから」
吉之助と駒木は茶店から街道に出て西へ、勝沼方面に向かう。娘が一人残った。しばらくすると、吉之助たちが去った逆側から三人の武士が峠に向かって歩いてきた。
それを認めた娘は、矢立を懐にしまい切り株から立ち上がる。同時に、目つきが一変。愛らしさが消え、鋭く冷酷な目に。さながら獲物を狙う狼の如し。そして彼女は、目の前にそびえ立つ大杉に向かって堂々と宣言した。
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