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第1章 江戸から来た人
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時は流れ、元禄九年(一六九六年)四月二十二日の昼過ぎ、甲斐(山梨県)の北東部、塩山地方のこと。
一人の男が、笛吹川沿いに山を下ってきた。甲府藩山奉行配下の山廻与力・狩野吉之助である。十日ほどかけて周辺の山々を見回り、役宅に戻る途中であった。
吉之助は、六尺二寸(約百八十五センチメートル)の大男だ。
肩幅は広く、逞しい筋肉に覆われている。顔は浅黒い。そして、太い眉にどんぐり眼、しっかりした顎。なかなかの面構えである。十六年前、江戸を出たときは、ただひょろ長いだけのひ弱な若者であったから、人間、変われば変わるものだ。
三十五歳の働き盛り。着物は山歩きに適した軽装。粗末な菅笠を被り、右手に五尺(約百五十二センチメートル)の杖を持っている。図体は大きいが動きは俊敏。そこここに転がる小石を器用に避けながらずんずん歩を進める。
強い日差しに、川面がキラキラと光って眩しい。やれやれ、夏も近いな、などと思ったところで、少し先から何やら叫び声が聞こえ、反射的に駆け出した。
見れば、川原で人が野犬に囲まれている。侍らしき大人の男が一人、子供が二人。犬は、七、八匹か。侍は足を痛めているらしい。片膝を付いたまま子供たちを背にかばっていた。
吉之助が、あれは、五平爺の孫たちか、と思ったところ、子供たちも彼に気付いた。
「あっ、狩野様だ!」
「吉之助様。こっちだよ。助けて!」
「お前たち、そこを動くな!」
吉之助は、走りつつ、杖を構える。彼の杖は山歩きの補助具であると同時に武器でもあった。まず、刺突一閃。そのまま横に薙ぎ払い、さらに一振りして三匹の犬を仕留めた。残りは山中に逃げ散って行く。
「ご助勢、かたじけない」
侍が言ってきた。その男、新雪のような真っ白な肌、生身とは思えぬほどに整った顔立ちである。吉之助は少なからず驚いたが、「いえ。村の子供たちをお助けいただき、こちらこそ御礼申し上げる」と返した。
「いや、これでも多少は腕に覚えがあるのだが、川原の石に足を取られてこの様だ。面目ない」
「立てますか」
「どうかな。骨は大丈夫と思うのだが、痛っ」
男は、立ち上がりかけてもう一度膝を付いた。
「無理はいけません。私が背負いましょう。村までは一里(約四キロメートル)足らずですから」
「重ね重ね、かたじけない」
吉之助は男を背負う準備をしながら、子供たちに言った。
「お前たち、すまんが先に村まで走ってくれ。誰でもいいから大人を見つけて、犬の死骸の片付けを頼む。それと、怪我人を一人連れて行くと伝えてくれ」
「あいよ」
あっと言う間に小さくなる子供たちの背を目で追っていると、白面の侍が尋ねてきた。
「しかし、大丈夫だろうか。あの様に犬を無造作に殺して」
「例の御触れのことですか。それならご心配なく。この山奥では、人と自然は共存共栄。殺生も、あくまで人が生きていく上で必要最小限の範囲で行っています。この辺りの者は、誰に言われなくても、昔から、そうしてきたんです」
「なるほど」と大きく頷いた後、男は、快活に笑った。その笑い声が止んだところで、吉之助が少し口調を改めて言った。
「遅ればせながら、私は、甲府藩御山奉行様配下、山廻与力・狩野吉之助と申す。貴殿の姓名を伺ってもよろしいか」
男は変わらず快活に応じる。
「いや、これは失敬。当方から名乗るべきだったな。私は江戸の御家人で、西田春之丞と申す」
「ほう、江戸の」
吉之助は首を横に向け、東側に連なる山並みの中、鶏冠山に目をやった。そこには幕府直轄の黒川金山がある。
「もしや、御公儀の金山奉行様のご配下ですか」
「違う違う。私は小普請の無役で、見分を広めるため、江戸周辺を歩いているだけさ。快川国師の遺徳を慕い、恵林寺に参拝しようとここまで来たけど、この足では、先に進むのは無理かなぁ」
妙な男だ、と思った。
歳は三十に届いているだろうか。細いが引き締まった体躯。腕に覚えがある、というのは、あながち嘘ではないようだ。一方で、腰のものを無造作に子供たちに預けてしまう不用心さ。
御家人とは、御目見え(将軍に拝謁する)資格のない下級幕臣である。禄も低い。さらに無役となれば生活にゆとりがあるとは思えない。しかし、木綿とはいえ、上等な仕立ての旅装に身を包んでいる。
何より、この整った顔立ち。志乃が見たら何と言うか。
狩野吉之助は、自称御家人・西田春之丞を背負って歩き出した。この偶然の出会いが、吉之助の運命を大きく変えることになるのだが、予感めいたものは何もない。ただ、山鳥のさえずりと渓流の水音だけが聞こえていた。
一人の男が、笛吹川沿いに山を下ってきた。甲府藩山奉行配下の山廻与力・狩野吉之助である。十日ほどかけて周辺の山々を見回り、役宅に戻る途中であった。
吉之助は、六尺二寸(約百八十五センチメートル)の大男だ。
肩幅は広く、逞しい筋肉に覆われている。顔は浅黒い。そして、太い眉にどんぐり眼、しっかりした顎。なかなかの面構えである。十六年前、江戸を出たときは、ただひょろ長いだけのひ弱な若者であったから、人間、変われば変わるものだ。
三十五歳の働き盛り。着物は山歩きに適した軽装。粗末な菅笠を被り、右手に五尺(約百五十二センチメートル)の杖を持っている。図体は大きいが動きは俊敏。そこここに転がる小石を器用に避けながらずんずん歩を進める。
強い日差しに、川面がキラキラと光って眩しい。やれやれ、夏も近いな、などと思ったところで、少し先から何やら叫び声が聞こえ、反射的に駆け出した。
見れば、川原で人が野犬に囲まれている。侍らしき大人の男が一人、子供が二人。犬は、七、八匹か。侍は足を痛めているらしい。片膝を付いたまま子供たちを背にかばっていた。
吉之助が、あれは、五平爺の孫たちか、と思ったところ、子供たちも彼に気付いた。
「あっ、狩野様だ!」
「吉之助様。こっちだよ。助けて!」
「お前たち、そこを動くな!」
吉之助は、走りつつ、杖を構える。彼の杖は山歩きの補助具であると同時に武器でもあった。まず、刺突一閃。そのまま横に薙ぎ払い、さらに一振りして三匹の犬を仕留めた。残りは山中に逃げ散って行く。
「ご助勢、かたじけない」
侍が言ってきた。その男、新雪のような真っ白な肌、生身とは思えぬほどに整った顔立ちである。吉之助は少なからず驚いたが、「いえ。村の子供たちをお助けいただき、こちらこそ御礼申し上げる」と返した。
「いや、これでも多少は腕に覚えがあるのだが、川原の石に足を取られてこの様だ。面目ない」
「立てますか」
「どうかな。骨は大丈夫と思うのだが、痛っ」
男は、立ち上がりかけてもう一度膝を付いた。
「無理はいけません。私が背負いましょう。村までは一里(約四キロメートル)足らずですから」
「重ね重ね、かたじけない」
吉之助は男を背負う準備をしながら、子供たちに言った。
「お前たち、すまんが先に村まで走ってくれ。誰でもいいから大人を見つけて、犬の死骸の片付けを頼む。それと、怪我人を一人連れて行くと伝えてくれ」
「あいよ」
あっと言う間に小さくなる子供たちの背を目で追っていると、白面の侍が尋ねてきた。
「しかし、大丈夫だろうか。あの様に犬を無造作に殺して」
「例の御触れのことですか。それならご心配なく。この山奥では、人と自然は共存共栄。殺生も、あくまで人が生きていく上で必要最小限の範囲で行っています。この辺りの者は、誰に言われなくても、昔から、そうしてきたんです」
「なるほど」と大きく頷いた後、男は、快活に笑った。その笑い声が止んだところで、吉之助が少し口調を改めて言った。
「遅ればせながら、私は、甲府藩御山奉行様配下、山廻与力・狩野吉之助と申す。貴殿の姓名を伺ってもよろしいか」
男は変わらず快活に応じる。
「いや、これは失敬。当方から名乗るべきだったな。私は江戸の御家人で、西田春之丞と申す」
「ほう、江戸の」
吉之助は首を横に向け、東側に連なる山並みの中、鶏冠山に目をやった。そこには幕府直轄の黒川金山がある。
「もしや、御公儀の金山奉行様のご配下ですか」
「違う違う。私は小普請の無役で、見分を広めるため、江戸周辺を歩いているだけさ。快川国師の遺徳を慕い、恵林寺に参拝しようとここまで来たけど、この足では、先に進むのは無理かなぁ」
妙な男だ、と思った。
歳は三十に届いているだろうか。細いが引き締まった体躯。腕に覚えがある、というのは、あながち嘘ではないようだ。一方で、腰のものを無造作に子供たちに預けてしまう不用心さ。
御家人とは、御目見え(将軍に拝謁する)資格のない下級幕臣である。禄も低い。さらに無役となれば生活にゆとりがあるとは思えない。しかし、木綿とはいえ、上等な仕立ての旅装に身を包んでいる。
何より、この整った顔立ち。志乃が見たら何と言うか。
狩野吉之助は、自称御家人・西田春之丞を背負って歩き出した。この偶然の出会いが、吉之助の運命を大きく変えることになるのだが、予感めいたものは何もない。ただ、山鳥のさえずりと渓流の水音だけが聞こえていた。
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