Negative Fugitive

鬼灯二人

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第一幕『塞翁が馬』

第一幕・十『偽りの安寧 -イツワリノアンネイ-』

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 ――決闘を終え、セルムッド・クラトスに背を向けて入退口へ歩いていると、その入退口からこちらを心配そうに見つめるアリヤとローリアの姿があった。

 無理もあるまい。
 歩いているミツルの後ろでは、割れた地面に火柱、煙、そしてそれらを消火している数人の水のマディラム使いたちがせっせと慌てながら動いているのだから。

 見るも無惨に半壊した決闘場を見た二人は、近づくミツルに駆け寄り何が起きたのかと知らせを乞う。

「――な、なぜこうなったんだ!?」

「――さっき凄い音と揺れがしたけど、何があったの!?」

 ローリアとアリヤが同時に喋り、ミツルに詰め寄る。
 待合室の隣にある観戦室の覗き穴から見ていた二人は煙幕で見えなくなったからか、直接闘技場へと駆け入ってきた。

「……とりあえず、勝ちはしたよ」

 ひどく疲れきったミツルは最低限の情報を二人に与え、その後「説明はあとでな」と付け加える。

 ここ数日の間、ミツルは目の前で心配そうに見つめる二人から猛特訓を受けた。
 中でも屈指の水のマディラム使いであるローリアからは、アリヤとの訓練よりもより激しく、厳しい手ほどきを受けた。
 だがそんな過去のしんどさなど比にならないほどに、セルムッド・クラトスとの対決にはきついものがあった。

 決闘前に全身に浴びた汗とプレッシャー、観戦客の関心と疑心の視線。そして対決時の容赦のない殺伐とした緊迫感と勝ったという事実から譲与される安堵感。それらが一気に今現在の黒崎 光に襲いかかり、疲れきった身体に睡魔という拷問を与える。

 小刻みに震えてふらつく足を懸命になって運ぶ。が、数歩前へ進むと両脚がもつれ、その勢いで目前の純白の布生地へと身体が吸い寄せられる。

「――ひゃっ!」

 繁忙期の仕事終わりのように重い頭は、それが陽の光をいっぱいに溜め込んだ和やかなベッドだと完璧に思い込み、躊躇うことなく倒れるままに身を任せる。
 途中、女性の軽い叫び声のようなものが聞こえた気がしたが、今は何よりも眠ることを最優先したいミツルにとっては、至極どうでもいいことだった――。


 ~ ~ ~ ~ ~


 ――遠く小鳥のさえずる声が聞こえる。

 ――遠く草木の擦れ合う音が聞こえる。


 天の国にでも来たのだろうかと思うほどの快適ぶりと共に、窓口から入り込んだ風が肌を優しく撫でる。

 ――揺れる前髪のむず痒さに意識が徐々に現実へと引き戻され、同時に閉じた瞼の向こう側から眩しい陽の光の視線を感じる。
 たまらず目を開こうとするが、眩さに再度目を閉じる。その動作を何度か繰り返し、ようやっと慣れた重い瞼を持ち上げる。

(――何処だ、ここ)

 ミツルが見る視界の先には、綺麗に木目が並ぶ壁、否、天井があった。
 何故自分は天井なぞ見ているのだろうと不思議に思うが、それは背中と後頭部に密着する柔らかな布の感触に気付くなり寝転んでいるからなのだと理解した。

 眼球を右に動かすと開いた窓があり、春を思わせる暖かく心地よい風が静かに窓のレースを踊らせている。そのすぐ手前には手のひらにちょこんと乗っかる程度の小さな小鉢が置かれており、中で特徴的な切れ込みの入った大きい葉と小さい葉が一枚ずつ生えていた。そしてその葉の上では、真っ白な花が風で静かに揺られていた。元気な花だ。きっと大切に育てられているのだろう。

 ミツルは口の中でその花に向かって幸せ者め、と軽く悋気りんきの念を混ぜて呟くと、次に反対側、つまり左へと眼球を移らせる。

 壁は丸太を盛大に使って造られている。なるほど、ログハウスだ。
 端には途中で切り抜かれたように丸太が途切れており、その代わりに扉が一枚据え付けられていた。

 と、不意にその扉の取っ手が傾き、軽くゆっくりと扉が開いた。

 扉の向こうから静かに、気を遣うようにそっと部屋に入って来たのは、銀のさらりとなびく髪が綺麗な美少女だった。

 寝ぼけた頭が回転し始め、しばらく整った小顔のその少女を見つめる。彼女の輝く双眸に、自分の気の抜けた顔が映っているのをミツルは捉える。

「あっ、目が覚めた? 良かった」

 微笑みながら優しく語りかけてきたのはアリヤだ。
 水の入ったコップをこぼさないよう両手で支えて慎重に近付いてくると、ミツルの今いるベッドの傍らにある、ひと一人分の小さな丸机に置く。

 机上にはアリヤがそばに居てくれた証として、しおりの挟まれた一冊の本が置かれていた。

 表紙には窓から空を見つめている一人の白い髪をした女性が描かれている。女性は優しく微笑んでいるが目元には涙が溜まっていて、どこか物淋しげな印象を受ける。
 本のタイトルは『灰色の純愛』。ミツルでも読めることから、察するに子供向けの昔話のようなものだろう。

 アリヤは机の横に置かれている椅子に座って同じ目線の高さに合わせると、

「調子はどう? ミツルったら、沈むように眠ってたよ」

「……ん、ああ、もうすっかり元気だよ」

「そっか」

 アリヤがなだめるような声で囁く。

「どのくらい寝てた?」

 寝起きでか細く出る声でたずねると、アリヤは「うーん」と一度窓の外に目を向けて、

「決闘が昨日だったから、まだ一日だけだよ」

 そう言いながら再びミツルのほうへと振り向き直った。

 ミツルがゆっくり起き上がると、アリヤのほうからふわりと落ち着きのあるいい花の香りがした。香水のようなつんとしたきつめの匂いでは無く自然的で、それがより一層ミツルに嗅がせようと空気中を漂う。

「えっ……と……ここは?」

 ミツルはもう少し香りを堪能していたいという思いを振り払い、誤魔化しに部屋中をきょろきょろと見渡す。

 深いノンレム睡眠に陥る前、自分が最後に見た光景からして確か決闘場にいたはずではと疑問を浮かべていると、

「私の家だよ」

 一度机に置いたコップをミツルに手渡しながら、アリヤはミツルの質問に受け答えた。

 そんなに簡単に男を家に連れ込むなよ、と冷静に状況を理解するミツル。
 年相応の少女だろうに、純粋過ぎるのにも問題がある。これがミツルでなく他の男であったならば人形のように綺麗な彼女だ、高確率でその身を穢された事だろう。
 アリヤには今度、みっちりと人間の黒ずんだ醜い部分を説示しておく必要があるようだ。

「――ミツル、闘技場でいきなり私のほうへ倒れたんだよ?」

 く言うアリヤの頬はなぜか紅く染まっている。

「? そう……、だったかもな」

 ミツルはそんな彼女を少し疑問に思うが、まあいいかと隅に置く。

 それよりも自分が今アリヤの家で寝ていたということは、誰かが運んできてくれたということだ。
 ロエスティード学院からアリヤの家までどれほどの距離なのかはわからないが、アリヤやローリアに成人男性を持ち上げるほどの力があるとは思えない。

 ミツルは細身のその体から見てもわかるように、一般男性と比較してだいぶ体重が軽い部類に入る。しかしそれを除いたとしても数十キロあることに変わりはない。いくら二人で持ち上げることができたとしても、ここまでせっせと町中を通ってくるとは考えられないが。

「……誰が俺を運んでくれたんだ? ここまで担いできたわけじゃないだろ?」

 答えが見つからず、どうでもいいことなのに変に気になるミツルは参ったと頭の中でお手上げの仕草をしてアリヤに質問する。

「私だよ? マディラムで空からここまで一直線」

 そう言って、アリヤは子供が飛行機の玩具で遊ぶように無邪気に腕を軽く前へぶーんと振りかぶる。

「あー…………」

 そうだった。ここは魔法ありきの異世界だ。思えばアリヤと初めて出会ったその日も二人一緒に世界樹オルメデスからリー・スレイヤード帝国まで飛行してきたのだ。
 寝起きでまだ脳が回転しきれていないのか、考察力が働かずに考えればわかることも思いつかない。

「そういえば、セリア先生がミツルに数日間、休養を与えてくれたよ」

「入学早々休みとか、どんだけ軟弱なんだよ俺……」

「休日使ってローリアにも顔見せてあげてね」

 そうだ。ローリアにも何だかんだで恩がある。

「ああ」

 そんな風に軽く返事をして何気なくアリヤを見てみると、彼女は何やら落ち着かない様子で反応をうかがうようにミツルのほうをちらりちらりと見返していた。

「――でね、話は変わるんだけど……」

 そう言ってアリヤは膝の上で指を重ねる。今気付いたが、彼女はいつもと違い、窓に飾られている花と同じ真っ白な色のワンピースを着ている。
 胸元に三つ茶色のボタンが付いている、それくらいしか特徴の無いシンプルなワンピースだ。

「ミツル、この部屋で暮らさない?」

「ああ。――――え?」

 アリヤのワンピースと窓の花を交互に見比べていたミツルは生返事をしたが、思い返して愕然とする。

「あ、いや、変な意味じゃなくて! この部屋客室であまり使ってなかったし、私も一人暮らしだからミツルも気を張らずに済むだろうし、何より毎日宿に泊まってたらお金もったいないかなー! なんて……」

 目を見開きながらあたふたと両手を激しく振るアリヤにミツルは、

「気持ちはありがたいけど……けどな……」

 そんなことをさらりと発言するアリヤにやはりある意味危険だなと思う反面、彼女の言うことにも一理あると思い悩んだ。

 ミツルは腕を組んでベッドの上に座ったままうーんと黙考する。

 ミツルの今まで泊まっていた宿は、値段は安いが簡易な造りで、直球に言うとボロ屋だ。質素な夕飯なら付いてくるが朝食と昼食は無い。それに少なからず金が減っていることに変わりはない。
 いくら賭博屋にいた男から大金を巻き上げたとは言っても、いつかは底を尽きるふところを思うとこの別荘のような家で三食付きで寝ることができるというのは非常に悩ましいところではある。

 しかし年相応の少女の、それも一人暮らしの家と来たものだ。第三者から思えば常識的に考えて有り得ないだろう。隣家の人に見られでもしたらどう言い訳をすればいいか見当もつかない。

「――あ、ここ町外れの一軒家だから、お隣さんとかいないし安心だよ」

 ……メンタリストかお前は。

 一旦落ち着こうと溜め息をひとつついて立ち上がる。ぐっと脚に力を込めるが、いきなり立ち上がったのが悪かったのか、後ろへふらっと倒れそうになる。慌てて腰にも力を入れ、それを何とか堪えた。
 そのまま窓のほうへ歩いて行って外を覗くと、確かにアリヤの言う通り、周りに家らしき建物は見当たらなかった。周りにあるのは家ではなく、一面を生い茂る草原の大地だ。
 そしてこの家を囲むような形で低くて白い柵が取り付けられている。

 と言うのもこの場所、浮いているのだ。
 浮島と呼ぶべきか、始めてこの世界に来たときに見た数々の浮いた島と同類のものなのだろう。
 これで隣家は存在しないというのにも納得である。

 真隣には避雷針だろうか、一本高く棒が突っ立っていた。
 浮島から地上までは石製の階段が浮遊したまま続いており、途中何度かカーブがついていた。

 他にも色とりどりの花壇や小さな湖、畑など、本当にのどかな生活を送っていそうな幻想的で閑静な佇まいの家だった。

 空は高く、辺りは広く、水は綺麗で、鳥は愛らしい。そんな開放感溢れるようなアリヤの家を目の当たりにしたミツルは、今までの迷いを振り払うかのように鼻から新鮮な空気を吸い込むと、

「――住むよ。ここに」

 一言、そう言い放った。


 ~ ~ ~ ~ ~


 ――翌日。

 あれからまた夜に睡眠をしっかりととったミツルは寝過ぎで身体が怠く、重くなっていた。

 そんな怠け者になってしまった身体に喝を入れるため、今日は下町に出かけるかと軽く身体をほぐして準備をする。

 銀のファーの施された黒いコートを羽織り、マディラムはちゃんと作用するかと試しに少し飛んでみる。
 この世界の大気中に魔術回路が存在する限り作用しないということは無いらしいが、念の為だ。

 すっかりマディラム使いとして身体に染み込んだ証拠として、最初飛ぶことすら困難だったのが今では地面から数センチ離れた空中で浮遊できるようにまでなっていた。この程度であればもはや朝飯前である。

 空に浮かぶ島であるが故、雲が浮島の地面すれすれを漂う。

「――行くか」

 空中階段があるにもかかわらず浮島の端から飛び降りるのは、もちろん空を飛ぶためだ。せっかく魔法が使えるのだから足で向かうよりも飛んだほうが壮大というものだろう。

 バンジージャンプのように前へと倒れ、そのまま重力に任せて高速で落下して行く。途中で停止、ホバリングして壮観な異世界を見渡していると、バタバタとなびくコートを見て面白いとでも思ったのだろうか、おそらく生まれて間もない小竜が二頭こちらへ向かって飛んでくる。そしてしばらくミツルの周りを火の粉を吹きながら飛び回ると興味をなくしたのか去っていった。

 ――街道に降り立ち、まずはローリアに会いに行こうとアリヤに描いてもらった地図を片手に街を歩く。

(スレイヤード城のすぐ近くじゃないか)

 簡略化された地図だが、要所要所に的確な目印が記されているため非常にわかりやすくすぐに理解できた。どうやらアリヤは存外器用な少女らしい。

 道中お詫びも兼ねて土産物でも買っていこうと思うが、ローリアは何なら喜ぶのだろうか。

「食べ物……いや、知識人だから本……か?」

 思い浮かぶものを口に出しながら歩いていると、城門前で何やら話し声が聞こえてくる。

「……が帰還日を過ぎても……こないらしい。これはいよいよもってまずいのでは?」

「こう言っては何だが、選ばれなくて幸運だったな」

 話しているのは二人の兵士だ。

 歩きながら、怪しまれないよう横目で速度を落として耳を澄ますが、いかんせん距離があるので全部を聞き取ることは叶わない。途切れ途切れの声を拾うくらいである。
 マディラムを用いて影に入ろうかとも思ったが、こうもひらけた広い城門の前では不審がられるのがオチだ。それにそんな危険を冒してまで盗み聞こうとは思わない。

 結局よく分からないまま過ぎ去るミツル。
 そして買ったものも結局のところ食べ物である。

 ――やがて目的地であるローリアの家と思われる建物に到着した。

 と、そこであるミスをしでかしてしまったことをミツルは知る。
 ダメ元で玄関口にくっ付いた、獅子というよりかは狼に近いような顔の彫られたドアノッカーを叩いた。それから数十秒待つが返事が無い。もう一度試してみるが結果は同じ。

「……やっぱりな」

 この日、この時間帯にいないのは当然の結果だ。
 なぜならばローリアは今、学院にいるからである。

 どうしてこのような初歩的な失敗をしてしまったのかと、己の愚鈍さにたまらずため息を洩らす。

 ミツルはアリヤに描いてもらった地図をひっくり返して裏が白紙なのを視認すると、そこに完璧ではないが新たに覚えたこの世界の文字を書き込む。

 護身用でもあり、街中で見聞きしたこの世界の言葉を覚えておくためでもあるペンを常日頃持ち歩いていた甲斐があった。

『おれはげんきだからしんぱいするな。 みやげをおいておく。またがくいんで ~みつる~』

(……まるで遺書だな)

 簡易で下手糞な字を書くが、賢いローリアなら読解できるだろうと地図の紙をその辺に転がっていた石ころを重りにして玄関前に置いた。そして隣に買っておいた食べ物の入った紙袋も置く。
 同日に帰ってくることを見越して立ち上がると、ミツルはその場をあとにした――。



 浮かんでいるが踏みしめてもびくともしない石階段を何段あるか数えながら、ミツルはアリヤの家へと帰宅する。ローリアに会いに行くという今日の目標が果たせなかった今ほかにやる事もなく、街をぶらつこうか迷ったが人混みが苦手なのでそれもパス。何気なく歩いているとここへ戻ってきたというわけである。

 ミツルが家の周辺でだだっ広く風に揺れる草原を眺め、そこで昼寝でもしようかと考えていると、視界の端に見えた物に気付いた。視線を草原からそっちへ移す。

 ミツルの目に映るのは、適当な長さに切られた何本もの木だ。隣にはさらに適当に何等分かに分かたれた木――薪が積まれている。そこにはまだ新しいのだろうか、持ち手である柄や刃の部分が綺麗な手斧が一本立て掛けられていた。その真新しく使われずに放置されている可哀想な斧を見るに、アリヤが風の刃で木を切っている姿が容易に想像できる。

 近付き、斧をそっと手に取るミツル。持ち上げると先端の重みがずっしりと腕に伝わってくる。持ち上げた勢いのまま片手から両手に持ち替え、握りやすい柄の箇所を探る。

 休養と言われてもほとんど全快状態のミツルは、特にやる事もなく暇を持て余している。筋力トレーニングがてら木こりを真似るかと大きく振りかぶり、目前で呑気に突っ立っている木切れめがけて一気に振り下ろした。

 カコン、カコンと軽い音を立てて木を細くしていく。イチョウ型に切った細長い木を、同じように切られて積まれた薪置き場へと運ぶ。ジェンガの如く崩れないよう慎重に積み上げる。

 一本、また一本と両断していくうちに、斧が手に馴染んでくる。

 ――――しばらく集中して断ち続けていたミツルは、既に日が遠くに見える山々に隠れかけてきていることに驚いた。

「……そんなに長いことやってたのか……」

 ぼそりと独り言を呟きながら握っていた斧を置き、昼飯抜きでひたすら薪を割っていたミツルはふぅ、と一息ついて草原に向かう。草原に立ち、そして寝転ぶ。夕陽でほのかに紅く染まった空を見つめる。雲は夕陽に染められた紅い空に侵食されるように、だんだんと薄く橙色になっていく。

 確か空が青くなったり赤くなったりする理由はレイリー散乱と呼ばれる現象のせいだと聞いたことがある。光には波長があり、青い光は波長が短く、赤い光は長いそうだ。また、波長は短くなるほど強くなるために、赤い光よりもずっと強く散乱される。これが空が青くなる正体なのだと。

 異世界でもそういった自然現象は変わらないんだなと感慨深げに数分ぼーっと夕空を眺めたあと目を閉じる。

 少し下がった気温を肌身で感じていると、風で揺られている草の音に混じって、不意に足音が近付いてくるのに気が付く。閉じていた目を開けると、そこには頭に手を当てて揺れる髪を抑えるアリヤがいた。アリヤと出会った初日から幾度となく思っていたが、彼女とこの世界の背景は見事に一致している。

「――おかえり、アリヤ」

 おかえりだなんて言葉を口にしたのはいつぶりだろうか。いつもいつでも他人を卑下して遠ざけていた自分なのに、アリヤと日々を過ごすうちに丸くなってしまったのだろうか。

「うん、ただいま」

 ミツルの第一声にアリヤは愛想よく返答する。

「まだ二日くらいしか経ってないのに、ローリアってばミツルの話ばっかり」

 困ったような笑いを見せ、学院での出来事を楽しげに話し出す彼女はとても幸せそうに見えた。
 アリヤもローリアも大人しい性格ではあるが、喜怒哀楽が実に豊かな少女だ。ミツルとは似ても似つかぬ、相反する存在だ。

 そんな出来損ないの人間であるミツルに、どうして二人はここまで優しく接してくれるのだろう。甚だ疑問が尽きない。

 これまでの人生、黒崎 光は会う人全員から嫌われ者として扱われていたというのに。

 人は何かと理由をつけて人を嫌いあしらう。
 人間だからこそあれば、自分が醜いと思いたくないために他者を見下す習性を持つ。

 昔から変わらないのだ。過去に穢多非人というものが存在したように、現在もいじめが存在する。

 ならば未来にも、また別の、しかし非常によく似た何かが生まれでるのだろう。人は臆病な生き物だ。自意識過剰なのだ。

 例え二人のその優しさが偽物であったとしても、今はそれに救われる。そんな偽善に縋るのは格好悪いのも分かっている。そのような欺瞞に頼るのはおこがましい事も理解している。

 ――でも。それでも。

 少しくらい休ませてくれたっていいだろう。
 四六時中気を張って、気を遣って、精神的に疲れているのだ。

 だから。
 今のこの休日だけは、休む日にさせてほしい。

 ――すっかり日も暮れて肌寒くなった空気を吸うと、ひんやりと身体が冷えるのをミツルは感じる。たまらず身震いをして起き上がるとそれを見たアリヤが、

「寒くなってきたし、もう家の中に入ろ? 温かいお茶でも淹れるよ」

「そう、だな。頼むよ」

「うん」

 そうしてミツルとアリヤが家の中に入ると、暗くなり始めた世界に部屋の明かりが映えた。遠く離れたリー・スレイヤード帝国の街並みにも街灯、家々の灯りが点き始め、周りの暗い世界を照らしていく。まるでそれは、残り少ない国を占領しようと躍起になる周囲の軍勢から抗い身を守る生命の灯火のようだった。


 ~ ~ ~ ~ ~


 ――明くる日。

 ミツルは夜明けとともに朝早くから薪割りを行っていた。
 昨日勝手に割った薪だが、暖炉のあるこの家であるために大変アリヤに感謝され、こうして続けているわけである。

 ――アリヤは「マディラムで割ったほうが楽だよ」と言っていたが、鍛練がてらミツルは敢えて、手動で斧を振っている。が、アリヤの言うとおりマディラムの練習にもなるため明日はそっちで割るつもりだ。

 ミツルのもともと着ていた私服はメルヒムでは目立つため、ここでしか着ない普段着として重宝していた。

 空中で夜明けというのもあってか少し肌寒いくらいではあったが、身体を動かしているうちに程よく火照ったので良しとする。

 地平線から覗く曙光しょこうに照らされながら割っていると薪も残りわずかとなり、もうひと頑張りするかと額の汗を拭っていると、アリヤが朝食を作ってくれていたのだろう、腹を鳴らすのには充分な匂いが漂ってきた。

 そういえばここ最近はバタバタしていて、昨日は何も食べてなかったなと思い返す。そんなことを思うと誰しも食事を欲するものであり、ミツルはお腹を軽くさすった。

 その様子をまるで見てでもいたかのように、タイミングよくアリヤが窓際に手をついてひょいと顔を覗かせる。

「朝ごはんできたよミツル」

「ああ。ありがとう」

 手に持っていた斧を家の端に立て掛け、玄関の扉を開けて中へと入っていく。

 リビングとなる部屋の中央の壁際には暖炉が取り付けられている。また本棚も置かれており、その中には羊皮紙で書かれたマディラムに関する本や趣味で読んでいるであろうおとぎ話の本、そして何やら内容の謎な分厚い本などが種類別にして整理されて入っていた。

 ログハウス仕様の家に合わせたように、机や椅子も木製だ。
 真ん中に設置された机にはアリヤの趣向なのか純白のテーブルクロスが敷かれていた。そしてその上には湯気を立てて並べられた朝食の数々。

 前にローリアの堪能していたマーマラードのシチューに酷似したもののほか、バケットに入ったパンにマーガリン、サラダと、ザ・朝食といった感じだ。

 アリヤは既に座っており、家の前で育てているハーブを使ってお茶を淹れている最中だった。

「薪割りご苦労さま。冷めないうちにどーぞ」

 そう言ってハーブティーを手渡してくる。

「あ……ありがと……」

 同居してまだ慣れないのか、ぎこちなくカップを受け取るミツルに苦笑いしながら、アリヤは両の手のひらをそっと合わせて顔の前へと持ってくる。

 ここに住み込み始めた当初は、彼女のそんな行動に目を丸くさせたものだ。ミツルのいた国ではありきたりな作法だが、それでも他国では食材に対する感謝ではなく神への祈りを捧げたりだったりと、また違った習慣を持っていた。

 つい先日、さり気なく聞いてみたことがあった。
 この世界メルヒムでは、食事の前後に皆その行いをするのかと。
 だがアリヤが言うには、そんなことをするのは彼女以外にいないという返事が返ってきた。何でも「自分で考えた」とのこと。

 偶然か否か、やり方も言い回しも全く同じ。当然ミツルはメルヒムに来てからアリヤの前で一度たりともやって見せたことなど無いが。

 そんな見慣れた作法を見たミツルも同じようにならって、

「「いただきます」」

 口にまだ熱いシチューを運びながら、ほんのり温かいパンを頬ばりながら、二人で何気ない雑談を交わす。

 本当に何気ない話だ。
 朝は薪を何本割っただとか、アリヤが商い通りで果物屋の女主人からおまけで一つ多くもらったとか、ここの湖に魚はいるのかとか、このお茶にはどんな効能があるのかとか、この後どうするだとか、そんな他愛ない話だ。

 ――なのに何故なのだろう。そんな時間が、こんな光景が、とても愛おしいと、途方もなく過ぎてほしくないと思える。

 ここだけ世界に取り残されたように、時間の歯車からはずれたように、神の手の上から逃れるように、いつまでも続いてほしいと思った。
 置かれた時計の秒針が傾くたび、心臓を刻む律動が早まる気がした。

 ――もっと話さなければ。――もっと笑顔にさせなければ。

 そんな感情、これまでの人生で経験したことなど一度たりとも無かった。『愛おしい』だなんて下劣な甘えた言葉、ミツルが最も忌み嫌って、倦怠して、蔑んだ感情なのに。その言葉でしか表現できないから。

 少し前まで、危なっかしい女だなと、その程度にしか思わなかったのに。
 今は、この瞬間は、できる限り守りたいと、紛れもなく本気でそう想えた。

 ――――ずっと、ずっとずっとずっと、その感情を胸に抱き続けていたいと思っているのに。

 もう一人の自分が、心の中の自己が。
 奥底から黒い手を伸ばして底なしの泥沼へと引きずり戻そうとする。 ――『目を覚ませ』と。

 これまで失敗してきた経験が、恐れを具現化して鏡に映る。映るのは、裂けた口を不敵に笑わせ、もともと悪い目つきをさらに悪くさせ、手を招いて戻ってこいと言い続けるミツル、否、みつるだ。

 そこはお前の居ていいような場所じゃないと、お前には不釣り合いだとじとりと淀み切った目で訴えかけてくる。

 そんなもの、聞こえるはずが無いけれど。
 見えるわけでも無いのだけれど。

 ――どうにも、ミツルには確固としてが見えて、聞こえているようだった。

「…………」

 なんの前触れもなく突然黙り込んでしまったミツルに、アリヤは口に木製のスプーンを咥えたまま可愛らしく首を右に少し傾ける。さらりとした銀色の髪が傾けたほうへと同じように垂れ下がる。

「――? どうしたのミツル」

 呼ばれ、ふと我に返るミツル。

「ん? いや、何でもないよ。……ほら、お茶のおかわり淹れてやるよ」

 そう言って硝子でつくられた繊細なティーポットを持ち上げる。
 もうそれほどお茶は入っていないのにとても重く感じ、手が微妙に震える。
 それをアリヤに勘づかれないよう必死になって抑える。

「ありがと」

 アリヤはカップを持ち、まるでいつまでも気長に待つよと伝えるように注がれるのを待つ。

 ミツルはただただ感情を、気持ちをこぼさないようにお茶を注ぐためカップの中央一点に集中する。

 アリヤは口を堅く結び、意味深な目で、そんなどこか必死なミツルの顔を見つめる。


 ――ミツルの休養もこの日をもって終了。
 また明日から、ロエスティード学院へと足を運ぶ日々がやって来る。

 まるで長い夏休みの最終日に子供が名残惜しむように、ミツルはその一時を大切に、大切にパンと一緒に噛みしめた――。

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