タビスルムスメ

深町珠

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愛紗は、ふと白昼夢を見た。

大岡山で、バス・ドライバーとしてひとり立ちして
乗務する、そんな幻想だった。


男と同じ制服を着、出発点呼を受ける。

「3491日生、7A仕業です。」と、仕業表を指差し確認。押印。」


指令の野田が「7Aよし」と、指差し確認。


ちょっと、にっこり。


「本日は曇天である。雨となる予報のため、天候に注意」と、指令。

「確認しました」と、愛紗。



そして、担当車に乗る。

後輪に当てた車止めを外し、サイドボックスに収納。

前扉を開けて、運転席に乗る。


電源スイッチを引く。


ピー、と、コンピュータ料金箱の電源が入り
かたかたかた、動作。

運賃表示機が全点灯し、消え、 6531 7A と。


前扉を閉じ、エンジン始動。


ニュートラル・ギアを確認。

イグニッション・キーをいれ、捻る。

セル・スタータが軽く回る。


轟音と共にエンジン、いすゞ6HH1、6気筒8000ccエンジンが回りだす。


「前方、よし!、後方、よし!、車内、よし!」と、
ひとつひとつ指差し確認し、発進。

とても軽いクラッチを踏み、ギアを2速へ。

ゆるいシフト・ゲートを、左に寄せて前へ。


ミッションが冷えているので、ぬるり、と入る。

アイドリングのまま、やや重いスロットルに右足を添えて
クラッチをつなぐ。

ふわ、と。
雲のようにいすゞLRは動き出す。

この瞬間が、一番楽しい。


力強い、大きなものを動かしている実感。



少しアクセルをいれ、すぐに3速に。


車庫から出るには右折である。

まだ薄暗い午前5時。

ヘッド・ライトを点けて。


道路の安全を確認。「左、よし!、右、よし!」


乗用車は早く、バスの前に入りたがるので
やりすごした方が良い。



右ウインカーを付ける。

かなりストロークが大きく、堅牢なスイッチ。


ゆっくり、ゆっくり点滅。




2ndギアで、クラッチをひょい、とつなぐと
雲に乗ったように持ち上げられる。

車体が7mあるので、後輪の位置を把握して
その分、前に出してから曲がらないと、後ろが回れない。
また、左側を空けて置かないと、後輪のオーバー・ハングが
外側のガードレールに引っかかる。


新人がよくやるミスだ。


慣れるまでは慎重に・・。


と、自分に言い聞かせて、緩い、大きなハンドルを回す。

とても軽い。

前輪には重いものがないから、だ。



するすると回りながらアクセルを開けても、乗用車のようには
ハンドルは戻らない。

少し、意識して戻してあげる。


直角に曲がるような、面白い感覚。




方向幕は、回送表示に先ほどから。

旧式のこのバスは、本当の方向幕である。




床は、昔ながらの木材で、油が染み込ましてある
独特の匂いのあるものだ。




がらがらがら・・・と、エンジンが回り、3速、4速。


出発点の、市民病院はすぐそばだ。


「あの、思い出の」と、愛紗は思う。


深町の乗るバスに乗って、何かを話したくても
話せずに。
一番前の席で、赤くなって俯いていた18歳の春。

まだ、ガイドだった。

その時、深町の担当者だった3491が、今、愛紗の担当だ。

「もっといいクルマにすれば」と、石川が言ったが

愛紗は、なんとなくこのクルマを選んだ。



それに乗って、今、思い出のあの市民病院の停留所に向かっている・・・。





「愛紗!」と、の声で
ふと、我に返る。


「え・・?」と、愛紗は空想に耽っていた事に気づく。




そう、九州に旅に出ていて。

由香、友里絵と列車で大分に向かっていたのだった。



ほんの一瞬。
まだ、列車は庄内を出たばかりだった。



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