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217・理性
しおりを挟む魔獣人は興奮していた。
苛立ちが絡み付くベタベタとした感情が今は不思議と薄れている。グルグル体中を暴れ回っていた不快な塊も消え、濛々と頭の中で燻る息苦しい黒煙の中から抜け出した様な気分だ。
一般人で言うところの「まるで酷い二日酔いから覚めたような感覚」である。
風魔法を覚えたての頃には時折こんな日もあったが、ここ数年は全く無かった感覚。
尤もそんな日は、轟轟と響く滝音も、暗く霞んだ景色も、湖に映る自分の影さえも、周囲を取り巻く全てが恐ろしく感じられ、暗い巣穴の寝床に顔を埋めて過ごすのが常であったーー、
だが、今は違うーー獲物を捉えて食う時とはまた違う昂揚感、それが胸に巡るのを感じていた。
鉄梯子を見上げた魔獣人は、徐に片手を引っかけ、岩壁に両足を突っ張ると体全体を伸ばす様に力を込める。
ーーギリギリギチキチ ガキンッ! ガッキン!
鉄梯子を固定している鉄杭が甲高い音を立てながら軋み、緩み、抜け落ちる。
例え鉄梯子が登れなくとも、魔獣人にとっては勝手知ったる我が家同然の滝である。風魔法を使い岩壁を登る事は造作も無い事。だがそうはせず、鉄梯子を引っ張り始めたのは威嚇の為ーーいや、シェリーに力を見せ付けたいが為であった。
魔獣人は気付いてはいないが、この行動は自分の力を誇示すると言うよりもっと幼い感情ーー子供が親に対して「こんな事が出来るよ!」と自慢する感情に近い。
短時間での風魔法の乱用、また一時的ではあるが魔力をゴッソリと無力化された影響から、魔獣人の中の魔力残量は嘗て無い程まで少なくなっている。
身の丈に合わぬ程に過剰に供給され続ける魔力の影響で、異形となり理性が無くなるとされる魔獣人。その元凶とも呼べる魔力自体が少なくなった為に、ほんの少しだけ魔獣人に理性の様なものが戻っていたのだ。
ーーとは言っても、その精神は酷く幼く、感情も不安定、言葉が理解でき意思疎通が出来る訳では無い。自我を持ち始めたばかりの子供みたいなものだ。
ーーガンッ ガンッ ガッ ガガガガガ!!
連鎖する様に弾け飛んだ鉄杭が落ちる中、それらを避ける為に魔獣人は再び風魔法を使う。竜巻の様に畝りながら立ち昇る突風は、頭上から降り注ぐ鉄杭と周辺の霧を根こそぎ吹き飛ばした。
「アッ アゥッ アァッ?」
晴れた霧間に突風の煽りを受け、ぶらぶらと揺れる梯子の上で固まっているシェリーの姿を見つけた魔獣人は、湧き上がるその感情を理解出来ぬまま、切り立った岩壁に手を掛けた。
◇
「おい、シェリー! 上っ! 上っ!」
全身を霧で濡らし、いつもより二割程小さく見えるシェリーに向かって声を掛ける。すると、ビクリと驚いた様に首を跳ね上げたシェリーが、その大きな琥珀色の目を見開いた。
「ア、アンタ!? 無事だったの?」
鉄梯子に抱き付いたままぶらぶらと揺れるシェリーは、驚きと安堵と焦燥が入り混じった複雑な表情をしながら此方を見上げている。
(…………へぇ、綱登りトレーニングとは違うけど、支えの無い縄梯子に登るのは体幹を鍛えるのに良さそうだな)
綱登りトレーニングとは、その字の如く綱を登るトレーニングである。効果として握力は勿論の事、上腕三頭筋と広背筋、場合によっては上腕二頭筋も鍛える事が出来る上半身に特化したトレーニングだ。そして瞬発的な力よりも、登り続ける為の継続的な力を得る事が出来るのが魅力なトレーニングである。
プロレスラーなどが積極的にこの綱登りトレーニングをしていると某雑誌で読んだ事がある。
筋肉のプロともいえるプロレスラーがやっているのだから良いトレーニングには違いないが、梯子の場合はどうなんだろう?
(う~ん、足を使う分、上半身に効きが甘くなるだろうけど、その代わりに体幹にも効果が出るならーーアリだな! だけど上半身の負荷がどれくらい抜けるのかが問題か……)
「なぁシェリー、鉄梯子って広背筋にもちゃんと効く?」
「………………はあっ?」
余りに的外れな質問にシェリーは思わず大声を上げるーーが、すぐに足下に迫る魔獣人を見て声を顰める。
「この状況で良くそんな悠長な事言えるな、アンタ馬鹿なんじゃないの!?」
ーー馬鹿とは酷い! 綱と縄梯子じゃ筋肉の使い方が違うのかなって、ちょっと疑問に思っただけなのに……。
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