上 下
213 / 276

213・声

しおりを挟む

 荒立つ波の間を掻き分ける様にして、風を纏いし巨躯が疾走する。
 正に疾風怒濤を体現する攻防一体の突進ではあったが、それは何て事の無い障害物ーーヘイズに躓いた事で徒労と化した。

 宙を飛んで、回って、幾つもの回転を経てた先で、勢い付いた身体はそのまま水面をち破ると、派手な水飛沫を上げて冷たい湖中へと魔獣人マレフィクスを押し込んだ。
 
 魔獣人マレフィクスはシェリーと同じく虎がベースであり、ネコ科の中では珍しく水が苦手では無い種族である。だが浅瀬で魚を獲る様な事はあっても、頭から水へ突っ込む様な経験は無かったし、ましてや水中深くへと落ちたのは初めての事だ。
 
 出鱈目に水を掻く程に生まれる水泡は只でさえ濁った視界を遮り、天も地も分からないままに焦りもが魔獣人マレフィクスの肺からは容赦なく空気が抜けて行く。
 四方八方へと風を放出するも複雑な水流を生み出すだけで、かえって身体が湖底へと向かう始末。それでも一心不乱に水中を掻き続ける事で、魔獣人マレフィクスは何とか水と空気の境目まで辿り着く事に成功する。

「ガボッ ケハッ ハッ ハッ」

 新鮮な空気を吸い込んだ魔獣人マレフィクスは、望んだ結果と違う結末に怒り猛る。そしてその原因を作った男を見据え、息荒く唸り大きく威嚇した。
 そうして今度こそはと再び身構えた魔獣人マレフィクスの耳がシェリーの声を拾う。

「おいっ、おいって! こっち、こっちに来い!」

 威嚇、雄叫、叫喚、絶叫ーー言葉は分からなくとも、相手が言わんとする事、これからするであろう行動は、ある程度声色で分かるものだ。警戒に値しない、脅しにもならぬ様な物。


 だが、どうにもあの声は耳に障る。


 魔獣人マレフィクスの頭の中には、いつも痛みと焦りと怒り、それらが全部合わさった様な赤黒い感情が暴風の如く駆け巡っている。
 魔力枯渇症と同じく、身の丈に合わない過剰な魔力は異形の身体だけでなく精神にも悪影響を及ぼすのだ。

 多くの魔獣人マレフィクスは年齢と共に増え続ける魔力に耐え切れずに自滅してしまう。そんな中、魔力を風として吐き出し、ある程度の自我を残す事が出来たシェリーの弟は稀有けうな存在と言えるだろう。

 それであってもーー暗い絶叫が永遠に反響する、狭い箱の中に閉じ込められたかの様な、平穏とは程遠い安寧無き世界の中で生きてきた。

 しかしを聞く時、今まで感じた事の無い感情異物が胸にぽかっと浮かび上がるのだ。 

 それは未知なる感情で有り、惹かれると同時に空恐そらおそろしく感じる物でもあった。

 この場で一番の脅威であったあの男はだ、もう怖く無い。

 次に恐ろしいのはーー、

 イカダでゼェゼェと喘ぐヘイズと、岸辺で尚も挑発を繰り返すシェリー、魔獣人マレフィクスは値踏みする様ゆっくりと両者を見渡した。






「おいっ、おいって! こっち、こっちに来い!」

 シェリーの声に、ほんの一瞬、僅かに岸へと首を傾けた魔獣人マレフィクスだったが、唸り声を一つ上げるだけに留まり、またヘイズに向かって飛び掛かろうと身構える。

ーーだが、反応した。

 この滝音が轟く湖で、シェリーの声が魔獣人マレフィクスにしっかり届いている事の証明である。

(アタシが、アタシが皆んなを助けないと……)

 魔獣人マレフィクスの反応が薄いと見るや、今度は棒で水面を叩きながらシェリーは自棄糞やけくそ気味に大声で喚き出した。

「お前が恨んでんのはアタシなんだろ! ほら、姉ちゃんの言う事聞けよっ!!」

「ばっ、シェリ坊!! 何やってる、さっさと逃げろっ!」

 ヘイズはシェリーの突然の狂言に耳を疑う。ピンチに陥った自分達を助けようとしているのは分かる、しかしあまりにも無謀過ぎる。シェリーに魔獣人マレフィクスをどうこう出来る実力は無い。

 焦ったヘイズは直ぐにイカダの上で身体を起こそうとするがーー。
 
「糞っ、身体が動かねぇ……」

 ヘイズの体力、気力、そして魔力までもが最早限界値を越えており、全身を駆け巡る痛みと疲労で首をもたげるのもやっとの有様だ。
 せめてもの抵抗とヘイズは有りったけの文句を魔獣人マレフィクスへと投げつける。

「おい、俺はまだ生きてるぞ! 糞野郎ッ、この毛玉ッ、弱虫ッ!」

 動けぬヘイズを手負の獣と同じく、未だ油断ならぬと感じたのかーーいや、最早敵では無いと踏んだのか……ヘイズの口撃虚しく、魔獣人マレフィクスの興味はシェリーに移りつつある。
 ガウルを除く三人の中で一番小柄で柔らかそうに見えるからか、もしくは自分に似た匂いを持っているからか
……真相は定かでは無いが、最初から魔獣人マレフィクスがシェリーにこだわっている節はあった。
 
「グガッ グゥラァアア」

 魔獣人マレフィクスは笑う様な咆哮と共に、暴風を纏って岸へ向かって駆け出した。

「ーーだ、駄目だ、やめろっ! やめてくれ! そっちに行くんじゃねぇ!!」

 再び放たれた強風に煽られ、湖尻付近を漂っていたイカダは遂に川へと辿り着く。急流に乗ったイカダは、あっという間に湖から遠く離れて行った。

「糞ッ、止まれ! 止まりやがれッ!」

 見る見るうちに小さくなる一人と一匹……絶望の中、ヘイズの目が僅かな希望を見つけた。

「あれは……兄弟ブロウッ!? 兄弟ブロウっ、シェリーを、シェリーを頼むッ!!」

 荒い流れに呑まれながらも、最後にヘイズの目が捉えたのは、崖上で逆光を浴びる大きな筋肉を持った男の堂々とした佇まいであった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する

雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。 その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。 代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。 それを見た柊茜は 「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」 【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。 追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん….... 主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します

異世界でのんびり暮らしてみることにしました

松石 愛弓
ファンタジー
アラサーの社畜OL 湊 瑠香(みなと るか)は、過労で倒れている時に、露店で買った怪しげな花に導かれ異世界に。忙しく辛かった過去を忘れ、異世界でのんびり楽しく暮らしてみることに。優しい人々や可愛い生物との出会い、不思議な植物、コメディ風に突っ込んだり突っ込まれたり。徐々にコメディ路線になっていく予定です。お話の展開など納得のいかないところがあるかもしれませんが、書くことが未熟者の作者ゆえ見逃していただけると助かります。他サイトにも投稿しています。

【本編完結】さようなら、そしてどうかお幸せに ~彼女の選んだ決断

Hinaki
ファンタジー
16歳の侯爵令嬢エルネスティーネには結婚目前に控えた婚約者がいる。 23歳の公爵家当主ジークヴァルト。 年上の婚約者には気付けば幼いエルネスティーネよりも年齢も近く、彼女よりも女性らしい色香を纏った女友達が常にジークヴァルトの傍にいた。 ただの女友達だと彼は言う。 だが偶然エルネスティーネは知ってしまった。 彼らが友人ではなく想い合う関係である事を……。 また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。 エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。 覆す事は出来ない。 溝が深まりつつも結婚二日前に侯爵邸へ呼び出されたエルネスティーネ。 そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。 二人がいた場所は二日後には夫婦となるであろうエルネスティーネとジークヴァルトの為の寝室。 これ見よがしに少し開け放たれた扉より垣間見える寝台で絡み合う二人の姿と勝ち誇る彼女の艶笑。 エルネスティーネは限界だった。 一晩悩んだ結果彼女の選んだ道は翌日愛するジークヴァルトへ晴れやかな笑顔で挨拶すると共にバルコニーより身を投げる事。 初めて愛した男を憎らしく思う以上に彼を心から愛していた。 だから愛する男の前で死を選ぶ。 永遠に私を忘れないで、でも愛する貴方には幸せになって欲しい。 矛盾した想いを抱え彼女は今――――。 長い間スランプ状態でしたが自分の中の性と生、人間と神、ずっと前からもやもやしていたものが一応の答えを導き出し、この物語を始める事にしました。 センシティブな所へ触れるかもしれません。 これはあくまで私の考え、思想なのでそこの所はどうかご容赦して下さいませ。

凡人がおまけ召喚されてしまった件

根鳥 泰造
ファンタジー
 勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。  仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。  それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。  異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。  最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。  だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。  祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。

公爵令嬢のRe.START

鮨海
ファンタジー
絶大な権力を持ち社交界を牛耳ってきたアドネス公爵家。その一人娘であるフェリシア公爵令嬢は第二王子であるライオルと婚約を結んでいたが、あるとき異世界からの聖女の登場により、フェリシアの生活は一変してしまう。 自分より聖女を優先する家族に婚約者、フェリシアは聖女に嫉妬し傷つきながらも懸命にどうにかこの状況を打破しようとするが、あるとき王子の婚約破棄を聞き、フェリシアは公爵家を出ることを決意した。 捕まってしまわないようにするため、途中王城の宝物庫に入ったフェリシアは運命を変える出会いをする。 契約を交わしたフェリシアによる第二の人生が幕を開ける。 ※ファンタジーがメインの作品です

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

旦那様、どうやら御子がお出来になられたようですのね ~アラフォー妻はヤンデレ夫から逃げられない⁉

Hinaki
ファンタジー
「初めまして、私あなたの旦那様の子供を身籠りました」  華奢で可憐な若い女性が共もつけずに一人で訪れた。  彼女の名はサブリーナ。  エアルドレッド帝国四公の一角でもある由緒正しいプレイステッド公爵夫人ヴィヴィアンは余りの事に瞠目してしまうのと同時に彼女の心の奥底で何時かは……と覚悟をしていたのだ。  そうヴィヴィアンの愛する夫は艶やかな漆黒の髪に皇族だけが持つ緋色の瞳をした帝国内でも上位に入るイケメンである。  然もである。  公爵は28歳で青年と大人の色香を併せ持つ何とも微妙なお年頃。    一方妻のヴィヴィアンは取り立てて美人でもなく寧ろ家庭的でぽっちゃりさんな12歳年上の姉さん女房。  趣味は社交ではなく高位貴族にはあるまじき的なお料理だったりする。  そして十人が十人共に声を大にして言うだろう。 「まだまだ若き公爵に相応しいのは結婚をして早五年ともなるのに子も授からぬ年増な妻よりも、若くて可憐で華奢な、何より公爵の子を身籠っているサブリーナこそが相応しい」と。  ある夜遅くに帰ってきた夫の――――と言うよりも最近の夫婦だからこそわかる彼を纏う空気の変化と首筋にある赤の刻印に気づいた妻は、暫くして決意の上行動を起こすのだった。  拗らせ妻と+ヤンデレストーカー気質の夫とのあるお話です。    

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

処理中です...