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第二十六話 俺の嫁で筆おろししやがったな。

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 窓から外を臨むと、雪がパラパラと振っていた。外はおそらく凍えるような寒さだ。ラウリはコーヒーをテーブルの上に置いて、ソファに腰を下ろした。

 ――まだ帰ってこないのか。

 そのうち帰って来るだろうと高をくくって、妻がおそらく作ろうとしていたミートボールのトマト煮とかぼちゃのポタージュを完成させる。見様見真似で作ったが、初めてにしてはイケてる味だった。やはり、自分に不可能はないのだ。そんな悦もむなしく結局は一人で食べてアンニーナの分は棚に仕舞った。そして、そろそろ入浴しようかという時間になっても、妻は帰ってこなかった。
 家を飛び出してから、四時間が立っている。――結論。

 ――あの坊主、俺の嫁で筆おろししやがったな!

 心のなかで明文化すると、衝動的に目の前の皿を床に叩きつけたくなる。皿を割っても、使用人のいない家でやると自分が掃除する羽目になるので、代わりに洗濯ばさみ入れを逆さまにしてやった。こんなことで気が晴れるはずもないので、床に散らばった洗濯ばさみを踏みつけようと脚をあげたが、これもまた結果は見えていた。

 「クッソ!」

 エサイアスが、神学校あがりの童貞なのも油断していた。あの青年は虎視眈々と人の妻を寝取る機会をうかがっていたのだ。
 
 ――アンニーナが不倫? 上等じゃないか。

 自分の浮気なら日常茶飯事だ。だから、相手が同じことをしようと怒る権利はないし、例え浮気されても自分がその程度で怒るはずはないと思っていた。なのに、この訳の分からないムカつきは何だ? 納得がいかない。脳味噌から火を噴くような怒りがほとばしり、口を開けば罵詈雑言が飛び出しそうだ。まともにものを考えられない。家の中のものを手あたり次第壊しても、この気持ちは晴れそうになかった。

 ――あいつが『穴』だろうと俺が先に浮気しようと、アンニーナは俺のものだ。坊主の出る幕じゃない。

 結局彼は、怒りを喫煙で解消することに決めた。家の中では吸わないようにしているタバコ。追い立てられるように火をつけると、一気にニコチンで肺を満たす。橙色の明かりに浮かぶ白い煙を目で追う。うつらうつらといていた煙が消えると、心にぽっかり穴が開いた気分になった。
 今、彼はこの世界に独りだった。寂寥感に包まれ、視界に入る家の様子がモノクロに変わる。寂しい、悲しい。苦しい、痛い。この感情は知っていた。母親を亡くしたときと同じものだ。ラウリは自分の孤独が抱えきれなくて、一本目を吸い終わっていないのに、二本目の煙草に手を伸ばした。

――煙草じゃどうにもならない。もっと強烈に効くものを……。
 
 『修道士の眠り』。ポツンと頭に浮かんだ単語がまるで唯一の救済のように思える。自分の殻を破り、強者のように振る舞える薬があるというなら、それを今一番必要としているのは自分かもしれない。ラウリは煙草をくわえたまま、身を折り曲げた。

 ――あぁ、くそぉ。気分わりぃ。
 
 クスリは、心の弱い人間が使うものだ。このラウリ・パヤソン、女房に不倫されたくらいで現実逃避するようなヤワじゃない。
 それからどれくらいたったのだろう。一分か、あるいは一時間か。時計を見ると、五分針が進んでいた。全身で隈なく暴れる嵐も、じっと身体を丸くして小さくしていればいづれは収まるらしい。
 彼は冷静を取り戻すために大きなため息をつき、それから防寒具をまとった。アンニーナのコートを小脇に抱える。
 雪雲の間だから、冴え渡るような月がラウルを見下ろしている。通りの灯りに浮かび上がる自分の息が白く揺蕩っては消える。宿屋の門を叩くと、眠そうな声が返ってきた。

 *

 カウンターで金をちらつかせながら、相手の顔を下から覗き込む。

「頼むよ、おやっさん。ウィンウィンで行こうや」
「わ、わかったよ。その代わり、あんたも黙っておいてくれよ。カミさんにバレたらどうなるか……」
「気にすんな。それに関しちゃ、お互い様だ」
「あんた。来て間もないのに、どうしてそんなことまで知ってるんだ……? 俺は誰にも話した覚えはないぞ」
「俺は特別なんだよ、そのへんは気にすんなって」
 
 宿屋の亭主との取引は予想より順調にいき、後は二人が降りてくるのを待つだけとなった。亭主は予定通り奥へと引っ込み、今頃ラウリの差し出した札でも数えているのだろう。

「あ……あなた」

 舌がもつれるような女の声が聞こえて、二階の踊り場を見上げる。案の定、若い二人がまるで恋人同士のような面立ちで立っていた。紙のように青白い顔をしたアンニーナを隠すように、エサイアスが一歩進み出る。それを見たラウリは、自らの口元が吊り上がるのを止められなかった。

 ――他人の妻を寝取って、騎士ナイト気取ってんじゃねぇぞ。

 ラウリ・パヤソン。二十八歳。寝とり男から寝とられ夫にめでたくジョブチェンジした。エサイアスも飛びぬけて面の皮が厚いのか、今にも倒れそうなアンニーナを気遣いながら階段を降りてくる。

「遅くまでお疲れ様です、パヤソン補佐官。ここで何を?」

 ――何をじゃねぇぞ。ぶっ殺すぞ、このガキ。

 ラウリは、思考とは真逆のビジネススマイルを作る。こんなことは朝飯前だ。
 
「宿屋の亭主に、宿泊者名簿の改竄とこの件に関しての口止め料を払いました」
「それは何から何まで、ありがとうございます。そんなこと、僕では到底考えつきませんでした。さすがはパヤソン補佐官ですね。場数を踏んでいる」
「いえ、こちらこそ。妻が大変お世話になったようで、申し訳ありません。ついでに滞在料金の支払いも済ませましたので、閣下はこのまま城へお戻りください」

 これぐらいの当てこすりはいいだろう。人の者を盗んだのだから。相手が貴族じゃなければ、一発お見舞いしているところだった。

「パヤソン補佐官の豊かな経験値がうかがえますね。それでは、。また会いましょう」

 ――アン? 一回寝たぐらいで気安く呼びやがって。

 ラウリの思考は過去ラウリに妻を寝取られた男たちと同様のモノだったが、幸いなことにそれを指摘する人間がいなかった。アンニーナが深々とお辞儀をする。
 
「あ……はい。エサイ、……伯爵様もお気をつけて」
「ほら、いくぞ」

 ラウリは持ってきたコートを妻に手早く着せると、前のボタンを締めてやった。

「あ……は……っ」

 ろくに喋れなくなったアンニーナの肩を抱き寄せると、ラウリは寒い外へと足を運ぶ。沸騰しそうな思考回路には、夜の冷たさはむしろありがたかった。対照的にアンニーナの身体はがたがたと震えている。それが寒さのせいでないことはわかりきっていた。こんなに気が弱い癖に、よく浮気しようなどと考えたものだ。
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