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第二十話 「怒らないから、ゆっくり話せ」

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「閣下は帰ったのか?」

 夜遅く帰ってきたラウリが、開口一番言った。言葉に険が宿っていて、アンニーナは早くも舌がもつれる。

「は……はい。少し前に」
「どうして、食事するって話になったんだ?」
「あ、あの……あの」
 
 夫の機嫌が悪い。あたふたするアンニーナを見て、ラウリは小さくため息をついた。
 
「怒らないから、ゆっくり話せ」
「あの……市場で偶然お会いして荷物を持っていただいて……、今日は、その……わたしがおかずをたくさん作りすぎちゃって……っ、でも……やりくりはまだ大丈夫ですから」

 アンニーナはラウリを責める言葉を出来るだけ使わないようにし、結婚記念日のことを言わなかった。下を向いたので、夫がどんな表情を浮かべているかも分からない。
 
「楽しかったか?」
「は……はい。たくさんおしゃべりしました」

 夫の愛読詩のことは言う気にならなかった。むしろ彼が隠していた秘密を知ってしまい、罪悪感を覚える。ラウリが無言で防寒着を脱いだので、アンニーナはそれを受け取った。わずかについた雪が本格的な冬の到来を告げている。煙草の匂いと共に焼いた肉の匂いもして、夫が飲み屋街に足を運んだことを知った。

 ――仕事じゃなかったのかしら? その人との食事がわたしとの結婚記念日よりも大事だったってこと?

 アンニーナは、改めて自分の存在の軽さに悲しくなる。クルマラ伯爵領に引っ越して、すこしでも夫の中の自分の価値が上がったのかと期待した自分を恥じた。

「閣下は母親の話でも出して、おまえの同情を買ったのか?」

 独りしょぼくれていたアンニーナには、夫が何を話しているのかとっさに分からなかった。見上げた顔には表情がなくて、その話題を始めた理由は分からない。ただでさえラウリが髭を生やした頃から、表情が読みにくくなったのに。
 エサイアスの母親が前の侯爵夫人でないことを、何故知っているのだろうか。

「え……、どうして」
 
 アンニーナの表情を読んだラウリが笑った。その笑い方が彼女には初めて見るものだった。笑っているのに泣いているよう、何と例えていいのか分からない。ただ見ていると、こちらの胸が痛くなる。

「うちの家系は、代々ピエティラ侯爵家に仕えてきたんだ。俺が知らないはずないだろう?」

 アンニーナは、一人で秘密を抱え込まなくてよいことに気付いてホッとする。せっかく始まった夫との会話を続けたくて、勇気を出して疑問をぶつけてみた。そのときには胸が痛くなったことすら忘れていたのだ。

「エサイアス様の産みのお母様がわたしに似ているそうなんですけれど、あなたは会ったことありますか?」
「ねぇよ」
「……すみません」

 返事があまりにもそっけなく、アンニーナはすぐに怯んでしまう。夫は無造作に髪をかきあげる。

「俺が侯爵邸の出入りを許されたのは、ウーノと一緒に寄宿学校へ入学してからだ。それ以前のことは知らない。……エサイアスの母親の話も知らない。別におまえに怒ったわけじゃない」

 ラウリは妻の怯えを感じ取り、慌てて取り繕ったかのように見えた。彼には珍しい行為だった。自分からエサイアスの母親の話を始めたのに、ラウリはこの話題が好きではないようだ。アンニーナはほかに話題はないかと必死に頭を働かせたので、ラウリがいつも使わない言葉を使ったことに気が付かなかった。

「あの……ウーノ様の学生時代って、どんなご様子だったんですか?」

 今でさえ『王配殿下』は天使のように美しいのだから、ティーンエイジャーのウーノはどれだけ美しかったか。女の子たちから恋文を貰ったり告白されても、困り顔で断ったりするのだろう。
 ラウリは一瞬苦虫を噛み潰したような顔をしたものの、すぐに苦笑を漏らした。

「おぅ、……まあ。今みたいな感じだぜ。出来るものなら見せてやりたいがな」

 天使のような金髪のウーノと、野性的な魅力を持つ銀髪のラウリ。今より若くて、でも充分賢くて、二人並ぶと一幅の絵画のように映ったことに違いない。
 
「わたしも見てみたかったです。ウーノ様とあなたの学生生活」
「碌なもんじゃなかったぞ」
「そんなことありませんよ、きっと……」

 そのとき、ラウリがカフスボタンを外したので、アンニーナは慌てて風呂の準備を始めた。室温と湯加減を確かめて浴室を出ると、ラウリははやくも上半身を脱いでいる。

「……っ!」

 刺激が強すぎて、アンニーナは思わずタオルで自分の顔を隠した。明るいところで夫の裸を見るのは初めてで、自分とは違いすぎる大きな肩幅や盛り上がった胸筋が脳の一番大事なところにインプットされてしまう。

 ――どうしよう、ドキドキする。
 
 ラウリは着痩せする体質らしい。焼きつけられた映像では、鋼鉄のように硬そうなのにその肌は滑らかで白かった。夫は妻の視線に気が付かないのか、慣れすぎた視線を無意識に遮断しているのか、脱いだ衣服を籠に投げ入れる。それからふと、アンニーナを見た。
 
「俺が十六歳のときなら、おまえは八歳か。どんな子どもだったんだ?」
「八歳のときなら……ちょうど母が家を出ていったころで、近所の人に食べさせてもらっていました。父に見つかると殴られるので、残り物をこっそりもらう感じで……」

 あるとき、その家の子どもがいたずらして、残り物の中に生きた幼虫を入れた。小さいアンニーナはびっくりして、もらった食べ物を床に落としてしまった。ひもじさに耐えられず泣きながら口に入れていたら、その家の子どもが友達を数人連れてきて「見てみろよ。あいつ、うちの犬なんだぜ!」「きったねぇ! 手で食ってやがる!」と言いながら散々笑って去って行った記憶がある。
 
 ――ああ。だからわたしは、腐った葡萄に入っていた蛆虫が怖かったんだわ。

 昔の記憶に捕らわれていたら、上から強い視線を感じた。半裸の人を待たせて語ることではなかったのだ。
 
「あ……すみません。あんまり気持ちのいい話じゃなかったですよね」
「いや、悪かったな。……余計なことを聞いた」

 ラウリが浮かない顔でズボンを脱ぎ始めたので、アンニーナは慌てて脱衣所を出たのだ。
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