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第二章
精霊界と存在界
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精霊界での暮らしを伝える映像の撮影が終わって数日後、私はいつものように職場へと向かっていた。
「??」
いつものように「精霊界移住相談所」に到着して扉を開けようとしたのだが、何か空間が歪んでいるような違和感を覚えた。
身体に異状があるとかではないので、そのまま扉を開けて中に入る。
「あ、アーベル。ちょっと裏口を見てもらえないかな?」
ユーリが駆け寄ってきて、厨房の方を指差した。
本来ならアイリスに見てもらった方が良いのだろうが、運悪く相談客が来ていて彼女が対応しているらしい。
「こっちだ」
調理担当のブリスの案内で厨房を抜けて裏口へと案内してもらった。
私も滅多に行ったことのない場所なのだが、確かに様子がおかしい。
裏口の扉は私が手を伸ばしてジャンプしてようやくてっぺんに届くかどうかという背の高い代物だ。
その扉が傾いている上に、隙間から見える風景がこのあたりのものではない。
ブリスと二人で恐る恐る扉を開けてみる。
ギィィィィ
扉が傾いたまま開いた。上の蝶番が壊れて外れているみたいで、上半分がぶらぶらしている。
よく見ると上の方に何かがぶつかったかのような凹みがある、
それよりも異様なのは扉の先に広がっていた光景であった。
左から右にかけてやや右上がりのまっすぐな線が引かれたようになっていて、線の下側は真っ赤な溶岩が広がっており、上側には高いビルや塔が見える。
「アーベル、通ってみてくれ。儂では上側の様子がわからん」
家の精霊ボーグルであるブリスの足はわずかに宙に浮いているが、彼は空を飛ぶことができない。
また、私より頭一つ低い彼の身長では線の上側に届かないということで、私に上側がどうなっているのか確かめてほしいのだろう。
線は低いところで私の目くらいの高さだから、私の背なら問題ない。
「行きます」
すっと歩きだして、扉のところを通り抜けようとしたところ……
「む? これは……」
ちょうど目の上あたりを強く押される感覚があり、私はリンボーダンスをするような格好で扉を通り抜けることになった。
「やっぱり、な……」
ブリスは何かに気付いたかのようにうなずいている。
「もう一度やってみます……」
いろいろ調べたところ、どうも扉の外側には低い天井があるような感じで、どうやっても上には行けないことがわかった。
「上側は存在界になっておるのぉ」
「そうですね。高層ビルなんて精霊界には建てないですよね?」
「ごくまれに高い建物を建てることはあるが、あのようなデザインはあり得ん」
ブリスの言う通り、高層ビルは精霊のセンスでは建てるわけがない建造物だ。
やはり扉の向こうの上側は存在界につながってしまっているようだ。
魂霊の私が入り込めないのもそのためだろう。
ブリスだけでは修理ができないということなので、私はいったん「ケルークス」店内のいつものカウンター席に着いた。
しばらくしてアイリスから声がかかったので、応接室で相談客の相手をした。
アイリスに裏口の扉の異常を説明したのは、相談客が帰った後だ。
「……なるほどね。修理が必要になるけど、設計図がないとブリスもお手上げよね」
アイリスは事情をすぐに理解してくれたようだ。
表情が意外に真剣だったのには驚いたが。
「私に手伝えることはありますか?」
「アーベルならそう言うと思ったけど、意見言って、という場合じゃないから設計図を探すのを手伝って」
アイリスがボケかけたが、そういう場合じゃない、と言っているからやはりあまり良い状況ではないようだ。
「……これですか?」
「あ、そうそう。やっぱりアーベルは頼りになるわね」
私が資料室で設計図を探している間、アイリスは精霊界の地図を広げていた。
どうやらこれも扉の修理に必要な準備らしい。
「あーあ、これはひどいわね。コレットの寝室みたいなカオスよ」
アイリスがコレットの寝室の状況を知っているかはわからないが、裏口の状況がそれなりにひどいことは理解できた。
「どうだ? 元がどうだったかわかれば儂でも直せると思うがな……」
ブリスが心配そうにアイリスが広げている設計図を覗き込んでいる。
「……これなら扉を外してから正しく取り付ければ大丈夫ね。時間をかけるとマズいことになるから、今すぐやるのがいいわね」
「わかった。儂に任せておけ」
ブリスは手際よく枠から扉を外し、再び枠にはめ込んだ。
「ふぅぅぅぅぅっ……」
そして精神を集中する。
「「……」」
アイリスと私がその様子を見守っている。
アイリスについては不明だが、私にはどの程度修理が進んでいるのかがさっぱりわからない。
「ふぅぅぅ……こんなものだろう。アーベル、開けてみてくれ」
数十秒後、修理が終わったのかブリスが私に指示を出した。
私が扉に触れ、ゆっくりと力を入れて押していく。
「……いつもの光景です。これで大丈夫ですね」
目の前に広がっていたのは土の原っぱ。これはいつもの光景だ。
「うむ、大丈夫だろう」
ブリスが扉から外に出て周囲の様子を確かめた。
「これなら大丈夫ね。念のため私は他の扉や壁も見てくるわ」
アイリスが外に出て周囲を見回した後、空へと浮かび上がった。
ナイアスであるアイリスはブリスと違って空を飛ぶことができる。
「悪いが任せた。儂は厨房に戻るのでな」
ブリスが厨房に引っ込んだので、私も「ケルークス」の指定席に戻ることにした。
数十分後━━
「終わったわ、疲れたー。アーベル、甘いのが食べたーい!」
外をすべて見終わったのだろう。アイリスがわざとらしくよろけながら「ケルークス」の店内に入ってきた。
「はいはい。ご注文のクッキー盛り合わせ!」
ユーリがクッキーの皿をアイリスの席に置き、アイリスを引きずって椅子に座らせた。
アイリスがクッキーを口の中に放り込み、コーヒーで流し込んだところで私は状況を尋ねてみた。
「外は大丈夫だったのですか?」
「他には異常なかったわ。というより裏口が壊されていた、というのが近いわね……」
アイリスがユーリの方に目を向けた。
「わ、私やブリスはそんな乱暴な使い方しないわよ!」
ユーリの声が上ずっている。心当たりがあるのかもしれない。
「……上の方に何かがぶつかったような跡がありましたけど、手が届くような場所じゃないですよ」
私は疑問をそのまま口にした。
凹みのあった場所は、私がジャンプして何とか殴りつけられるだろう高さだ。
私より頭半分くらい背の低いユーリや、それより背の低いブリスでは脚立でも使わない限り届きそうもない。
「ユーリやブリスが犯人だなんて思ってないわよ。ただ、原因を知っているのじゃなくて?」
アイリスが疑わしげな眼をユーリに向けた。
「……♪~」
ユーリが下手な口笛を吹きながら目をそらした。
「答えて。施設の責任者からの指示よ」
アイリスの目は真剣だった。
「……私やブリスも現場を見ていないので、はっきりしたことがわからないのよ……」
ユーリも観念したようで、アイリスと私の間の席に腰を下ろした。知っていることを話つもりはあるようだ。
「ユーリ、何があったの?」
「昨日、バネッサがこっちに戻ってきたのだけど、すぐに存在界に戻っちゃったのよ……」
「ハァ……またあいつか……」
アイリスが頭を抱えた。
「バネッサ本人には悪気がないから注意もしにくいですしね」
アイリスがバネッサの扱いに頭を痛めているのを知っているので、私もそう言うくらいしかできなかった。
バネッサは変に律儀というか、人が好い (精霊だけど)ところがあって、相手に求められるとそれをすべて受け入れようとする。
セイレーンということもあって、無意識のうちに異性を引き寄せてしまうことが少なくない。
結果、トラブルになって痛い目に遭っているはずなのだけど、当人がまったく凝りていないという点が救いなのだろうか……
「……私は厨房にいたのだけど、大きな音がした後にバネッサが裏口の方から出てきたから変に思ったのよ。ブリスは下の倉庫に行っていたから彼女を見ていないし、私もいつものことかと思って大して気に留めていなかったのだけど……」
ユーリの歯切れが悪いのは、どうやら現場を見ていないことが原因のようだ。
「ちょっと待って。だとすると裏口の異常には誰がいつ気がついたんだい?」
思わず私は疑問を口にしていた。
ユーリの口ぶりからすると、バネッサが帰ってきてから裏口の扉の異常に気付くまでの間に結構なタイムラグがあるように思えた。
「アーベルが来る少し前に、ブリスが裏口から外に出ようとしたときに気付いたのよ。私やブリスはあまり建物の外に出ないから、気付くのが遅れたのよね……」
「結局それだと、バネッサが扉を壊した犯人かも知れない、ってくらいしかわからないわね」
アイリスが首を横に振った。さすがにこれでは証拠として弱すぎるから無理もない。
「……それよりユーリ、建物や周囲の状況のチェックは欠かさないで。今回は良かったけど、存在界と変な繋がり方をすると面倒なことになるから」
「はーい」
アイリスが注意した理由はもっともなものだ。
「精霊界移住相談所」の建物は精霊界と存在界を繋ぐゲートのような役割を持っている。
この建物の中では精霊も人間も魂霊も問題なく過ごすことができる。
「前に壊れたところから、関係ない警備員か何かが入ってきたときは大変だったのだから! 結局その後ここに移転する羽目になったし」
私が精霊界に移住する前の出来事らしいのだが、窓が壊れて存在界のどこかのビルとつながってしまったらしい。
つながった隙間からビルの警備員が相談所の建物に入り込んできてひと悶着あったそうだ。
アイリスから何度か話を聞いたことがあるが、警備会社だけではなく警察まで呼ばれて追い返すのに苦労したと言っていた。
この事件の直後に今の場所に移転してきたらしい。
「移転したらしたで大変だから、あまりやりたくないのよね。周囲の空間が乱れて精霊界と存在界の境界がぐちゃぐちゃになるし。直すのに時間かかかるのよ」
アイリスが露骨に嫌そうな顔をした。
相談所の建物を移動させる場合、どうしても周囲の空間が乱れるらしい。
最近はかなりマシになったが、以前は相談所の周りに精霊界と存在界が入り組んで存在しているような状況だった。
アイリスは時間を見つけてこうした空間の乱れを少しずつ直していっているので、最近はかなりマシにはなっている。
「……相談所の建物は精霊界の技術の粋を集めたものだから、その分メンテナンスには気を遣うのよ。だからユーリだけじゃなくてアーベルも異常に気がついたらすぐに私に知らせて」
「はーい」「承知しました」
今回、裏口と繋がった存在界から何かが相談所の建物に飛びこんできたということはなかったのが不幸中の幸いだ。
アイリスがいうように、この建物は精霊界の優れた技術がいたるところで利用されている。
例えば、相談客が入ってくる正面の入口がそうだ。
入口の扉とホールの間にはカーテンが二重にかけられているが、このカーテンも精霊界の高い技術で造られたものである。
カーテンの表面に接する部分が精霊界、裏面に接する部分が存在界とつながるように細工された代物で、私も過去に相談客としてここを訪れたユーリを追手の目から隠すのに拝借したことがある。
不幸な事故を防ぐためにも、今後施設には気を遣うことにしよう。
「??」
いつものように「精霊界移住相談所」に到着して扉を開けようとしたのだが、何か空間が歪んでいるような違和感を覚えた。
身体に異状があるとかではないので、そのまま扉を開けて中に入る。
「あ、アーベル。ちょっと裏口を見てもらえないかな?」
ユーリが駆け寄ってきて、厨房の方を指差した。
本来ならアイリスに見てもらった方が良いのだろうが、運悪く相談客が来ていて彼女が対応しているらしい。
「こっちだ」
調理担当のブリスの案内で厨房を抜けて裏口へと案内してもらった。
私も滅多に行ったことのない場所なのだが、確かに様子がおかしい。
裏口の扉は私が手を伸ばしてジャンプしてようやくてっぺんに届くかどうかという背の高い代物だ。
その扉が傾いている上に、隙間から見える風景がこのあたりのものではない。
ブリスと二人で恐る恐る扉を開けてみる。
ギィィィィ
扉が傾いたまま開いた。上の蝶番が壊れて外れているみたいで、上半分がぶらぶらしている。
よく見ると上の方に何かがぶつかったかのような凹みがある、
それよりも異様なのは扉の先に広がっていた光景であった。
左から右にかけてやや右上がりのまっすぐな線が引かれたようになっていて、線の下側は真っ赤な溶岩が広がっており、上側には高いビルや塔が見える。
「アーベル、通ってみてくれ。儂では上側の様子がわからん」
家の精霊ボーグルであるブリスの足はわずかに宙に浮いているが、彼は空を飛ぶことができない。
また、私より頭一つ低い彼の身長では線の上側に届かないということで、私に上側がどうなっているのか確かめてほしいのだろう。
線は低いところで私の目くらいの高さだから、私の背なら問題ない。
「行きます」
すっと歩きだして、扉のところを通り抜けようとしたところ……
「む? これは……」
ちょうど目の上あたりを強く押される感覚があり、私はリンボーダンスをするような格好で扉を通り抜けることになった。
「やっぱり、な……」
ブリスは何かに気付いたかのようにうなずいている。
「もう一度やってみます……」
いろいろ調べたところ、どうも扉の外側には低い天井があるような感じで、どうやっても上には行けないことがわかった。
「上側は存在界になっておるのぉ」
「そうですね。高層ビルなんて精霊界には建てないですよね?」
「ごくまれに高い建物を建てることはあるが、あのようなデザインはあり得ん」
ブリスの言う通り、高層ビルは精霊のセンスでは建てるわけがない建造物だ。
やはり扉の向こうの上側は存在界につながってしまっているようだ。
魂霊の私が入り込めないのもそのためだろう。
ブリスだけでは修理ができないということなので、私はいったん「ケルークス」店内のいつものカウンター席に着いた。
しばらくしてアイリスから声がかかったので、応接室で相談客の相手をした。
アイリスに裏口の扉の異常を説明したのは、相談客が帰った後だ。
「……なるほどね。修理が必要になるけど、設計図がないとブリスもお手上げよね」
アイリスは事情をすぐに理解してくれたようだ。
表情が意外に真剣だったのには驚いたが。
「私に手伝えることはありますか?」
「アーベルならそう言うと思ったけど、意見言って、という場合じゃないから設計図を探すのを手伝って」
アイリスがボケかけたが、そういう場合じゃない、と言っているからやはりあまり良い状況ではないようだ。
「……これですか?」
「あ、そうそう。やっぱりアーベルは頼りになるわね」
私が資料室で設計図を探している間、アイリスは精霊界の地図を広げていた。
どうやらこれも扉の修理に必要な準備らしい。
「あーあ、これはひどいわね。コレットの寝室みたいなカオスよ」
アイリスがコレットの寝室の状況を知っているかはわからないが、裏口の状況がそれなりにひどいことは理解できた。
「どうだ? 元がどうだったかわかれば儂でも直せると思うがな……」
ブリスが心配そうにアイリスが広げている設計図を覗き込んでいる。
「……これなら扉を外してから正しく取り付ければ大丈夫ね。時間をかけるとマズいことになるから、今すぐやるのがいいわね」
「わかった。儂に任せておけ」
ブリスは手際よく枠から扉を外し、再び枠にはめ込んだ。
「ふぅぅぅぅぅっ……」
そして精神を集中する。
「「……」」
アイリスと私がその様子を見守っている。
アイリスについては不明だが、私にはどの程度修理が進んでいるのかがさっぱりわからない。
「ふぅぅぅ……こんなものだろう。アーベル、開けてみてくれ」
数十秒後、修理が終わったのかブリスが私に指示を出した。
私が扉に触れ、ゆっくりと力を入れて押していく。
「……いつもの光景です。これで大丈夫ですね」
目の前に広がっていたのは土の原っぱ。これはいつもの光景だ。
「うむ、大丈夫だろう」
ブリスが扉から外に出て周囲の様子を確かめた。
「これなら大丈夫ね。念のため私は他の扉や壁も見てくるわ」
アイリスが外に出て周囲を見回した後、空へと浮かび上がった。
ナイアスであるアイリスはブリスと違って空を飛ぶことができる。
「悪いが任せた。儂は厨房に戻るのでな」
ブリスが厨房に引っ込んだので、私も「ケルークス」の指定席に戻ることにした。
数十分後━━
「終わったわ、疲れたー。アーベル、甘いのが食べたーい!」
外をすべて見終わったのだろう。アイリスがわざとらしくよろけながら「ケルークス」の店内に入ってきた。
「はいはい。ご注文のクッキー盛り合わせ!」
ユーリがクッキーの皿をアイリスの席に置き、アイリスを引きずって椅子に座らせた。
アイリスがクッキーを口の中に放り込み、コーヒーで流し込んだところで私は状況を尋ねてみた。
「外は大丈夫だったのですか?」
「他には異常なかったわ。というより裏口が壊されていた、というのが近いわね……」
アイリスがユーリの方に目を向けた。
「わ、私やブリスはそんな乱暴な使い方しないわよ!」
ユーリの声が上ずっている。心当たりがあるのかもしれない。
「……上の方に何かがぶつかったような跡がありましたけど、手が届くような場所じゃないですよ」
私は疑問をそのまま口にした。
凹みのあった場所は、私がジャンプして何とか殴りつけられるだろう高さだ。
私より頭半分くらい背の低いユーリや、それより背の低いブリスでは脚立でも使わない限り届きそうもない。
「ユーリやブリスが犯人だなんて思ってないわよ。ただ、原因を知っているのじゃなくて?」
アイリスが疑わしげな眼をユーリに向けた。
「……♪~」
ユーリが下手な口笛を吹きながら目をそらした。
「答えて。施設の責任者からの指示よ」
アイリスの目は真剣だった。
「……私やブリスも現場を見ていないので、はっきりしたことがわからないのよ……」
ユーリも観念したようで、アイリスと私の間の席に腰を下ろした。知っていることを話つもりはあるようだ。
「ユーリ、何があったの?」
「昨日、バネッサがこっちに戻ってきたのだけど、すぐに存在界に戻っちゃったのよ……」
「ハァ……またあいつか……」
アイリスが頭を抱えた。
「バネッサ本人には悪気がないから注意もしにくいですしね」
アイリスがバネッサの扱いに頭を痛めているのを知っているので、私もそう言うくらいしかできなかった。
バネッサは変に律儀というか、人が好い (精霊だけど)ところがあって、相手に求められるとそれをすべて受け入れようとする。
セイレーンということもあって、無意識のうちに異性を引き寄せてしまうことが少なくない。
結果、トラブルになって痛い目に遭っているはずなのだけど、当人がまったく凝りていないという点が救いなのだろうか……
「……私は厨房にいたのだけど、大きな音がした後にバネッサが裏口の方から出てきたから変に思ったのよ。ブリスは下の倉庫に行っていたから彼女を見ていないし、私もいつものことかと思って大して気に留めていなかったのだけど……」
ユーリの歯切れが悪いのは、どうやら現場を見ていないことが原因のようだ。
「ちょっと待って。だとすると裏口の異常には誰がいつ気がついたんだい?」
思わず私は疑問を口にしていた。
ユーリの口ぶりからすると、バネッサが帰ってきてから裏口の扉の異常に気付くまでの間に結構なタイムラグがあるように思えた。
「アーベルが来る少し前に、ブリスが裏口から外に出ようとしたときに気付いたのよ。私やブリスはあまり建物の外に出ないから、気付くのが遅れたのよね……」
「結局それだと、バネッサが扉を壊した犯人かも知れない、ってくらいしかわからないわね」
アイリスが首を横に振った。さすがにこれでは証拠として弱すぎるから無理もない。
「……それよりユーリ、建物や周囲の状況のチェックは欠かさないで。今回は良かったけど、存在界と変な繋がり方をすると面倒なことになるから」
「はーい」
アイリスが注意した理由はもっともなものだ。
「精霊界移住相談所」の建物は精霊界と存在界を繋ぐゲートのような役割を持っている。
この建物の中では精霊も人間も魂霊も問題なく過ごすことができる。
「前に壊れたところから、関係ない警備員か何かが入ってきたときは大変だったのだから! 結局その後ここに移転する羽目になったし」
私が精霊界に移住する前の出来事らしいのだが、窓が壊れて存在界のどこかのビルとつながってしまったらしい。
つながった隙間からビルの警備員が相談所の建物に入り込んできてひと悶着あったそうだ。
アイリスから何度か話を聞いたことがあるが、警備会社だけではなく警察まで呼ばれて追い返すのに苦労したと言っていた。
この事件の直後に今の場所に移転してきたらしい。
「移転したらしたで大変だから、あまりやりたくないのよね。周囲の空間が乱れて精霊界と存在界の境界がぐちゃぐちゃになるし。直すのに時間かかかるのよ」
アイリスが露骨に嫌そうな顔をした。
相談所の建物を移動させる場合、どうしても周囲の空間が乱れるらしい。
最近はかなりマシになったが、以前は相談所の周りに精霊界と存在界が入り組んで存在しているような状況だった。
アイリスは時間を見つけてこうした空間の乱れを少しずつ直していっているので、最近はかなりマシにはなっている。
「……相談所の建物は精霊界の技術の粋を集めたものだから、その分メンテナンスには気を遣うのよ。だからユーリだけじゃなくてアーベルも異常に気がついたらすぐに私に知らせて」
「はーい」「承知しました」
今回、裏口と繋がった存在界から何かが相談所の建物に飛びこんできたということはなかったのが不幸中の幸いだ。
アイリスがいうように、この建物は精霊界の優れた技術がいたるところで利用されている。
例えば、相談客が入ってくる正面の入口がそうだ。
入口の扉とホールの間にはカーテンが二重にかけられているが、このカーテンも精霊界の高い技術で造られたものである。
カーテンの表面に接する部分が精霊界、裏面に接する部分が存在界とつながるように細工された代物で、私も過去に相談客としてここを訪れたユーリを追手の目から隠すのに拝借したことがある。
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