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第一章
納品
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「アーベルさん、準備できました。気を付けて行ってきてくださいね」
水色のウェーブのかかった髪をショートボブにした女性が私に向かって取手のついた樽をふたつ差し出した。
中には彼女特製のアンブロシア酒が詰められている。
彼女はアンブロシア酒造りの達人なのだ。正確には精霊なのだが。
彼女は「精霊」という存在だから、「達霊」が正しいのかもしれない。
「ありがとう。納品の後、仕事をしてから帰るから」
私は彼女に礼を言って住処を後にした。
今日はアンブロシア酒の納品のために職場に行く。
納品のついでに仕事をする予定だ。
職場までは森の中をちょっと移動すれば到着する。
森の中の少し開けた場所に職場はある。
古びた小さな二階建ての洋館だ。
近くにウバメガシの大木が目印のようにそびえ立っている。
門から見て建物の右手側はガラス張りになっている。
ガラス張りになっている場所の上の方に看板が掲げられている。
もし、あなたが私の職場に相談に来る意思があれば看板にはあなたの母語で「精霊界移住相談カフェ『ケルークス』」と書かれているのが見えるはずだ。
私ことアーベルはここで相談員の仕事をしている。
「こんにちは、アンブロシア酒を持ってきたけど」
「あ、よかった。そろそろ空になりそうだったから助かったわ。カウンターの上に置いておいて。アーベルにはいつも感謝ね」
茶色の髪を後ろで束ねてお団子にしている女性がぱたぱたとこちらに向かって歩いてきた。
彼女はユーリといって、「ケルークス」のカフェ部門の責任者、すなわち店長だ。
私はカウンターの上に二つの樽を置いた。
私が持ってきたアンブロシア酒は「ケルークス」で客向けに提供されているのだ。
「アーベル、お疲れ様だの。いつも助かるぞ」
目尻の下がった人の好さそうな男がカウンターの上の樽を奥へと運んでいった。
彼はブリスといって「ケルークス」でウエイターや店の掃除などの仕事をしている。
ちなみに彼は人間ではなくてボーグルという建物の精霊だ。
「アーベルはこれからどうするの? 今はアイリスひとりなのだけど」
ユーリが奥の方の席を指し示した。
そこには背の高いモデル体型の女性の姿があった。
どこか神秘的な雰囲気のこの女性は、私の職場の責任者でもある。
アイリスというのが名前で、その正体はナイアスという生命の精霊だ。
ついつい私も職場のことを「ケルークス」と呼んでしまうのだが、職場の正式名称は「精霊界移住相談所」で、アイリスはその所長だ。
「ケルークス」は相談所のカフェ部分の店名なのだが、所長のアイリスまでもが職場のことを「ケルークス」と呼ぶので、職場を正式名称で呼ぶことはあまりない。
「仕事をすると言ってきたからね。相談者はいないみたいだから、冷たい緑茶をいただいてここで待つさ」
私はカウンターの空いている隅の席に陣取った。この席は私の指定席のようなものだ。
「了解。冷たい緑茶一つね」
オーダーを受けたユーリがパタパタと厨房の方へ移動していく。
料理、ドリンクの準備はブリスの担当なのだが、緑茶と紅茶に限ってはユーリが淹れるからだ。
文字通りうちの職場は、私の住んでいる「精霊界」と呼ばれる世界へ移住したい人の相談を受け付けている。
私やユーリは精霊界に移住してきたクチで、その前は読者の皆さんが住んでいる「存在界」と呼ばれる世界の住人だった。
精霊界は存在界からの移住者を長年募集し続けている。
しかし、移住者の数は決して多くない。
理由は色々あるが、精霊界の存在が存在界に知られていないことが大きいと私は考えている。
また、存在界の住人で精霊界で暮らす適性のある者も多数派とは言い難いような気がする。
「はい、どうぞ」
ユーリが私の前にお茶の入ったグラスとタイマーを置いた。
タイマーは何に使うのかって?
精霊界の住人になると、どうしても時間の感覚が希薄になる。
時間を忘れて店内に入り浸っているのはいろいろと不都合があるので、ユーリが滞在時間に制限を設けた。
相談員は連続五〇時間を超えて店に滞在することはできない。これは仕事中であってもだ。
滞在時間の管理のためにタイマーが導入されたというわけだ。
「ヒマねぇ。三週間ほどお客が来ていないけど存在界に行った連中はちゃんと仕事しているのかしら?」
アイリスが気だるそうな声でぼやいた。
「というか、場所が不便すぎでしょう。用もない人間が来たら遭難者扱いされるようなところ、おいそれと足を踏み入れられないですって!」
私もお約束としてそう返したが、「ケルークス」の立地を改善するのが困難であることは嫌というほど理解している。
「ケルークス」は精霊界と存在界をつなぐ通路とかゲートと呼ばれるような役割も持っている。
この通路が曲者でどこでも勝手につなげるというわけではない。
精霊界側はともかく、存在界側で通路をつなぐのに適しているのが人里離れた場所になるのだ。
絶海の孤島とか、未踏の名峰につなぐのが簡単なのだが、そんな場所につないでも相談者がたどり着けない。
ハイキングコースの脇 (といっても数百メートル離れているが)というのは通路の接続場所としてはかなりの好立地なのだ。
「ケルークス」の近くにあるハイキングコースは出発点に鉄道駅がある。
大人の足なら駅から「ケルークス」まで歩いて三、四〇分だ。
最後の相談客が三週間前、というのはちょっと気になる。
ばらつきはあるが、いつもなら相談客は週に二、三人だ。
三週間誰も来ないとなると、ここへ来るまでの道に何かあった可能性も考えられる。
何かあれば、存在界に行っているメンバーから連絡があるとは思うのだが。
「繁華街の駅前にでも通路をつなげたらよかったのだけどねぇ。あんまりお客に来られてもそれはそれで困るのだけど……」
「そんなところに移転したら、存在界の人たちに目を付けられますって! それこそ相談客が近寄れなくなりますって!」
自分の考えていることを見透かしたのか、アイリスがツッコまれることを期待してボケてきた。
それに付き合ってしまう私も私だが、案外これが楽しかったりする。
相談客がいる場でこれをやられるとそれなりに迷惑なのだが。
存在界の人には、人が精霊界に移住することの意味がよく知られていない。
これが原因で「ケルークス」へ相談に来ようとするのを阻止する動きが頻繁に見受けられるのだ。
それこそ繁華街の駅前なんかに移転したら、周囲が立入禁止区域に指定されてしまうだろう。
「ケルークス」ではないが、他の「精霊界移住相談所」が某有名避暑地の近くに移転したところ、軍から攻撃を受けたなんて事例もあるのだ。
もっとも、存在界の人がどんなに攻撃を加えたところで、精霊や精霊界に傷をつけることはできないのだけど。
私は相談員なので、相談客が来ない限りこうして「ケルークス」の店内でお茶を引いている。
今日はアイリスと私以外の相談員がいないようなので、必然的にアイリスかユーリと他愛もない話をすることになる。
「アイリス、アーベル、そろそろ新しいメニューを追加しようと思うのだけど、存在界の食べ物で精霊が好きそうなのって何か思いつかないかな?」
ユーリがいつの間にかカウンターの前に立っていた。
アイリスのポットの中にはまだ半分くらいコーヒーが残っているようだし、私の冷たい緑茶もまだグラスに半分以上残っている。
なのでユーリもすることがないのだろう。
「そうねぇ……この前バネッサが存在界から持ってきた青白い丸いプリンみたいなのはウケそうだと思うけど?」
「……」
「食べ物ではないですね……」
もともとは存在界に住む人だったユーリや私はアイリスの言うものが何だかすぐに理解した。
ユーリは「こいつに聞いたのが間違いだった」と言わんばかりの冷たい視線をアイリスに向けている。
恐らくアイリスはツッコんで欲しくてボケていると思うので、私は一応付き合った。
ちなみにアイリスの言うのはハイキング客が落としたか、精霊がくすねてきたと思われる固形燃料だ。
旅館などで夕食の一人用の土鍋を温めたりするのに使うアレだ。
精霊の感覚では美味しそうに見えるのかもしれないのだが。
「すいませ~ん!」
不意に入口の方から間延びした声が聞こえてきた。
「あら? お客さんかしら。私が出るわ」
アイリスが入口の方へと飛んでいった。
ここでいう「飛んでいく」は、文字通り宙を浮かんで進むことを意味している。
すぐに二階に上がっていく足音がしたから、声の主は移住の相談に来た人に間違いなさそうだ。
二階には相談を受けるための応接室があるのだ。
私の出番があるかどうかはわからないが、出番に備えて気持ちだけでも準備をしておこう。
水色のウェーブのかかった髪をショートボブにした女性が私に向かって取手のついた樽をふたつ差し出した。
中には彼女特製のアンブロシア酒が詰められている。
彼女はアンブロシア酒造りの達人なのだ。正確には精霊なのだが。
彼女は「精霊」という存在だから、「達霊」が正しいのかもしれない。
「ありがとう。納品の後、仕事をしてから帰るから」
私は彼女に礼を言って住処を後にした。
今日はアンブロシア酒の納品のために職場に行く。
納品のついでに仕事をする予定だ。
職場までは森の中をちょっと移動すれば到着する。
森の中の少し開けた場所に職場はある。
古びた小さな二階建ての洋館だ。
近くにウバメガシの大木が目印のようにそびえ立っている。
門から見て建物の右手側はガラス張りになっている。
ガラス張りになっている場所の上の方に看板が掲げられている。
もし、あなたが私の職場に相談に来る意思があれば看板にはあなたの母語で「精霊界移住相談カフェ『ケルークス』」と書かれているのが見えるはずだ。
私ことアーベルはここで相談員の仕事をしている。
「こんにちは、アンブロシア酒を持ってきたけど」
「あ、よかった。そろそろ空になりそうだったから助かったわ。カウンターの上に置いておいて。アーベルにはいつも感謝ね」
茶色の髪を後ろで束ねてお団子にしている女性がぱたぱたとこちらに向かって歩いてきた。
彼女はユーリといって、「ケルークス」のカフェ部門の責任者、すなわち店長だ。
私はカウンターの上に二つの樽を置いた。
私が持ってきたアンブロシア酒は「ケルークス」で客向けに提供されているのだ。
「アーベル、お疲れ様だの。いつも助かるぞ」
目尻の下がった人の好さそうな男がカウンターの上の樽を奥へと運んでいった。
彼はブリスといって「ケルークス」でウエイターや店の掃除などの仕事をしている。
ちなみに彼は人間ではなくてボーグルという建物の精霊だ。
「アーベルはこれからどうするの? 今はアイリスひとりなのだけど」
ユーリが奥の方の席を指し示した。
そこには背の高いモデル体型の女性の姿があった。
どこか神秘的な雰囲気のこの女性は、私の職場の責任者でもある。
アイリスというのが名前で、その正体はナイアスという生命の精霊だ。
ついつい私も職場のことを「ケルークス」と呼んでしまうのだが、職場の正式名称は「精霊界移住相談所」で、アイリスはその所長だ。
「ケルークス」は相談所のカフェ部分の店名なのだが、所長のアイリスまでもが職場のことを「ケルークス」と呼ぶので、職場を正式名称で呼ぶことはあまりない。
「仕事をすると言ってきたからね。相談者はいないみたいだから、冷たい緑茶をいただいてここで待つさ」
私はカウンターの空いている隅の席に陣取った。この席は私の指定席のようなものだ。
「了解。冷たい緑茶一つね」
オーダーを受けたユーリがパタパタと厨房の方へ移動していく。
料理、ドリンクの準備はブリスの担当なのだが、緑茶と紅茶に限ってはユーリが淹れるからだ。
文字通りうちの職場は、私の住んでいる「精霊界」と呼ばれる世界へ移住したい人の相談を受け付けている。
私やユーリは精霊界に移住してきたクチで、その前は読者の皆さんが住んでいる「存在界」と呼ばれる世界の住人だった。
精霊界は存在界からの移住者を長年募集し続けている。
しかし、移住者の数は決して多くない。
理由は色々あるが、精霊界の存在が存在界に知られていないことが大きいと私は考えている。
また、存在界の住人で精霊界で暮らす適性のある者も多数派とは言い難いような気がする。
「はい、どうぞ」
ユーリが私の前にお茶の入ったグラスとタイマーを置いた。
タイマーは何に使うのかって?
精霊界の住人になると、どうしても時間の感覚が希薄になる。
時間を忘れて店内に入り浸っているのはいろいろと不都合があるので、ユーリが滞在時間に制限を設けた。
相談員は連続五〇時間を超えて店に滞在することはできない。これは仕事中であってもだ。
滞在時間の管理のためにタイマーが導入されたというわけだ。
「ヒマねぇ。三週間ほどお客が来ていないけど存在界に行った連中はちゃんと仕事しているのかしら?」
アイリスが気だるそうな声でぼやいた。
「というか、場所が不便すぎでしょう。用もない人間が来たら遭難者扱いされるようなところ、おいそれと足を踏み入れられないですって!」
私もお約束としてそう返したが、「ケルークス」の立地を改善するのが困難であることは嫌というほど理解している。
「ケルークス」は精霊界と存在界をつなぐ通路とかゲートと呼ばれるような役割も持っている。
この通路が曲者でどこでも勝手につなげるというわけではない。
精霊界側はともかく、存在界側で通路をつなぐのに適しているのが人里離れた場所になるのだ。
絶海の孤島とか、未踏の名峰につなぐのが簡単なのだが、そんな場所につないでも相談者がたどり着けない。
ハイキングコースの脇 (といっても数百メートル離れているが)というのは通路の接続場所としてはかなりの好立地なのだ。
「ケルークス」の近くにあるハイキングコースは出発点に鉄道駅がある。
大人の足なら駅から「ケルークス」まで歩いて三、四〇分だ。
最後の相談客が三週間前、というのはちょっと気になる。
ばらつきはあるが、いつもなら相談客は週に二、三人だ。
三週間誰も来ないとなると、ここへ来るまでの道に何かあった可能性も考えられる。
何かあれば、存在界に行っているメンバーから連絡があるとは思うのだが。
「繁華街の駅前にでも通路をつなげたらよかったのだけどねぇ。あんまりお客に来られてもそれはそれで困るのだけど……」
「そんなところに移転したら、存在界の人たちに目を付けられますって! それこそ相談客が近寄れなくなりますって!」
自分の考えていることを見透かしたのか、アイリスがツッコまれることを期待してボケてきた。
それに付き合ってしまう私も私だが、案外これが楽しかったりする。
相談客がいる場でこれをやられるとそれなりに迷惑なのだが。
存在界の人には、人が精霊界に移住することの意味がよく知られていない。
これが原因で「ケルークス」へ相談に来ようとするのを阻止する動きが頻繁に見受けられるのだ。
それこそ繁華街の駅前なんかに移転したら、周囲が立入禁止区域に指定されてしまうだろう。
「ケルークス」ではないが、他の「精霊界移住相談所」が某有名避暑地の近くに移転したところ、軍から攻撃を受けたなんて事例もあるのだ。
もっとも、存在界の人がどんなに攻撃を加えたところで、精霊や精霊界に傷をつけることはできないのだけど。
私は相談員なので、相談客が来ない限りこうして「ケルークス」の店内でお茶を引いている。
今日はアイリスと私以外の相談員がいないようなので、必然的にアイリスかユーリと他愛もない話をすることになる。
「アイリス、アーベル、そろそろ新しいメニューを追加しようと思うのだけど、存在界の食べ物で精霊が好きそうなのって何か思いつかないかな?」
ユーリがいつの間にかカウンターの前に立っていた。
アイリスのポットの中にはまだ半分くらいコーヒーが残っているようだし、私の冷たい緑茶もまだグラスに半分以上残っている。
なのでユーリもすることがないのだろう。
「そうねぇ……この前バネッサが存在界から持ってきた青白い丸いプリンみたいなのはウケそうだと思うけど?」
「……」
「食べ物ではないですね……」
もともとは存在界に住む人だったユーリや私はアイリスの言うものが何だかすぐに理解した。
ユーリは「こいつに聞いたのが間違いだった」と言わんばかりの冷たい視線をアイリスに向けている。
恐らくアイリスはツッコんで欲しくてボケていると思うので、私は一応付き合った。
ちなみにアイリスの言うのはハイキング客が落としたか、精霊がくすねてきたと思われる固形燃料だ。
旅館などで夕食の一人用の土鍋を温めたりするのに使うアレだ。
精霊の感覚では美味しそうに見えるのかもしれないのだが。
「すいませ~ん!」
不意に入口の方から間延びした声が聞こえてきた。
「あら? お客さんかしら。私が出るわ」
アイリスが入口の方へと飛んでいった。
ここでいう「飛んでいく」は、文字通り宙を浮かんで進むことを意味している。
すぐに二階に上がっていく足音がしたから、声の主は移住の相談に来た人に間違いなさそうだ。
二階には相談を受けるための応接室があるのだ。
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