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五
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石鳥居の向こうが騒がしいのはいつもの事だ。驚嘆、諦観、自暴自棄、絶えぬ怨嗟の咆哮。
しかしながら、今日はいつもと違うようだと慣れた道を進みながら昨日告げたとおり、穴に入れずにぐるぐると這い回っているもの達を蹴落としつつ進む猿田彦は向こう側の異変を明確に認識した。
明確な殺意が肌を刺してくるのだーーああ、骨が折れそうだ、と呟いて彼は石鳥居を潜った。
「死ね! 人間は全て死ね! いや、殺す……殺してやる!」
そこには頸に消えた蝋燭を乗せた犬らしき獣がいた。
死した姿をそのままに全身が焼け爛れ、有らぬ方向に捻れた後ろ足が何とも痛々しい。身体つきからどうにか犬であろうと思われる程痛めつけられて死に至ったようだ。その犬の人間へ向ける敵意で怯える人間の悲鳴とが相まって、そこは地獄よりも悍ましい地獄絵図となっていた。
鳥居を背に向き合ったもの達に牙を剥き吼える獣に怯え、鳥居の前に並ぶ人間は大きく後退り恐怖に支配されている。
猿田彦は真っ先に荒ぶる犬の元へと行き、暗澹たる気持ちを振り払い、皮膚が剥がれ剥き出しの肉と骨の頭に触れて腹に力を込めた。
「鎮まれ」
重く低い猿田彦の声に耳をぴくりと動かすと、向き直った獣はぐるるっと威嚇の喉鳴りの後、憎しみに満ちた眼で爛れた獣は猿田彦の手を睨みつけたまま振り払った。
「貴様も、人間かぁ! 触るな! 殺す、殺す、殺す!」
「やれるものならば、やるがよかろう。哀れな獣よ。お前はその思いを変える事は無いか?」
「笑止! 人間など爪も牙も持たぬくせに知恵だけは回る下劣で傲慢かつ脆弱な生き物! のし上がり、好き勝手に他者の生命を左右するとは片腹痛い! 死すべし、死すべし! 殺す殺す殺す殺す! 滅べ! 死に絶えよ!」
「……そうか。では、お前の行き先は決まった」
指し示したとて言う事は聞いてはくれまい、と猿田彦は生命の灯火の消えた蝋燭の乗った首根っこを掴むと、鳥居の奥へとずんずんと迷いなく進む。ばたばたと逃げようと暴れるも猿田彦からしてみれば手を放す程の力ではなかった。そのまま暴れ、吼え、憎しみのみを繰り返す獣を最奥にある穴の前まで運ぶと、そこで足を止め、此方だ、と呟いて爛れ異臭を放つ犬を穴へと放り込んだ。
底も見えぬ穴に落ちながらも人間を、そして猿田彦を恨む声は消える事なく闇に呑まれて消えた。
ふう、と思い溜め息をついた猿田彦はおチビさんがいなくて良かったと思っている自分に気づいて妙な気持ちになった。これは与えられた使命であり、死後の道先を指し示すという名誉ある役割であり、子が側にいようと同じ事をしたであろう確信はあるのに、何故か今この瞬間は幽世之神が相手をしているという事に安堵している自分がいた。
「無垢も……罪よな」
あの真っ直ぐな目で見られると心の奥に我知らずいつの間にか抱え込んだ澱みを見透かされそうで怖いのだと、この時の猿田彦には思いつきもしなかった。
ただこうする事が必要で、そうしなければ周りのまだ火も消えていないもの達の火すら萎縮して消えてしまっただろう。
誰からも責められる謂れの無い必要な行動であるにもかかわらず、何故か猿田彦の心は暗い。
自分でも理解できない胸の重さを打ち消すために足早にその場から離れた。足元が薄ら明るくなってゆくにつれ、猿田彦は無意識に下げていた視線を戻し、姿勢を正しいつもの凜とした表情へと戻す。
鳥居の前で手を打ち鳴らすと、此方へ視線を向けたもの達へと高らかに宣言する。
「怒れる獣の行き先は既に決まり、此方へ戻る事はなし。各自、今一度心を落ち着け、己が胸の内と向き合って頂きたい!」
遠く離れたものの耳にも届く様に一言一句はっきりと何事もなかったかの様に届いた猿田彦の声に、距離を空けていたもの達は恐る恐る鳥居の前に再び集り始めた。
恐怖で縮こまった魂魄からじんわりと緊張が抜けてゆくのを感じながら、猿田彦はほっとしつつも顔に出さぬ様敢えていつも以上に堂々と胸を張って姿勢正しく立ち、怯えていたもの達に威厳を見せつける。
この場所では微々たる恐怖や不安は当たり前にあるものだ。そしてそれを少しでも薄め安らかにするのは、神である猿田彦の絶対的に安定した気配と存在感だ。
「今暫く時間を許されているものは蝋燭と相談しつつ心を落ち着かせるのに尽力し、時間のなきものは心が落ち着いたものから手を挙げるなり、私の前に来るなりして頂きたい」
少し力の抜けた猿田彦の声が漣の様に辺りに広まってゆくと、更に集まったもの達は穏やかさを取り戻していった。
猿田彦が鳥居の前で腕を組んで立っていると、そっと手を上げるものがいた。視界に入った手の持ち主の元へ赴くと、言い慣れた言葉を口にする。
「何があったか、言えるかな?」
「あ、やばかったね! 死んでもやばいって思うもんなんだね、お兄さん、ありがと。あのね、あたし昨日からずっと思い出そうとがんばってたんだけどさぁ」
勢いよく話し出したのは昨日錯乱して猿田彦に髪を掴まれた女だった。
「がんばって思い出して……笑っちゃった。あたし、なんであんな顔が良いってだけであそこまで男に入れ込んでたんだろうって。それにさぁ……あいつだってそれで生活してんだもんね、恨むあたしが馬鹿だって事だよね。ふふ、ホストにマジ恋だなんてほんと馬鹿だなぁ、あたし。自分が同じ事されたらめっちゃ嫌だったのに、もっと酷い事しようとした……」
元気良く話し出したかと思えば、声がどんどん沈んでゆく。猿田彦には解らない単語が幾つかあったが、それはそれとして今後には関係なさそうだとそのまま女の口が閉じるのを待つ。
「……お兄さん、あたし、地獄で良いよ。てか、地獄が良いと思う。あ! 地獄行ってもさ? 時間が経ったら産まれ変わりとかできる?」
身長差から上目遣いで猿田彦を見遣る目つきに先日のような怨嗟や憤りのような邪な色は無い。純粋に問うているだけに見えた。
「時が経ち、穢れと化し身体にへばりついたお前が犯した罪が綺麗に落ちた時、その道が開けようよ。心決まったのならば行こうか」
差し出した猿田彦の手を女は穏やかな顔で掴む。まるで昨日とは別人の様だとさえ思う程に女は落ち着いていて、微笑んでさえいる。
「……何故、笑う?」
「んー? わっかんないけど、わっかんないけどさ。いつかは産まれ変われるみたいだし、その時はね今回みたいな馬鹿しないでさ、もっとちゃんと幸せになりたいなぁって思ったら笑ってた」
その顔に他意はなく、鳥居を潜った後も自らが望んだ地獄への暗い道を微笑みを絶やさずに進んでいる。
「お前は、此方だな」
「え? もうついたの? 早くない?」
驚いて顔を上げた女は最奥を指差して、あっちじゃないの? と首を傾げている。
「あそこは地獄よりも更に長く苦しむ救いの無い場所。だからお前は此方だ」
「やば。死んだら天国か地獄しか無いと思ってたから二択じゃんって思ってたけど、ガチのあの世ってこんなに選択肢あるんだね。それをお兄さんが振り分けてるって事かぁ……しんどいね……お兄さんが此方って言うなら此方なんだね。んで、昨日はごめんね! で、ありがとね」
女は笑って猿田彦に手を振ると、納得した表情で示された穴へと降りて行った。
しんどいねの言葉が猿田彦の胸に小さな陰を残す。解らんな、と呟いて踵を返し鳥居を目指す。鳥居の向こうではもう既に何人かが手を挙げて猿田彦の帰りを待っていた。だからといって歩を早めるわけでもなく猿田彦の歩調は変わらない。
穏やかな死、無念の死、思い出される死に至るまでの人生に耳を傾ける為に猿田彦は本日もまた足裏に砂利の感触を覚えながらこの道を何往復もするのだ。生前とは打って変わって、時の流れの速さが違うこの場所で急いても無意味だ。此方で猿田彦が急いてしまった結果、蝋燭を持つもの達をも急かしてしまう事の方が厄介なのだ。ただでさえ曖昧な所から遡る記憶だ、虚飾が混じるのは何よりも避けねばならない。要らぬ焦りは禁物、要らぬ感情の伝搬は躊躇う事なく力を以って捻じ伏せる。時間なら有り余る程にあると猿田彦は鳥居の向こうから伝わってくるもの達の気配を感じ取ろうとし、一旦足を止めて目を閉じて大きく息を吸う。獣の騒動から暫しの時間も経ち、恐怖の抜けた場の匂いを肌で感じ取った。
「やっと戻った平穏、かな」
呟きと共に目を開けた猿田彦は再び歩き出し、蝋燭を抱えた大勢の前に姿を現した。
猿田彦の姿を目にしたもの達は乱雑ながらも列を成し始める。列に入らぬものは蝋燭を見つめ、脇の石に腰をおろし虚な目をしている。覚悟が決まれば列に加わるだろうし、決まらねば猿田彦が語り掛ければ良いだけの話だ。
何が起ころうとも、時経てば全ては元に戻るーーそう思いながら猿田彦は目の前の老婆にしゃがみ込んで声を掛けた。
「思い出したかな?」
「それが、どうしてだか蝋燭の勢いが……」
「ああ、どうやら貴女の生命は再び繋がれた様だね。ではこの列に逆らって進みなさい」
「おや、そうなのかい? でも近いうちにまた此方に来そうだねぇ」
「その時は、またその時」
「神様に二回も会えるなんてありがたいねぇ。しかも何とも良い男と来たもんだ。死ぬ前に目の保養ができてあたしゃ幸せですよ」
手を合わせて猿田彦を拝む老婆の姿に苦笑いが洩れる。拝んだまま動かない老婆の肩を叩いて、行くべき生きるものの世界を指す。
「さあ、行かれよ。黄泉帰り、だ」
「次の時はよろしくお願いしますよ」
「ああ、任されよ」
何度も頭を下げつつ、老婆は歩き出した。
戻った先が意識も無い寝たきりなのか、周囲の人間と意思疎通ができるのかは関係無い。生命が戻ったのならば、此方にいる必要は無い。猿田彦はゆっくりと去って行く老婆を見送り一息ついた。
最近、こうして黄泉帰りを果たすものが人間も人間に飼育されている動物も増えた。小耳に挟んだところでは、生きるものの知恵がそうさせているのだという。
「死すべき時に死す、その機を人の術で延ばすのは果たして意味なき事か、意味ある事か……」
時の流れと人の術の変化について猿田彦は何の文句も無いが、生きるものの世界に対してさして興味の無い彼の胸中には僅かな疑問しか残らない。
「一分一秒を生き永らえても、その後の長さは変わる事はないのになぁ……何なら声にならない苦痛が長引く事もあるというのに……」
解らんな、と頭を掻いて猿田彦は気持ちを切り替えて再び蝋燭の消えたものの前に立つ。
神様、と足首に縋ってくる男に目を落とすと、男はあからさまに安心した様な表情になった。
「儂の話を聞いてくれ! 思い出した、思い出したんじゃ! 後妻に毒を盛られた! あいつは若い男と……」
「後妻がどうなろうと、此方におらぬのならばどうでも良い。お前の話が聞ければそれで良い」
「聞いてくれ、聞いてくれ! 儂は殺されたんじゃ!」
「ほう? 蝋燭を持って鳥居を潜られよ」
「殺されたんだ、極楽に行ける、極楽じゃ!」
手を叩いて喜ぶ男と共に鳥居を潜った猿田彦はぐいっと首を伸ばして男の持つ蝋燭を覗き込む。同時に死後の灯火の中に映し出される生前の男の所業に猿田彦は眉間に皺を寄せた。
灯火の中の男は若く、縋りつく妻と思われる女を突き飛ばして床に倒れた女の腹に蹴りを入れている。
「ほう」
ゆらりと炎が揺れると、男が妻とは違う女の肩を抱いて煌びやかな建物に入って行く。よく似た場面が何度も繰り返され、その度に相手の女は違ったが、男のにやけた顔は老いてはゆくものの変わりはなかった。
じりり、と芯が音を立てる。すると場面が変わり随分と白髪の増えた妻が自宅と思しき空間で、卓に肘をつき顔を覆って泣いている。彼女の前には男と着飾った女が座り、タバコを咥え煙をわざと吹き掛けていた。
白藤とも香染とも違う長い爪に猿田彦はこれで満足に家事のひとつもできないだろうと訝しんだ。その女は妻の前でこれ見よがしに男にしなだれて、目の前で泣く女をせせら嗤っている。派手な女は大きな音を立てて卓の上に紙を置く。男は眼前に座る泣いている妻に向かって捩れたタバコと万年筆を投げつけた。手の甲に当たった万年筆は跳ね返り、机の上を転がった。それでも泣き続ける妻の傍に立つと男は拳を振り上げ、容赦なく振り下ろした。幾度目かの殴打の痕、顔中を痣だらけにさせて口の端から血を流した妻は震える手で万年筆を手に取った。炎を見る猿田彦を困惑が包んだ。
目の前で何かに書き込みをしている妻を見た女は細長い機械を耳に当て、一人話し出す。暫くすると強面の若い男達が数名ずかずかと挨拶もなく入り込み、次々と女が指差す家具やらを外へと運び出した。
「高く売れると良いねぇ? あんたへの手切金になるんだからさ。あ、それも何か勿体無いから迷惑料って事で貰ってあげるわね」
「やめてください! あれは祖母の形見なんですよ!」
「え? 死んだばぁさんなんて関係無いし、知らなぁい! ね?」
「ああ、そうだ。お前みたいな穀潰しに金を渡してやるだけでもありがたく思えよ。本当、お前、辛気臭いな。書いたんならさっさと出て行け。今日から此方は儂らで住むからな」
「そうそう! ねえ、明日さ、新しい家具買いに行こうね! お洒落なやつね! って事でおばさん邪魔だからさ、お金受け取ったらさっさと消えてねぇ」
指図しながら女は高笑いし、男はおまけの一発を妻にお見舞いして大袈裟に痛い素振りで手を振った。
「なるほど」
猿田彦は男に何を言うでもなく呟く。視線は揺れる炎から逸らされる事は無い。
「いや、あの、これは……」
「黙れ」
猿田彦は慌てる男を一蹴すると、炎の映し出す次の映像を待った。
ゆらりゆらり、炎は揺れる。最期の力で炎が揺れる。
無事に後妻に納まった女は相いも変わらず派手な出立ちであった。白い肢体を浅黒い男の身体に絡ませ、葡萄酒の入った硝子瓶を指差した。息の上がった男は虚空を見上げるだけだが、女は執拗だった。しかし情交が激しかったのか年齢のせいか、男の反応は変わらず鈍い。そんな男を見る目は氷の様に冷たく、女は恥ずかし気も無く全裸で寝床から抜け出すと硝子でできた猿田彦には馴染みのない盃に三分の一程の葡萄酒を注ぎ、男には見えぬ様に何かを混入した。
「ここだ! ここで毒を!」
「……黙れ」
女はにんまりと笑いならが、若い男を招き入れると悶え苦しむ男を無視して若い男を招き入れ抱きついた。
「計画完了だよぉ! ジジイ致死量! あははっ早く出よ。あ、裏口からこっそりね。あたし旅行に行ってる事になってるからさ」
「わぁってるって。悪りぃな、オッサン。嫁さんと遺産はありがたくいただくわぁ」
軽薄に笑う男と、寝台の上で踠き苦しむ男を蔑む様な目で見る女。
「あんたの脂塗れの身体にのし掛かられる度に遺産の事だけ考えてたわぁ。じゃぁねぇ、ダーリン……ぷっ」
けらけらと笑って二人は寝室から出て行った。その背中を見ながら虫の息の男は涙と鼻水と血の混じった涎をだらだらと垂れ流すだけだった。
「……確かに殺されたな」
「で、でしょう! 儂は殺されたんだ! 儂は悪く無い、あの女が悪いんだ!」
「憎いか?」
「当たり前だ! 浮気された挙句殺されたんだ」
「お前が殴っていた女。見覚えがある……裏切られた挙句端金で放り出されて行く当ても無く絶望の果ての自死だったかな……と言う事は、お前も人殺しというわけだ」
一日の事は全て忘れるというのは猿田彦が自身に無意識に課したものだったが、忘れただけで消したわけでは無い。痣だらけで泣きながら全てを伝えた女の記憶を頭の中にある引き出しから出して来たのだ。
「毎日毎日罵られながらも、主人は会社経営で疲れているから八つ当たりなんだと必死に私なりに支えていたつもりです……その結果が……もう何も考えられなくて疲れちゃったんですね……一日も早く楽になりたかったんです……」
無感情に伝える女は目も虚で全身を諦めの感情が包んでいた。猿田彦が自死なら極楽には行けんぞ、と伝えても寂しそうに笑って頷くだけだった。
炎の中の男の目から光が消えると同時に蝋燭の火も消えた。
「殺されたから極楽に行ける? 随分と都合の良い頭だな。お前、自業自得や因果応報という言葉を聞いた事は無いか?」
「いや、あの……しかし、それとこれは別というか……」
「あ?」
猿田彦は幾つかある穴をじっくりと見つめ続け、すっと腕を上げると一つの穴を指差した。
「お前はあそこだ」
「い、嫌だ! 極楽に……」
「行けると思う頭がめでたいな。さっさと行け。俺は忙しい」
吐き捨てると猿田彦は踵を返し、鳥居の前に立つ。
列に並ぶものあれば、石垣に座り頭を抱えるものあり。見慣れた光景が広がる黄泉比良坂に猿田彦は一歩踏み出す。
「思い出したかな?」
問い掛ける声は穏やかだったが、猿田彦は思い出してしまった前妻の記憶を再び頭の中の引き出しに仕舞い込む事にも気を回さねばならなかった。
自分の気持ちが乱れてしまうと、導く先を間違えてしまうかもしれない。そう思うと猿田彦は幽世之神から与えられた使命が如何に重大かを再認識する。
「まだまだ未熟、という事だな」
自嘲する猿田彦は目を閉じた。一瞬ではあるが、何故か今朝の様子を思い出した。
ーーきょとん顔の子に、妙に気合の入った香染、仕切る白藤に笑う幽世之神。漂う美味い料理の匂い。穏やかな、優しい時間ーー
「……ふ、甘ちゃんか、俺は」
撫でる様に柔い風が吹く。猿田彦は平常心を完璧に取り戻した。
「また聞きに来よう」
そしてまた新たな火の消えた蝋燭を持つものの前に立つ。
ひらりひらりと居並ぶもの達の間を縫い問い回り、答えの出たものは迷いなく行くべき場所を指差す。素直に従うものもあれば、やはり抵抗するものもおり、言い聞かせて最終的には放置という形を取り翌日まで留まっているならいつもの如く蹴落とすだけだ。何も変わらぬ使命であり、猿田彦の任義である事に変わりは無い。
「落ち着いたかな? では向こうへ行こうか」
猿田彦の声も心も凪いでいた。全てを振り切り、割り切り、完璧に平常心を取り戻した猿田彦は淡々と仕事をこなしてゆく。
「貴方は、そうだな。あそこだ」
告げられたものは指差す先の穴に向かって歩き出す。背中をちらりと見送り、また迷えるもの達の前に立つ。
何往復も繰り返し、ある程度の迷えるもの達を案内して落ち着いた頃、猿田彦は鳥居の中に入ると、柱にもたれ掛かる様にして座りこんだ。
柱の横にある茂みに隠していた弁当と水筒を取ると懐に入れておいた手拭いを取り出して、水筒から垂らした水で手を拭きそっと手を合わせて包みを広げる。
絞り紋様の風呂敷の中には大きな笹の葉に包まれた大きな握り飯が三つに沢庵の漬物も同数入っていた。少し湿気った海苔を掴む。
「お、鮭か」
米の甘さと共に仄かに広がった独特の風味に思わず声が漏れる。焼き鮭の握り飯は猿田彦の好物でもある。これを入れてくれたという事は白藤の指図か、と一口一口噛み締めながらも思わず頬が緩む。
竹筒の中の水は冷たく、前半の疲れを洗い流してくれる様だった。ふう、と猿田彦の喉が鳴る。
まだ水分を含んだ手拭いで額を拭い、次の握り飯に手を伸ばす。胸の内は具はなんだろうかと子供の様に高鳴っていた。
「ん、梅で和えた昆布! さすが白藤……いや、この結びの強さは香染か? 何にせよ、ありがたい」
美味いな、と独言る猿田彦の顔からは道案内をする時には無いあど気なさすら浮かんで見えた。美味い水を流し込み、美味い握り飯をぱくつく猿田彦の姿を見るものはいない。茂みに隠れながらではあるが昼食時は安息を愉しみたいといつも思っていた。
昼飯を腹に納めてしまったら、また日常が待っている。
辛くは無い、と猿田彦は思う。もう思い出せ無い程長い時間をこの場所で過ごし、彷徨えるもの達の行く先を示し続けたのだ。善くも悪くも無い、と胸の内で呟いて猿田彦は水で口を湿らせて目を閉じた。
黄泉比良坂に生温い風が吹く。猿田彦の再登場を待ち焦がれるものあり、と伝えている様で妙に可笑しくなった。
「いつだって、変わらんだろうに」
猿田彦は広げた弁当を手早くしまうと、立ち上がってぱぱっと尻についた土気を払うと腰に手を当てて大きく伸びをした。
「ご馳走様。では、参ろうか」
猿田彦が昼飯に費やした時間はそんなに長くはなかったはずだが、再び彼が姿を現すと辺りが一斉に安堵と緊張に包まれた。
混沌としたこの場を治める神である猿田彦の存在感が強調される一瞬である。
蝋燭を手に蠢くもの達の前に立つ猿田彦の顔からは先程浮かんでいたあど気なさはすっかり消え去り、凛とした眼差しで眼前を見据える姿には微塵の迷いも見受けられなかった。
ちらほらと手が挙がる。猿田彦はその中でも若干面持ちが穏やかなものの前に立つ。
「思い出されたな? ならば参ろうか」
「よろしくお願い致します」
綺麗なお辞儀をした女性は素直に猿田彦の後に従った。
所作や言葉遣いからしてしっかりと教養を身に着けた人生を送ったのだろう、と思いつつ鳥居を潜った後に再び灯った炎を覗き込む。裕福な家に産まれ、理想的な家庭で育ち、青春と言われるものを謳歌し、誰もが羨む家庭を築き、子宝に恵まれ、歩道橋を降りる彼女の背に迫る銀色に輝く装飾品を巻いた手……。
「……無念であろう?」
「我が子の成長を見守れない事と、今後どういう扱いをされてしまうのかは気になりますが……夫の不貞を知りつつも問い詰められなかった私が臆病だったのです。家庭を守りたいが為に我が子を不幸にしてしまいました……ふふ、我が子に会えて幸せな人生でしたけれど、男性を見る目はどれだけ勉強しても養えませでしたねぇ」
哀しく笑う女はそっと目尻を指で拭い、涙の残る目で猿田彦を見上げた。
「貴女はそう考えるのだな……うん、そうか……ならば向かって左の手前の場に行かれよ」
「はい。愚かな母でございました。それだけは娘に謝りたいと思います」
胸を押さえて声を振るわせる女は、再び猿田彦に頭を下げるとしっかりとした足取りで示された場所へと歩き出した。
いずれあの背を押した者も此方へ来るだろう。その時、素直に罪を罪として認めるか抗うか。猿田彦は離れて行く背中を見つめ、考える事を止めた。
踵を返し、鳥居の向こう側へと向かう。
問い掛け、鎮め、宥める。集まる者たちを導き、やるべき事を淡々とこなしていく。
時折聞こえくる鳥居の奥からの悲痛な叫びや慟哭は無視して、目の前で行く先が定まらずに不安定になっているもの達に寄り添い手を引く。繰り返し、繰り返し、繰り返し……。
「本日、ここまでと致す」
手を打ち鳴らし宣言した猿田彦は、思い出せずに蹲るもの達を尻目に奥へと消える。
茂みに隠した包みを懐に入れ、最奥の崖の周りをぐるぐると這っている魂を迷いなく蹴り落としてく。ある程度の数を蹴落としつつ神域に入ると池の主が労いの言葉をいつもの様に掛けてくる。
「お疲れさん、旦那」
「ああ、ただいま」
「チビっ子は元気で良いねぇ」
目を細めた池の主の一言に猿田彦は首を傾げた。
しかしながら、今日はいつもと違うようだと慣れた道を進みながら昨日告げたとおり、穴に入れずにぐるぐると這い回っているもの達を蹴落としつつ進む猿田彦は向こう側の異変を明確に認識した。
明確な殺意が肌を刺してくるのだーーああ、骨が折れそうだ、と呟いて彼は石鳥居を潜った。
「死ね! 人間は全て死ね! いや、殺す……殺してやる!」
そこには頸に消えた蝋燭を乗せた犬らしき獣がいた。
死した姿をそのままに全身が焼け爛れ、有らぬ方向に捻れた後ろ足が何とも痛々しい。身体つきからどうにか犬であろうと思われる程痛めつけられて死に至ったようだ。その犬の人間へ向ける敵意で怯える人間の悲鳴とが相まって、そこは地獄よりも悍ましい地獄絵図となっていた。
鳥居を背に向き合ったもの達に牙を剥き吼える獣に怯え、鳥居の前に並ぶ人間は大きく後退り恐怖に支配されている。
猿田彦は真っ先に荒ぶる犬の元へと行き、暗澹たる気持ちを振り払い、皮膚が剥がれ剥き出しの肉と骨の頭に触れて腹に力を込めた。
「鎮まれ」
重く低い猿田彦の声に耳をぴくりと動かすと、向き直った獣はぐるるっと威嚇の喉鳴りの後、憎しみに満ちた眼で爛れた獣は猿田彦の手を睨みつけたまま振り払った。
「貴様も、人間かぁ! 触るな! 殺す、殺す、殺す!」
「やれるものならば、やるがよかろう。哀れな獣よ。お前はその思いを変える事は無いか?」
「笑止! 人間など爪も牙も持たぬくせに知恵だけは回る下劣で傲慢かつ脆弱な生き物! のし上がり、好き勝手に他者の生命を左右するとは片腹痛い! 死すべし、死すべし! 殺す殺す殺す殺す! 滅べ! 死に絶えよ!」
「……そうか。では、お前の行き先は決まった」
指し示したとて言う事は聞いてはくれまい、と猿田彦は生命の灯火の消えた蝋燭の乗った首根っこを掴むと、鳥居の奥へとずんずんと迷いなく進む。ばたばたと逃げようと暴れるも猿田彦からしてみれば手を放す程の力ではなかった。そのまま暴れ、吼え、憎しみのみを繰り返す獣を最奥にある穴の前まで運ぶと、そこで足を止め、此方だ、と呟いて爛れ異臭を放つ犬を穴へと放り込んだ。
底も見えぬ穴に落ちながらも人間を、そして猿田彦を恨む声は消える事なく闇に呑まれて消えた。
ふう、と思い溜め息をついた猿田彦はおチビさんがいなくて良かったと思っている自分に気づいて妙な気持ちになった。これは与えられた使命であり、死後の道先を指し示すという名誉ある役割であり、子が側にいようと同じ事をしたであろう確信はあるのに、何故か今この瞬間は幽世之神が相手をしているという事に安堵している自分がいた。
「無垢も……罪よな」
あの真っ直ぐな目で見られると心の奥に我知らずいつの間にか抱え込んだ澱みを見透かされそうで怖いのだと、この時の猿田彦には思いつきもしなかった。
ただこうする事が必要で、そうしなければ周りのまだ火も消えていないもの達の火すら萎縮して消えてしまっただろう。
誰からも責められる謂れの無い必要な行動であるにもかかわらず、何故か猿田彦の心は暗い。
自分でも理解できない胸の重さを打ち消すために足早にその場から離れた。足元が薄ら明るくなってゆくにつれ、猿田彦は無意識に下げていた視線を戻し、姿勢を正しいつもの凜とした表情へと戻す。
鳥居の前で手を打ち鳴らすと、此方へ視線を向けたもの達へと高らかに宣言する。
「怒れる獣の行き先は既に決まり、此方へ戻る事はなし。各自、今一度心を落ち着け、己が胸の内と向き合って頂きたい!」
遠く離れたものの耳にも届く様に一言一句はっきりと何事もなかったかの様に届いた猿田彦の声に、距離を空けていたもの達は恐る恐る鳥居の前に再び集り始めた。
恐怖で縮こまった魂魄からじんわりと緊張が抜けてゆくのを感じながら、猿田彦はほっとしつつも顔に出さぬ様敢えていつも以上に堂々と胸を張って姿勢正しく立ち、怯えていたもの達に威厳を見せつける。
この場所では微々たる恐怖や不安は当たり前にあるものだ。そしてそれを少しでも薄め安らかにするのは、神である猿田彦の絶対的に安定した気配と存在感だ。
「今暫く時間を許されているものは蝋燭と相談しつつ心を落ち着かせるのに尽力し、時間のなきものは心が落ち着いたものから手を挙げるなり、私の前に来るなりして頂きたい」
少し力の抜けた猿田彦の声が漣の様に辺りに広まってゆくと、更に集まったもの達は穏やかさを取り戻していった。
猿田彦が鳥居の前で腕を組んで立っていると、そっと手を上げるものがいた。視界に入った手の持ち主の元へ赴くと、言い慣れた言葉を口にする。
「何があったか、言えるかな?」
「あ、やばかったね! 死んでもやばいって思うもんなんだね、お兄さん、ありがと。あのね、あたし昨日からずっと思い出そうとがんばってたんだけどさぁ」
勢いよく話し出したのは昨日錯乱して猿田彦に髪を掴まれた女だった。
「がんばって思い出して……笑っちゃった。あたし、なんであんな顔が良いってだけであそこまで男に入れ込んでたんだろうって。それにさぁ……あいつだってそれで生活してんだもんね、恨むあたしが馬鹿だって事だよね。ふふ、ホストにマジ恋だなんてほんと馬鹿だなぁ、あたし。自分が同じ事されたらめっちゃ嫌だったのに、もっと酷い事しようとした……」
元気良く話し出したかと思えば、声がどんどん沈んでゆく。猿田彦には解らない単語が幾つかあったが、それはそれとして今後には関係なさそうだとそのまま女の口が閉じるのを待つ。
「……お兄さん、あたし、地獄で良いよ。てか、地獄が良いと思う。あ! 地獄行ってもさ? 時間が経ったら産まれ変わりとかできる?」
身長差から上目遣いで猿田彦を見遣る目つきに先日のような怨嗟や憤りのような邪な色は無い。純粋に問うているだけに見えた。
「時が経ち、穢れと化し身体にへばりついたお前が犯した罪が綺麗に落ちた時、その道が開けようよ。心決まったのならば行こうか」
差し出した猿田彦の手を女は穏やかな顔で掴む。まるで昨日とは別人の様だとさえ思う程に女は落ち着いていて、微笑んでさえいる。
「……何故、笑う?」
「んー? わっかんないけど、わっかんないけどさ。いつかは産まれ変われるみたいだし、その時はね今回みたいな馬鹿しないでさ、もっとちゃんと幸せになりたいなぁって思ったら笑ってた」
その顔に他意はなく、鳥居を潜った後も自らが望んだ地獄への暗い道を微笑みを絶やさずに進んでいる。
「お前は、此方だな」
「え? もうついたの? 早くない?」
驚いて顔を上げた女は最奥を指差して、あっちじゃないの? と首を傾げている。
「あそこは地獄よりも更に長く苦しむ救いの無い場所。だからお前は此方だ」
「やば。死んだら天国か地獄しか無いと思ってたから二択じゃんって思ってたけど、ガチのあの世ってこんなに選択肢あるんだね。それをお兄さんが振り分けてるって事かぁ……しんどいね……お兄さんが此方って言うなら此方なんだね。んで、昨日はごめんね! で、ありがとね」
女は笑って猿田彦に手を振ると、納得した表情で示された穴へと降りて行った。
しんどいねの言葉が猿田彦の胸に小さな陰を残す。解らんな、と呟いて踵を返し鳥居を目指す。鳥居の向こうではもう既に何人かが手を挙げて猿田彦の帰りを待っていた。だからといって歩を早めるわけでもなく猿田彦の歩調は変わらない。
穏やかな死、無念の死、思い出される死に至るまでの人生に耳を傾ける為に猿田彦は本日もまた足裏に砂利の感触を覚えながらこの道を何往復もするのだ。生前とは打って変わって、時の流れの速さが違うこの場所で急いても無意味だ。此方で猿田彦が急いてしまった結果、蝋燭を持つもの達をも急かしてしまう事の方が厄介なのだ。ただでさえ曖昧な所から遡る記憶だ、虚飾が混じるのは何よりも避けねばならない。要らぬ焦りは禁物、要らぬ感情の伝搬は躊躇う事なく力を以って捻じ伏せる。時間なら有り余る程にあると猿田彦は鳥居の向こうから伝わってくるもの達の気配を感じ取ろうとし、一旦足を止めて目を閉じて大きく息を吸う。獣の騒動から暫しの時間も経ち、恐怖の抜けた場の匂いを肌で感じ取った。
「やっと戻った平穏、かな」
呟きと共に目を開けた猿田彦は再び歩き出し、蝋燭を抱えた大勢の前に姿を現した。
猿田彦の姿を目にしたもの達は乱雑ながらも列を成し始める。列に入らぬものは蝋燭を見つめ、脇の石に腰をおろし虚な目をしている。覚悟が決まれば列に加わるだろうし、決まらねば猿田彦が語り掛ければ良いだけの話だ。
何が起ころうとも、時経てば全ては元に戻るーーそう思いながら猿田彦は目の前の老婆にしゃがみ込んで声を掛けた。
「思い出したかな?」
「それが、どうしてだか蝋燭の勢いが……」
「ああ、どうやら貴女の生命は再び繋がれた様だね。ではこの列に逆らって進みなさい」
「おや、そうなのかい? でも近いうちにまた此方に来そうだねぇ」
「その時は、またその時」
「神様に二回も会えるなんてありがたいねぇ。しかも何とも良い男と来たもんだ。死ぬ前に目の保養ができてあたしゃ幸せですよ」
手を合わせて猿田彦を拝む老婆の姿に苦笑いが洩れる。拝んだまま動かない老婆の肩を叩いて、行くべき生きるものの世界を指す。
「さあ、行かれよ。黄泉帰り、だ」
「次の時はよろしくお願いしますよ」
「ああ、任されよ」
何度も頭を下げつつ、老婆は歩き出した。
戻った先が意識も無い寝たきりなのか、周囲の人間と意思疎通ができるのかは関係無い。生命が戻ったのならば、此方にいる必要は無い。猿田彦はゆっくりと去って行く老婆を見送り一息ついた。
最近、こうして黄泉帰りを果たすものが人間も人間に飼育されている動物も増えた。小耳に挟んだところでは、生きるものの知恵がそうさせているのだという。
「死すべき時に死す、その機を人の術で延ばすのは果たして意味なき事か、意味ある事か……」
時の流れと人の術の変化について猿田彦は何の文句も無いが、生きるものの世界に対してさして興味の無い彼の胸中には僅かな疑問しか残らない。
「一分一秒を生き永らえても、その後の長さは変わる事はないのになぁ……何なら声にならない苦痛が長引く事もあるというのに……」
解らんな、と頭を掻いて猿田彦は気持ちを切り替えて再び蝋燭の消えたものの前に立つ。
神様、と足首に縋ってくる男に目を落とすと、男はあからさまに安心した様な表情になった。
「儂の話を聞いてくれ! 思い出した、思い出したんじゃ! 後妻に毒を盛られた! あいつは若い男と……」
「後妻がどうなろうと、此方におらぬのならばどうでも良い。お前の話が聞ければそれで良い」
「聞いてくれ、聞いてくれ! 儂は殺されたんじゃ!」
「ほう? 蝋燭を持って鳥居を潜られよ」
「殺されたんだ、極楽に行ける、極楽じゃ!」
手を叩いて喜ぶ男と共に鳥居を潜った猿田彦はぐいっと首を伸ばして男の持つ蝋燭を覗き込む。同時に死後の灯火の中に映し出される生前の男の所業に猿田彦は眉間に皺を寄せた。
灯火の中の男は若く、縋りつく妻と思われる女を突き飛ばして床に倒れた女の腹に蹴りを入れている。
「ほう」
ゆらりと炎が揺れると、男が妻とは違う女の肩を抱いて煌びやかな建物に入って行く。よく似た場面が何度も繰り返され、その度に相手の女は違ったが、男のにやけた顔は老いてはゆくものの変わりはなかった。
じりり、と芯が音を立てる。すると場面が変わり随分と白髪の増えた妻が自宅と思しき空間で、卓に肘をつき顔を覆って泣いている。彼女の前には男と着飾った女が座り、タバコを咥え煙をわざと吹き掛けていた。
白藤とも香染とも違う長い爪に猿田彦はこれで満足に家事のひとつもできないだろうと訝しんだ。その女は妻の前でこれ見よがしに男にしなだれて、目の前で泣く女をせせら嗤っている。派手な女は大きな音を立てて卓の上に紙を置く。男は眼前に座る泣いている妻に向かって捩れたタバコと万年筆を投げつけた。手の甲に当たった万年筆は跳ね返り、机の上を転がった。それでも泣き続ける妻の傍に立つと男は拳を振り上げ、容赦なく振り下ろした。幾度目かの殴打の痕、顔中を痣だらけにさせて口の端から血を流した妻は震える手で万年筆を手に取った。炎を見る猿田彦を困惑が包んだ。
目の前で何かに書き込みをしている妻を見た女は細長い機械を耳に当て、一人話し出す。暫くすると強面の若い男達が数名ずかずかと挨拶もなく入り込み、次々と女が指差す家具やらを外へと運び出した。
「高く売れると良いねぇ? あんたへの手切金になるんだからさ。あ、それも何か勿体無いから迷惑料って事で貰ってあげるわね」
「やめてください! あれは祖母の形見なんですよ!」
「え? 死んだばぁさんなんて関係無いし、知らなぁい! ね?」
「ああ、そうだ。お前みたいな穀潰しに金を渡してやるだけでもありがたく思えよ。本当、お前、辛気臭いな。書いたんならさっさと出て行け。今日から此方は儂らで住むからな」
「そうそう! ねえ、明日さ、新しい家具買いに行こうね! お洒落なやつね! って事でおばさん邪魔だからさ、お金受け取ったらさっさと消えてねぇ」
指図しながら女は高笑いし、男はおまけの一発を妻にお見舞いして大袈裟に痛い素振りで手を振った。
「なるほど」
猿田彦は男に何を言うでもなく呟く。視線は揺れる炎から逸らされる事は無い。
「いや、あの、これは……」
「黙れ」
猿田彦は慌てる男を一蹴すると、炎の映し出す次の映像を待った。
ゆらりゆらり、炎は揺れる。最期の力で炎が揺れる。
無事に後妻に納まった女は相いも変わらず派手な出立ちであった。白い肢体を浅黒い男の身体に絡ませ、葡萄酒の入った硝子瓶を指差した。息の上がった男は虚空を見上げるだけだが、女は執拗だった。しかし情交が激しかったのか年齢のせいか、男の反応は変わらず鈍い。そんな男を見る目は氷の様に冷たく、女は恥ずかし気も無く全裸で寝床から抜け出すと硝子でできた猿田彦には馴染みのない盃に三分の一程の葡萄酒を注ぎ、男には見えぬ様に何かを混入した。
「ここだ! ここで毒を!」
「……黙れ」
女はにんまりと笑いならが、若い男を招き入れると悶え苦しむ男を無視して若い男を招き入れ抱きついた。
「計画完了だよぉ! ジジイ致死量! あははっ早く出よ。あ、裏口からこっそりね。あたし旅行に行ってる事になってるからさ」
「わぁってるって。悪りぃな、オッサン。嫁さんと遺産はありがたくいただくわぁ」
軽薄に笑う男と、寝台の上で踠き苦しむ男を蔑む様な目で見る女。
「あんたの脂塗れの身体にのし掛かられる度に遺産の事だけ考えてたわぁ。じゃぁねぇ、ダーリン……ぷっ」
けらけらと笑って二人は寝室から出て行った。その背中を見ながら虫の息の男は涙と鼻水と血の混じった涎をだらだらと垂れ流すだけだった。
「……確かに殺されたな」
「で、でしょう! 儂は殺されたんだ! 儂は悪く無い、あの女が悪いんだ!」
「憎いか?」
「当たり前だ! 浮気された挙句殺されたんだ」
「お前が殴っていた女。見覚えがある……裏切られた挙句端金で放り出されて行く当ても無く絶望の果ての自死だったかな……と言う事は、お前も人殺しというわけだ」
一日の事は全て忘れるというのは猿田彦が自身に無意識に課したものだったが、忘れただけで消したわけでは無い。痣だらけで泣きながら全てを伝えた女の記憶を頭の中にある引き出しから出して来たのだ。
「毎日毎日罵られながらも、主人は会社経営で疲れているから八つ当たりなんだと必死に私なりに支えていたつもりです……その結果が……もう何も考えられなくて疲れちゃったんですね……一日も早く楽になりたかったんです……」
無感情に伝える女は目も虚で全身を諦めの感情が包んでいた。猿田彦が自死なら極楽には行けんぞ、と伝えても寂しそうに笑って頷くだけだった。
炎の中の男の目から光が消えると同時に蝋燭の火も消えた。
「殺されたから極楽に行ける? 随分と都合の良い頭だな。お前、自業自得や因果応報という言葉を聞いた事は無いか?」
「いや、あの……しかし、それとこれは別というか……」
「あ?」
猿田彦は幾つかある穴をじっくりと見つめ続け、すっと腕を上げると一つの穴を指差した。
「お前はあそこだ」
「い、嫌だ! 極楽に……」
「行けると思う頭がめでたいな。さっさと行け。俺は忙しい」
吐き捨てると猿田彦は踵を返し、鳥居の前に立つ。
列に並ぶものあれば、石垣に座り頭を抱えるものあり。見慣れた光景が広がる黄泉比良坂に猿田彦は一歩踏み出す。
「思い出したかな?」
問い掛ける声は穏やかだったが、猿田彦は思い出してしまった前妻の記憶を再び頭の中の引き出しに仕舞い込む事にも気を回さねばならなかった。
自分の気持ちが乱れてしまうと、導く先を間違えてしまうかもしれない。そう思うと猿田彦は幽世之神から与えられた使命が如何に重大かを再認識する。
「まだまだ未熟、という事だな」
自嘲する猿田彦は目を閉じた。一瞬ではあるが、何故か今朝の様子を思い出した。
ーーきょとん顔の子に、妙に気合の入った香染、仕切る白藤に笑う幽世之神。漂う美味い料理の匂い。穏やかな、優しい時間ーー
「……ふ、甘ちゃんか、俺は」
撫でる様に柔い風が吹く。猿田彦は平常心を完璧に取り戻した。
「また聞きに来よう」
そしてまた新たな火の消えた蝋燭を持つものの前に立つ。
ひらりひらりと居並ぶもの達の間を縫い問い回り、答えの出たものは迷いなく行くべき場所を指差す。素直に従うものもあれば、やはり抵抗するものもおり、言い聞かせて最終的には放置という形を取り翌日まで留まっているならいつもの如く蹴落とすだけだ。何も変わらぬ使命であり、猿田彦の任義である事に変わりは無い。
「落ち着いたかな? では向こうへ行こうか」
猿田彦の声も心も凪いでいた。全てを振り切り、割り切り、完璧に平常心を取り戻した猿田彦は淡々と仕事をこなしてゆく。
「貴方は、そうだな。あそこだ」
告げられたものは指差す先の穴に向かって歩き出す。背中をちらりと見送り、また迷えるもの達の前に立つ。
何往復も繰り返し、ある程度の迷えるもの達を案内して落ち着いた頃、猿田彦は鳥居の中に入ると、柱にもたれ掛かる様にして座りこんだ。
柱の横にある茂みに隠していた弁当と水筒を取ると懐に入れておいた手拭いを取り出して、水筒から垂らした水で手を拭きそっと手を合わせて包みを広げる。
絞り紋様の風呂敷の中には大きな笹の葉に包まれた大きな握り飯が三つに沢庵の漬物も同数入っていた。少し湿気った海苔を掴む。
「お、鮭か」
米の甘さと共に仄かに広がった独特の風味に思わず声が漏れる。焼き鮭の握り飯は猿田彦の好物でもある。これを入れてくれたという事は白藤の指図か、と一口一口噛み締めながらも思わず頬が緩む。
竹筒の中の水は冷たく、前半の疲れを洗い流してくれる様だった。ふう、と猿田彦の喉が鳴る。
まだ水分を含んだ手拭いで額を拭い、次の握り飯に手を伸ばす。胸の内は具はなんだろうかと子供の様に高鳴っていた。
「ん、梅で和えた昆布! さすが白藤……いや、この結びの強さは香染か? 何にせよ、ありがたい」
美味いな、と独言る猿田彦の顔からは道案内をする時には無いあど気なさすら浮かんで見えた。美味い水を流し込み、美味い握り飯をぱくつく猿田彦の姿を見るものはいない。茂みに隠れながらではあるが昼食時は安息を愉しみたいといつも思っていた。
昼飯を腹に納めてしまったら、また日常が待っている。
辛くは無い、と猿田彦は思う。もう思い出せ無い程長い時間をこの場所で過ごし、彷徨えるもの達の行く先を示し続けたのだ。善くも悪くも無い、と胸の内で呟いて猿田彦は水で口を湿らせて目を閉じた。
黄泉比良坂に生温い風が吹く。猿田彦の再登場を待ち焦がれるものあり、と伝えている様で妙に可笑しくなった。
「いつだって、変わらんだろうに」
猿田彦は広げた弁当を手早くしまうと、立ち上がってぱぱっと尻についた土気を払うと腰に手を当てて大きく伸びをした。
「ご馳走様。では、参ろうか」
猿田彦が昼飯に費やした時間はそんなに長くはなかったはずだが、再び彼が姿を現すと辺りが一斉に安堵と緊張に包まれた。
混沌としたこの場を治める神である猿田彦の存在感が強調される一瞬である。
蝋燭を手に蠢くもの達の前に立つ猿田彦の顔からは先程浮かんでいたあど気なさはすっかり消え去り、凛とした眼差しで眼前を見据える姿には微塵の迷いも見受けられなかった。
ちらほらと手が挙がる。猿田彦はその中でも若干面持ちが穏やかなものの前に立つ。
「思い出されたな? ならば参ろうか」
「よろしくお願い致します」
綺麗なお辞儀をした女性は素直に猿田彦の後に従った。
所作や言葉遣いからしてしっかりと教養を身に着けた人生を送ったのだろう、と思いつつ鳥居を潜った後に再び灯った炎を覗き込む。裕福な家に産まれ、理想的な家庭で育ち、青春と言われるものを謳歌し、誰もが羨む家庭を築き、子宝に恵まれ、歩道橋を降りる彼女の背に迫る銀色に輝く装飾品を巻いた手……。
「……無念であろう?」
「我が子の成長を見守れない事と、今後どういう扱いをされてしまうのかは気になりますが……夫の不貞を知りつつも問い詰められなかった私が臆病だったのです。家庭を守りたいが為に我が子を不幸にしてしまいました……ふふ、我が子に会えて幸せな人生でしたけれど、男性を見る目はどれだけ勉強しても養えませでしたねぇ」
哀しく笑う女はそっと目尻を指で拭い、涙の残る目で猿田彦を見上げた。
「貴女はそう考えるのだな……うん、そうか……ならば向かって左の手前の場に行かれよ」
「はい。愚かな母でございました。それだけは娘に謝りたいと思います」
胸を押さえて声を振るわせる女は、再び猿田彦に頭を下げるとしっかりとした足取りで示された場所へと歩き出した。
いずれあの背を押した者も此方へ来るだろう。その時、素直に罪を罪として認めるか抗うか。猿田彦は離れて行く背中を見つめ、考える事を止めた。
踵を返し、鳥居の向こう側へと向かう。
問い掛け、鎮め、宥める。集まる者たちを導き、やるべき事を淡々とこなしていく。
時折聞こえくる鳥居の奥からの悲痛な叫びや慟哭は無視して、目の前で行く先が定まらずに不安定になっているもの達に寄り添い手を引く。繰り返し、繰り返し、繰り返し……。
「本日、ここまでと致す」
手を打ち鳴らし宣言した猿田彦は、思い出せずに蹲るもの達を尻目に奥へと消える。
茂みに隠した包みを懐に入れ、最奥の崖の周りをぐるぐると這っている魂を迷いなく蹴り落としてく。ある程度の数を蹴落としつつ神域に入ると池の主が労いの言葉をいつもの様に掛けてくる。
「お疲れさん、旦那」
「ああ、ただいま」
「チビっ子は元気で良いねぇ」
目を細めた池の主の一言に猿田彦は首を傾げた。
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