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第四章 祈りを繋ぐ道
第十四話 白い世界でただ独り
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「いきなりで悪いけど、倒させてもらうわよ。『魔王』」
倒すべき敵。倒さなければならない敵。
存在してはならない悪をその目に映し、ステラの怒りの炎はどんどん燃え上がっていく。
リーベを、『海鳴騎士団』を傷付けた怒り。それらの怒りに振るえるステラを、ヘルハウンドは冷めた目で見下ろしている。
「アホが」
溜息交じりの小さな呟きで、大気が震えた。
もちろん、実際に震えた訳ではない。錯覚だ。そう錯覚させるだけの圧力をヘルハウンドは持っている。気迫は凄まじく、魔力は膨大。だが、それがどうした。そんなものがステラを退かせる理由になどなりはしない。
歴史に名を刻んだ怪物をここで殺す。巨悪に再び滅びを与えるのは己の血潮だ。
呼吸を整え、心を研ぎ澄ます。『武』へと意識を向け、それ以外の雑念を全て取り払う『武心』の呼吸。雑念だけでなく余計な力も取り払い、ステラは流れるようにヘルハウンドの腹に拳を叩きこんだ。
「くっ‼」
先制攻撃は見事直撃。しかしヘルハウンドはびくともしない。
重く、そして硬い。見た目通りの鋼の身体と山のような安定感。『武心』で強化しただけの拳の衝撃は内側まで届かない。拳を腹に当てたまま動かないステラの頭に、ヘルハウンドは爪を降り下ろそうとする。
「避けろ‼」
ブレイブの叫びが耳に入り、ステラは急ぎヘルハウンドから離れ、辛うじて爪を回避する。あと一歩離れるのが遅ければ頭を砕かれていた。なんとか死を免れたステラにブレイブは駆け寄り、その背中を平手で叩く。
「いたっ‼」
「何してんだお前‼ さっさと逃げろ‼」
「逃げる事なんて出来ないわ‼ あいつはリーベを、私の友達を傷付けた奴の一人で、私達『魔神の庭』の討伐対象なの‼ だからあいつは」
「だとしてもお前には勝てねぇよ‼ お前はさっさと逃げて仲間と他の『白雪の森』の奴ら呼んで来い‼ 俺が時間を稼ぐ。その隙に行け‼」
でも、と躊躇うステラを無視してブレイブはヘルハウンドに突進する。
真っ直ぐに向かってくるブレイブを、ヘルハウンドは口を開けて迎え撃とうとする。ブレイブを喰らう気だ。
ヘルハウンドの目を見れば分かる。ヘルハウンドがブレイブを見る目は、対等な敵に向けるものでも、見下すようなものでもない、獲物を見つけた飢えた肉食獣の目だ。
「ブレイブ‼」
足を止める事無く、臆さずヘルハウンドに向かっていくブレイブにステラが手を伸ばす。
その時、あと一歩で激突する所で、両者の間に黒い光が降ってきた。光が降ってきた衝撃でブレイブは吹き飛び、ヘルハウンドは降ってきた光に対し舌打ちをして、口を閉ざす。
「何?」
「どうゆうこった・・・」
光が収まると、その中から黒い三角棒を被った小人が現れる。
暗い表情の、かろうじて瞳が見える程度に開かれた白い目が特徴的なその小人の名は
「フスティーシア、てめぇ何しやがんだ‼」
フスティーシア。
『白雪の森』の『七人の小人』の最後の一人。
現れた黒い小人は、哀しい眼をしていた。
瞳はかろうじて見えるか見えないか程度にしか、その瞼は開かれていない。それでも、その瞳が宿すものが希望などではない事を見る者に伝わる程に、フスティーシアの瞳に宿る哀しみの色は濃いものだった。
ヘルハウンドと自身との間に割って入ったフスティーシアに、ブレイブは額に青筋を浮かべて問う。
「おい、フスティーシア、てめぇ今何で邪魔した? 何でだ? あ? 理由があるなら言ってみろ」
「理由? レッドは知ってるだろ? ブラックが正義の味方だって」
「正義? 俺の邪魔してその『魔王』の味方をする事がか?」
「いいや、違う。ブラックが味方をするのはサタンじゃない。『夜天の箱舟』だ」
フスティーシアの口から飛び出したギルドの名前に、ステラとブレイブは目を見開く。
『夜天の箱舟』、それは『サルジュの森』を襲撃しレアルの『幻夢楽曲』を奪った、『白雪の森』にとって許せぬ筈の存在。そのギルドの見方をすると、フスティーシアはそう言ったのだ。
「冗談ならもうやめとけ。俺は笑えない冗談が好きじゃねぇんだ」
静かに、怒気を含んだ声でブレイブが忠告すると、フスティーシアは黙ってヘルハウンドから離れる。
やはり嘘だったのだ、『夜天の箱舟』の味方をするなど。タイミングと性質が悪い冗談だったんだと、ブレイブが思った直後、フスティーシアは黒い光でブレイブの胸を貫いた。
「ブラックは嘘は言わない。嫌われるような、残酷な言葉も全部本当だ」
血を吐き、倒れるブレイブに、自分が言った事は嘘ではない事を告げ、倒れるブレイブを黒光を纏った足で彼方まで蹴り飛ばす。
「ブレイブ‼」
放物線を描いて飛んでいったブレイブの名をステラが叫ぶと、背後から獣の唸り声がして、ヘルハウンドの鉄槌の如き拳が降り下ろされる。重い一撃を反射神経と直感のみで両腕で防ぎ、ステラは歯を食いしばる。
大岩がのしかかっているような重量感。少しでも気を抜けば潰される。
「大変そうだね」
防御の姿勢から動けぬステラに、フスティーシアがゆっくりと歩み寄る。
仲間を裏切り、傷付けた小人に、ステラは憎悪の眼差しを向ける。真正面から敵意をぶつけられ、フスティーシアは薄い目を閉じて下を向く。
「悪かったよ。そんなにブラックを睨まないでくれ。正義の為に必要な事だったんだ」
「正義正義って、あんたの言う正義って何なの? 『夜天の箱舟』なんかの味方をして、何をしようって言うの?あんたは、何がしたいの?」
正義という言葉から最も遠い存在である『夜天の箱舟』。
そんな奴らの味方をする事が、どうして正義に繋がるのか。その真意は
「世界を作り変える」
「世界? ぐっ・・・‼」
ヘルハウンドが掛けてくる重量が増し、ステラは押し潰されそうになる。力むステラにフスティーシアは小さく手を振って、その場から離れようとする。
「待ちなさい‼ 話はまだ」
「ブラックは忙しいんだ。レッドはまだ生きてるだろうから、殺しにいかないといけない。君はどうせサタンに殺される。万が一サタンに勝っても君は死ぬ」
だって
「今日で滅びるんだから、『サルジュの森』も、『魔神の庭』も、『白雪の森』も。もちろん、君も」
「なんですって・・・」
「そうゆう事だから、ブラックはもう行くよ。あとはよろしくね、サタン」
黒い光を身体から発し、フスティーシアはブレイブが飛んでいった方に向かっていた。
光速で去っていたフスティーシアを引き止める事はできず、ステラの身体に更に重圧が掛かる。
「うぐぐぐぐ・・・‼」
「アホが。他の事に気を取られてんじゃねぇよ。そんなんで俺に勝てると思ってんのか小娘が」
「えぇ、そうね・・・あいつの事は一旦後・・・今は‼」
ヘルハウンドの拳を弾き、ステラはその首に右足で回し蹴りを叩きこむ。
紅い踵が首に突き刺さるが、ヘルハウンドは眉一つ動かさない。足を掴まれる前にステラは右足を地面に下し、そのままヘルハウンドの鳩尾に拳をねじ込む。
「あんたを倒す‼」
「やれるもんならやってみろ、アホが」
余計な事を考えるのはやめ、ステラはヘルハウンドのみに意識を向ける。
重症を負い、吹き飛ばされたブレイブの事は気がかりではあるが、『魔王』は他の事に意識を取られて勝てる相手ではない。
今ステラにできる事は、ブレイブの無事を信じ、自分一人でヘルハウンドを倒す事だ。
「はあっ‼」
爪先でヘルハウンドの顎を蹴り上げ、脇腹に膝蹴りを叩き込み、腹筋に肘打ちを食わせる。
流れるような連続攻撃が決まるが、ヘルハウンドを傷付けるどころか動かす事すら出来ない。むしろ、攻撃に用いた箇所が痛みに痺れた。
『武心』だけでヘルハウンドの鋼の肉体は打ち破れない。ならば、それを打ち破る強い武器を使えばいい。たとえば、全てを穿つ『剣』とか。ステラはそれを持っている。その『剣』の名は
「『穿剣』‼」
拳に魔力を集中し、ステラはヘルハウンドの胸の中央、心臓を思い切り殴る。
全てを破壊する一撃が炸裂し、ヘルハウンドの顔が初めて苦悶に染まる。効果あり。このまま内側から壊れて倒れれば――――・・・
「ってぇな」
勝利への期待は、低い声の呟きで簡単に掻き消される。
直後、ステラの眼前に自分の顔を覆える程大きなヘルハウンドの手が近付いて、額を指で弾かれ一直線に吹き飛ぶ。遠くにあったモミの木に頭から激突して、二度大きな衝撃が頭部に加わった事で、ステラの意識は朦朧とする。
額からは血が流れ、その中にある頭蓋骨が酷く痛む。ヒビが入ったか、それとも折れたか、折れていれば脳を損傷させる危険性があるが、そんな事より
「立たな、いと・・・」
一刻も早く立ち上がらなければならない。
立たなければ、確実に死ぬ。足音が、聞こえる。雪を踏んで自分に近付いてくる悪夢の、死の足音が。
一歩ずつ、ゆっくりと、段々と近付いてくるのは、死であると同時に、ステラが倒すと決めた相手だ。
「――――っ、そう、よ」
何が何でも倒す。
絶対に、必ず倒すと、そう決めたのは他でもないステラだ。
自分で決めた事を成す。有言実行、二言は無い。
「ん?」
ゆっくりと立ち上がったステラにヘルハウンドは目を細める。
木に手を付いて立つのがやっとの様子で、自分を見る瞳はぼんやりとしている。指弾一発で限界近くまで追い込まれたみたいだが
「それでも立ってるだけ、人間にしちゃ大したもんだ」
ヘルハウンドの指弾を食らえば、たとえ歴戦の戦士だろうと頭部が吹き飛ぶ。
豆腐かおがくずみたいにいとも容易く。それを考えれば、ヘルハウンドの言う通り、立ってるだけ、頭部が残ってるだけ賞賛に値するが
「足りねぇな。俺が喰らうにしても、俺を倒すにしても」
ヘルハウンドは強者の肉を好んで喰らう。
自己を高めようと努力し、鍛錬を重ね、強さを極め頂きに辿り着こうと、それだけの為に何年、何十年と生きた者の肉は上手い。
強さは肉の質を向上させる。これまで何百、何千、何万と多くの命を喰らってヘルハウンドが見出した職の哲学だ。だが、目の前の少女はその哲学に当てはめれば、とても美味な肉とは言えない。
弱く、脆く、小さく、浅く、威勢だけの小娘。喰らうに値しない雑味だらけの肉。ヘルハウンドを倒すにしても何もかもが足りない事は言うまでもない。
「『魔神』、『鬼殺し』、『竜殺しの英雄』、『万象の精霊術師』、『鏡月の牙』、『幻想女王』、『七煌の騎士』・・・昔は美味そうな肉がそこら中にあった。強い奴らが大勢いた」
ヘルハウンドが生きていた時代には、今現在伝説と言われる魔導士が大勢いた。
『竜殺しの英雄』ジークフリート、『七煌の騎士』シェル、衰えて尚その強さを保っている魔導士の全盛期の時代でもあった。
全盛期の伝説の魔導師が当たり前に生きていた時代、そんな時代にいた伝説に名を残さなかった魔導士達も、実力者ばかりだった。今生きている魔導士に比べれば。
「今はてんで駄目だ。どいつもこいつも雑味が多すぎる。弱過ぎる。全然美味くねぇ。不味くて食えたもんじゃねぇ」
『終曲戦争』の頃までは楽しめた。
『グリム王国』中で戦乱が巻き起こっていたあの時代は、ヘルハウンドにとっては天国のようなものだった。道を歩けば強者と巡り合い、勝ち、肉を喰える。
ヘルハウンドから見た戦場は高級食材の見本市のようなものだった。その中でも一際食欲をそそられたのは
「『紅玉姫』ルージュ=アルフィリア。あいつは美味そうだったなぁ」
ステラの先代の『赤ずきん』ルージュ=アルフィリア。
『紅玉姫』の二つ名で知られた、生きとし生きる者の血を操る真紅の姫。
ヘルハウンドが初めて対峙したのはルージュが十六歳の時だ。ルージュの存在はヘルハウンドに大きな衝撃を与えた。
人間の、十六歳の小娘が既に伝説の魔導師に匹敵する、否、それ以上の力を持っていた。十六年という短い時間で自分の味を磨いたルージュに、ヘルハウンドは人類の可能性を見出した。
「もしかしたらこの先、ルージュと同じか、それ以上の美味そうな肉が現れるんじぇねぇかと思った。たとえば、ルージュの次の代の『赤ずきん』とかな。実際は、とんだ期待外れだったが」
ステラの実力はルージュの足元にも及ばない。
オルダルシアからステラの存在を聞いた時はもしかしたらと思ったが、期待と実物の差に、ヘルハウンドの食欲は大きく削がれた。またあの衝撃に出会えると、そう期待していたのに。
「だが、まぁ、腹は減ってんだ。食っても食っても満たされやしねぇ。味の良し悪しはこの際見逃してやるから、せめて保存食になれ」
「い、やよ・・・あんたみたいな、化け犬に食べられて死ぬとか、最悪の死に方の一つ、じゃない・・・」
「喋れるだけの元気はあんのか。俺に喰われるのが最悪の死に方の一つなら、お前は一体どうやって俺の牙から逃れて生き残るつもりだ?」
「最初に言ったでしょ? あんたを倒すって・・・」
木から手を離し、ステラは自分の足のみで立つ。隙だらけで無防備、その気になれば一秒足らずで殺せる。
それでもヘルハウンドがステラに手を出していないのは、ほんの僅かだがまだ期待をしているからだ。ステラに喰らう価値が、自分の舌を、命を満足させるだけの美味しさがある事を。
「これで、倒す」
「まだ何か隠していたか、見せてみろ。お前の力を」
「紅血限界突破」
水晶色の目が見開かれて緋色に染まり、輝く金髪は炎の様な赤髪へと変わる。
身体から赤いオーラが溢れ、ぼんやりとしていた目に生気が戻る。そのステラの変化に、ヘルハウンドが興味深げな表情を浮かべる。
「ほぉ、そんな事が出来るのか。さっきよりは強そうだ」
「えぇ、何倍もね。私を食べる気なら火傷しないように注意する事ね」
「言いやがるな、アホが」
ヘルハウンドがにやりと笑うのと同時、ステラはヘルハウンドの頭上に移動し、脳天に熱拳を叩きつける。今までとは別次元に威力が高まったステラの拳がもろに直撃し、ヘルハウンドの顔が雪に沈む。
背を見せたヘルハウンドに、ステラは空を蹴って迫り、拳打で背骨の破壊を試みる。
「あぁっ‼」
拳打はヘルハウンドの背、その中にある背骨に衝撃を与えたが破壊には至らず、ヘルハウンドはばっと立ち上がり、ステラはヘルハウンドから離れる。
雪塗れになったヘルハウンドの顔、その脳天に火傷の跡が見られた。熱による攻撃は効果がある。それが分かればこちらのものだ。
ステラは血液の温度を更に高めて、熱を両腕に集中してヘルハウンドに飛びかかる。間合いに入ったステラをヘルハウンドは剛拳を以て砕こうとするが、半身を捻って回避し、逆にヘルハウンドの顔を殴りカウンターを決めてやる。
「んぐっ‼」
横っ面を殴り飛ばされ、頬と牙を焼かれる痛みに苦鳴が漏れ、隙が生じる。
その隙をステラは逃さない。瞬間、ヘルハウンドに拳の雨が降り注ぐ。
「りあぁああああぁぁあああああっっ‼」
硬く熱い雨がヘルハウンドの顔を襲う。防御もかなわず、ヘルハウンドはただひたすら猛攻に耐える。
乱打を数十秒間、絶えず止まず打ち込み続け、ステラの肺の中にはもう酸素は残っていない。
息を吸いたい、苦しい、辛い、でも
「あぁああぁぁああああぁぁああああ‼」
まだ打て、打って打って、打ち込み続けろ。
この機を逃すな。勢いに乗れ。反撃に転じさせず一方的に攻め続けろ。このまま倒せ。
紅血限界突破は期限付きの強化だ。故に、攻めあぐねる事などせず、攻められる時に攻めなくてはならない。効果持続時間は修行により五分に伸びた。残りは四分二十秒、それが過ぎればステラの魔力は尽きる。
「わっあああああああぁああああぁぅあぁ‼」
四分二十秒。
今まで生きてきた中で一番大事なその時間は、全部こちらの攻撃で終わらせる。
そして、『魔王』を――――・・・・
「この程度か。お前の力は」
両腕を掴まれ、乱打を止められる。
ヘルハウンドは、そのままステラの腕を甲冑ごと握り潰し、右肩を噛み千切った。
「うぁあぁあぁあっ‼︎」
腕が、肩が、腕が、肩が、痛い、痛い、痛い。
ひしゃげた両腕が、噛み千切られた肩が、痛い、痛過ぎる。潰された腕と肩を雪に押しつけるが、さして意味は無い。痛みに冷たさが加わるだけだ。
「う、うぅ、うぅううぅぅうううう‼︎」
呻きながら傷を雪で冷やし、地面を転がり、傷を冷やし、転がり、冷やしをステラは繰り返す。必死に傷の痛みに抗うステラを、ヘルハウンドは冷たい目で見下ろし、その腹に蹴りを入れる。
「あはっ‼︎」
腹に強い衝撃が加わり、ステラは血液混じりの胃液を吐き出し、苦しそうに咳き込む。痛みと嘔吐感の二つと戦うステラの頭を、ヘルハウンドは潰さない程度の力で踏みつける。
「がっかりだ。当代の『赤ずきん』には雑味が多過ぎる。ルージュには遠く及ばない」
「う、あ、ぁがが・・・」
「肉を美味くするには、方法がもう一つある。何だか分かるか?」
ヘルハウンドが問いかけるが、ステラには考えるだけの余裕が無い。呻くだけのステラに痺れを切らし、ヘルハウンドが自ら答えを述べる。
「痛めつけて怯えさせるんだよ。肉は叩けば柔らかくなって、怯えて泣けば良い塩梅に塩味が付く。雑味が多い不味い肉でも、そうすりゃ少しはマシになる」
凶悪な調理法を語ると、ヘルハウンドは早速調理を開始する。
ステラの頭の上から足をどけて、再び腹を蹴りつける。同じ箇所に強い衝撃が加わり、痛みが倍以上に跳ね上がる。ヘルハウンドは、声にならない声を上げて苦しむステラの頭を掴んで持ち上げ、ステラの頭を握り潰そうとする。
「あ、ぐぁ、あ・・・・・・」
少しずつ力が強まり、頭蓋が軋む音が聞こえてくる。このままでは両腕と同じように、頭も粉々に砕かれる。なんとか逃れようと、ステラは足をばたつかせて足掻く。
「動けるだけの気力は残ってんのか。活きが良いのは結構だが、まだ雑味が多そうだ。まずは肉を柔らかくしてやる」
子供の頭程ある握り拳で、ヘルハウンドはステラの全身を殴る。一発一発が必殺の一撃。
ステラの乱打が雨なら、ヘルハウンドの乱打は破壊の嵐だ。
骨が、筋肉が、心が、命が、砕かれ、潰され、壊され、奪われる。ステラが肉塊にならず、人の形を保つ事が出来ているのは不幸中の幸いだ。奇跡といってもいい。
身体のありとあらゆる部位を破壊され、ステラはピクリとも動かなくなる。
「なんだ、動かなくなっちまったか。起きてはいんのか? おい、おい」
揺らしながらヘルハウンドは呼び掛けるが、ステラの返事は無い。既に気絶しているからだ。
超級の破壊をその身に受け続け、意識を保つ事が出来なくなった。あり大抵に言えば限界を迎えたのだ。勝敗は既に決した。
『赤ずきん』と『魔王』の戦い、勝者は『魔王』だ。だが、戦いはまだ終わらない。
「おい、起きろアホが」
気絶したステラの腹に、ヘルハウンドの蹴りが深々とめり込む。力が抜けていたステラの身体は軽々と吹き飛ぶ。
外界から強い衝撃を受けた事で意識を取り戻し、ステラは再び苦痛に満ちた現実に舞い戻る。ヘルハウンドにとって、最初から勝敗などどうでもいい。大事なのは、いかに上質な獲物を喰らうかだ。
「まだ雑味が多いんだからよ。怯えて泣いて、もっと美味くなれ」
食への妥協はしない。
欲する食材は一流の強者だけ。三流、二流の弱者は暴力で恐怖をしみ込ませ可能な限り強者強者の味に近付ける。
そういう意味では、ヘルハウンドの食に対する姿勢は真摯そのものだ。その向き合い方は、歪かつ邪悪だが、誰よりも食にこだわりがある事には相違無い。
「立てよ。まだまだ恐怖が薄い。そんなんじゃてめぇは喰えたもんじゃねぇ。もっともっと恐怖付けしてやるよ」
殺気を放ち、ヘルハウンドはゆっくりとステラに近付いていく。
ヘルハウンドがわざわざ刻み込まずとも、もう既にステラの心には『魔王』に対する恐怖が充分に刻み込まれている。
「さて、次はどこを痛めつけるか」
足掻けば殴られる。藻掻けば蹴られる。
抵抗しても意味は無い。何をしても無駄。力の差があり過ぎた。文字通り次元が違った。
倒すなどと息巻いておいてこのザマ。無様以外の何者でもない。『魔王』ヘルハウンドは、ステラ如きが勝てる相手じゃ
『私が必ず取り戻すから、待っていて頂戴』
瑠璃色の人魚との約束が、不意に頭に浮かんできた。
瑠璃色の人魚と、その仲間を傷付けた者達を倒し、その者達が奪ったものを取り戻すと約束した。
『何が何でも認めさせてみせます。私は強くなれるって・・・』
水色の師匠に食らいついた事を思い出した。
必死の思いで認めさせて、『魔王』を倒す為に強くなろうと努力してきた。
色々な事を思い出した。
どうでもいい事、大事な事、頑張った事、嫌な事、本当に色々な事を。
今までの記憶が一瞬で脳裏を巡った。それは、走馬灯に近い現象だ。
走馬灯を見る時は、死がすぐ傍まで近付いた時だと言われている。それが本当なら、ステラはもうすぐ死ぬという事になる。ヘルハウンドに喰い殺されて死ぬ。
なんとも笑えない話だ。だが、お陰でステラは思い出す事が出来た。
ステラ=アルフィリアが、相手が強い程度の事で、一度や二度死にかけた程度の事で諦めるような、可愛げのある少女ではなかった事を。
その事を思い出した途端に力が湧き、ステラは立ち上がってヘルハウンドにぶつかっていく。
「あぁあぁあぁあぁあぁあっっ‼︎」
叫びながら、死にかけていたとは思えない速度で疾走し、ステラはヘルハウンドに飛びついてその首に食らいつく。
「なっ、お前‼︎」
「うぅうぅうぅうぅう‼︎うぅうぅ‼︎」
硬い筋肉に歯を立てて、ステラはヘルハウンドの肉を噛み千切ろうとする。
腕が潰れて、身体中が痛い。それで口が動くなら、口で攻撃すればいい。
使えるものはなんでも使え、手札があるなら躊躇わず切れ。食らいつく牙があるなら全力で食らいつけ。
「こ、の‼︎離せアホがぁ‼︎」
ステラを殴って引き離し、ヘルハウンドは首筋を押さえる。紅血限界突破の影響で歯まで熱くなっている。熱を持つ歯に噛みつかれるのは中々に痛い。
「うぅあぁあぁあぁあうっ‼︎」
「おあっ‼︎」
ヘルハウンドの拳が効かなかったのか、ステラはまたしてもヘルハウンドに飛びかかって、同じ箇所に食らいつく。
ヘルハウンドがさっきと同じように殴って引き離し、またステラが飛びかかってを繰り返す。
そのやり取りを繰り返す内に、潰されたステラの両腕が回復する。腕が使えるようになり、ステラは左腕に全ての熱を集中し、もう一度ヘルハウンドに飛びかかる。
「はぁあぁあぁああぁあ‼︎」
真紅の拳から放たれる一撃は、金剛石を凌ぐジークフリートの『竜皮』を破る程の力を持っている。ヘルハウンドとて、食らえばただではすまない。
ヘルハウンドに攻撃を防ぐ素振りはない。いける、このままヘルハウンドを
「ーーーー『雪月の輪舞曲』」
次の瞬間、世界が青白い光で満たされ、辺りが氷の剣山に変わる。
連なる氷の針にステラは全身を貫かれ、透き通る氷に鋼をも溶かす程の熱を持つ血が伝うが、氷はなんともない。
突如として放たれた氷の魔法。その魔法の正体が何なのかは、魔力名が楽曲の名を冠する事から明らかだ。
「『白雪姫』の、『幻夢楽曲』・・・」
「よく分かったな。正解だ。こいつは『夜天の箱舟』が俺を生き返らせた時俺に与えたもんだ」
「まさか、あんたが持ってたなんて・・・」
ずっと気がかりだった。
奪われた『白雪姫』の『幻無楽曲』を一体誰が持っているのか。
マスターのオルダルシアか、あるいはメンバーの誰かが持っているものだとステラは思っていたが、そのどちらでもなかった。ヘルハウンドに与えられていたのだ。
悪夢の象徴である『魔王』に、凄まじい力を持ち、魔神でも無効化できない『幻夢楽曲』が与えられた。考えられる事態で最も最悪な事が起こってしまった。
「まさか、あんた『海鳴の交響曲』まで持ってるんじゃ・・・」
『海鳴の交響曲』。
リーベが持っていた『幻夢楽曲』であり、その能力は水の性質を操り、水に海の生き物の形と特性を与えるものだ。リーベは攻撃にフグの毒であるテトロドトキシンの毒を含ませ、アルジェントを死の淵に追い込んだ。
『白雪姫』だけでなく『人魚姫』の『幻夢楽曲』、その上ヘルハウンド固有の魔力、計三つも魔法を使えるとなると、いよいよステラの勝率は無くなるが
「『人魚姫』の『幻夢楽曲』を持ってるのは俺じゃねぇ。誰が持ってるかなんて知らねぇ」
三つの魔法を使うという可能性は、ヘルハウンド自身が否定する。
それでも、ステラが圧倒的に不利で、ヘルハウンドが脅威である状況は変わらない。
まずは氷から逃れなくてはどうしようもない。ステラは両腕に集中させていた熱を全身に均一に流し、それらを身体中から放出するイメージを浮かべ
「紅波炸裂‼︎」
叫び、全身から熱の波動を放つが、氷は解けないどころか変形すらしない。
溶かす事は無理だと判断し、ステラは力任せに氷の針を折ろうとするが、それも出来ない。
「嘘、何この氷・・・溶かせないし、折れないって、くっ‼うっ‼」
力を入れて氷の針を折ろうと身体に力を入れるが、どれだけ力を入れても氷の針には何の影響も無い。
どうすればと、ステラがそう思った時、紅血限界突破の効果持続時間が過ぎ魔力が尽きた。万策尽きたその時、氷の針と針の隙間から緑の蔓が伸びてきた。
「なんだ?」
「これは、そうだ‼」
ローザの『翡翠の共鳴』だ。
『サルジュの森』のほとんどの植物の栽培はローザが一人で行ったと言っていた。植物と感覚を共有するローザには今この状況が見えているのだ。
ローザの助けがあればこの膠着状態から抜けられるかもしれな
「いっ!?」
首を絞めつけられる感覚。
とてつもなく強い力で、首を絞められている。折れそうな程、強い力で。首を絞めているのはヘルハウンドではない。緑の蔓、それを操るローザだ。
「な、んで、ろざ・・・」
ぎりぎり、ぎりぎりと首を絞められながら、掠れた声でステラが呟く。
酸素を欲して口を開くが、当然酸素など入ってこず、金魚みたいに口をぱくぱくさせる事しか出来ない。仲間の凶行に困惑し苦しむステラにヘルハウンドは近付き、手を伸ばして蔓を引き千切った。
「かはっ、あっ、けほっ、ごほっ、はぁっ・・・」
「アホが。どこの誰だか知らねぇが、人の戦いに割り込んでくんじゃねぇよ。戦いも飯も、横から手を出されたら腹立つんだよ」
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
助かった。ヘルハウンドの性格に救われた。
仲間の手で絞殺されるという末路を免れ、安堵するステラだが、その認識は誤りであったと、一秒後に後悔する事になる。
「お前を喰うのは俺だ」
一秒後、ヘルハウンドが剛拳でステラの胸を殴打し、ステラは百メートル以上先に氷を砕きながら吹き飛ばされる。
硬い氷に激突する痛みを味わった後は木々を何本も破壊しながら吹き飛び、馬車の車輪みたいに何度も地面を転がってようやく止まる。
止まってまず感じたのは痛みだ。
身体中を貫かれた痛み、氷や木々にぶつかった事による打撲の痛み、ヘルハウンドの一撃により肋骨が粉々に砕け、その衝撃で内臓が破裂した事による痛み。様々な痛みが一気に襲い掛かって来た。
痛みに喘ぐステラの口から大量の血が吐き出される。吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、ステラの近くに真っ赤な水溜りが出来上がった。
「あ・・・ぅ・・・は、ぁ・・・」
自分の顔の近くに出来た赤い水溜り、その大きさを見て、ステラは自分が極めて危険な状態にある事を認識する。
「うぅ・・・」
痛みが消えて、次に寒さに襲われる。
身体に雪が降り積もり、ステラの身体が少しずつ雪に埋れていく。このまま動けずにいれば、雪に沈みいつか消えていくのだろうか。凍死した場合、死体はどうなるのだろうか。そんな益体の無い思考ばかりが頭に浮かぶ。
ーー弱気になってんじゃ、ないわよ。
「まだ、おわって、ない・・・」
消えかけた闘志に、弱気な心に火を灯し、立ち上がろうとするが、身体が動かない。
いくら心の火が強かろうと、身体が動かなければ意味は無い。止まったままでは、火は風に吹かれて消える。火が消えぬよう、動き続けなけれ、ばーー・・・
「ま・・・り・・・」
『プリエール』に向かった大切な幼馴染。
何故かその笑顔を突然思い出して、ステラの意識は途切れた。
白い世界でただ独り、ステラ=アルフィリアはゆっくりと朽ちていく。
「終わったか」
西の居住区の中央で、血に塗れた緑髪の妖精、ローザが呟く。
『翡翠の共鳴』の能力でステラとヘルハウンドの戦いを見ていたローザは、戦いの途中で隙を見てステラを殺そうとしたがヘルハウンドに邪魔された。それでも、結局はヘルハウンドの一撃によってステラは倒れた。
放っておけばヘルハウンドに食われて死ぬだろう。ステラはもう片付いた。後は
「アルジェント、リリィ、ライゼ、マリだな」
リオはユナを傷付けた。
炎の刃でユナを斬り裂いたと、カステリコスからそう聞いた。リオはユナを殺そうとした。だからローザはリオを殺した。
ユナを傷付けた者はこの世からいなくなった。だが、それだけでは駄目だ。
「リオには仲間がいた」
『魔神の庭』だ。
『魔神の庭』のメンバーはリオの仲間だった。リオと関係があった。リオと親しかった。リオを好いていた。リオも好いていた。それはつまり、リオに共感出来る部分があるという事だ。リオを理解して、理解されてるという事だ。リオという人間を認めていたという事だ。
「ユナを傷付けた奴を認めていたギルド。仲間と呼んでいたギルド。あいつが入っていたギルド・・・そんなギルド、存在しちゃ駄目だ」
あってはならない。
消さなければいけない。この手で、必ず、絶対、確実に。リオが入っていて、リオを仲間と呼んでいたような、リオと同類のゴミ共なら、ユナをいつか傷付けるかもしれない。
そうなる前に消す。傷付けられる前に殺す。
「『魔神の庭』は僕が全員殺す」
残りのメンバーは『プリエール』に向かった。
『プリエール』への入り口がある『デール』は、サルジュの森の外れにある。ローザのいる西の居住区から歩いて三十分程の距離だ。
「行くか」
翡翠の瞳に殺意をたたえ、ローザは残りのメンバーが向かった『デール』へと歩き出した。
倒すべき敵。倒さなければならない敵。
存在してはならない悪をその目に映し、ステラの怒りの炎はどんどん燃え上がっていく。
リーベを、『海鳴騎士団』を傷付けた怒り。それらの怒りに振るえるステラを、ヘルハウンドは冷めた目で見下ろしている。
「アホが」
溜息交じりの小さな呟きで、大気が震えた。
もちろん、実際に震えた訳ではない。錯覚だ。そう錯覚させるだけの圧力をヘルハウンドは持っている。気迫は凄まじく、魔力は膨大。だが、それがどうした。そんなものがステラを退かせる理由になどなりはしない。
歴史に名を刻んだ怪物をここで殺す。巨悪に再び滅びを与えるのは己の血潮だ。
呼吸を整え、心を研ぎ澄ます。『武』へと意識を向け、それ以外の雑念を全て取り払う『武心』の呼吸。雑念だけでなく余計な力も取り払い、ステラは流れるようにヘルハウンドの腹に拳を叩きこんだ。
「くっ‼」
先制攻撃は見事直撃。しかしヘルハウンドはびくともしない。
重く、そして硬い。見た目通りの鋼の身体と山のような安定感。『武心』で強化しただけの拳の衝撃は内側まで届かない。拳を腹に当てたまま動かないステラの頭に、ヘルハウンドは爪を降り下ろそうとする。
「避けろ‼」
ブレイブの叫びが耳に入り、ステラは急ぎヘルハウンドから離れ、辛うじて爪を回避する。あと一歩離れるのが遅ければ頭を砕かれていた。なんとか死を免れたステラにブレイブは駆け寄り、その背中を平手で叩く。
「いたっ‼」
「何してんだお前‼ さっさと逃げろ‼」
「逃げる事なんて出来ないわ‼ あいつはリーベを、私の友達を傷付けた奴の一人で、私達『魔神の庭』の討伐対象なの‼ だからあいつは」
「だとしてもお前には勝てねぇよ‼ お前はさっさと逃げて仲間と他の『白雪の森』の奴ら呼んで来い‼ 俺が時間を稼ぐ。その隙に行け‼」
でも、と躊躇うステラを無視してブレイブはヘルハウンドに突進する。
真っ直ぐに向かってくるブレイブを、ヘルハウンドは口を開けて迎え撃とうとする。ブレイブを喰らう気だ。
ヘルハウンドの目を見れば分かる。ヘルハウンドがブレイブを見る目は、対等な敵に向けるものでも、見下すようなものでもない、獲物を見つけた飢えた肉食獣の目だ。
「ブレイブ‼」
足を止める事無く、臆さずヘルハウンドに向かっていくブレイブにステラが手を伸ばす。
その時、あと一歩で激突する所で、両者の間に黒い光が降ってきた。光が降ってきた衝撃でブレイブは吹き飛び、ヘルハウンドは降ってきた光に対し舌打ちをして、口を閉ざす。
「何?」
「どうゆうこった・・・」
光が収まると、その中から黒い三角棒を被った小人が現れる。
暗い表情の、かろうじて瞳が見える程度に開かれた白い目が特徴的なその小人の名は
「フスティーシア、てめぇ何しやがんだ‼」
フスティーシア。
『白雪の森』の『七人の小人』の最後の一人。
現れた黒い小人は、哀しい眼をしていた。
瞳はかろうじて見えるか見えないか程度にしか、その瞼は開かれていない。それでも、その瞳が宿すものが希望などではない事を見る者に伝わる程に、フスティーシアの瞳に宿る哀しみの色は濃いものだった。
ヘルハウンドと自身との間に割って入ったフスティーシアに、ブレイブは額に青筋を浮かべて問う。
「おい、フスティーシア、てめぇ今何で邪魔した? 何でだ? あ? 理由があるなら言ってみろ」
「理由? レッドは知ってるだろ? ブラックが正義の味方だって」
「正義? 俺の邪魔してその『魔王』の味方をする事がか?」
「いいや、違う。ブラックが味方をするのはサタンじゃない。『夜天の箱舟』だ」
フスティーシアの口から飛び出したギルドの名前に、ステラとブレイブは目を見開く。
『夜天の箱舟』、それは『サルジュの森』を襲撃しレアルの『幻夢楽曲』を奪った、『白雪の森』にとって許せぬ筈の存在。そのギルドの見方をすると、フスティーシアはそう言ったのだ。
「冗談ならもうやめとけ。俺は笑えない冗談が好きじゃねぇんだ」
静かに、怒気を含んだ声でブレイブが忠告すると、フスティーシアは黙ってヘルハウンドから離れる。
やはり嘘だったのだ、『夜天の箱舟』の味方をするなど。タイミングと性質が悪い冗談だったんだと、ブレイブが思った直後、フスティーシアは黒い光でブレイブの胸を貫いた。
「ブラックは嘘は言わない。嫌われるような、残酷な言葉も全部本当だ」
血を吐き、倒れるブレイブに、自分が言った事は嘘ではない事を告げ、倒れるブレイブを黒光を纏った足で彼方まで蹴り飛ばす。
「ブレイブ‼」
放物線を描いて飛んでいったブレイブの名をステラが叫ぶと、背後から獣の唸り声がして、ヘルハウンドの鉄槌の如き拳が降り下ろされる。重い一撃を反射神経と直感のみで両腕で防ぎ、ステラは歯を食いしばる。
大岩がのしかかっているような重量感。少しでも気を抜けば潰される。
「大変そうだね」
防御の姿勢から動けぬステラに、フスティーシアがゆっくりと歩み寄る。
仲間を裏切り、傷付けた小人に、ステラは憎悪の眼差しを向ける。真正面から敵意をぶつけられ、フスティーシアは薄い目を閉じて下を向く。
「悪かったよ。そんなにブラックを睨まないでくれ。正義の為に必要な事だったんだ」
「正義正義って、あんたの言う正義って何なの? 『夜天の箱舟』なんかの味方をして、何をしようって言うの?あんたは、何がしたいの?」
正義という言葉から最も遠い存在である『夜天の箱舟』。
そんな奴らの味方をする事が、どうして正義に繋がるのか。その真意は
「世界を作り変える」
「世界? ぐっ・・・‼」
ヘルハウンドが掛けてくる重量が増し、ステラは押し潰されそうになる。力むステラにフスティーシアは小さく手を振って、その場から離れようとする。
「待ちなさい‼ 話はまだ」
「ブラックは忙しいんだ。レッドはまだ生きてるだろうから、殺しにいかないといけない。君はどうせサタンに殺される。万が一サタンに勝っても君は死ぬ」
だって
「今日で滅びるんだから、『サルジュの森』も、『魔神の庭』も、『白雪の森』も。もちろん、君も」
「なんですって・・・」
「そうゆう事だから、ブラックはもう行くよ。あとはよろしくね、サタン」
黒い光を身体から発し、フスティーシアはブレイブが飛んでいった方に向かっていた。
光速で去っていたフスティーシアを引き止める事はできず、ステラの身体に更に重圧が掛かる。
「うぐぐぐぐ・・・‼」
「アホが。他の事に気を取られてんじゃねぇよ。そんなんで俺に勝てると思ってんのか小娘が」
「えぇ、そうね・・・あいつの事は一旦後・・・今は‼」
ヘルハウンドの拳を弾き、ステラはその首に右足で回し蹴りを叩きこむ。
紅い踵が首に突き刺さるが、ヘルハウンドは眉一つ動かさない。足を掴まれる前にステラは右足を地面に下し、そのままヘルハウンドの鳩尾に拳をねじ込む。
「あんたを倒す‼」
「やれるもんならやってみろ、アホが」
余計な事を考えるのはやめ、ステラはヘルハウンドのみに意識を向ける。
重症を負い、吹き飛ばされたブレイブの事は気がかりではあるが、『魔王』は他の事に意識を取られて勝てる相手ではない。
今ステラにできる事は、ブレイブの無事を信じ、自分一人でヘルハウンドを倒す事だ。
「はあっ‼」
爪先でヘルハウンドの顎を蹴り上げ、脇腹に膝蹴りを叩き込み、腹筋に肘打ちを食わせる。
流れるような連続攻撃が決まるが、ヘルハウンドを傷付けるどころか動かす事すら出来ない。むしろ、攻撃に用いた箇所が痛みに痺れた。
『武心』だけでヘルハウンドの鋼の肉体は打ち破れない。ならば、それを打ち破る強い武器を使えばいい。たとえば、全てを穿つ『剣』とか。ステラはそれを持っている。その『剣』の名は
「『穿剣』‼」
拳に魔力を集中し、ステラはヘルハウンドの胸の中央、心臓を思い切り殴る。
全てを破壊する一撃が炸裂し、ヘルハウンドの顔が初めて苦悶に染まる。効果あり。このまま内側から壊れて倒れれば――――・・・
「ってぇな」
勝利への期待は、低い声の呟きで簡単に掻き消される。
直後、ステラの眼前に自分の顔を覆える程大きなヘルハウンドの手が近付いて、額を指で弾かれ一直線に吹き飛ぶ。遠くにあったモミの木に頭から激突して、二度大きな衝撃が頭部に加わった事で、ステラの意識は朦朧とする。
額からは血が流れ、その中にある頭蓋骨が酷く痛む。ヒビが入ったか、それとも折れたか、折れていれば脳を損傷させる危険性があるが、そんな事より
「立たな、いと・・・」
一刻も早く立ち上がらなければならない。
立たなければ、確実に死ぬ。足音が、聞こえる。雪を踏んで自分に近付いてくる悪夢の、死の足音が。
一歩ずつ、ゆっくりと、段々と近付いてくるのは、死であると同時に、ステラが倒すと決めた相手だ。
「――――っ、そう、よ」
何が何でも倒す。
絶対に、必ず倒すと、そう決めたのは他でもないステラだ。
自分で決めた事を成す。有言実行、二言は無い。
「ん?」
ゆっくりと立ち上がったステラにヘルハウンドは目を細める。
木に手を付いて立つのがやっとの様子で、自分を見る瞳はぼんやりとしている。指弾一発で限界近くまで追い込まれたみたいだが
「それでも立ってるだけ、人間にしちゃ大したもんだ」
ヘルハウンドの指弾を食らえば、たとえ歴戦の戦士だろうと頭部が吹き飛ぶ。
豆腐かおがくずみたいにいとも容易く。それを考えれば、ヘルハウンドの言う通り、立ってるだけ、頭部が残ってるだけ賞賛に値するが
「足りねぇな。俺が喰らうにしても、俺を倒すにしても」
ヘルハウンドは強者の肉を好んで喰らう。
自己を高めようと努力し、鍛錬を重ね、強さを極め頂きに辿り着こうと、それだけの為に何年、何十年と生きた者の肉は上手い。
強さは肉の質を向上させる。これまで何百、何千、何万と多くの命を喰らってヘルハウンドが見出した職の哲学だ。だが、目の前の少女はその哲学に当てはめれば、とても美味な肉とは言えない。
弱く、脆く、小さく、浅く、威勢だけの小娘。喰らうに値しない雑味だらけの肉。ヘルハウンドを倒すにしても何もかもが足りない事は言うまでもない。
「『魔神』、『鬼殺し』、『竜殺しの英雄』、『万象の精霊術師』、『鏡月の牙』、『幻想女王』、『七煌の騎士』・・・昔は美味そうな肉がそこら中にあった。強い奴らが大勢いた」
ヘルハウンドが生きていた時代には、今現在伝説と言われる魔導士が大勢いた。
『竜殺しの英雄』ジークフリート、『七煌の騎士』シェル、衰えて尚その強さを保っている魔導士の全盛期の時代でもあった。
全盛期の伝説の魔導師が当たり前に生きていた時代、そんな時代にいた伝説に名を残さなかった魔導士達も、実力者ばかりだった。今生きている魔導士に比べれば。
「今はてんで駄目だ。どいつもこいつも雑味が多すぎる。弱過ぎる。全然美味くねぇ。不味くて食えたもんじゃねぇ」
『終曲戦争』の頃までは楽しめた。
『グリム王国』中で戦乱が巻き起こっていたあの時代は、ヘルハウンドにとっては天国のようなものだった。道を歩けば強者と巡り合い、勝ち、肉を喰える。
ヘルハウンドから見た戦場は高級食材の見本市のようなものだった。その中でも一際食欲をそそられたのは
「『紅玉姫』ルージュ=アルフィリア。あいつは美味そうだったなぁ」
ステラの先代の『赤ずきん』ルージュ=アルフィリア。
『紅玉姫』の二つ名で知られた、生きとし生きる者の血を操る真紅の姫。
ヘルハウンドが初めて対峙したのはルージュが十六歳の時だ。ルージュの存在はヘルハウンドに大きな衝撃を与えた。
人間の、十六歳の小娘が既に伝説の魔導師に匹敵する、否、それ以上の力を持っていた。十六年という短い時間で自分の味を磨いたルージュに、ヘルハウンドは人類の可能性を見出した。
「もしかしたらこの先、ルージュと同じか、それ以上の美味そうな肉が現れるんじぇねぇかと思った。たとえば、ルージュの次の代の『赤ずきん』とかな。実際は、とんだ期待外れだったが」
ステラの実力はルージュの足元にも及ばない。
オルダルシアからステラの存在を聞いた時はもしかしたらと思ったが、期待と実物の差に、ヘルハウンドの食欲は大きく削がれた。またあの衝撃に出会えると、そう期待していたのに。
「だが、まぁ、腹は減ってんだ。食っても食っても満たされやしねぇ。味の良し悪しはこの際見逃してやるから、せめて保存食になれ」
「い、やよ・・・あんたみたいな、化け犬に食べられて死ぬとか、最悪の死に方の一つ、じゃない・・・」
「喋れるだけの元気はあんのか。俺に喰われるのが最悪の死に方の一つなら、お前は一体どうやって俺の牙から逃れて生き残るつもりだ?」
「最初に言ったでしょ? あんたを倒すって・・・」
木から手を離し、ステラは自分の足のみで立つ。隙だらけで無防備、その気になれば一秒足らずで殺せる。
それでもヘルハウンドがステラに手を出していないのは、ほんの僅かだがまだ期待をしているからだ。ステラに喰らう価値が、自分の舌を、命を満足させるだけの美味しさがある事を。
「これで、倒す」
「まだ何か隠していたか、見せてみろ。お前の力を」
「紅血限界突破」
水晶色の目が見開かれて緋色に染まり、輝く金髪は炎の様な赤髪へと変わる。
身体から赤いオーラが溢れ、ぼんやりとしていた目に生気が戻る。そのステラの変化に、ヘルハウンドが興味深げな表情を浮かべる。
「ほぉ、そんな事が出来るのか。さっきよりは強そうだ」
「えぇ、何倍もね。私を食べる気なら火傷しないように注意する事ね」
「言いやがるな、アホが」
ヘルハウンドがにやりと笑うのと同時、ステラはヘルハウンドの頭上に移動し、脳天に熱拳を叩きつける。今までとは別次元に威力が高まったステラの拳がもろに直撃し、ヘルハウンドの顔が雪に沈む。
背を見せたヘルハウンドに、ステラは空を蹴って迫り、拳打で背骨の破壊を試みる。
「あぁっ‼」
拳打はヘルハウンドの背、その中にある背骨に衝撃を与えたが破壊には至らず、ヘルハウンドはばっと立ち上がり、ステラはヘルハウンドから離れる。
雪塗れになったヘルハウンドの顔、その脳天に火傷の跡が見られた。熱による攻撃は効果がある。それが分かればこちらのものだ。
ステラは血液の温度を更に高めて、熱を両腕に集中してヘルハウンドに飛びかかる。間合いに入ったステラをヘルハウンドは剛拳を以て砕こうとするが、半身を捻って回避し、逆にヘルハウンドの顔を殴りカウンターを決めてやる。
「んぐっ‼」
横っ面を殴り飛ばされ、頬と牙を焼かれる痛みに苦鳴が漏れ、隙が生じる。
その隙をステラは逃さない。瞬間、ヘルハウンドに拳の雨が降り注ぐ。
「りあぁああああぁぁあああああっっ‼」
硬く熱い雨がヘルハウンドの顔を襲う。防御もかなわず、ヘルハウンドはただひたすら猛攻に耐える。
乱打を数十秒間、絶えず止まず打ち込み続け、ステラの肺の中にはもう酸素は残っていない。
息を吸いたい、苦しい、辛い、でも
「あぁああぁぁああああぁぁああああ‼」
まだ打て、打って打って、打ち込み続けろ。
この機を逃すな。勢いに乗れ。反撃に転じさせず一方的に攻め続けろ。このまま倒せ。
紅血限界突破は期限付きの強化だ。故に、攻めあぐねる事などせず、攻められる時に攻めなくてはならない。効果持続時間は修行により五分に伸びた。残りは四分二十秒、それが過ぎればステラの魔力は尽きる。
「わっあああああああぁああああぁぅあぁ‼」
四分二十秒。
今まで生きてきた中で一番大事なその時間は、全部こちらの攻撃で終わらせる。
そして、『魔王』を――――・・・・
「この程度か。お前の力は」
両腕を掴まれ、乱打を止められる。
ヘルハウンドは、そのままステラの腕を甲冑ごと握り潰し、右肩を噛み千切った。
「うぁあぁあぁあっ‼︎」
腕が、肩が、腕が、肩が、痛い、痛い、痛い。
ひしゃげた両腕が、噛み千切られた肩が、痛い、痛過ぎる。潰された腕と肩を雪に押しつけるが、さして意味は無い。痛みに冷たさが加わるだけだ。
「う、うぅ、うぅううぅぅうううう‼︎」
呻きながら傷を雪で冷やし、地面を転がり、傷を冷やし、転がり、冷やしをステラは繰り返す。必死に傷の痛みに抗うステラを、ヘルハウンドは冷たい目で見下ろし、その腹に蹴りを入れる。
「あはっ‼︎」
腹に強い衝撃が加わり、ステラは血液混じりの胃液を吐き出し、苦しそうに咳き込む。痛みと嘔吐感の二つと戦うステラの頭を、ヘルハウンドは潰さない程度の力で踏みつける。
「がっかりだ。当代の『赤ずきん』には雑味が多過ぎる。ルージュには遠く及ばない」
「う、あ、ぁがが・・・」
「肉を美味くするには、方法がもう一つある。何だか分かるか?」
ヘルハウンドが問いかけるが、ステラには考えるだけの余裕が無い。呻くだけのステラに痺れを切らし、ヘルハウンドが自ら答えを述べる。
「痛めつけて怯えさせるんだよ。肉は叩けば柔らかくなって、怯えて泣けば良い塩梅に塩味が付く。雑味が多い不味い肉でも、そうすりゃ少しはマシになる」
凶悪な調理法を語ると、ヘルハウンドは早速調理を開始する。
ステラの頭の上から足をどけて、再び腹を蹴りつける。同じ箇所に強い衝撃が加わり、痛みが倍以上に跳ね上がる。ヘルハウンドは、声にならない声を上げて苦しむステラの頭を掴んで持ち上げ、ステラの頭を握り潰そうとする。
「あ、ぐぁ、あ・・・・・・」
少しずつ力が強まり、頭蓋が軋む音が聞こえてくる。このままでは両腕と同じように、頭も粉々に砕かれる。なんとか逃れようと、ステラは足をばたつかせて足掻く。
「動けるだけの気力は残ってんのか。活きが良いのは結構だが、まだ雑味が多そうだ。まずは肉を柔らかくしてやる」
子供の頭程ある握り拳で、ヘルハウンドはステラの全身を殴る。一発一発が必殺の一撃。
ステラの乱打が雨なら、ヘルハウンドの乱打は破壊の嵐だ。
骨が、筋肉が、心が、命が、砕かれ、潰され、壊され、奪われる。ステラが肉塊にならず、人の形を保つ事が出来ているのは不幸中の幸いだ。奇跡といってもいい。
身体のありとあらゆる部位を破壊され、ステラはピクリとも動かなくなる。
「なんだ、動かなくなっちまったか。起きてはいんのか? おい、おい」
揺らしながらヘルハウンドは呼び掛けるが、ステラの返事は無い。既に気絶しているからだ。
超級の破壊をその身に受け続け、意識を保つ事が出来なくなった。あり大抵に言えば限界を迎えたのだ。勝敗は既に決した。
『赤ずきん』と『魔王』の戦い、勝者は『魔王』だ。だが、戦いはまだ終わらない。
「おい、起きろアホが」
気絶したステラの腹に、ヘルハウンドの蹴りが深々とめり込む。力が抜けていたステラの身体は軽々と吹き飛ぶ。
外界から強い衝撃を受けた事で意識を取り戻し、ステラは再び苦痛に満ちた現実に舞い戻る。ヘルハウンドにとって、最初から勝敗などどうでもいい。大事なのは、いかに上質な獲物を喰らうかだ。
「まだ雑味が多いんだからよ。怯えて泣いて、もっと美味くなれ」
食への妥協はしない。
欲する食材は一流の強者だけ。三流、二流の弱者は暴力で恐怖をしみ込ませ可能な限り強者強者の味に近付ける。
そういう意味では、ヘルハウンドの食に対する姿勢は真摯そのものだ。その向き合い方は、歪かつ邪悪だが、誰よりも食にこだわりがある事には相違無い。
「立てよ。まだまだ恐怖が薄い。そんなんじゃてめぇは喰えたもんじゃねぇ。もっともっと恐怖付けしてやるよ」
殺気を放ち、ヘルハウンドはゆっくりとステラに近付いていく。
ヘルハウンドがわざわざ刻み込まずとも、もう既にステラの心には『魔王』に対する恐怖が充分に刻み込まれている。
「さて、次はどこを痛めつけるか」
足掻けば殴られる。藻掻けば蹴られる。
抵抗しても意味は無い。何をしても無駄。力の差があり過ぎた。文字通り次元が違った。
倒すなどと息巻いておいてこのザマ。無様以外の何者でもない。『魔王』ヘルハウンドは、ステラ如きが勝てる相手じゃ
『私が必ず取り戻すから、待っていて頂戴』
瑠璃色の人魚との約束が、不意に頭に浮かんできた。
瑠璃色の人魚と、その仲間を傷付けた者達を倒し、その者達が奪ったものを取り戻すと約束した。
『何が何でも認めさせてみせます。私は強くなれるって・・・』
水色の師匠に食らいついた事を思い出した。
必死の思いで認めさせて、『魔王』を倒す為に強くなろうと努力してきた。
色々な事を思い出した。
どうでもいい事、大事な事、頑張った事、嫌な事、本当に色々な事を。
今までの記憶が一瞬で脳裏を巡った。それは、走馬灯に近い現象だ。
走馬灯を見る時は、死がすぐ傍まで近付いた時だと言われている。それが本当なら、ステラはもうすぐ死ぬという事になる。ヘルハウンドに喰い殺されて死ぬ。
なんとも笑えない話だ。だが、お陰でステラは思い出す事が出来た。
ステラ=アルフィリアが、相手が強い程度の事で、一度や二度死にかけた程度の事で諦めるような、可愛げのある少女ではなかった事を。
その事を思い出した途端に力が湧き、ステラは立ち上がってヘルハウンドにぶつかっていく。
「あぁあぁあぁあぁあぁあっっ‼︎」
叫びながら、死にかけていたとは思えない速度で疾走し、ステラはヘルハウンドに飛びついてその首に食らいつく。
「なっ、お前‼︎」
「うぅうぅうぅうぅう‼︎うぅうぅ‼︎」
硬い筋肉に歯を立てて、ステラはヘルハウンドの肉を噛み千切ろうとする。
腕が潰れて、身体中が痛い。それで口が動くなら、口で攻撃すればいい。
使えるものはなんでも使え、手札があるなら躊躇わず切れ。食らいつく牙があるなら全力で食らいつけ。
「こ、の‼︎離せアホがぁ‼︎」
ステラを殴って引き離し、ヘルハウンドは首筋を押さえる。紅血限界突破の影響で歯まで熱くなっている。熱を持つ歯に噛みつかれるのは中々に痛い。
「うぅあぁあぁあぁあうっ‼︎」
「おあっ‼︎」
ヘルハウンドの拳が効かなかったのか、ステラはまたしてもヘルハウンドに飛びかかって、同じ箇所に食らいつく。
ヘルハウンドがさっきと同じように殴って引き離し、またステラが飛びかかってを繰り返す。
そのやり取りを繰り返す内に、潰されたステラの両腕が回復する。腕が使えるようになり、ステラは左腕に全ての熱を集中し、もう一度ヘルハウンドに飛びかかる。
「はぁあぁあぁああぁあ‼︎」
真紅の拳から放たれる一撃は、金剛石を凌ぐジークフリートの『竜皮』を破る程の力を持っている。ヘルハウンドとて、食らえばただではすまない。
ヘルハウンドに攻撃を防ぐ素振りはない。いける、このままヘルハウンドを
「ーーーー『雪月の輪舞曲』」
次の瞬間、世界が青白い光で満たされ、辺りが氷の剣山に変わる。
連なる氷の針にステラは全身を貫かれ、透き通る氷に鋼をも溶かす程の熱を持つ血が伝うが、氷はなんともない。
突如として放たれた氷の魔法。その魔法の正体が何なのかは、魔力名が楽曲の名を冠する事から明らかだ。
「『白雪姫』の、『幻夢楽曲』・・・」
「よく分かったな。正解だ。こいつは『夜天の箱舟』が俺を生き返らせた時俺に与えたもんだ」
「まさか、あんたが持ってたなんて・・・」
ずっと気がかりだった。
奪われた『白雪姫』の『幻無楽曲』を一体誰が持っているのか。
マスターのオルダルシアか、あるいはメンバーの誰かが持っているものだとステラは思っていたが、そのどちらでもなかった。ヘルハウンドに与えられていたのだ。
悪夢の象徴である『魔王』に、凄まじい力を持ち、魔神でも無効化できない『幻夢楽曲』が与えられた。考えられる事態で最も最悪な事が起こってしまった。
「まさか、あんた『海鳴の交響曲』まで持ってるんじゃ・・・」
『海鳴の交響曲』。
リーベが持っていた『幻夢楽曲』であり、その能力は水の性質を操り、水に海の生き物の形と特性を与えるものだ。リーベは攻撃にフグの毒であるテトロドトキシンの毒を含ませ、アルジェントを死の淵に追い込んだ。
『白雪姫』だけでなく『人魚姫』の『幻夢楽曲』、その上ヘルハウンド固有の魔力、計三つも魔法を使えるとなると、いよいよステラの勝率は無くなるが
「『人魚姫』の『幻夢楽曲』を持ってるのは俺じゃねぇ。誰が持ってるかなんて知らねぇ」
三つの魔法を使うという可能性は、ヘルハウンド自身が否定する。
それでも、ステラが圧倒的に不利で、ヘルハウンドが脅威である状況は変わらない。
まずは氷から逃れなくてはどうしようもない。ステラは両腕に集中させていた熱を全身に均一に流し、それらを身体中から放出するイメージを浮かべ
「紅波炸裂‼︎」
叫び、全身から熱の波動を放つが、氷は解けないどころか変形すらしない。
溶かす事は無理だと判断し、ステラは力任せに氷の針を折ろうとするが、それも出来ない。
「嘘、何この氷・・・溶かせないし、折れないって、くっ‼うっ‼」
力を入れて氷の針を折ろうと身体に力を入れるが、どれだけ力を入れても氷の針には何の影響も無い。
どうすればと、ステラがそう思った時、紅血限界突破の効果持続時間が過ぎ魔力が尽きた。万策尽きたその時、氷の針と針の隙間から緑の蔓が伸びてきた。
「なんだ?」
「これは、そうだ‼」
ローザの『翡翠の共鳴』だ。
『サルジュの森』のほとんどの植物の栽培はローザが一人で行ったと言っていた。植物と感覚を共有するローザには今この状況が見えているのだ。
ローザの助けがあればこの膠着状態から抜けられるかもしれな
「いっ!?」
首を絞めつけられる感覚。
とてつもなく強い力で、首を絞められている。折れそうな程、強い力で。首を絞めているのはヘルハウンドではない。緑の蔓、それを操るローザだ。
「な、んで、ろざ・・・」
ぎりぎり、ぎりぎりと首を絞められながら、掠れた声でステラが呟く。
酸素を欲して口を開くが、当然酸素など入ってこず、金魚みたいに口をぱくぱくさせる事しか出来ない。仲間の凶行に困惑し苦しむステラにヘルハウンドは近付き、手を伸ばして蔓を引き千切った。
「かはっ、あっ、けほっ、ごほっ、はぁっ・・・」
「アホが。どこの誰だか知らねぇが、人の戦いに割り込んでくんじゃねぇよ。戦いも飯も、横から手を出されたら腹立つんだよ」
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
助かった。ヘルハウンドの性格に救われた。
仲間の手で絞殺されるという末路を免れ、安堵するステラだが、その認識は誤りであったと、一秒後に後悔する事になる。
「お前を喰うのは俺だ」
一秒後、ヘルハウンドが剛拳でステラの胸を殴打し、ステラは百メートル以上先に氷を砕きながら吹き飛ばされる。
硬い氷に激突する痛みを味わった後は木々を何本も破壊しながら吹き飛び、馬車の車輪みたいに何度も地面を転がってようやく止まる。
止まってまず感じたのは痛みだ。
身体中を貫かれた痛み、氷や木々にぶつかった事による打撲の痛み、ヘルハウンドの一撃により肋骨が粉々に砕け、その衝撃で内臓が破裂した事による痛み。様々な痛みが一気に襲い掛かって来た。
痛みに喘ぐステラの口から大量の血が吐き出される。吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、ステラの近くに真っ赤な水溜りが出来上がった。
「あ・・・ぅ・・・は、ぁ・・・」
自分の顔の近くに出来た赤い水溜り、その大きさを見て、ステラは自分が極めて危険な状態にある事を認識する。
「うぅ・・・」
痛みが消えて、次に寒さに襲われる。
身体に雪が降り積もり、ステラの身体が少しずつ雪に埋れていく。このまま動けずにいれば、雪に沈みいつか消えていくのだろうか。凍死した場合、死体はどうなるのだろうか。そんな益体の無い思考ばかりが頭に浮かぶ。
ーー弱気になってんじゃ、ないわよ。
「まだ、おわって、ない・・・」
消えかけた闘志に、弱気な心に火を灯し、立ち上がろうとするが、身体が動かない。
いくら心の火が強かろうと、身体が動かなければ意味は無い。止まったままでは、火は風に吹かれて消える。火が消えぬよう、動き続けなけれ、ばーー・・・
「ま・・・り・・・」
『プリエール』に向かった大切な幼馴染。
何故かその笑顔を突然思い出して、ステラの意識は途切れた。
白い世界でただ独り、ステラ=アルフィリアはゆっくりと朽ちていく。
「終わったか」
西の居住区の中央で、血に塗れた緑髪の妖精、ローザが呟く。
『翡翠の共鳴』の能力でステラとヘルハウンドの戦いを見ていたローザは、戦いの途中で隙を見てステラを殺そうとしたがヘルハウンドに邪魔された。それでも、結局はヘルハウンドの一撃によってステラは倒れた。
放っておけばヘルハウンドに食われて死ぬだろう。ステラはもう片付いた。後は
「アルジェント、リリィ、ライゼ、マリだな」
リオはユナを傷付けた。
炎の刃でユナを斬り裂いたと、カステリコスからそう聞いた。リオはユナを殺そうとした。だからローザはリオを殺した。
ユナを傷付けた者はこの世からいなくなった。だが、それだけでは駄目だ。
「リオには仲間がいた」
『魔神の庭』だ。
『魔神の庭』のメンバーはリオの仲間だった。リオと関係があった。リオと親しかった。リオを好いていた。リオも好いていた。それはつまり、リオに共感出来る部分があるという事だ。リオを理解して、理解されてるという事だ。リオという人間を認めていたという事だ。
「ユナを傷付けた奴を認めていたギルド。仲間と呼んでいたギルド。あいつが入っていたギルド・・・そんなギルド、存在しちゃ駄目だ」
あってはならない。
消さなければいけない。この手で、必ず、絶対、確実に。リオが入っていて、リオを仲間と呼んでいたような、リオと同類のゴミ共なら、ユナをいつか傷付けるかもしれない。
そうなる前に消す。傷付けられる前に殺す。
「『魔神の庭』は僕が全員殺す」
残りのメンバーは『プリエール』に向かった。
『プリエール』への入り口がある『デール』は、サルジュの森の外れにある。ローザのいる西の居住区から歩いて三十分程の距離だ。
「行くか」
翡翠の瞳に殺意をたたえ、ローザは残りのメンバーが向かった『デール』へと歩き出した。
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