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第五話
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夢見心地なお姫様抱っこは、控室の一室にあるソファへ座らさせられるまで堪能できた。すぐに宮廷メイドがやってきて、アイヴァ公爵閣下へ毛布を渡し、それで私は包まれる。
他の宮廷メイドは暖炉の遮断用鉄板を外し、弱まっていた火を掻き棒で燃え上がらせる。部屋中が暖かくなるまでそうはかからず、その間に私の隣にもう一つのソファとサイドテーブル、それに砂糖とミルクたっぷりの甘い紅茶が用意された。
もう一つのソファにはアイヴァ公爵閣下が腰を下ろし、手ずから私へ紅茶のカップを渡してくれた。
温かな飲み物、暖かな部屋、宮廷メイドたちは「ではごゆっくりお過ごしください」と言い残して退室していった。
残された私と、アイヴァ公爵閣下は、しばし黙ったままだった。何を言えばいいかなんて、私には分からなかった。手にした紅茶をお行儀よく飲みつづけて、心が落ち着くまでに半分ほど減らしてしまった。
そうして、やっと落ち着いた心に芽生えたのは、状況を把握したいという欲求だ。つまりは——私はこれからどうなるのか、ということだ。
私は紅茶のカップをサイドテーブルに置き、動悸を抑えながら、腕組みをしたままじっと目を伏せていたアイヴァ公爵閣下へ問いかけた。
「あの……質問してもよろしいでしょうか」
「何なりと」
アイヴァ公爵閣下は黒髪を揺らして顔を上げ、思ったよりも穏やかな口調でそう言った。
であれば、と私は単刀直入に、一番知りたいことを聞く。
「私はやはり、婚約を破棄されるのでしょうか?」
ここに来るまでの間、ずっと脳裏に響いていたアンソニーの言葉がある。「婚約なんてするんじゃなかった」と、きっとアンソニーは軽い気持ちで、場を盛り上げるために言ったのだろう。もちろん本心だった可能性もある、でも彼の浅慮ぶりはよく知っているだけに、その言葉の意味や発したあとの責任までよく考えていなかっただろうと私は思う。
だからと言って、帳消しになるわけではない。その発言は克明に人々の記憶に刻まれ、忘れ去られやしない。私の心の奥底にも、重石となってしっかりと残されている。
別に私はアンソニーのことが好きで婚約を破棄されることを恐れているわけではない。決して、神に誓ってそんなことはない。
ただ、貴族の婚約は家同士の盟約だ。家長である当主の決定であり、私の好悪で決まる程度の話ではない。婚約がなくなってしまうと、我がビーレンフェン男爵家にとって大きな不利益になってしまうのなら、私はそれを望まない。貴族令嬢として生まれた以上、望んではいけないのだ。
もし——そうなってしまえば、両親は悲しむだろう。不出来な娘を恨むだろう。婚約を勧めた伯父は失望を隠さず、何も知らない姉と妹もさすがに私を責めるかもしれない。
生憎と私は、そんな状況に耐えられるほど強くはなかった。平謝りに謝って次の家では失敗しないと誓って、出荷される牛のような扱いを受けるなんて、まず間違いなく心がもたないし、さらにはこの期に及んで自己保身じみたことばかり考える自分に嫌気が差していた。
自分で問いかけておきながら、私はやめておけばよかったと後悔する。そういうところが、自他ともに認める愚かさなのだと噛み締めながら。
毛布の上から暗澹たる思いに包まれた私へ、アイヴァ公爵閣下は現実的に答える。
「さあ、どうでしょう。あなたの婚約者がそう決めたなら、我々は介入できません。契約書に基づいた事柄ですからね、介入できるのはそれこそ女王陛下か裁判所くらいです」
「そうですよね……もうどうしようもないのでしょうね……はあ」
やっぱりだ、尋ねなければよかった。ため息は何度となく漏れ、がっくりと私の首は垂れる。
そんな私を見て、アイヴァ公爵閣下は実に不思議そうな口調でこう言った。
「あなたは、あの男との婚約を続けたいのですか?」
「え? 私、ですか?」
「はい、あなたの意思はどうでしょう?」
「ええと……その」
「ああ、家の手前、ご自身の意思云々を表すことに不都合がおありかもしれませんね。無礼をお許しください、レディ」
「いえ、そんな、私ごときに畏まらないでください。私のことなど、目上の誰かが決めてしまうのでしょうから」
私は正直にそう言ってしまった。だって、そうなのだから、それ以外に言いようがない。私の処遇を決められるのは、家長である父か、未来の夫で婚約者であるアンソニーだけだ。
それはもう諦めた、とっくの昔に私の手足には家名に繋がる見えない鎖があるのだと知っている。
しかし——しかし、だ。
「でも……もう殴られたり、怒られたりしないのなら、婚約がなくなってもいいかも、なんて思ってしまいました。私は愚かものです、そんなことを考えたって両家のためにならないのに」
何を言っているのだろう、私は。そんなことを告白しても、何もならない。
なのに、アイヴァ公爵閣下はすかさずそこに引っかかる。
「あの男に殴られたのですか?」
「えっ!? あっ……その、えっと、いえそれは」
「あの場で話を聞いていれば、あなたが暴力や暴言を振るわれていることは分かります。事実ですね?」
後悔しても遅い、それは私の失言だった。婚約者の悪口を、今ここにいないからと初対面の相手へ口にしてしまうなど、まったくもって淑女失格だ。
焦って、ここから何とか挽回しようと頭を巡らせるが、どうにも上手くいかない。
「だ、だとしても、それは私が我慢すればいいことです。スネルソン伯爵家とビーレンフェン男爵家のためになるなら、それでいいはずです」
「本当にそうお考えですか? ろくでもない人間を告発せず、より大きな利益のために数多の不義を見過ごすことが正しいと?」
「でも、それは……私のような、愚かで弱い人間にはどうしようもないことです。きっと」
「でしょうね。あなたに力はない、おそらくあなたの言葉に耳を傾ける人間もいないことでしょう。残念なことに、それがあなたを取り巻く環境のようだ」
「はい。ですから、もういいのです。私には誰かが関わるだけの価値がないのです、そう言われてきて、それが正しかったということです」
「もし己に何らかの力があれば、と思うことはありませんか?」
「力? ……いいえ。そんなものを、無能な私が正しく扱えるとは思えません。であれば、夫に付き従うことが唯一の道です」
私はもう一度、ため息を吐いた。なんだ、私は私の状況がよく分かっているじゃないか。そう自画自賛して、それから落ち込んだ。
私に力なんてものがあったところで無駄、無駄、無駄だ。私に何ができる? きっとその力ごと誰かに利用されるだけだ。なのに欲しがるなんてさらに愚かしいことを、どうしてできよう。
そこまで割り切って考えてしまえたなら、私は少しはすっきりした。
しょうがないのだ。だったら、もう私はそれ以上無駄な足掻きをする必要はない。それに気付かせてくれたことに、アイヴァ公爵閣下へ感謝する。
「ありがとうございます。私を気遣ってくださっているのでしょう。でも、高貴なあなたさまが、私ごときに心を砕かれる必要はございません。ここで暖炉に当たり、公爵閣下とおしゃべりをしたことは一夜の夢と忘れます。明日からはまた今までと同じ日々が続くでしょう。たとえ、アンソニーに婚約破棄されたとしても、また私は同じような婚約者に嫁ぐことになるだけ、ええ、きっとそう」
そうだったらいいな、という矮小な願望を持って、私は頷いた。家から追い出されなければいいけれど……と乾いた笑いが浮かぶところだった。
アイヴァ公爵閣下は、ふむ、と自身の顎をカップを持っていない左手の指先で撫でて、私を直視した。まじまじと、真正面から私の顔を見つめる。
いまいちその意図が分からず、しかし視線を逸らすことも失礼かと思って、私は内心怯えながらアイヴァ公爵閣下と目を合わせていた。じっと男性に見つめられるなんて気恥ずかしいが、我慢していたのだ。
しかし、アイヴァ公爵は不思議なことを言う。
「となると……ええ、まあ、多少の不名誉を受け入れて、現実を変えることができるとなれば、あなたはどうしますか?」
他の宮廷メイドは暖炉の遮断用鉄板を外し、弱まっていた火を掻き棒で燃え上がらせる。部屋中が暖かくなるまでそうはかからず、その間に私の隣にもう一つのソファとサイドテーブル、それに砂糖とミルクたっぷりの甘い紅茶が用意された。
もう一つのソファにはアイヴァ公爵閣下が腰を下ろし、手ずから私へ紅茶のカップを渡してくれた。
温かな飲み物、暖かな部屋、宮廷メイドたちは「ではごゆっくりお過ごしください」と言い残して退室していった。
残された私と、アイヴァ公爵閣下は、しばし黙ったままだった。何を言えばいいかなんて、私には分からなかった。手にした紅茶をお行儀よく飲みつづけて、心が落ち着くまでに半分ほど減らしてしまった。
そうして、やっと落ち着いた心に芽生えたのは、状況を把握したいという欲求だ。つまりは——私はこれからどうなるのか、ということだ。
私は紅茶のカップをサイドテーブルに置き、動悸を抑えながら、腕組みをしたままじっと目を伏せていたアイヴァ公爵閣下へ問いかけた。
「あの……質問してもよろしいでしょうか」
「何なりと」
アイヴァ公爵閣下は黒髪を揺らして顔を上げ、思ったよりも穏やかな口調でそう言った。
であれば、と私は単刀直入に、一番知りたいことを聞く。
「私はやはり、婚約を破棄されるのでしょうか?」
ここに来るまでの間、ずっと脳裏に響いていたアンソニーの言葉がある。「婚約なんてするんじゃなかった」と、きっとアンソニーは軽い気持ちで、場を盛り上げるために言ったのだろう。もちろん本心だった可能性もある、でも彼の浅慮ぶりはよく知っているだけに、その言葉の意味や発したあとの責任までよく考えていなかっただろうと私は思う。
だからと言って、帳消しになるわけではない。その発言は克明に人々の記憶に刻まれ、忘れ去られやしない。私の心の奥底にも、重石となってしっかりと残されている。
別に私はアンソニーのことが好きで婚約を破棄されることを恐れているわけではない。決して、神に誓ってそんなことはない。
ただ、貴族の婚約は家同士の盟約だ。家長である当主の決定であり、私の好悪で決まる程度の話ではない。婚約がなくなってしまうと、我がビーレンフェン男爵家にとって大きな不利益になってしまうのなら、私はそれを望まない。貴族令嬢として生まれた以上、望んではいけないのだ。
もし——そうなってしまえば、両親は悲しむだろう。不出来な娘を恨むだろう。婚約を勧めた伯父は失望を隠さず、何も知らない姉と妹もさすがに私を責めるかもしれない。
生憎と私は、そんな状況に耐えられるほど強くはなかった。平謝りに謝って次の家では失敗しないと誓って、出荷される牛のような扱いを受けるなんて、まず間違いなく心がもたないし、さらにはこの期に及んで自己保身じみたことばかり考える自分に嫌気が差していた。
自分で問いかけておきながら、私はやめておけばよかったと後悔する。そういうところが、自他ともに認める愚かさなのだと噛み締めながら。
毛布の上から暗澹たる思いに包まれた私へ、アイヴァ公爵閣下は現実的に答える。
「さあ、どうでしょう。あなたの婚約者がそう決めたなら、我々は介入できません。契約書に基づいた事柄ですからね、介入できるのはそれこそ女王陛下か裁判所くらいです」
「そうですよね……もうどうしようもないのでしょうね……はあ」
やっぱりだ、尋ねなければよかった。ため息は何度となく漏れ、がっくりと私の首は垂れる。
そんな私を見て、アイヴァ公爵閣下は実に不思議そうな口調でこう言った。
「あなたは、あの男との婚約を続けたいのですか?」
「え? 私、ですか?」
「はい、あなたの意思はどうでしょう?」
「ええと……その」
「ああ、家の手前、ご自身の意思云々を表すことに不都合がおありかもしれませんね。無礼をお許しください、レディ」
「いえ、そんな、私ごときに畏まらないでください。私のことなど、目上の誰かが決めてしまうのでしょうから」
私は正直にそう言ってしまった。だって、そうなのだから、それ以外に言いようがない。私の処遇を決められるのは、家長である父か、未来の夫で婚約者であるアンソニーだけだ。
それはもう諦めた、とっくの昔に私の手足には家名に繋がる見えない鎖があるのだと知っている。
しかし——しかし、だ。
「でも……もう殴られたり、怒られたりしないのなら、婚約がなくなってもいいかも、なんて思ってしまいました。私は愚かものです、そんなことを考えたって両家のためにならないのに」
何を言っているのだろう、私は。そんなことを告白しても、何もならない。
なのに、アイヴァ公爵閣下はすかさずそこに引っかかる。
「あの男に殴られたのですか?」
「えっ!? あっ……その、えっと、いえそれは」
「あの場で話を聞いていれば、あなたが暴力や暴言を振るわれていることは分かります。事実ですね?」
後悔しても遅い、それは私の失言だった。婚約者の悪口を、今ここにいないからと初対面の相手へ口にしてしまうなど、まったくもって淑女失格だ。
焦って、ここから何とか挽回しようと頭を巡らせるが、どうにも上手くいかない。
「だ、だとしても、それは私が我慢すればいいことです。スネルソン伯爵家とビーレンフェン男爵家のためになるなら、それでいいはずです」
「本当にそうお考えですか? ろくでもない人間を告発せず、より大きな利益のために数多の不義を見過ごすことが正しいと?」
「でも、それは……私のような、愚かで弱い人間にはどうしようもないことです。きっと」
「でしょうね。あなたに力はない、おそらくあなたの言葉に耳を傾ける人間もいないことでしょう。残念なことに、それがあなたを取り巻く環境のようだ」
「はい。ですから、もういいのです。私には誰かが関わるだけの価値がないのです、そう言われてきて、それが正しかったということです」
「もし己に何らかの力があれば、と思うことはありませんか?」
「力? ……いいえ。そんなものを、無能な私が正しく扱えるとは思えません。であれば、夫に付き従うことが唯一の道です」
私はもう一度、ため息を吐いた。なんだ、私は私の状況がよく分かっているじゃないか。そう自画自賛して、それから落ち込んだ。
私に力なんてものがあったところで無駄、無駄、無駄だ。私に何ができる? きっとその力ごと誰かに利用されるだけだ。なのに欲しがるなんてさらに愚かしいことを、どうしてできよう。
そこまで割り切って考えてしまえたなら、私は少しはすっきりした。
しょうがないのだ。だったら、もう私はそれ以上無駄な足掻きをする必要はない。それに気付かせてくれたことに、アイヴァ公爵閣下へ感謝する。
「ありがとうございます。私を気遣ってくださっているのでしょう。でも、高貴なあなたさまが、私ごときに心を砕かれる必要はございません。ここで暖炉に当たり、公爵閣下とおしゃべりをしたことは一夜の夢と忘れます。明日からはまた今までと同じ日々が続くでしょう。たとえ、アンソニーに婚約破棄されたとしても、また私は同じような婚約者に嫁ぐことになるだけ、ええ、きっとそう」
そうだったらいいな、という矮小な願望を持って、私は頷いた。家から追い出されなければいいけれど……と乾いた笑いが浮かぶところだった。
アイヴァ公爵閣下は、ふむ、と自身の顎をカップを持っていない左手の指先で撫でて、私を直視した。まじまじと、真正面から私の顔を見つめる。
いまいちその意図が分からず、しかし視線を逸らすことも失礼かと思って、私は内心怯えながらアイヴァ公爵閣下と目を合わせていた。じっと男性に見つめられるなんて気恥ずかしいが、我慢していたのだ。
しかし、アイヴァ公爵は不思議なことを言う。
「となると……ええ、まあ、多少の不名誉を受け入れて、現実を変えることができるとなれば、あなたはどうしますか?」
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