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第五話 あらゆるものが危険な土地

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 うっすらと走馬灯のように思い出したのは、前世の記憶だ。山奥での転落死、落ちる瞬間に目に映ったのは憎たらしいほどに晴れ渡る青空だ。

 今日もまた快晴で、空は青く澄み渡っている。ドロシーは自分が随分長い時間呆けていたように感じたが、意識が飛んでいたのはほんの一瞬だ。

(私、ここでもまた、誰にも知られずに死ぬ……?)

 それは避けられない運命なのか、それとも輪廻転生しても変わらぬ自身の性分が招いた結果なのか。目の前の大熊には本能的な恐怖しか感じない、まったく体が動かないのだ。

 どうしようもないこと、と諦めかけたそのときだった。

「うおおおおッ!」

 どこからともなく聞こえてきた雄叫びが、次の瞬間には目の前の灰色熊に扉ほどもありそうな銀色の大盾ごとぶつかって吹っ飛ばし、ドップラー効果よろしくくわんくわんとドロシーの聴覚を麻痺させた。

 灰色熊は、車輌衝突実験の人形並みに飛んで——あの巨体が地面から浮いただけでも驚異的だ——少し離れた草原にドスンと音を立てて落ち、そのまま短い尻尾を巻いてどこかに逃げていった。慌てて走って逃げる四つ足の巨獣を見送りながら、ようやくドロシーは言葉を発した。

「く、熊が吹っ飛んだぁ!?」

 素っ頓狂な声になってしまったが、たった今起きた出来事は端的にはそうなる。

 ドロシーの前にいた灰色熊は、どこからかやってきた銀色の盾が横からぶつかり、吹っ飛んでバウンドしつつ地面に落ち、そのまま逃走した。本気で走れば車並みに速いだけあって、すでに灰色熊の姿は丘陵の向こうに消えている。

 しかし、体重を測る単位がキロではなくトンであろう灰色熊が吹っ飛ぶほどの力とは、銀色の盾の持ち主は人間だろうか。一応、道具を使っているから人間だと思いたい。

 困惑のドロシーへ、銀色の盾の持ち主が手を差し出してきた。大きなゴツゴツとした手で、武術の修練にとても励んでいることが一目で分かる。さらにドロシーが見上げれば、そこには一人の長身の青年がいた。

 藍色の短い髪に幾本かの赤毛のメッシュが入り、健康的な小麦色の肌をした青年だ。鎧兜はなく、分厚く体格よりも一回り大きな黒い羊毛コートが軽装ながらも鎧の代わりになるのだろう。胸ポケットには銀色の盾の紋章と同じ、金色に黒の二本角の動物が描かれたワッペンを貼り付けている。

 腰に差している長剣は鞘がくたびれているが、補修の跡がそこかしこにあり、青年が長年使ってきたものだろう。常人よりも体格に恵まれた青年なら、片手剣のように扱えるに違いない。

 一番不思議なのは、青年が身につける傷だらけの鉄甲付きブーツだ。見たことのない装備である。大盾といい、熊を吹っ飛ばす怪力と言い、助けてくれたであろうことは分かるが、一体全体青年は何者なのか。

 その疑問を胸に、ドロシーはニコッと不器用に笑う青年の手を取り、立ち上がる。

「お怪我はありませんか?」
「は、はい。あなたこそ」
「問題ありません。さ、まいりましょうか……ドロシー様」

 ドロシーは驚く。なぜ自分の名前を知っているのか、そう尋ねる前に、青年は胸に手を当てて敬礼し、大声で自己紹介をした。

「申し遅れました、ヴィルフレット・グナイストです。剣や槍には自信があります! それはさておき、歩きながら事情をお話ししたいと思います。さっきの熊のような危険な動物がまた来ないとも限りませんので」
「ア、ハイ、ソウデスネ」

 本気で警戒しての発言だろうが、熊を吹っ飛ばす人間以上にこの土地で危険な動物はいるのだろうか。おそらくこの青年以上に危険な存在はいないと思うが、ドロシーは大人なので口にはしない。助けてもらった恩もある。

 とりあえず、ドロシーはヴィルフレットと名乗った青年が歩き出したので、くっついていくことにした。もともとその方向へと行こうとしていたのだ、一緒に来てくれるならありがたい。

グナイスト火花のような人……ドイツ系の名字かぁ。この世界ではヴァンデル帝国東部の姓だけど、うん)

 アルン伯爵領でもよくある苗字であることは確かだが、それにしても——青年のことは、ドロシーは欠片も知らない。なのに、青年はドロシーのことを知っていた。その上で、灰色熊から救出してくれたのだ。

 となると、アルン伯爵領にいるアルン伯爵家の関係者、の線が濃いものの、どうだろう。

(とりあえず、話をしてみないことには始まらない、か。どのみち、修道院まで歩くか、ヴィルフレットの話を聞くしか今の私にやれることはないんだから)

 そう決めたドロシーは、銀色の大盾を背中に背負ったヴィルフレットの横に駆け足で追いつく。横並びになってドロシーがトランクを持っていることに気づき、ヴィルフレットはトランクを「持ちます」と言ってひょいと左手で軽く持ち上げた。

(あら、意外にも紳士)

 正直、田舎のアルン伯爵領のさらに辺鄙な場所で、ヴィルフレットのような帝都育ちのドロシーと一定水準以上のおそらく常識を共有できる教育を受けたであろう人物と遭遇するとは思わなかった。思いがけぬ僥倖と言っていい。

 ところが、ヴィルフレットの話を聞くうちに、ドロシーはとんでもない泥沼にハマりつつあることを自覚せざるをえなくなっていった。
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