婚約破棄の短編集

ルーシャオ

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ユスティーナの場合

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 ヴィストルチル伯爵家令嬢ユスティーナ・ヴィストルチロヴァ。

 拝啓、婚約を破棄します。敬具。

 そんなふざけた手紙の差出人は、ユスティーナの婚約者だった。手紙を持ったまま、筋骨隆々のヴィストルチル伯爵はプルプル震えている。

 その背後で、ユスティーナ——女性にしては少々高い背に、ストレートの金髪と緑色の瞳をした十七歳の令嬢——は、テヘッと舌を出してみたが、誰も見ていないことに気付くまでそれほど時間はかからなかった。

「ユスティ? これは、どういうことだ?」
「あー……多分ですけど」
「かまわん、言ってみろ」
「お相手に闘技場通いがバレたみたいですわ、お父様」

 今度こそ、ちゃんとヴィストルチル伯爵へテヘッとしてみせたユスティーナは、自分の顔の横を投げ飛ばされていった手紙だった鋭利なものを見送り、「あぶなっ」と声を漏らした。

「……まあ、今更、過ぎたことをどうこう言っても仕方がない」
「でしょう?」
「しばらくの間、外出は禁止だ」
「いやですわ! せっかく、無理解な殿方から解放されたのですから、私は俗世を満喫いたしますわ! ごめんあそばせ!」
「おい、ユスティ!」

 ユスティーナは屋敷の庭から駆け出していく。

 残されたヴィストルチル伯爵は、大きな背中を丸めてため息を吐いていた。

 そこへ——一人の青年がやってくる。
 




 今日も今日とて外出し、意気揚々と屋敷へ帰ってきたユスティーナの前に現れたのは、見たこともない栗色の髪をした青年だった。

「初めまして、ユスティーナ嬢。私は」
「あっ、けっこうですわ。私、忙しいので」
「まあまあ、アルノシュト・ヴォジェニーレクです」
「いいですってば。お父様、帰りましたわー」
「ユスティ、ちょっと話を聞きなさい」

 そんなやりとりののち、庭のテーブルに座らさせられたユスティは、ヴィストルチル伯爵と謎の青年アルノシュトを前に、居心地の悪い思いをしていた。

 何せ、アルノシュトはじっとユスティーナを観察するように眺めている。失礼だと言おうものなら、ヴィストルチル伯爵からお叱りの言葉が来そうで言えない。

 ヴィストルチル伯爵が口を開く。

「ユスティ。こちら、東方辺境伯アルノシュト・ヴォジェニーレク閣下だ。ご挨拶なさい」
「初めまして辺境伯閣下、それでは失礼いたしますわ」
「早い早い。ユスティ、閣下はお前に興味がおありだそうだ」
「私はありませんわ!」
「どうしても?」
「どうしても……まあ、好みではありませんから」
「こらこらユスティ」
「はっはっは! いや、ユスティーナ嬢、私はあなたに、大変興味があります」
「あら、そうですの」
「婚約破棄の話も先ほど聞きました。よければ、私と」
「婚約しろということなら、けっこうですわ」

 そう言い切って、ユスティーナは部屋へ逃げていく。

 その後ろ姿に、アルノシュトは叫んだ。

「すぐにとは言いません! でも、私はしつこいですよ!」

 ユスティーナは立ち止まり、振り返って——小さく舌を出して、逃げ帰った。

 その後、アルノシュトはしつこいという言葉どおり、毎日外出するユスティーナのあとへついてきた。ヴィストルチル伯爵と使用人一同がアルノシュトの味方についているのだから、ユスティーナの外出など筒抜けだ。

 それでは、迂闊に好きな場所へ行けない。闘技場にも通えない。ユスティーナはアルノシュトを撒こうと試みたものの、やはりしつこい。たった三日で根負けしたユスティーナは、一計を案じる。

「辺境伯閣下、ちょっとお話ししませんこと?」
「いいですよ。あなたから話しかけてくれるなんて、今日はいい日だ」
「それは重畳。私、あなたと婚約したくありませんの」
「それはなぜです?」
「理由、お知りになりたい?」
「ええ、ぜひ」
「……分かりました。明日、一緒についてきていただきたいところがあります。そこでちょっと、冒険をしますので」
「冒険」
「ええ、冒険。危なくはありませんわ」
「そういうものですか。まあ、何にしてもあなたとのデートだ。喜んで行きましょう」

 そうやって喜んでいられるのも今のうちだ、とユスティーナはほくそ笑む。

 次の日、ユスティーナは軽装で、旅用鞄を手に屋敷の庭でアルノシュトを待っていた。アルノシュトはと言うと、冒険という言葉を信用していたらしく、ちゃんと都市の外へ出る用の軽装でやってきた。

 なんだか上機嫌のアルノシュトは、ユスティーナの後ろにくっついてくる。

「一体、どこへ行くのです?」
「まあ、おそらくは、あんまり辺境伯閣下が普段は行かないようなところですわ」
「なるほど。男女二人で行っても問題のないところですか」
「それはもちろん。ああ、ひょっとすると、ええと、二人ぐらいじゃまずいところかもしれませんけれど」
「二人ぐらいじゃまずい……?」
「とにかく、行けば分かりますわ!」

 鞄を振り回し、ユスティーナはてくてくと都市の外へと歩いていく。早朝に出発して、日が高く昇ったころ。

 ユスティーナはちらりと、アルノシュトを見る。

「というわけで、我が領は決してこちらほど治安はよろしくありませんが、発展していないわけでもありません。むしろ、娯楽なら多いほうかと」

 どういうわけか、アルノシュトは疲れの色も見せず、涼しい顔をしてしゃべっている。おかしい、貴族の坊々じゃなかったのか、とユスティーナは当てが外れたものの、いや、まだだ、と諦めない。どのみち、目的地は目と鼻の先だった。

 ユスティーナは、見えてきた大森林を指差す。

「ああ、あそこですわ。あそこの入り口に張っていれば大丈夫」

 そう言うと、ユスティーナは旅用鞄を開けた。

 中から取り出したのは、汚れた包帯でぐるぐる巻きにされた、何か。アルノシュトの目の前で、ユスティーナがそれが何かを露わにする。

「それは、一体?」

 アルノシュトの問いに、ユスティーナは元気いっぱい答える。

「ナックルダスターですわ!」





 それは、一撃だった。

「せーのっ」

 紫色の醜悪な巨人の頭に振り下ろされたのは、鉄槌のごとき拳、たった一発だ。

 その一発で、巨人の頭は弾け飛んだ。ユスティーナは巨人の残った体を伝って、うまく着地する。

「終わりましたわ。これでこのあたりの農民も、安全に暮らせるでしょう」

 少し遠巻きに一部始終を見ていたアルノシュトが、ぽかんと口を開けて見ている。ユスティーナは、ふっと笑い、煽る。

「あらあら、辺境伯閣下たるお方が、口を開けたままなんてお行儀が悪いですわよ」

 ナックルダスターについた血を拭くユスティーナへ、唾を飲み込んだアルノシュトは——。

「すごい」

 そう言った。

 あら、なんか予想と違う。ユスティーナの計画では、あの人食い巨人グレンデルを一撃で倒すような娘はいらない、とアルノシュトは叫んで逃げ帰るはずだったのだが、またしても当てが外れてしまった。

 さすがに、そろそろアルノシュトがなんなのか、ユスティーナも苛立ちとともに興味が湧いてきた。辺境伯閣下のくせして、物怖じしないし、グレンデルを前にしても観光気分だし、あとどうしてユスティーナにこだわるのかよく分からない。ユスティーナからしてみれば、グレンデルよりも正体不明の怪物に近い。

「ユスティーナ嬢、大したものだ。騎士が揃って退治に赴くような怪物を、たった一人で、それも一撃で倒してしまうなんて」
「……あの? どうして褒めるのです?」
「賞賛以外に何の言葉をかければいいのです?」
「いえ、貶すとか、恐れるとか、色々あるでしょう」
「あなたを? ……うん?」

 アルノシュトは、困惑していた。ユスティーナが褒められて喜んでいない、と思っているようだ。

「ひょっとして、馬鹿にしてらっしゃる? グレンデルを一撃で倒すような女など、怪物よりも怪物だ、とか言い触らすご予定なら、ここでグレンデルと同じ目に遭わせて」

 ユスティーナが不穏な発言をし始めたそのとき。

「ああ! いや、てっきり、東方辺境領のことをご存じとばかり。申し訳ない」
「は?」
「我が東方辺境領は、普通にあのような怪物が出ます。それも、日夜分たず、毎日のように。ですから、軍備はもちろん最優先に、私も陣頭指揮を取って日々退治に出向いています」

 なるほど、見慣れたものだったというわけだ。

 いや、それでもおかしい。ユスティーナの他に、グレンデルを一撃で倒す女、いや男も含めて、そんな人間がいるなんて話は聞いたことがない。

「当然のように、騎士団も男世帯ではなく、女性騎士も多くいます。戦わなければ死ぬだけですからね、皆必死です。それでもまあ、あなたほどの腕前を持つ騎士はいませんが」
「でしょうね! なのに何で」
「はじめは、ヴィストルチル伯爵家が異国の格闘技を受け継ぎ、個人技において随一である、という噂を聞きつけてやってきたのですが」

 ぎくり、とユスティーナは肩を震わせる。

 なぜそれを知っているのか。確かにヴィストルチル伯爵家は、異国の格闘技パンクラチオンを習得し、代々継承し——もはや原型はないらしいが、とにかく肉体を鍛えることに関しては貴族らしからぬ熱意に溢れ、その結果がユスティーナの筋肉だ。一撃でグレンデルを屠り、そして——。

「ついでに、街で耳にしました。闘技場の『女王クラーロヴナ』、それがあなただという噂を」

 バレている。ユスティーナは自分から、アルノシュトへ誤魔化しようがない証拠を握らせてしまっていた。

 ユスティーナは闘技場の主である。闘技場に通い始めた二年前からずっとである。人間相手にはもう、完全に負けなしとなってしまった。天性の格闘センス、唯一無二の筋力、幼いころからの格闘技の経験、それらが、『女王クラーロヴナ』の喝采を浴びるにふさわしいユスティーナを作り出した。

 ただまあ、一応は、黙っていた。仮面もかぶっていたし、バレないと思っていた。それが、元婚約者のように、『闘技場通い』だけで婚約を破棄するような貴族の坊々ばかりで、ユスティーナもほとほと呆れていた。

 しかしだ、どうにもアルノシュトは違う。づかづか近づいてきて、ユスティーナの手をナックルダスターごと握って、こう言った。

「あまり、血筋目当てと思われるのもどうかと思って言い出せなかった一方で、こうも目の前で優秀すぎる技量と肉体を披露されると」
「ちょっ、いや、私、結婚」
「もし、あなたさえよければ、私と結婚して東方辺境領でその腕を振るってもらえませんか」

 どストレートなプロポーズだった。

 しかし、アルノシュトは真剣だ。これは、本当にそう思っているのではないか、ユスティーナをおちょくる目的ではないのではないか。ユスティーナは、悩んだ末、こう尋ねた。 

「それは……実は、かなり事情が、切迫してらっしゃいますの?」
「はい。率直に言いましょう。あなたが来てくだされば、大勢の命が救われます」

 ついでに言うなら、私もとても嬉しいです、とアルノシュトは付け足した。

 ついに、ユスティーナは折れた。

「そういう求められ方、女性としてどうかと思いますけど! でも、やぶさかではないですわ!」





 都市のヴィストルチル伯爵家の屋敷に戻った二人は、ヴィストルチル伯爵へことの次第を説明し——ヴィストルチル伯爵は、その肉体と顔に似合わない大粒の涙を流して喜び、雄叫びを上げた。

「うちの娘が! ユスティが! 結婚をおおおおおお!」
「お父様、恥ずかしいので叫ばないでくださる? 聞いてます?」

 こうして、ユスティーナは、東方辺境伯のもとへ嫁いだ。

 ナックルダスターを両拳につけ、今日も先頭を切って怪物を叩きのめしに行く。
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