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第五話 セレネの泣き顔

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 首都防衛の大任を負う大兵営の責任者は、総司令官たるカーネリス将軍だ。

 そのカーネリス将軍は軍事に関しては飛び抜けて有能なのだが、それ以外では稀に失敗することもある。

 セレネが相談してきた、婚約者になるかもしれない男——ジャン=ジャック・マードックを大兵営にこっそり招いて、セレネが望むように話を白黒はっきりさせようとしたのだが、貴族学校へ送り込んだ手勢の部下三人が帰ってきてその顛末を報告したせいで、とんでもない事態になってしまった。

 老将たちとのお茶会を終え、甘いお菓子をたくさん食べてテラスに出されたカウチソファで夜風を浴びるご満悦のセレネとカーネリスの前で、山高帽を脱いだカーネリスの部下三人が申し訳なさそうに報告する。

「……ということだったんですが」

 つまるところ、ジャンは招きに応じて大兵営へやってくるのだが、その目的は——最悪なことに——セレネとの婚約話を断るためだという。

 報告を聞いていたセレネの顔は徐々に曇りはじめ、やがては涙目になり、大雨のごとき大泣きに至ってしまった。

「わあああああん!」
「えっ!? えええ!?」
「落ち着いてセレネ様! はい深呼吸!」
「びえええええ!」

 部下たちが必死になだめようとするが、セレネは火がついたように泣き出して、泣き止む気配がない。

 何せ、セレネが必死に心の中で蓋をして閉じていた膨れ上がった不安や、怒りや悲しみといった感情が爆発したのだ。

 セレネはジャンのことが嫌いではなかった。むしろ、婚約という話を聞いて、ちょっとドキドキしていた。貴族に恋愛結婚はほぼない、だから誰かに決められたとはいえ、結婚を前提にした婚約者と恋人のような時間を過ごすことは乙女の憧れのようなものがあったのだが——。

「振られたー! 振られたんですけどー! 当たる前に砕けてるじゃないのー! わあああん!」

 婚約が成立するどころか、その前に向こうから断られたのだ。セレネとしては、恋をする前に失恋したようなものである。

 男世帯の大兵営では通常ありえない、少女の甲高い泣き声は、セレネがテラスにいたこともあって大兵営中に響いた。すでにテラスから離れていた老将たちさえ、緊急事態とばかりに慌ただしく戻ってきたほどだ。

 遅かれ早かれそうなっていたということを鑑みたとしても、結局事態の引き金を引いてしまったカーネリスが頭を抱え、部下たちはセレネを囲む老将に何がどうしたのだと迫られ、対応に追われる。

「は? セレネが振られた……そうなるのか?」
「どこのどいつにだ!?」
「こうしてはおれん! 王都中を探して連れてこい!」
「大丈夫です! 自分から来るそうです! なので始末するのは夕食後で頼みます!」
「そいつの名前は!?」
「ジャン=ジャック・マードックです!」
「何だそのどこにでもいそうな名前は! どこの貴族だ!」
「えっと、ド・ヴィシャ侯爵家預かりで、セレネ様と婚約の話が持ち上がっていたということで」
「よし、しょそう」
「だめー! しょしちゃだめー!」
「うちのセレネの何が不満で婚約しないと!? どこからどう見ても完璧な王女殿下だろうが!」
「いや、完璧ではないが、それでも可愛らしくて幸運の女神であることは事実!」
脅迫説得しよう」
「そうしよう」

 もはやメチャクチャである。

 あくまでセレネが泣いたことにだけは重い責任を感じたカーネリスは、この混迷の事態を収集すべく、若き日を思い出す大音声だいおんじょうで叫んだ。

「ま、待ったッ! 全員、傾聴けいちょう!」

 大兵営本陣建物のテラス、この場にいるうちで軍人ではない人間はセレネ一人である。つまり、その他の全員は、厳しい訓練でもはや脳髄に刻まれたがごとく、命令文句を耳にした瞬間カーネリスのほうへ向き直った。

 セレネ、老将たち、部下三人を前にして、カーネリスはわざとらしく落ち着き払った。

「まあ、落ち着け、皆の衆。私にいい考えがある」
「いい考えも何もお前がやらかした結果だろうが」
「やかましい! いいから聞け!」

 茶化されてもめげない。だって総司令官だもん。そう思ったかは定かではないが、知将カーネリスの脳内には確かにこの事態を何とかする演説案があった。

「まず、セレネ。お前はそのジャン=ジャックという男と婚約、あるいは結婚したいのか?」

 カーネリスの確認は、いきなりセレネの地雷を踏んだ。

「知らない、そんなの! 分かるわけないでしょー!」
「また泣かした!」
「敵の心は分かっても女心は分からんやつめ!」
「そんなだから嫁に半殺しにされるんじゃ!」
「やかましいわ! 余計なお世話だ!」

 あと半殺しではない、剣を突きつけられただけだ、とカーネリスは反論するが、余計に白い目で見られるだけで逆効果だった。

 しかし、今はカーネリスの過去ではなく、セレネの未来を案じなければならない。

 カーネリスは威圧的な声色で、仕切り直す。

「いいか、そもそもセレネは元王女、現サンレイ伯爵嫡子だ! 貴族でもないどこの馬の骨やら分からん男と結婚させられるか!? 私は反対だ! なぜなら、セレネは」

 カーネリスが今から言おうとしていることは、周知の事実だ。だが、だからと言って——。

 カーネリスは懊悩を振り払い、改めて言葉にする。

「……父君たる国王陛下に邪険にされ、暗殺未遂までされているのだぞ」

 しんとテラスが静まり返る中、セレネの嗚咽は、少しずつ抑えられていく。

 父親に死んでほしいと願われる娘の気持ちは、如何ほどのものか。ここにいるセレネ以外の全員が、分かりようがない。老将とてそんな経験はなく、子を愛する親の気持ちは分かっても、その逆は到底理解しがたい。

「その男が陛下の差し金ではないと言い切れるか? 我々の半分は貴族ではないが、王位継承争いに関わる貴族たちはセレネをどう思っているかなどお見通しだ。『奇跡の王女ワンダープリンセス』と謳うは我らのみ、王侯貴族の多くは我らのセレネを疎んじていることは自明! ならば……我々は、セレネを守らねばならん。たとえ、国王に反逆してでも」

 そもそもは、セレネを遠ざけ、殺すよう予言者が進言したと聞いているが、果たしてそれは事実なのか。事実であろうとなかろうと、他人の言葉に従って実の娘の息の根を止めようとする父親に、自分たちは忠誠を誓えるのか。

 何も、これまでの人生で老将たちが直面してきた苦境や難題ほど込み入った話ではない。を許せるかどうか、ただそれだけなのだ。

 おそらくは、これから先もセレネはその問題を抱えていく。命を狙われることもあれば、失脚を望まれ、母やベルネルティ公爵、サンレイ伯爵が庇いきれない事態に陥ることも十分に考えられる。

 だったら、どうすべきか。一番簡単な解決法は、諸悪の根源を潰すことだ。

 すなわち——イースティス王国国王と予言者の排除。少なくとも、それができなければ、セレネの今後の安全は保証されない。

 誰もがその結論に一度は到達し、しかし実行に移せない数々の理由を前に頭から消し去っていた。老将たちはその結論を胸にしまい、セレネを可愛がってきた。それが問題の先送りと知りながら、『奇跡の王女ワンダープリンセス』の名を利用してきた。

 沈黙が重苦しい。すでに夕日は丘陵の地平線に沈みかけ、薄月と星が現れはじめる。

 セレネは、ようやくハンカチで顔を拭いて、椅子から立ち上がる。

「ごめんなさい。それは、私が考えなきゃいけないことだった。浮かれてた、みんなに迷惑をかけちゃった」

 誰も、セレネの言葉に返事ができない。その覚悟もない。

 セレネはそれでもよかった。笑顔を作り、声を明るくする。

「カーネリス、食堂を借りてもいい? ジャンが来てくれるだろうから、ちゃんと話してくる。二人きりだと心配をかけちゃうから、誰か付き添ってくれると助かるんだけど」

 すでに招いてしまったのなら、出迎えることが筋だ。ジャンの夕食を用意して、話し合って、婚約の話をなかったことにする。それが今のセレネのなすべきことだった。

 カーネリスは、無理して明るく振る舞う少女に胸が痛みつつも、その意思に従う。

「ならば、私が控えていよう。部下たちにも同席させ、もし暗殺者であれば対処する。そうでなければ、彼を丁重に家まで送ろう」

 ようやく緊迫の空気が薄まってきたこともあって、老将たちはセレネを気遣う言葉をかけた。

「そうか、そうか。セレネ、謝らなくていい。むしろ、ほっとしたぞ。お前が今でも我々を頼ってくれるのだから、つい、な」
「うむ。失礼しました、殿下。これからもどうぞ、休みの日はいらしてくだされ。我々が生きている間は必ずお出迎えいたしますゆえ」
「ありがとう。今日はお言葉に甘えるわ」

 セレネは「それじゃあ、またね!」と元気よく食堂へ駆けていく。セレネが振り返ることはなかった、罪悪感に押し潰されそうになっている年長者たちの顔を立てなければならない。

 カーネリスの部下たちは、滅多に見ない老将たちの苦悶の顔から目を逸らし、カーネリスからの命令を待つ。

 セレネの足音が聞こえなくなってから、重い口を開いたカーネリスの言葉は、簡潔だった。

「全員、前を向け。まだ仕事が残っているぞ」

 部下たちは、テラスから去るカーネリスの背を追う。

 矍鑠たるその背中には、怒気がみなぎっていた。
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