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番外編

憧憬と矜持のカノン 3

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 ヒューイはスッキリしない気持ちを抱えたまま日々を過ごしたが、双子の連休最終日に合わせてヘザーを夕食に招いてあった。

 その日ヒューイが帰宅すると、バークレイ家の執事がヘザーはもう到着している旨を伝えに来た。
 その後で、父のレジナルドがやって来る。
「ヒューイ、お帰り!」
「父上。ただいま戻りました」
「うん、うん。ヘザーちゃん、もう来てるよ!」

 父はヘザーがお気に入りだ。
 ヒューイが彼女と婚約して以来、自分が嫁を貰ったように毎日ウキウキしている。
「それでね、ヘザーちゃんがとびきりのサプライズを用意してきてくれたんだけど……何だと思う?」
「……サプライズ、ですか?」
 今日は自分の誕生日でも父の誕生日でもない。何かの記念日でもない筈だが、サプライズ……?
 ヒューイが考えていると、父は息子の返事が待ちきれなかったらしく、小さく飛び跳ねながら言った。
「なんと! 手料理を持って来てくれたんだよ!」
「え……な、なんですって!?」
 ヘザーの手料理。それだけで恐ろし気な響きがあるのだが。
「ほら。ヘザーちゃんが待ってるよ!」
 固まっているヒューイを、レジナルドはぐいぐいと引っ張った。



「あ、おかえりー!」
 ヘザーはリビングに案内されており──はじめの頃は客間に通されていたはずだが、最近はリビングでくつろぎながらヒューイを待っているようになった──彼女の傍のテーブルに、何かの包みが乗っている。
 父は「食堂で待っているよ」と言って双子たちを呼びに行った。
 ヘザーはヒューイの姿を認めると、
「ほら、これ。作ってきたの。ちょっと食べてみて!」
 包みを手に取り、ヒューイに差し出した。

 恐々と包みの中を覗いてみると、干し肉……が入っているように見えた。
「ヘザー。こ、これは、」
「私が味付けして燻したの!」
 ヘザーは自慢げに胸を張った。
 彼女が言うには、最近お茶会で知り合った夫人の旦那さんが燻製作りにハマっており、燻製小屋を持っているらしい。そこを使わせてもらったのだとか。
「私、実家にいた頃は、父さんとこういうの作ることもあったのよね。家の裏で、木箱を使って!」
 ヘザーもその父親のヴァルデスも料理は出来ないと聞いていたが、いわゆる「酒のつまみ」は自作することがあったようだ。
 確かに燻製は、材料を切って煮たり焼いたりするだけの料理よりは、手間──というか時間──がかかるものだろう。
 しかしこれを「手料理」と呼んで良いものなのかどうか……疑問に思うヒューイである。
「ねえねえ、食べてみて。絶対美味しいから!」
 ヘザーのわくわく顔に何も言えなくなり、干し肉の欠片を黙って口に運んだ。
「……ああ。確かに、美味いな」
 塩分の高さが気にはなるものの、酒がすすみそうな味付けと香りだ。父はナッツやチーズをつまみながら晩酌することが多いので、それにぴったりだと思った。ヘザーの手作りならば感動も一入だろう。

 そこに、おこぼれが貰えそうだと期待したラッキーがやって来る。
「ラッキー、だめだ。君には与えられない」
 ヒューイは手で制した。
 犬には人間と同じもの、または残り物を与えればよいと言う人が大多数のようだが、それでは犬の健康に良くないとヒューイは思っている。
 だからラッキーの食事は、味付けを極力控えめにするように注意を払っているのだ。
「貴方ならそう言うと思ってね、ラッキー用にもちゃんと持ってきたのよ。ほら!」
 ヘザーが別の包みを開けると、そこには牛の骨と思われるものが入っていた。

 普通のレディは牛の骨を持ち歩いたりしない。彼女はいったいどんな顔をして干し肉と牛の骨を梱包し、馬車に乗り込んでここまでやって来たのやら。
 ヒューイはちょっと絶句したが、骨を受け取ったラッキーの様子にまた絶句した。
 ラッキーは骨を咥え、落ち着ける場所──部屋の隅っこ──まで行くと、そこに寝そべって太い前足で骨を押さえ、奥歯でがりがりと齧りだす。よほど嬉しかったのだろう、恍惚感溢れる表情……というか、完全に目がイってしまっている。

「あははは! ラッキーのあの顔! 可愛いね。でも、おっかしいー」
 ヘザーがお腹を押さえて笑った。
 確かに。犬だからおかしな顔で済まされるが、人間があんな目をしたら、間違いなく鉄格子付きの療養所に入れられているだろう。
「ヘザー」
「うん? 何?」
「もし僕と出会っていなかったら……君はずっと騎士を続けるつもりだったのか」
 ラッキーのおかしな顔を見ながらする話ではない筈だが……いや、場違いだからこそ訊きやすかったのだろうか。ヒューイは何となく訊ねてしまっていた。

「えっ……」
 するとヘザーの表情がさっと変わって、彼女はそのまま固まってしまう。
 ヒューイは妙な焦りを覚えた。
 訊いてはいけない事だったのだろうか、ひょっとしたらヘザーは自分が大きなキャリアを手放したことに気づいていて、それを後悔しているのではないかと。
「な、なんでそんなこと訊くの……?」
「いや、答えたくないならば……それでもいいが」
 そうは言ったものの、本当は自分が恐れているのではないだろうか。「そうだ、自分は諦めたのだ」と、彼女の口から紡がれる言葉を。

 ヘザーは俯き、それから小さな声で語りだした。
「え、ええと……王女様がいる限りは、騎士を続けてたと思うわ」
 ヘザーはコンスタンス王女に気に入られて近衛騎士になった。だから王女が望む限りは傍についていただろう。しかし、王女は他国へ嫁ぎ、近衛隊は解散となった。だからヘザーはヒューイと出会った訳だが。
「でも、近衛隊が解散になったうえで、貴方とも出会わなかったら……という話なんでしょう?」
「……そうだな」
「わ、わかんない。騎士をだらだら続けてたかもしれないし、どこかで嫌になって、実家に帰ってたかもしれない」
「故郷に帰って……何をするつもりだったんだ? また闘技場の剣士に戻るのか?」
「……どうかなあ」
 ヘザーはそこでテーブルの上の包みをちらりと見た。
「父さんと一緒に、ジャーキー屋さん始めたかもしれないし」
「それはまたずいぶん……行き当たりばったりではないか」
「そうだよ。だって、本当に分からないんだもの!」
 ヘザーは顔を上げ、言った。
 ヒューイに会う前のヘザーには結婚の予定も予感もなく、女一人でこの先どうしようとか、父親を王都に呼ぶべきか、或いは自分が帰るべきか……詳細な計画があった訳ではないが、漠然と考えてはいたのだと。
「でも。今の私の世界は貴方が中心に回っていて、前はもっといろんなこと考えてたはずなのに……何も、思い出せない……」
「ヘザー、僕は……」
 珍しく、ヘザーの瞳が憂うように揺らいだ。
「貴方は自分をしっかり持っている人だから、相手にもそれを求めてる。だから、こういう……主体性のない人間には我慢がならないでしょう? 私、今、すっごく幸せだけど。たまに、幸せなのと同じくらい、すっごく……不安になる。自分で思ってる以上に、貴方に依存している気がして。いつか、貴方に呆れられてしまうんじゃないかって……」
「ヘザー……」

 幸せなのと同じくらい不安になる。
 互いが互いの世界の中心過ぎて、二人とも視野が狭くなっていた。そういう事ではないだろうか。

「ヘザー。僕は……僕も、君の背中ばかり見ている。君はいつも活力に溢れていて、油断すると僕はすぐに君を見失ってしまう。そんな気がしていた」
 彼女に値する男であるよう尽力すべきだと常々思ってはいるが……ヒューイには理解の及ばぬ音楽の話をヘザーが嬉しそうにしていたり、双子たちがどんどん成長していくのを目の当たりにして、勝手に置いていかれた気分に陥り、勝手に焦っていた。
「え? 私……そんなにすごい人じゃないよ」
「僕だって君が思うほどに人間が出来ている訳ではない」

 心に巣食った霧が、ようやく晴れていくような気がした。
 そしてラッキーは、この場の空気に気づくことも無く、変な顔で骨をごりごりと齧り続けている。

「クッ……はははは!」
 安堵のせいか、シュールな光景を見たせいか、ヒューイは思わず声をあげて笑っていた。
 途端、ヘザーが一歩退いた。その表情は驚愕に満ちている。
「わ、笑ってる……! ヒューイが笑った! えっ? 貴方って笑うの!?」
「……そりゃ、笑うが」
「えー!? だって、初めて見た! 嘘、笑うんだ!?」
 彼女はちょっと驚きすぎではないだろうかと思いはしたものの、そう言えば普段は鼻でフッと笑うくらいだ。こんな風に声を出して笑うのは久しぶりな気がした。

「ヘザー姉ちゃん! なんかあったのか!?」
 彼女の大騒ぎは食堂にまで聞こえたらしい。ロイドがやってきたが、ヘザーは慌てて扉のところまで行き、外から開けられないように背中で蓋をした。
「う、うん! ちょっと、花瓶を落としそうになっちゃって。騒いじゃってごめんねー」
「そっか。割らなくてよかったな! 夕食、もうすぐ準備できるって。二人とも早く食堂に来いよ」
「わかったー。今、行くね!」
 ロイドの足音が遠ざかり、ヘザーはほっとしたように扉から離れる。
 彼女の行動をヒューイは疑問に思った。
「別に疚しいことはしていないだろう」
「えっ? だって、貴方、笑ったじゃない! 子供には刺激が強すぎるよ……!」
「なっ……ひょっとして、僕が笑ったせいなのか!?」
「そうだよ、今のは立派な十八禁だった! あ、もしかして家族の前ではしょっちゅう笑ってるの?」
「いや……今みたいには、ずいぶん長いこと笑っていないな」
 笑っただけで成人向け扱いというのはちょっと腑に落ちないが、ロイドに見られていたらやはり大騒ぎされて、彼は父やグレンまで呼びに行ったかもしれない。



「ああ、びっくりしたあ……笑うんだ……」
「そんなに驚いたのか」
「うん。珍しいの見られて嬉しい」
 ヘザーはまだしげしげとヒューイの顔を観察している。
 こんなことでは次に笑う時、必要以上に意識してしまいそうではないか。
「でもね、」
 彼女はいったん俯き、それからちょっとはにかむような笑みを見せた。
「ヒューイの気持ちを聞けたことが一番嬉しかった。私ばっかり追いかけてるのかと思ってたから……」
「……僕も、話してみて良かった」
 どちらからともなく歩み寄って、向かい合う。ヘザーの肩に手をかけると、自然に二人の顔が近づいた。

 場所が場所だから、熱く燃え上がるようなものはできないが、軽く触れ合わせるキスでも充分に互いの気持ちは伝わるような気がする。
 ヒューイはヘザーの唇に自分のそれを重ね合わせ、だが、すぐに顔を離した。

「ヘザー。君の唇は、どうしてそんなにガサガサなんだ!」
「え? 嘘。あれ、ほんとだ」
「まったく……!」
 ヒューイはポケットに手を入れて、蓋つきの小さな容器を取り出した。中には蜜蝋を使ったリップクリームが入っている。
「ヒューイって、ほんとに用意がいいよね。大抵なんでも持ってるし。ポケットが膨らんでるわけじゃないのに……魔法みたい」
「いいから、きちんとケアしたまえ」
 必要なものを見極め、そして荷物は極力少なく。それが出来る男というものだ。
 ヘザーがいつものヘザーだったので、なんとなく、ヒューイにもいつもの調子が戻ってきた。
 クリームを指で掬って彼女の唇に塗ってやろうと容器の蓋を開けたが、ヘザーが「待って」と言った。
「これからお夕食だから、今塗ったらすぐに取れちゃうかも」
「む……。それもそうだな。まずは食堂へ向かうとするか」
 ヘザーの手を取って廊下へ出る。

 途中、彼女がこそっと呟いた。
「ヒューイが自分のこと話してくれたの、ほんとに嬉しかった。これからも、何かあったらちゃんと話してね」
「無論だ」
「結婚してからも、絶対話してね」
「ああ……君もな」
 そう言うと、ヘザーはえへへと笑って、ヒューイにべったりと身体を預けてきた。食堂まではそう遠くないが、ヒューイも彼女の腰に手を回した。


(番外編:憧憬と矜持のカノン 了)


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