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番外編

憧憬と矜持のカノン 2

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「ヒューイ。ちょっと、こっち来てくれよ」
「ロイド。そういえば、今日から休みなのだったな」

 仕事を終えたヒューイが家に帰ると、従弟の少年であるロイドが廊下の隅で手招きをしていた。
 学校が連休を設けたらしく、帰省してきているのだ。
「グレンも帰ってきているのか」
「そのグレンのことなんだけどよう……」
 ロイドがしつこく手招きするので、ヒューイは身体を屈めてやった。彼は図々しくもヒューイの肩に腕を回し、ひそひそ話を始めた。
「あのさ。これ、男同士の、内緒話だからな」
「だから、なんだね。早く言いたまえ」
「グレンの奴さあ、コレが出来たんだって」
 ロイドは「コレ」と言って小指を立てて見せた。あまりに俗っぽい表現に、ヒューイは顔を顰める。
「ロイド……品の無い表現はやめなさい」
 寄宿学校に入ってから交友関係が広がったようで、新しく覚えてきた仕草や言葉をロイドはやたらと使いたがる。
 彼の拳の上に自分の手のひらを重ねて止めさせたわけだが、そこでロイドの言葉の重大さにやっと気づいた。

「ロイド。グレンに恋人ができたという事か?」
「え? あー……もしかしたら、片想いかもしれないけどさあ。あいつのアレは、絶対女だと思うんだよな!」
 ロイドが言うには、グレンは最近工作を始めており、それが、どうやらアクセサリーを作っている途中のようなのだ。
 粘土を小さく丸めて固め、それを絵具で色付けし、さらにニスを塗って光沢を出しているという。ロイドはそれを見たらしかった。
「あいつ、首飾りとか作るつもりなんだぜ!」
「……。」
 ヒューイは顎を擦りながら考える。
 まあ、甘酸っぱい恋の話と受け止めておいても良いのだが……微笑ましいかどうかは相手の娘にもよる。詳しく言えば、娘の家柄や両親の人柄に。
 グレンの相手を同年代の娘と仮定して……粘土でできたアクセサリーを喜ぶものなのだろうか。粘土製は──名の知れた芸術家が作ったものならばともかく──少し子供っぽ過ぎやしないだろうか。
 貴族の令嬢に懸想して粘土細工を渡したりしたら、鼻で笑われてしまうのでは。いや、娘本人は喜んだとしても、彼女の親に知れたらどう思われるのだろう。「うちの娘にはすでに婚約者が!」などと憤って、この屋敷に怒鳴り込んでくる可能性だってある。
 グレンが傷つくことにならなければ良いのだが……と、ここまで考えたが、グレンはどこか厭世的で、斜めに世の中を見つめている少年だ。果たしてそんなグレンが、女の子に手作りの装飾品を渡したりするだろうか?

「ロイド。君はグレンの相手に心当たりがあるのか?」
「え? いやあ……おれはあいつが工作してるとこ、見ただけだからな……」
「ふむ……まあ、良い。君の報告は心に留めておこう」
「あ、これ、告げ口じゃないからな! 男同士の、内緒話だからな!」
「わかった、わかった。わかったから、早く休みたまえ」
 ロイドは早く大人になりたがっていて、最近はすぐに「男同士の友情」だとか「大人の男の話」だとか言い出したりするようになった。そういうことを言っているうちは、まだまだ子供だと思うが……だが、
「あっという間、なのだろうな」
 ロイドの背中を見送りながら、そう呟いた。



 日付も変わる頃、ヒューイは廊下を覗いた。
 案の定、グレンの部屋の扉の隙間からは灯りが漏れている。
 ロイドの就寝は早いが、グレンは夜更かしして勉強したり本を読んでいることが多い。ひょっとしたら、今夜は粘土細工に精を出しているのかもしれないが。

 ヒューイはグレンの部屋を静かにノックした。
「グレン、起きているか……僕だ」
「……ヒューイ? どうしたの」

 扉を開けると、部屋の奥の机にはランプが二つ置かれていた。それで手元を明るく照らしているのだ。
 グレンは椅子に座ったままヒューイを振り返った。そこには赤や黄色で塗られた小さな粒──おそらくは粘土を丸く固めたもの──が散らばっていたが、彼は机の上を片づけたり隠したり、焦ったりする様子もない。
 ここで、ロイドは勘ぐり過ぎだったのではないかと、なんとなくヒューイは思った。
「グレン。君はいったい……何を作っているんだ?」
「うん? ああ、これ……?」
 グレンは手元の粘土を丸くすると、今度はあらかじめ作ってあったそれよりも小さな粒を二つ、新しく作ったものにめり込ませた。
 それをひっくり返したり、角度を変えて観察しながらグレンは答える。
「分子模型だよ」
「ぶ、分子……?」
「うん。これは水の分子。こっちは二酸化炭素で、これは硫酸」
 改めてグレンの机の上を見てみると、今のと同じように、色を付けた球体を組み合わせたものがいくつか転がっていた。球体がこのように連なっていると、ものによっては、ちょっと気持ちが悪い。

 ヒューイは驚いて口を噤んだ。
 この世のあらゆる物質を小さく小さく分解していくと分子になる。分子をさらに分解すると原子になる……と、提唱した化学者がいるのは知っている。それを証明するために、大学校よりもさらに上の機関で研究が進められているが、常人には理解の及ばぬ範囲の話らしい、とも聞いたことはあった。
「最近出版された本に書いてあったんだ。『水』の最小単位は『これ』で、」
 と、グレンは今作ったばかりの模型をヒューイの前に翳す。その後で一つの球体にめり込ませていた、別の二つの球体を取り外した。
「水分子は、さらに水素原子二つと酸素原子一つに分解できるんだ」
「う、うむ……それでこれは……まさか、学校の課題ではないだろうな」
 ヒューイの知る限り、これは寄宿学校に通っているうちに勉強する範囲ではない。
 グレンは「うーん」と唸って首を傾げた。
「連休中の課題が、自由研究なんだ。規模は小さくてもいいから、興味のあることを調べて、纏めてきなさいって。だから、課題って言ったら課題なんだけど……」

 双子がこの家に来たばかりの頃、グレンは「たくさん勉強して偉い人になりたい」と言っていた。ヒューイはそれに対して「学者で食べていくのは大変だからやめておけ」と答えた筈だった。
 だがグレンならば、自分の進みたい方面で充分に活躍できる気もする。今ならそう思う。
「グレン。君は……化学の方へ進みたいのか?」
「え? ううん、そういう訳じゃないよ」
「だが……君が今やっている自由研究は、学校で習う範囲ではない。よほどの興味が無くてはできない事だぞ」
「……そうなの?」
 グレンは粘土でできた球体を指で弄びながら答えた。
「僕は……クラスの子が誰も知らないことを、一番先に知りたいだけなんだ。分野は何でもいい。今回はたまたま、分子や原子についての本を読んだばかりだったから」
「そ、そうか。熱心なのは良いことだが、夜更かしは身体によくない。ほどほどにしておきたまえ」
「うん、わかった」

 先ほどロイドの背中を見ながら、彼らが大人になるのはあっという間なのだろうと、そう考えたばかりだったが。
「そう急がなくても良いと思うがな……」
 グレンの部屋を出たヒューイはそう思った。



「え? 課題? なあんだあー」
 実際にグレンに恋の相手がいたのだとしたら、ロイドへの報告は控えていたかもしれない。だがそんな事は全くなかったので、ヒューイはロイドに分かったことを告げた。
 ロイドは残念そうな、でも安心したような、そんな感じの反応を見せた。
「どうした。弟に先を越されそうになって焦っていたのか」
「え? いや。おれは男の友情ってやつの方が大事だからな! 女なんかにかまけてる暇は無いんだぜ」
「……。」
 彼は得意顔で宣言したが、男友達とばかり連れ立っていると、年頃になった時に異性に対処できなくて奥手になってしまう。こういうことをいう奴に限って、数年後には「恋人欲しくて気が狂いそう!」と口を開くたびに嘆くのである。
 ロイドの青年期がなんとなく予想できた。

「しっかしグレンの奴、難しいことやってんなー。おれ、よく分かんねえ」
「うむ。まったくだ」
 こうなってくると、あれを提出して教師に理解してもらえるのかどうかが心配である。まあ、本が出版されていると言っていたし、化学専門の教師のところへ持って行けば評価はしてもらえるだろう。

 そして今はそれよりも。
「ロイド。朝市に行きたいとは、どういうことだね」
「ああ。それなんだけどさあ。おれも課題があってさあ……」
 今日は朝起きるなり、ロイドに買い物に付き合ってほしいと言われて外に連れ出されているヒューイだ。
 今、二人は朝市の開かれる通りへ向かって歩いているところだった。
 なんでも、ロイドは課題のための買い物をしたいらしい。学ぶための資金ならば小遣いとは別に出してやるつもりだったが、彼はきまり悪そうにしている。
「それで、君は何の研究をするつもりなんだ?」
「ナメクジ」
「……ナメクジの生態を調べるという事か?」
「ナメクジって、塩で死ぬだろ?」
「ああ」
「砂糖とか小麦粉でも死ぬのかなって思って、粉っぽいものを色々かけてみようと思うんだよな」
「……。」
 ヒューイは閉口した。
 ただでさえちょっとどうかと思われる内容である。塩に限らず、水分を吸収する性質のものならば、実験するまでもなく何でもいけそうな気がする。それをグレンの分子模型の後に聞いたものだから、ますますどうかと思えた。

 どう反応すべきか迷っているヒューイをよそにロイドは続けた。
「ナメクジはいっぱい集めたんだ」
 それならば庭の草花にたくさんついている。ナメクジは草花にダメージを与える生物だから、庭師やヒューイの父は喜んで「好きなだけ持って行け」と言ってくれた。
「けど、小麦粉とか貰おうと思って、キッチンに行ったらさあ……」
 ロイドはコックに小麦粉と砂糖と塩を貰った。他に粉っぽいものがあるかと問うと、コーンスターチ、パン粉、ココアパウダー、シナモンパウダーなどがあるとコックは答えた。ロイドはそれも欲しいと言った。
 そこでさすがにコックは何に使うのかを訊ねる。ロイドがナメクジに振りかけるのだと答えると、
「怒られちった……」
「当たり前だ。スターチやパン粉はともかく、ココアやシナモンは貴重品だぞ。ナメクジに使ってしまう奴があるか」
「それでさ、朝市っていろんなものが安く売ってるんだろ? おれの小遣いでも買えるかなって思って」
「振りかけるものを食品にこだわる必要はないだろう。水分を奪うものならば……乾いた土や砂でもいい。あとは……顔料や……家の薬箱に、古いハーブの粉末が残っているかもしれん。探してみたまえ」
「あっ、そうか。そういうのでも、いいんだよな! いやー、ヒューイに相談してみてよかったぜ……」
 ロイドは胸を撫で下ろしているが、彼の相談に真剣に答えてしまった自分自身を疑問に思ったヒューイであった。

 この後は家に帰って粉末状のものを探せばよいのだが、朝市の通りはすぐ近くである。市に足を運ぶ機会などヒューイにはなかったし、ロイドに見学させるのも良いかもしれない。そう思ったヒューイは、店を一通り見て回ろうと提案した。

「安いよ安いよ!」
 屋台の主がそう叫んでいる。
 食材の詳しい値段をヒューイも把握している訳ではないが、生鮮食品の類は確かに安いようだ。
 今朝港から運ばれてきたばかりの貝や魚が氷の上に並んでいて、それは僅かに動いている。
「おっ。これ、生きてんのか?」
「そうみたいだな」
「すげえ……」
 ロイドは目の前に並んだ大きなホタテ貝を感心したように見つめている。
 貝は大きく口を開けた状態で、ちょっとだらしない感じで中身を露出させていた。それを見たヒューイは、不安を覚えた。ロイドが何かをやらかしそうだと思ったのだ。
「ロイド、」
 彼に釘を刺そうとしたヒューイだったが、僅かに遅かった。
 ロイドは──案の定、と言うべきだろうか──人差し指で貝の中身をぐっと押したのである。
 途端、貝の口がばくんと閉じた。

「う、うわあっ!?」
「ロイド!」
「うわ、痛え!」
 ロイドはそれを振り払おうと腕を動かしたが、貝が口を開ける様子はない。
「げえっ!? とれねえ! いて、いてえ!」
「ロイド! 大丈夫か?」
 彼の腕を掴み、貝をこじ開けようとしていると、屋台の店主がやって来て怒鳴った。
「ちょっと、お客さん! そういうことされちゃ困るよ!」
「も、申し訳ない……」
 店主は持っていたトングで貝の口をこじ開けてくれたが、結局、ホタテは買い取らなくてはならなかった。

「あー、びっくりした。ヒューイがいてくれて助かったぜ」
「まったく、君は……」
 帰り道でヒューイは、もう少し慎重に行動したまえとロイドに小言をくれてやろうとした。しかし。
「でも、ごめん、ヒューイ。また、おれのせいでヒューイが頭下げることになって……」
「ロイド……」
 以前ロイドのやらかしが原因で、ヒューイは彼の学校の教師に頭を下げに行ったことがある。
 かなりどうしようもない事だったので、ヒューイは怒る気も失せていたほどだったが、ロイドはそうではなかったようだ。
「おれのせいでヒューイが謝ってるの見て、すごく嫌な気分になったんだ。ああいう気持ちになるの、初めてだった。それで思ったんだよ。これが大人になるってことなのかなあって。けど……」
 またやっちった。と、ロイドは項垂れた。

 やっぱり小言を言う気は失せてしまっていた。
 ヒューイはため息をついて、ロイドの頭にぽんと手のひらを置く。
「落ち込まずとも良い。ゆっくり大人になりたまえ」
 すると、ロイドはちょっとびっくりしたような表情でヒューイを見上げた。
「ヒューイってさあ、なんか……丸くなったよな。やっぱ、ヘザー姉ちゃんと婚約したからなのか? 愛か。愛ってやつだな?」
「……ロイド。ちゃんと前を向いて歩きたまえ。危ないだろう」
「おっ、なんだ、なんだ。照れ隠しか」
「……。」
 ロイドの野次を黙殺し、彼の頭に置いていた手でそのままぐいっと前を向かせた。

 ロイドとグレンがやって来た当初、彼らをバークレイ家の男子として立派な騎士に育て上げようと意気込んでいたヒューイだったが、今は、彼らの「可能性」をできるだけ奪わないで成長させてやりたいと考えている。
 だがヒューイは、ロイドには気づかれぬよう自嘲気味に唇を歪めた。
 ヘザーのキャリアを奪った男に、そんな御大層な真似が出来るのだろうか……と思ったからだ。

 ヒューイ・バークレイは過ぎたことをくよくよと思い悩む性質ではない。悩み事が生じたとしても、すぐさま最善策を考え、解決に向けて動いていた。これまではそうしていたのだ。
 しかし、あったかもしれないヘザーの輝かしい未来。好きな音楽を夢中になって自分の中に取り込もうとするヘザーの姿。これらが交互に浮かぶのである。
 何かに打ち込んだことは仕事以外に無く、夢中になるような趣味もこれといって無い。挙句、ヘザーのキャリア──彼女ならば女騎士として、また平民出身の騎士として考えられ得る最高の地位まで行けたのではないか──を奪った自分が新人騎士を導く仕事をしていてよいのだろうか、と、そんな事まで考え出す始末であった。
 こんな事では業務に支障をきたす。新人騎士たちに質の良い指導が出来なくなってしまう。どこかで気持ちを入れ替えなくてはいけない。
 だが、気分を変えるためには何をしたら良いのだろう。

 何をしたら良いのかが分からないだけでなく、何が自分を悩ませているのか。打破すべき「敵」が分からない。それは自分の中にいることは確かなのだが、「敵」の名前が分からないのだ。
 ヘザーのせいで調子がおかしくなって、それは恋愛感情を抱いたせいだと知った時も似たような感覚に陥ったが……あの時よりもずっと根深くて複雑なものが自分に絡みついている気がする。
 こんなことは人生始まって以来ではないだろうか。

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