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番外編

Up Song 3

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 ヒューイはおかしな夢を見た。

 自分はどこかの民家のキッチンにいて、火にかけた鍋をかき回していた。
『……そろそろ、帰ってくる頃だな』
 食卓にテーブルクロスを被せ、食器の用意をする。合間合間に鍋のチェックをしつつ……ふと、不思議に思う。帰ってくるって……誰がだ? と。
『おおい、ヒュー子! 今帰ったぞ!』
 同時に扉が勢いよく開いて、ヒュー子は全てを思い出した。そうだ。自分はヒュー子・キャシディ。夫であるヘザ男の帰りを待っていたのだった。
『うむ、仕事、ご苦労であった……って、おい!』
『あん?』
 夫の姿を見てみれば、彼はこれから夕食だというのに骨付き肉を手にしてそれをムシャムシャと食らっている。
 今日の彼の服装は、袖の部分をちぎって失くした状態の革のジャケットだった。しかもトゲトゲのついた肩当てまで装着しており、これぞ世紀末といった感じの装いである。今はボロ布をターバンのように頭に巻き付けているが、そのうちモヒカン頭になるのかもしれない。
『買い食いは駄目だと日頃から言ってあるだろう!』
『大丈夫大丈夫、お前の作ったメシはちゃんと残さず食うからよォ』
『そういう問題ではない!』
 ヘザ男は山賊……ではなく、闘技場の剣士をしている。自分は彼の健康管理に気を使い、栄養が偏らないように日々の献立に頭を悩ませているというのに……!
『悪かった悪かった、そんなに怒るなって……な?』
『……では改めて聞く。食事にするか。それとも風呂か。好きな方を選びたまえ』
 ヘザ男は綺麗にしゃぶりつくした骨をぽいと捨てた。おい床を汚すなと注意しようとしたが、その前にヘザ男が動いた。
『ぐへへ! 決まってるじゃねえか。まずは食事よ!』
『お、おい! 何をする……!』
 飛びつかれたと思った次の瞬間には、床に押し倒されていた。ヘザ男がヒュー子の身体に跨って、服の合わせ目を探ってくる。生地の裂ける音がした。
『オラァ! 食事だー!』
『ま、待て、おい……!』
『へっへっへっ、美味そうな肉だなあ!』
 肉。確かに肉だが。だったら自分だって肉ではないか……!
『肉ゥ! 肉食わせろぉおお!』
『ぐっ、ま、待て……や、やめ……!』



「バークレイ教官。顔色……悪いですよ? 大丈夫ですか」
 エドウィンに顔を覗き込まれ、ヒューイは我に返った。
「う、うむ。今朝おかしな夢を見てな。つい、その事を考えてしまっていた。すまない」
「悪夢ですか。でしたら、眠った気になりませんよね」
 悪夢……なのだろうか。よく分からない。ヘザ男……ではなく、ヘザーにトゲ付きの肩パッドが似合うことだけはよく分かったが。
「ところでエドウィン。君は妹が嫁いだばかりだと聞いたが」
「え? あっ、はい」
「他にも兄弟がいたりするのか」
「はい。十四歳の弟が一人」
 聞けば、学校に通わせているという。貴族や金持ちの通うところではなく、一般の町人の子供が通う学校だ。父親が生きていれば、エドウィンは騎士になっていたであろうし、彼の弟も王立学校の寄宿舎に入っていただろう。
 一般の町人のための学校とは言っても、授業料はタダではない。
「踏み込んだ質問をするが、弟の学費は君が払っているのか」
「母も裁縫の仕事を始めたんです。だから、ぼく一人で払ってる訳じゃないですよ」
「そうか……」
 勿体ない話だ。ヒューイが出来るのはエドウィンの仕事ぶりを買って、給料を上げてやる事くらいだが……それでも身分が兵士では限度がある。
 昨夜ヘザーを送った後、王城内の資料室にこもってエドウィンのような境遇の兵士がどれだけいるのかを調べた。経済的な理由で騎士になるのを諦め、兵士として職務に就く人間。そして腐らずに真面目に働いている人間だ。
 勤務態度が真面目かどうかは勤怠記録の数値的なものから判断するしかないが……父親の死や破産で学校を辞めることになる若者は毎年いた。
 飛びぬけて優秀な生徒であればその学費を国で持つ制度はあるが、家の経済状況が激変した場合にフォローする制度は無い。ヒューイはこれをどうにかしたいと思っていた。

「そうそう。バークレイ教官に過去の研修内容の資料を見せて貰ったじゃないですか」
「ああ。それがどうかしたか」
 研修生たちにどのような授業を行っているか、定期的に行う体力テストや学力テストの結果表などを今後の参考のために渡した。
「体力テストの方……グラフを作ってみたんです」
「ほう……」
 研修期間でどれだけ基礎体力が底上げされたか、棒グラフや折れ線グラフで示してある。数字だけで見るよりもずっと分かり易かった。
「なるほど、これはいい考えだ」
「学力テストの方は、問題のレベルで点数も上下するでしょうから、作ってないんですけど……」
「ああ。それなら偏差値を算出したものがあったな……」
 ヒューイは明日の午後、双子たちの卒業研究に付き合うために休みを取っている。その時間帯に、エドウィンにはグラフ作成を頼むことにした。
 エドウィンが騎士になれなかったのは実に勿体ない。なんとかしてやりたいと思いながら。


*


 約束の日になると、ヒューイは双子たちと一緒にヘザーを迎えに来てくれた。

「では、用意はいいか」
 ヒューイは川べりで、秒針付きの懐中時計を構える。
「うん。いつでもいいよ」
 グレンは川面に木の葉を浮かべ……ヒューイの合図とともに指を離す。木の葉は流れに乗って進んでいく。グレンはそれを追いかけた。
「よし、一分だ!」
 ヒューイが叫ぶと、グレンは木の葉が流れている辺りの地面に印をつけた。それから巻き尺を使って、一分の間にどれだけ木の葉が進んだかを測っている。
 ヘザーにはヒューイとグレンが何をやっているのかさっぱり分からなかったが、
「川の流速を調べてるんだ」
 メモを取りながらもグレンが教えてくれた。この辺の地図も見せてくれる。
 彼の卒業研究は、王都のど真ん中を突っ切って港へ流れ出るフェルビア川の、流量調査なのだという。
 説明を聞いてもさっぱりである。そもそも常に流れている水の量なんて、調べることが出来るのだろうか。
「水深と川幅と、流速が分かれば計算できるんだ。すごく正確って訳じゃないんだけど」
「へえー……あれ? でも、雨の日とかは水かさが増えるわよね」
 逆に、何週間も雨が降らなくて、干上がりそうになっている事もある。グレンは頷いた。
「月に一回測ってるんだ。だからその平均値を出して提出する」
 彼は卒業研究があることを見越して、約一年前から測っていたらしい。場所によっては水深や川幅、流速がまったく違うので、何か所か決まったポイントで計測しているという。グレンの地図を見ると、計測地点に印がつけてあった。
「へ、へえ……」
 やっぱりよく分からないが、グレンがすごいのは分かる。だいたい、なんでそんなモン調べようと思ったんだろう。発想がすごい。

 対して、ロイドのやっていることは分かり易かった。彼は所々で空き瓶に川の水を汲んでいる。
「この辺のは街の中心より綺麗だな」
 そう言って、今汲んだ水と、これまでに汲んだものを見比べる。
 上流の方で汲んだ水は綺麗だ。街の中心部を流れる部分で汲んだものは結構濁っている。そして海に出る直前くらいで採取したものはそこそこ透明であった。
 街の中には色々な工場があって、そこからの排水で川の水が澱んでいる部分があるのだ。
「見てよ、ヘザー姉ちゃん。染料工場のところで汲んだやつ! すげえ色してるだろ」
「うわあ、ほんとだー。きたなーい」
 すると、ヘザーとロイドの会話を聞いていたヒューイがハッとした表情になって、馬車の中に置いていた冊子を捲り始めた。
「ロイド。染料工場の近くで汲んだ水を使うのはやめたまえ」
「えー? なんでだよー」
「……工場のオーナーの孫息子が、君たちの学校に通っている。学年は違うようだが。だが、あー……その、工場から出る水を汚いとかいうのは……しかも現物まであるのは、たぶん……まずい」
 ヒューイが捲っているのは学校の名簿らしい。なるほど、そういうしがらみがあるのか。
「ふうん。よくわかんないけど、ダメならしょうがないよな!」
 見ていて気持ちがよくなるほどあっさりした性格のロイドは、ヒューイの言う通りにするつもりのようだ。件の水が入った瓶の蓋を開けて、中の液体を捨てた。
「けど、一つ減っちゃったなあ。どっかでもう一か所、水汲んでもいい?」
 ロイドは瓶を収めた木箱を見て考えている。瓶には番号を記入したラベルが貼ってある。そして何番の水はどこで汲んだもの……といった事を書いた表が作ってあった。弟のものに比べたらだいぶ単純だ。それもその筈、一年前からコツコツと研究を続けていたグレンに対し、ロイドの研究は最近になって思いついて始めたものらしい。ヘザーからしたらロイドに親近感以外生まれない。
「もうひと捻り欲しいな……」
 ヒューイも同じことを考えていたらしい。彼はロイドの集めた水の瓶を眺めながら難しい顔をしている。
「学校で顕微鏡借りたら」
 グレンがロイドに提案する。ヘザーは顕微鏡というものを知らなかったが、肉眼では見えないものを見えるようにする装置で、虫眼鏡なんかよりもずっとすごいものらしい。
 かなり高価なものなので学校に二台しかない。そして卒業研究のために使いたいという生徒が大勢いるらしく、顕微鏡は予約でいっぱいらしい。
「ぼく、流量計算が終わったら各地点の微生物なんかを調べて、水質や、周辺の土壌や植生と紐づけてみるつもりで顕微鏡の予約を二回入れてるんだ。二回のうち、一回はロイドに予約を譲ってもいいよ」
「えっ。まじで? ……け、けど顕微鏡覗いて、何したらいいんだ?」
「見えた微生物のスケッチでもしてみれば? 理科の授業で習ったやつと同じのがいるかもしれないよ」
「スケッチ……そうかあ……おう、やってみる!」
 グレンの使っている地図を見ながら、ヘザーも提案してみる。
「それに、地図とかつけてみたら。この三番の水……北地区の三番街で汲んだって書いてあるけど、地図にも汲んだ場所の番号を記入して一緒に提出したら、ロイドの研究を見る人はもっと分かり易いんじゃない?」
 ロイドの書いた表には「採取:○○地区の××通り」などと記入されているが、王都の地理に余程詳しくないと、その場所はすぐには頭に思い浮かばない。
「なるほど……ロイド、時間に余裕はあるか?」
「う、うん……頑張れば、たぶん!」
「ならば地図も一緒に提出できるよう、やってみたまえ」
「おう、やってみる!」

 軽い休憩のあと、双子たちは河原で虫を捕まえたり石ころを拾ったりしている。
 ヒューイは馬車のそばで二人が危ないことをしないよう注意を払っていたが、ふとヘザーの方を見る。
「さっきは助かった。礼を言う」
「……え?」
「ロイドの研究を一緒に考えてくれただろう。研究内容は自由とはいえ、ロイドのものは少し単純すぎると思っていたところだ」
「地図のことなら、私が言わなくてもそのうち誰かが思いついてたんじゃないかしら。特にグレンとかが」
「そうかもしれないが……とにかく、助かった」
 ヘザーは双子たちの方に目をやった。二人はしゃがんで頭を突き合わせ、草むらの中を覗き込んでいる。珍しい虫でもいたのだろう。
 それから、もう一度ヒューイを見た。
 結婚して家族が増えたら……こうして二人で相談して、協力し合って生きていくのかなあ。ちょっとした疑似体験をしたような気分になった。ヒューイも同じこと想像してたりして……なんて考えてしまう。
「二人で会う時間が、なかなか取れなくて悪いな」
「ううん。今日なんて充分楽しいわよ」
 三日後の夜は一緒にスカル・スカベンジャーズのライブに行く予定だし、帰りの馬車の中でちょっとだけいちゃつけるかもしれない。この前みたいなエロいキス、したいな。してほしいなあ……。

「グレン。これ、なんて読むんだ?」
「……よいん、じゃないかな」
 その時、双子たちの会話が聞こえてきた。
「これは?」
「ほうよう……ロイド。これ、読んだらダメな本だよ」
「なんで? たくさん本を読めって、ヒューイがよく言ってるだろ。えーと……『いけないわ、マーク。もうすぐ主人が帰ってくるの』そう言いながらもカサンドラは、口づけのよ、よ、よいん……に、よいしれているように見えた。それが分かっていたマークは、ほ……ほうようを、とく気にはなれなかった……」
 そこでヒューイがバッと顔を上げ、二人の方へ走って行った。
「おい、こら! ロイド! その本から離れなさい!」
 グレンはきまり悪そうにヒューイを見てその場から一歩引いたが、ロイドは落ちている本のページを、小枝を使って捲っている。
「おいおい。これ、フリンってやつじゃないのか!?」
「こら、ロイド! 本から離れたまえ!」
 ヘザーは三人の様子を見て、くすくすと笑っていた。ヒューイの気苦労を思えば笑うのは不謹慎なのかもしれないが、なんだかすごく微笑ましい。
 十代前半くらいの男の子が、土手や川べりに落ちている本に集まっている光景を何度か見たことがあったが……なるほど、あれはこういった類の本だったに違いない。
 それにしても、マークとカサンドラはどうなったのだ。気になる。



「あの。これ……なんですか?」
 翌日、ウィルクス夫人に差し出された本を見て、ヘザーは首を傾げた。
「ヘザーお嬢様は、これを何だとお思いになりますか」
 それは確かに本なのだが……書いてあることがまったく分からない。おそらくは異国の本だ。その内容は、文字だと言われれば文字にも見えるし、記号のようにも模様のようにも見えた。
「異国の、古代文字だそうです」
 ウィルクス夫人は大きく頷いた。それからヘザーにこの本の文字を綺麗に書き写せという。
「えっ? これをですか……?」
「ええ。今までの練習法では効果がありませんでした。少し、変えることにします」
「はあ……」
 手元に視線を落とし、謎の文字を指で辿ってみる。ヘザーには何が書いてあるのか分からないし、このフェルビア王国で使う文字でもない筈だ。これを上手く書けるようになったとして、それが何を意味するのだろう。
「解読できなくても良いのです。これを……記号や模様の一種だと思って、書き写してください」
「は、はい。わかりました……」
 ウィルクス夫人の意図が掴めず、首を捻りながらもヘザーはペンをとった。
 これが模様だと思えば、不思議なことに気分が違う。ゲシュタルト崩壊も起きない。
 ライブの日は、ヒュー子……じゃない、ヒューイと馬車の中でエロいキスをするんだ! その事を楽しみにしながら、ヘザーは紙を真っ黒にする勢いで書き写した。

 ところがライブの日。
 ヘザーの部屋にやって来たのはランサム・ソレンソンであった。
「あ、あれ……?」
「ヒューイ殿は急な用事が入ってしまったんだ」
 ランサムは彼から伝言と手紙の受け渡しを依頼されたのだという。
”急用が入ってしまった。約束を破ってすまない。
ソレンソンは色々とアレな男だが
君のエスコートを頼めるくらいには信用している。
演奏会を楽しんできたまえ。”
 手紙には、美しい文字でそう書かれていた。要するにランサムと出かけて来いと言うことだ。
「エスコートが私では物足りないだろうけれど……どうかな?」
「あっ。物足りないなんて、全然! そんなことは!」
 ランサムは気負わずに話せるタイプだし、何よりヘザーはこのライブを楽しみにしていた。今夜、新曲が披露されるという話であったからだ。
 ヒューイは故意に約束を破るような男ではない。おそらくは予期せぬ大きな出来事が起こったのだ。仕事の関係だろうか……。
 気にはなったが、落ち込んでいてはランサムにも悪い。気持ちを切り替えて、ランサムと会場へ向かった。



「いやあ、素晴らしかった!」
 ランサムはスカル・スカベンジャーズの演奏をいたく気に入ったようだった。
「特に終わりの方に演奏された曲の……トランペットのソロ部分。パンチの利いた曲の中に哀愁が生まれてカッコ良かった。一つの曲としてすごく完成されている気がしたよ」
 彼は結構な僻地出身のようなので、あのパフォーマンスをどう思うか心配ではあったが、ごく自然に受け止めてくれたようだ。
「ジェーンも気に入るんじゃないかな。彼女に聞かせてやりたいよ」
「奥さんって、ルルザにいたんだっけ」
「そうそう。彼女は金銭的に……ちょっと苦労していたんだけど、若手が路上で演奏することも多いだろう? それで音楽に触れる機会もあったようだよ。今でもたまにルルザの楽団の曲を口ずさんでる。ええと、なんて言ったかな……オオカミみたいな名前の楽団なんだけど……」
「わかった! ソドミィ・ジャッカルズだ!」
「あ、そうそう。それだ!」
 ヘザーが人差し指を突き付けると、彼も同じポーズで振り向いた。そこで二人とも大笑いする。
「彼らも最近王都に進出してきたのよ」
「えっ、そうなのかい」
 実はヘザーはソドミィ・ジャッカルズの曲を初めて聴いた時、「これはスカル・スカベンジャーズのパクリに違いない!」と憤ったものだ。だが、調べてみればソドミィ・ジャッカルズの方が数か月ほど早く結成していた。このことにもなんとなく腹が立って、勝手にライバル視していたのだが……ちょっとだけ、考えが覆る。同系統のバンドなのだから、少しは応援してもいいかも、と。
「そうかあ……いつかモルディスに呼んでみたいけど……王都に進出じゃ、手の届かない存在になっちゃったかもしれないね……」
 わかるわかる。スカル・スカベンジャーズが王都に来た時、喜びもあったが寂しさも大きかった。カナルヴィルだけのバンドじゃなくなっちゃたんだなあと。

 帰りの馬車の中では盛り上がったりしんみりしたりして、ランサムはヘザーを部屋まで送ってくれた。
「ヒューイ殿が来られなかった理由なんだけれどね」
 お別れの段階になって、ようやくランサムは口を開く。
「実は、ロイドが学校で怪我をしたんだ」
「えっ」
 その連絡をヒューイは仕事中に受けた。たまたまランサムも王城を訪問しており、二人でバークレイ邸に向かい、ロイドの様子を確認し、彼の治療にあたった医師の話を聞いた。
「それで、ロイドの怪我って……?」
「左手の人差し指を折ったんだ。安静にしていればきれいに治るって」
 命にかかわるような大怪我ではないことにホッとした。ロイドが安静にしていられるかどうかはちょっと分からないが。
「それで……怪我をした場所が学校だったからね。ヒューイ殿は先生たちと話すために、ロイドの通う学校へ向かったんだ」
「そうだったんだ……」
 事情を知っていながらライブの前に言わなかったのは、ランサムの気遣いなのだろう。
 それにしても日が暮れてから学校へ向かうとは。
 ロイドの怪我は、教師の監督不行き届きとか、学校の設備の不具合とか、そういったことが原因なのだろうか。ランサムはロイドの義兄であるが、ロイドの現在の保護者はヒューイである。学校の不手際を糾弾しに行ったのだろうか……?
 すると、ランサムが苦笑いする。
「そういう事じゃないんだけど、ちょっとね」
 彼はロイドの怪我の原因を知っているようだった。ヘザーに話すつもりはないようで、曖昧に濁しているが。
「明日の午後もう一度お医者さんがくるから、それに合わせてヒューイ殿も屋敷にいる筈だ。その時に聞いてみたらいいよ」
 ランサムが教えてくれたのはそれだけだった。



「では、行ってまいりますからね」
「はい、ウィルクス夫人。お気をつけて」
 翌日の午後、ウィルクス夫人はアイリーンを伴って出かけていった。
 ヘザーが朝から「午後になったらバークレイ邸に行きたい」と、どのタイミングで申し出ようかとじりじりしていたところに、ウィルクス夫人が先に告げたのだ。
『そうそう。注文していたドレスが仕上がるんですよ。配達してもらってもいいけれど……小物を見たいから、アイリーンを連れて出かけてきますね』
 ヘザーにとっては願ってもいない外出のチャンスが訪れた。夫人の出していった課題に着手し、猛スピードで仕上げる。例の模様みたいな文字を書き写す作業だ。急いでいたから少し乱雑になったが仕方がない。
 忍び足で奥のキッチンに近づいて中を覗くと、コックの女性はちょうど手が空いている時間だからか、テーブルに着いて居眠りをしていた。
 ヘザーは外套を羽織り、外に出て辻馬車を停め、途中で菓子店によってお見舞いの焼き菓子を購入し、バークレイ邸へ向かったのだった。

 ヘザーを出迎えたのはバークレイ家の執事であったが、すぐにヒューイも顔を出す。しかしロイドの手当てをした医師への対応をしているようで、少し待ってほしいと言われた。
 空いている部屋に通されて、そこで出してもらったお茶を飲んでいると、
「ヘザー姉ちゃん」
 ひょっこりとロイドが現れる。
「ロイド! 怪我はどうなの?」
 すると彼は包帯でぐるぐる巻きになった状態の人差し指を見せてきた。
 今日のロイドは大事を取って学校をお休みしているらしい。
「うわ。大変だったわね。卒業研究もあるのに……」
「う、うん。利き腕じゃなくてまだ良かったけど……あの……」
 ロイドにしては珍しく何かを言いあぐねている。促すようにヘザーは首を傾げた。
「ごめん。昨日って、ヒューイと約束してたんだろ。おれのせいでダメになっちゃって……」
「貴方のせいだなんて思ってないわ。そんなこと気にしてないで、怪我を治すことを考えなくっちゃ」
「けど、おれが怪我したのって……おれが悪くて……」
「うん?」
 不慮の事故と思い込んでいたが、違うのだろうか。だがロイドは元気な子供だ。遊んでいてちょっと羽目を外したのかも。
「違うんだ。おれ、先生にカンチョーしたんだ」
「……はい?」
「カンチョー」
「……カンチョー?」
 ヘザーは胸の前で指を組み、両方の人差し指だけを突き出してみせる。ロイドは勢いよく何度も頷いた。

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